西洋美術切手 先史代からローマ帝国分裂の4世紀末頃までの切手
先史代からローマ帝国分裂の4世紀末頃までのエジプト、ギリシャ、ローマの絵画・彫刻・美術工芸品切手を特集します。 洞窟絵画は、南フランスから北スペインにかけて、約3万年前〜約2万5千年前の遺跡からいくつか発見されています。 本頁では絵画に限定するのではなく、先史代含め、原始美術のラスコーやアルタミラ洞窟などの壁画や彫刻や建造物までも含めました。 エジプト美術の世界遺産・ルクソール遺跡、ギリシャ時代の建造物や芸術作品も掲載。ほかにはメソポタミア美術やローマ美術、中国・敦煌の遺物。絵画では各年代の絵画、宗教画なども対象としました。 エジプトの美術はこちらの旅行記でも掲載。
ページ内 [ 先史・原始|エジプト|ギリシャ|メソポタミア・中国(敦煌)|ローマ|中世(ゴシック期やネーデルランド) ] |
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■洞窟絵画は、南フランスから北スペインにかけて、約3万年前〜約2万5千年前の遺跡からいくつか発見されている。クニャック洞窟に描かれた山羊は、結晶化した石灰を地に、赤い輪郭線でその特徴が確実に把握されている。 この時代の洞窟絵画が頂点に達するのは約2万年前〜約1万年前である。その初期には輪郭線中心の単純な表現が多い。しかし、中期になると、動物の毛の色に応じた明暗の使い分けなどによって、表現力豊かな絵画が見られるようになる。ラスコー洞窟に描かれたバイソン(野牛)は、狩の様子が的確に表現されている。 |
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ラスコー洞窟 |
フランスの世界遺産ラスコー洞窟の切手です。 |
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アルタミラ洞窟 |
スペインの世界遺産アルタミラ洞窟の切手です。 |
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ARIEGE GROTTE DE NIAUX(フランス、1979年) |
アルタミラ洞窟のバイソン(venda,1982) |
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Niaux洞窟(フランス) |
■ミディ=ピレネー地域圏アリエージュ県にある遺跡洞「ニオー洞窟」。デザインは壁画の一部。旧石器時代後期の洞窟壁画が有名です。 |
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世界遺産 タッシリ・ナジェール(Tassili n'Ajjer)の新石器時代(B.C.6000)の洞窟壁画(アルジェリア、1966年) |
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2人の少女、羊飼い、牛 ほか |
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下の絵の左の2人はツタンカーメンと王妃アンケセナーメンで黄金の玉座に描かれたもの。 |
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アメンホテプ(エジプト,1928年) |
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イムホテプ(エジプト,1928年) |
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ネフェルティティ女王 |
ネフェルティティ…。これも言いにくい名前ですね…。いろんな読み方がありますが、日本では「ネフェルティティ」というのが一番ポピュラーです。意味は「ネフェル」が「美しい」、「ティ」は「やってくる」、「歩いてくる」ということです。ですから「美人が向こうからやってくる」、というような意味です。では、どこからやってくるのか?と言う事になりますね。この人、エジプト人ではないんですね。古代エジプトの三大美人といいますとこのネフェルティティ、ネフェルタリ、そしてクレオパトラなんですが、ネフェルティティは今のイラクのあたり、ミタンニということろからきました。エジプト最後の女王といわれるクレオパトラはギリシャ人ですね。ネフェルタリはエジプト人です。(より抜粋) |
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ツタンカーメン |
ツタンカーメンの名が公に知られるようになったのは、皮肉なことに、即位後数年で死んでしまい、大きな功績を残せなかったことにあります。ツタンカーメンは、本来ならば歴代のファラオ達と共に名を刻まれるはずだったのに、若さ故か、功績のなさ故か、エジプトの歴史からは抹消されてしまっていたのです。しかし、やはり名を刻まれなくともツタンカーメンはファラオであり、ピラミッドはしっかり作られています。しかし、忘れさられたツタンカーメンの墓は、三千年を越える時の流れの果て、1922年にやっと発見されたのでした。おじいさんはアメンホテプ3世です。 |
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FUJIEIRA(アラブ首長国) |
ツタンカーメンと黄金の玉座(椅子)に描かれた王の名前ほか(エジプト、1972年) |
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■ツタンカーメンの父・イクナシオン:王都アケトアテンに宮廷を構えたアメンホテプ4世(イクナテン王と名乗る)は王妃ネフェルトイテイと二人、アテン神崇拝で自由な礼拝に明け暮れることとなる。古代からあるエジプトの万の神々を禁止し、神はひとつ「アテン神」崇拝の宗教革命を謳う王の姿から、生命についての素晴らしい感受性や顕現がみてとれる。側室キヤの間に生まれたのがツタンカーメンである。ツタンカーメンは自分の父親の宗教改革で、それを改宗するが一時的に歴史から抹殺されてしまう。19年の生涯。ややこしい事に王妃アンケセナーメンは異母兄妹です。 |
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ツタンカーメンと義理の母・ネフェルティティ |
エジプトの鳥を採る男達の絵画 |
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エジプト、B.C.2400年 |
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中央アフリカで発行された |
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ツタンカーメン立像(右、エジプト) |
ツタンカーメンの父で、新王国時代・紀元前14世紀頃の王イクナートン(イク・ン・アトン、アクエンアテン)と、クレオパトラと並び称される絶世の美女と言われるネフェルティティ王妃ほかの彫像。(エジプト、1977年) |
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ルクソール・西岸 王家の谷の王墓の壁画(エジプト) |
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El Bershehの墓のフレスコ画 |
ルクソール神殿 |
■ルクソール神殿・遺跡:古代エジプトの都テーベがあった場所で、現在も数多くの遺跡が残っている。日が昇る方角であるナイル川の東岸には、カルナック神殿やルクソール神殿など生を象徴する建物が、日が沈む方向のナイル川西岸には死を象徴する、王家の谷や王妃の谷などがある。王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は有名。 |
エジプトの狛犬 |
世界遺産・ルクソール遺跡 |
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ネフェルタリ(モザンビーク,2002) |
ツタンカーメン |
トトメス |
ネフェルティティ |
■エジプト関連世界遺産の切手 |
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ミロのヴィーナス |
ミロのヴィーナス |
ギリシャ時代の建造物や芸術作品 |
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■古代のギリシア美術とは、クレタ文明・ミケーネ文明衰退後の紀元前1000年頃から紀元前1世紀末頃にかけて、ペロポネソス半島、イタリア半島南部、エーゲ海周辺地方などで栄えた美術を指す。紀元前12世紀頃からしだいにギリシアに侵入したドリス人は、先住のアカイア人の勢力をペロポネソス半島から駆逐し、クレタ的色彩の濃いミケーネ文明の美術を完全に破壊した。こうしてギリシアは長い文化的暗黒時代に入ったが、この期間にギリシア人は自己の民族性に根ざした新しい美術を徐々につくり始めた。 ルーヴル美術館 |
(マダガスカル、1994年) |
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■ミロのヴィーナス:ギリシア神話におけるアフロディテの像とされ,高さは203cm。材質は大理石。紀元前130年頃に、Alexandros of Antioch によって作成されたと考えられている。(写真) |
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このギリシア美術は、同時代の古代エジプト美術が3000年間にわたってほとんどその様式を変えなかったのとは対照的に、初期の古拙・幼稚な段階から驚くほどの速度をもってその様式を発展させ、紀元前5世紀、紀元前4世紀頃には、西洋美術の永遠の典型とされるクラシック美術を開花させた。 ギリシャ美術の代表的なものはミロのヴィーナスやニケ。いずれもフランス写真集の中に実物を収録済みです。 また神殿はギリシアの公共建築の中で最も古い遺構を残しており、その建築の様式はギリシアの他の建築の手本になったばかりでなく、いわゆる古典様式として、それ以後の西洋建築の規範となった。 |
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ネレイデス・モニュメント |
ギリシャ・パルテノン神殿の破風部分の彫刻 |
ギリシャ・パルテノン神殿の破風部分の彫刻 セレネの馬 |
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ギリシャ・パルテノン神殿の破風部分の彫刻 アテネの誕生を表したもの |
■アテネのアクロポリスに建てられたパルテノン神殿の破風は細かい彫刻が施され、衣服のひだの1つ1つまで、その筋肉や体型を見事に表現しています。後ろ側も、手を抜かず丁寧な造りです。 |
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■ネレイデス・モニュメントは、紀元前4世紀頃の墓廟とされており、中央には女神ネレウスの娘の像が飾られています。イオニア式の墓廟。 |
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ホメロスの意向を受けた芸術品(ギリシャ、1983年) |
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■ホメロス(ラテン文字表記:Homeros)は、紀元前8世紀後半頃(?)に盛時をおく の古代ギリシアの伝説的な詩人である。古代ギリシア語の発音では「ホメーロス」の方がより正確である。ホメーロスの言語は主にイオニア方言からなり、ヘクサメトロス(六脚律)と呼ばれる韻律で歌われた英雄叙事詩である『イリアス』(イーリアス)と『オデュッセイア』(オデュッセイアー)の間に大きな言語的・文芸的な区別は存在しない。 |
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ホメロスを神格化する |
ヘレネ(トロイ戦争の原因 |
トロイの木馬 |
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ヘクトル(トロイの勇士)が両親 |
ヘクトルの亡骸を受け取るプリアモス(トロイ戦争の時のトロイ王、ヘクトルの父) |
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ポリュペモス(サイクロプス、海神ポセイドンの息子)の目を潰す |
ポリュペモス(食人種の一眼の巨人Cyclopsの一人)の洞窟から逃げるオデュッセウス(Ulysses) |
ナウシカ(Nausica)と会う |
セイレーン(siren,船人を歌で誘惑した半女半鳥の海の精)の島に降り立つ英雄オデュッセウス(Ulysses) |
叙事詩『イリアス』の英雄たち |
ホメロス |
アガメムノンのマスク |
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■アガメムノン:ギリシャ神話に登場するミケーネの王(Agamemnon) |
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■メソポタミア美術とは有史以前から前6世紀にかけて、ティグリス、ユーフラテス両川にはさまれた地域(現在のイラク)で発展した古代オリエントの美術。 |
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■ペルセポリス(Persepolis)はアケメネス朝ペルシア帝国の都。ダレイオス1世(ダーラヤーウ1世)が建設した宮殿群。ペルセポリスの建設に着手したのは紀元前520年のことであった。これはダレイオス1世即位時の大反乱の鎮圧直後のことであり、当初帝国の中心として構想された都市であったといわれている。ペルセポリスはクーヒ・ラハマト(慈悲の丘)の山裾に自然の岩盤を利用して建設された。 |
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花瓶 |
シャプール王の彫像 |
AntiochusT(69-34 B.C.) |
shahdad kermanの彫像(B.C.4000) |
バビロニアの遺物 |
バビロニアの遺物 |
バーニーの浮彫(Burney Relief、夜の女王) 大英博物館 |
アッシリアのライオン狩り |
■バビロニア(Babylonia)、またはバビュロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川とユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域である。バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。メソポタミア北部。 |
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バビロニア Snake Dragon |
メソポタミア 遺物 |
メソポタミア 遺物 |
ライオンのレリーフ、バビロニア・ネブカドネザル二世の時代(紀元前605-562) |
イスラエルの紀元前の遺物(イスラエル博物館、1966年) |
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紀元前1世紀のブロンズの豹 |
2世紀のユダヤ教の枝つき燭台 |
紀元前9世紀のフェニキア・ |
紀元前4-6世紀のアシドッドの |
Human-headed winged lion (lamassu), 883-859 b.c.; |
紀元前5世紀のペルシャの黄金 |
紀元前5世紀のペルシャの |
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のミニチュアcapital |
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■アッシリアの守護獣神像(ラマッス)は紀元前710年頃に造られ、魔除けとして宮殿の入口に建てられていたそうです。真横から見ると4本の足があり(全部で5本足)歩いている様に見えます。ニムルド(Nimrud)宮殿の入り口を守護していた。 NYのメトロポリタン美術館でも同じものを観ました。 |
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敦煌の壁画(世界遺産) |
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■敦煌の莫高窟(仏教遺跡)が作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽そん(らくそん)が彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。現存する最古の窟は5世紀前半にここを支配した北涼の時代のもので、それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。 |
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敦煌 狩猟(北魏) |
敦煌 扶養人(隋) |
敦煌 飛天(隋) |
敦煌 竜(唐) |
敦煌 馬夫と馬(北魏) |
敦煌 伎楽人(北魏) |
敦煌 戦闘(隋) |
敦煌 牛車(唐) |
狩猟(西魏、拡大○) |
敦煌 戦闘(西魏、拡大○) |
敦煌 農耕(北周、拡大○) |
敦煌 塔の建築(北周、拡大○) |
敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000平方メートルになる。壁画の様式としては五胡十六国北涼、続く北魏時代には西方の影響が強く、仏伝・本生譚・千仏などが描かれ、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになる。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
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■ローマ美術とは、古代ローマ帝国(紀元前27年−ローマ帝国が東西に分裂した395年)の美術であり、時間的には共和制末期とコンスタンティヌス1世(在位:306年 - 337年)以前の帝政期の美術を指します。 |
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バチカン市国のローマ時代の彫刻(1977年) |
ブータンで発行されたローマ時代の彫刻(セルロイド切手) |
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The Nile Deity(神々) |
アテネの政治家・ペリクレス |
材質は硬めで凹凸がハッキリしています。ローマ時代やギリシャ時代の彫刻をそのままにセルロイド上に再現させたもので凹凸もハッキリしています。シーザー、ダビデ像 |
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手を繋ぐローマ人カップル |
見晴るかすアポロ |
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トロイのApollo神殿の祭司・ |
台座の上のアポロ |
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■ラオコーン(Laocoon):トロイのApollo神殿の祭司で、木馬を城内に入れないように警告したため2匹の海蛇に息子もろとも締め殺された。 |
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イタリア・ベニスのサンマルコにあるthe tetrarchs(4世紀の彫像) |
皇帝・アウグストゥスの彫像 |
狼の乳を吸うロムルスとレムスの像 |
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テトラルキ |
■ロムルス(Romulus, 紀元前771年 - 紀元前717年7月5日)は、ローマの建国神話に登場するローマの建設者でレムスの双子の兄弟。伝説上のローマ建国の王。 |
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