西洋美術切手 ルネサンス(産業革命)の絵画 画家(ナ行〜ワ行)
ルネッサンス(ルネサンス)とは、「文芸復興」と訳されるが、本来「再生」を意味するように、人間の全精神の核心を意味し、中世の教権主義的なカトリック教会封建的な豪族諸侯との結託からなる旧秩序に対抗して、イタリアの知識的な商工市民階級が、十字軍の結果や皇帝党対法王党の葛藤などに起因する都市の隆盛に伴って次第に勃興し、「人間の再生」を目指して展開した人間生活の種々の面における革新運動と、その成果に対して、この概念が与えられている。 この新興市民階級は、長く忘れられていたローマや古代ギリシアの古代社会に彼らと共通する理想を見出し古代文化に憧れ、それに追従することによって「人間の解放」を達成しようとした。 この運動はまずフィレンツェを中心に展開され、イタリアの諸都市に及び、一般に、15世紀末-16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。 ネーデルラント(ベルギー・オランダやその周辺)
は中世以前の頁で、同時期のスペインのエル・グレコはロココに、イタリア・ドイツの有名画家のボッティチェリ、ダヴィンチ、ラファエロ、デューラーは別の頁に分離しました。この時期の絵画は、キリスト教を中心とした宗教画が多いです。 フォンテーヌブロー派(School
of Fontainebleau)。 拡大○は画像クリックで拡大。
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ジョヴァンニ・ベッリーニ |
ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini、1433〜1515)はヴェネツィア派の基礎を築いた画家。父親ヤコブ、弟ジェンティーレとともに、家族工房を形成し、活躍した。ヴェネツィア派の第一世代を代表する画家であり、15世紀同派最大の巨匠である。ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレットらを生んだヴェネツィア派の第一世代を代表する画家。 |
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ベッリーニ 『牧場の聖母』(パナマ発行) |
『牧場の聖母』(アイルランド、1974年クリスマス) |
『聖母子』(チャド、1972年) |
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ベッリーニ(モンゴル、1972年発行) |
『聖母子』(ベッリーニ、USA ナショナルギャラリー) |
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『聖母子と洗礼者聖ヨハネ、聖女』 |
『教会でのプレゼンテーション』 |
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『聖母子』 |
『ピエタ』 |
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■『聖母子(双樹の聖母)』(Madonna col Bambino (Madonna degli alberetti))は、ベッリーニの円熟期の作品で、敬虔な表情を浮かべる聖母マリアと幼子イエス・キリストを描いた典型的な聖母子像の図像だが、画面左右へ対照的に配された、情緒的に描かれた双樹が、ある種の不安定感を帯びた精神性を与え、本作の印象をより深いものとしている。また、その他の筆記事項として署名と年期が画面下部に記さることが挙げられる。 |
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『聖母子』(ドミニカ、1975年) |
『聖母子』(ドミニカ、1976年) |
『聖母子(双樹の聖母)』 |
『聖母子(双樹の聖母)』 |
『山上のキリストの変容』:マタイ書17:1-9 聖母子(ベッリーニ) |
■ジョヴァンニ・ベッリーニ晩年期の傑作『サン・ザッカリア祭壇画』。ヴェネツィア派らしい縦長に描かれる大祭壇画の図像を用いながらも、画家の晩年期の大きな特徴である、ダイナミックに構成されリアリスム的に描かれた色彩豊かな空間表現など注目すべき点は多い。また、この空間表現は一部研究者から画家の弟子であったジョルジョーネからの影響も指摘されている。本作の主題は中央の≪玉座の聖母子と奏楽の1天使≫を中心に諸聖人を左右に配した≪聖会話≫で、ジョヴァンニ・ベッリーニが長年かけて辿り付いた画業の集大成とも言える作品である。 拡大○ |
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『サン・ザッカリア祭壇画 (Pala di San Zaccaria)』 ベッリーニ |
ベッリーニ 『聖母子と洗礼者聖ヨハネ、聖女(ジョヴァネッリの聖会話) |
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■『聖母子と洗礼者聖ヨハネ、聖女』は、ジョヴァンニ・ベッリーニらしい非常に明瞭な風景描写がなされているのが大きな特徴である。聖母マリア、幼子キリストを中心にし、洗礼者聖ヨハネと聖女を左右水平に配することで、画面に安定感をもたらしている。また本作の最も大きな特徴のひとつである、情緒的描写に専念し描かれた風景の描写は、豊水の都であったヴェネツィアに定住していたジョヴァンニ・ベッリーニだからこそ描くことのできた表現である。ヴェネツィアの旧家ジョヴァネッリ家が旧蔵していたことから「ジョヴァネッリの聖会話」とも呼ばれる情緒的な風景描写が秀逸であるジョヴァンニ・ベッリーニの代表的な作品。 ジョヴァンニ・ベッリーニらしい非常に明瞭な風景描写がなされているのが大きな特徴。 |
中央の≪玉座の聖母子と奏楽の1天使≫を中心に諸聖人を左右に配した≪聖会話≫ ベッリーニ |
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ジョヴァンニ・ベッリーニ 『キリストの死の哀悼』 |
『子供を抱き玉座に座る聖母』 |
ベッリーニ アカデミア美術館 |
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バチカン絵画館・絵画館 拡大○ |
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ベッリーニ ルネサンス 絵画 グレナダ発行 bellini イースター |
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■イタリア旅行写真編 トップ|ミラノ|ヴェローナ|ヴェネツィア|フィレンツェ、ウフィツィ煮術館とアカデミア美術館|ローマ| |
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ベッリーニ『circumcision』(割礼)(グレナダ) ジョヴァンニ・ベッリーニ 『キリストの死の哀悼』バチカン絵画館 |
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ベッリーニが描く『ピエタ(聖母と聖ヨハネに支えられる死せるキリスト、Pieta)』(ルワンダ) |
■『死せるキリストへの哀悼』の名でもよく知られた≪ピエタ≫。本作はその中で初期の最高傑作と名高い『ピエタ(聖母と聖ヨハネに支えられる死せるキリスト)』で、悲劇性に満ちた表現と、背景の詩情的な描写がドナテッロの強い影響を示している。この人物像に強く表れている構造的造形美や精神性の表現は、初期ルネサンスの三大芸術家のひとり彫刻家ドナテッロからジョヴァンニ・ベッリーニが強く影響を受けたからであると考えられている。主イエスの右わき腹に見える傷跡はキリストの死を確認するためにローマ兵士が持っていた槍で突いたものだとされているが、後にその兵士の名がロンギヌスと誤訳されたり、槍がイエスの処刑自体に使われたという誤認まで生まれることになった。 |
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またキリストを支える聖ヨハネ姿は一世紀に生まれたキリスト教の聖人で、キリスト十二使徒の一人。同じくキリスト十二使徒の一人であったヤコブ(大ヤコブ)の弟でもある。ヨハネ福音書の著者とされ、エーゲ海の小島に流刑にされたときには、新約聖書の「黙示録」を書いたとされている。 |
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マサッチオ(始祖) Masaccio |
近代絵画の創始者 マサッチオ(マザッチョ、Masaccio, 1401年12月21日 - 1428年) |
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フィレンツェ派の若き天才画家。マゾリーノに師事,ブルネレスキやドナテルロが開拓した新表現法を消化し,ダ=ヴィンチとともに絵画における真の15世紀ルネサンス様式を確立。いわばマサッチオ(マザッチョ)近代絵画の創始者ともいえる。しかしこの天才児は未完のままローマにて27歳で夭折した。そのため彼の作品が師マゾリーノの作と混同され,定かでないものもあるが,れでもフィレンツェのサンタ=マリア=デル=カルミネ寺院のブランカッチ礼拝堂の壁画のうちの「楽園追放」「貢の銭」「貧者に施物を分つペテロ」や「影を投じて病者を癒すペテロ」などはマサッチオの作とされている。A
fig leaf(イチジクの葉) is the covering up of an act or an object that is embarrassing
or disagreeable. |
マザッチョ |
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『聖母子』 ピサ祭壇画 |
『貢の銭(Pagamento del tributo、1424-27頃)』(ブランカッチ礼拝堂壁画) マサッチオ 拡大○ |
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■『貢の銭』(みつぎのぜに(伊: Pagamento del tributo))は、ルネサンス期のイタリア人画家マサッチオが描いたフレスコ画。 イタリア フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂(1268年に創設)ブランカッチ礼拝堂の壁画で、最終的には共同制作者でマサッチオの師ではないかとも考えられているマソリーノ(マジリーノ、Masolino
da Panicale, 1383年 − 1440年頃)が完成させた。 描かれているモチーフは『マタイによる福音書』に書かれている聖ペトロに関するもので、神殿への税を支払うことが出来ないペトロに対し、キリストが魚の口から銀貨を見つけるように説いたエピソード。 |
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ペルジーノ (Perugino、本名ピエトロ・ヴァンヌッチ) |
ラファエロの師・ピエトロ・ペルジーノ(Pietro Perugino) |
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ペルジーノ (Perugino)は、15世紀に活躍したウンブリアを代表する画家。本名ピエトロ・ヴァンヌッチ。 フィレンツェ派の写実性とウンブリア派に見られる情緒豊かな表現によって優雅でありながら、曖昧さも残す甘美な独自の様式を確立。弟子であるルネサンス三大巨匠のひとりラファエロの作風に大きな影響を与えたが、自身もラファエロから刺激と影響を受ける。最初期の活動は不明であるが、最初はペルージアで絵画を学び、その後、当時人気の高かったヴェロッキオの工房で助手をおこなったと研究されるほか、ウンブリア派の巨匠ピエロ・デラ・フランチェスカの影響も認められている。同地で若くして名声を博したペルジーノは教皇シクストゥス四世の召命によりローマでシスティーナ礼拝堂の壁画装飾を、フィレンツェ派最大の巨匠のひとりボッティチェッリらと共に携わる。 |
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ペルジーノ 『ペテロへの鍵の授与』 1481-82年、システィーナ礼拝堂 |
ペルジーノ 『モーゼのエジプトへの旅』 システィーナ礼拝堂 |
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■『聖ペテロへの天国の鍵の授与』(Consegna delle chiavi)は、教皇シクストゥス四世の召命によりローマのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾として描かれた本作は、主イエスより十二使徒の長として選ばれた聖ペテロへ、天国の門を開く鍵を与える場面≪聖ペテロへの天国の鍵の授与≫を主題に描かれた壁画で、部分的にバルトロメオ・デラ・ガッタ、ピントリッキオの手が加わっていることが指摘されている。またペルジーノは本作以外にも『キリストの洗礼』、『エジプトを旅するモーセ(モーゼのエジプトへの旅)』(双方とも大部分がピントリッキオの制作と考えられている)の2場面を、礼拝堂の正面には後にミケランジェロの『最後の審判』が描かれたために破壊された3場面を描いていた。若きラファエロの師でもあった。 |
ペルジーノ |
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『王の礼拝』(チャド、1972年)、 |
ピエトロ・ペルジーノ |
『聖セバスチャン』 |
ペルジーノ 『キリストの復活』 |
ピエトロ・ペルジーノ(1450年頃 - 1523年)は、ルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家。1450年頃、ペルージャ近郊に生まれ。本名はピエトロ・ヴァンヌッチ。「ペルジーノ」は「ペルージャ人」の意味。ペルジーノの事績のうち重要なことは、ボッティチェリ、ギルランダイオらとともに、バチカン、システィーナ礼拝堂の壁画装飾を担当したことである。ペルジーノは、この壁画制作にあたり棟梁的な役目を果たしたとみなされており、若きラファエロの師。イタリア中から発注を受け「神のごとき画家」と賞賛されるも、宗教改革以降に多くの祭壇画が散逸してしまった。 |
ピエトロ・ペルジーノ Pietro Perugino| |
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ペルジーノ MC Pietro Perugino (1446-1524), Detail Madonna Enthroned between St John and St Sebastian 聖母マリア |
『聖ベネディクト』 ペルジーノ |
『モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)の風景』ペルジーノ |
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ペルジーノ 『キリストの復活』の見張りの兵士 |
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ペルジーノの人物像は、やや感傷的、類型的なきらいはあるが、優美で上品な表現が特色である。殊に、フィレンツェのピッティ美術館にある『マグダラのマリア』(1496-1500頃)は、これが宗教画であることを忘れさせるほど、甘美で官能的な女性像である。 |
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ピッティ美術館にある |
ペルジーノ 拡大○ |
ピントリッキオ派 |
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ピントゥリッキオ(Pinturicchio)ことベルナルディーノ・ディ・ベット(Bernardino di Betto) |
■ピントゥリッキオ(Pinturicchio, 1454年 - 1513年)は、ルネサンス期のイタリアの画家。ピントゥリッキオはペルージャに生まれた。 ベネデット・ボンフィリ(Benedetto Bonfigli)やフィオレンツォ・ディ・ロレンツォ(Fiorenzo di Lorenzo)といったあまり有名ではないペルージャの画家たちの下で修行を積んだ。 |
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『少年』 |
『聖母子』 ピントゥリッキオ(Pinturicchio、ヴァージン諸島、1973年) |
ピントゥリッキオ(Pinturicchio) MC |
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ジョルジョ・ヴァザーリによると、ピントゥリッキオはペルジーノの助手をしていたという。 ルネサンスのペルージャ派の作品はどれもよく似ていて、ペルジーノ、ピントゥリッキオ、ロ・スパーニャ(Lo Spagna)、それに若い頃のラファエロの作品は、別の画家の作品と間違われることが多い。巨大なフレスコ画を制作する時には、師匠の描いたスケッチを実物大の下絵に拡大する時、壁に下絵を写す時、あるいは背景や装飾品を描く時、弟子や助手が重要な役割を果たしていた。 |
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ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書 |
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"Adoration of the Child" is a fresco; it is dated aproximately
1501, when Pinturicchio was 47 approximately. Thus, we may deem it a Late
Maturity masterpiece of Pinturicchio. |
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ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書 |
ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書 |
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ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書 |
ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書 |
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ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書 |
ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書 |
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■1493年、ピントゥリッキオはローマに戻り、教皇アレクサンデル6世(ボルジア家出身)に雇われて、アレクサンデル6世が建てたばかりのバチカン宮殿の6つの部屋の装飾を手掛けることになった。『ボルジアの間』と呼ばれるこの部屋は、現在バチカン図書館の一部となっていて、そのうち5つの部屋にはピントゥリッキオが熟練の腕で装飾した連作のフレスコ画が今でも残っている。 |
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アンドレア・マンテーニャ |
アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431年 - 1506年9月13日)は、イタリアルネサンス期の画家。イギリスの挿し絵画家ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 1872-98)がぞっこんだったのがこのアンドレア・マンテーニャ(1431-1506)です。ビアズリーが25才で死んだとき、投宿先だっったフランス・メントン(モナコのそば)のホテルの壁には、マンテーニャの版画のコピーが貼り付けられていたそうです。初期ルネサンスの北イタリアにおいて、その普及に中心的な役割を担った15世紀を代表するパドヴァ派の画家。 |
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『聖母子』(San Zeno Polyptych (central panel)、ドミニカ、1975年) |
マンテーニャ 『聖母子』 拡大○ |
マンテーニャ |
『岩場の聖母』 ウフィツィ美術館 (マンテーニャ、グレナダ) |
マンテーニャ、東ドイツ |
マンテーニャ 『勝利の聖母』(ミゼルコルディア(慈悲)の聖母) パリ、ルーヴル美術館 拡大○ |
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The Holy Family |
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マンテーニャ没後500年(バチカン市国、2006年) |
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ミラノのブレラ絵画館にある代表作『死せるキリスト』は、十字架から降ろされたキリストが、両足の裏を観者の方へ向けて横たわる姿を短縮法(遠近法を適用した描写法の一種)を駆使して描写したものである。キリストの手足に残る釘の跡、変色した皮膚まで容赦なく描写するこの絵には、マンテーニャの写実への執念が感じられる。 |
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アンドレア・マンテーニャ 『キリスト昇天』 と部分拡大 |
アンドレア・マンテーニャ 『割礼』 と部分拡大 |
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ポントルモ Jacopo da Pontormo |
ミケランジェロの下絵にもとづくヤコポ・ダ・ポントルモ画 |
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ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo, 1494年5月24日 - 1557年1月2日)。ポントルモは初期マニエリスムの代表的な巨匠で、ミケランジェロの人体表現やデューラーから影響を受けつつマニエリスムと呼ばれる絵画、ねじれのある構図や明るい色彩を持つ絵画を自分の個性としました。当時彼の作風は奇異なものではなかったようで、若いうちから才能を認められ主要な画家となり、仕事も宗教画をメインにこなしていたそうです。 |
フィレンツェ アカデミア美術館 |
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『コジモの妻となったエレオノーラ・ディ・トレドと、息子のドン・ガルツィア』(ウフィッツィ美術館蔵)です。 |
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ポントルモ『聖家族』 キリストを描いたもの |
ヤコポ・ダ・ポントルモ画 拡大○ |
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ポントルモの代表的な寓意画とされる、この『ヴィーナスとキューピッド』(Venere e cupido) 。肉体の表現や構図などミケランジェロの素描に基づき制作された本作の主題は、題名の意味するものと同様に≪愛と美≫で、ミケランジェロの友人であったバルトロメオ・ベッティーニの為に制作されるが、その後、公爵アレッサンドロ・デ・メディチが所蔵することとなった。 |
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アーニョロ・ブロンツィーノ |
『愛の寓意(ヴィーナス、キューピッド、時間、愚行)』ブロンツィーノ ロンドン・ナショナル・ギャラリー |
ブロンツィーノ『コジモの妻となったエレオノーラ・ディ・トレドと、息子のドン・ガルツィア』 |
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アーニョロ・ブロンツィーノ(Agnolo Bronzino, 1503年11月17日 - 1572年11月23日)は、マニエリスム期のイタリアフィレンツェの画家。盛期ルネッサンスの古典的調和への意識的反逆、宗教改革時代の精神的不安の表現としてのマニエリスムとはひと味違う、まったく意識を持たずに鑑賞することのできる、なにか退廃的な雰囲気がブロンツィーノの作品には漂っているような気がします。ポントルモの弟子。ブロンジーノはトスカーナ大公コジモ1世の宮廷画家だった。 |
色調も人工的、表面はエナメル質のような滑らかな絵画です |
(ウフィッツィ美術館蔵) |
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マニエリスム期を代表する画家ブロンツィーノ随一の代表作『愛の勝利の寓意(愛のアレゴリー)』。ヴィーナスの勝利(Trionfo Venere)とも呼ばれる本作の主題は、愛と美の女神≪ヴィーナス≫であるが、複雑に配される人物の解釈によってその内容が異なるミステリアスな作品である。しかしブロンツィーノ独特の冷艶でありながら、不安定な登場人物の官能性が見事に表現されており、数多くの者を魅了してきた。画面中央には美と愛の女神である天上のヴィーナスと、その息子で愛の神エロス(キューピッド)の全身像が描かれている。この口づけを交わすヴィーナスとキューピッドが見せる冷艶な表情と、不気味な程にエロティックな白い肌の表現は、ブロンツィーノの際立った個性のひとつである。一方、画面右上には右肩の上に砂時計を乗せていることから、時司の寓意とされる鮮やかな青布を広げる≪時の翁≫が配されており、≪真理≫と共に青布を広げる≪時の翁≫は、本作の真意をまざまざと暴き示す存在として描かれている。右方を見つめる力強い眼差しと、筋骨隆々に描かれる身体の表現は、画家の極めて卓越した技量の表れでもある。また画面右下部、ヴィーナスの足元には≪偽り≫の寓意とされる二つの仮面が描かれており、この美と愛の女神である天上のヴィーナスと、快楽を示す男児の足元に置かれた二つの仮面は、愛と快楽に潜む≪偽り≫を示すとされている。 |
ブロンツィーノ 拡大○ |
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パルミジャニーノ Parmigianino |
パルミジャニーノ画のMC 『turkish slave(トルコ人奴隷)』、『ディアナ Parmigianino's Diana』 |
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パルミジャニーノ (Parmigianino、1503年1月11日パルマ - 1540年8月24日カザルマッジョーレ) 。パルミジャニーノは、はじめパルマ派のコレッジォの影響を受ける。長く引き延ばされた人体、極端にひねったポーズなどに初期マニエリスムのもっとも典型的な特徴が見られ、その耽美的スタイルは優美で洗練を極めている。 |
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パルミジャニーノ |
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パルミジャニーノ |
■マニエリスムを代表する画家パルミジャニーノが手がけた同様式の傑作『長い首の聖母』 (Madonna dal collo lungo)。宗教画としは極めて異質な部類に入る、このパルミジャニーノの名画は、美の新たな可能性を追求したマニエリスムという時代に描かれる作品群の大きな様式的特徴である、極端に強調された遠近法、引き伸ばされ捩れを有する独特の人体構造が顕著に示され、それは同時にパルミジャニーノの傑出した表現力と世界観を表すものでもある。 |
パルミジャニーノ 『聖母子と聖ザカリヤ、マグダラのマリア、幼児聖ヨハネ』 1530年頃 ウフィツィ美術館(拡大○) |
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アントニアッツォ・ロマーノ(Antoniazzo Romano) |
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アントニアッツォ・ロマーノ(Antoniazzo Romano, 1430年頃 - 1510年頃)、本名アントニオ・ディ・ベネデット・アクィロ・デリ・アキリ(Antonio di Benedetto Aquilo degli Aquili)はルネサンス期のイタリアの画家。15世紀のローマ派の中心的人物である。アントニアッツォは、ローマの画家・彩飾者のギルドである聖ルカ・アカデミアを創設した3人のうちの1人で、1478年に法規に署名した。 |
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『聖母子』(ロマーノ) |
ルネサンス ロマーノの絵画 |
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フォルリ(Melozzo da Forli) |
メロッツォ・ダ・フォルリ(Melozzo da Forli)はルネサンス期イタリアの画家。ウンブリア画派に近い。短縮遠近法の実践に成功した最初の人物で、15世紀の傑出したフレスコ画家の一人。また、フォルリ画派の最も重要な人物でもある。 |
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■サンピエトロ大聖堂聖具室蔵のメロッツォ・ダ・フォルリ作 サンティ・アポストリ教会の天使像の1つ。『奏楽天使』。このフレスコ画は1711年の改築工事に際し剥がされ、現在は断片の状態で保存されている。 |
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フォルリの「奏楽天使」 |
(拡大○) |
フォルリの「奏楽天使」 |
フォルリの「奏楽天使」 |
(拡大○) |
フォルリの「奏楽天使」 |
フォルリの「奏楽天使」の一部(バチカン絵画館所蔵) |
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■メロッツォ・ダ・フォルリ(Melozzo da Forli、 1438年頃 - 1494年11月8日)はルネサンス期イタリアの画家。ウンブリア画派に近い。短縮遠近法の実践に成功した最初の人物で、15世紀の傑出したフレスコ画家の一人。また、フォルリ画派の最も重要な人物でもある。 |
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■サンピエトロ大聖堂聖具室蔵のメロッツォ・ダ・フォルリ作 サンティ・アポストリ教会の天使像の1つ。『奏楽天使』。このフレスコ画は1711年の改築工事に際し剥がされ、現在は断片の状態で保存されている。バチカン博物館 |
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フォルリの「奏楽天使」の一部 |
フォルリ 『ヴァチカン図書館長を指名するシクストゥス四世 |
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マルコ・パルメッザーノ(フォルリの弟子、Marco Palmezzano) |
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マルコ・パルメッザーノ 『玉座の聖母子、洗礼者聖ヨハネと聖ヒエロニムス』 1510 (拡大○) |
マルコ・パルメッザーノ 『聖家族、聖エリザベツと少年聖ヨハネ』(フォルリの弟子) (拡大○) |
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マルコ・パルメッザーノ(フォルリの弟子) |
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ホルバイン (Holbein) |
ハンス・ホルバイン(Hans Holbein the Younger 、1497-1543)はアウグスブルク出身。父親(後期ゴシック様式を代表する画家で、鮮やかな色彩の宗教画を多く描いた。)も、同名の画家。宗教改革に共鳴し、エラスムス、トマス・モアの肖像を描いた。イギリスではヘンリー8世の宮廷画家。宗教画以外にも教会のステンドグラス窓のデザインや肖像画などにも取り組んだ。 |
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『Wedigh一族の一人の肖像』 |
自画像(ホルバイン、ブルンジ) |
自画像(パラグアイ) |
聖母と子供(SAAR,1954年) |
ホルバイン 『エラスムス |
『』ホルバイン(ソ連) |
『自画像』 |
『Anne of Cleves』 |
エラスムス【Desiderius Erasmus】 : (1466 頃-1536) オランダ出身の人文学者。ギリシャ語新約聖書刊行をはじめ古典の注解、校訂を行うとともに、「痴愚神礼讃」「キリスト教戦士の手引き」を著し貴族・教会を風刺。 |
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ホルバイン 『ヘンリー8世と6人の妻』 (ルネサンスの宮廷画家 ホルバインが描いたものと思われる) |
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ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日)
- 1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲"Pastime
with Good Company"など)が現存しているなど、文化史にもその名を残している。王の没後450年を記念して発行。熱心なカトリック教徒であったが、離婚問題でローマ教皇と対立し、離脱。自ら英国教会の長となり、以後、結婚・離婚を繰り返す。 |
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ピーター・ブリューゲル |
デューラーと並び北方ルネサンスを実現し、近代絵画の原点を創ったのが、ブリューゲル(Pieter Bruegel)である。「農民画家」と呼ばれた。現在のベルギー、リンブルク州に生まれたと推定される。 「農民」という異名は、ブリューゲルには似つかわしくない。彼は見識豊かな教養人であった。フランス、イタリアへ旅したにもかかわらず、古典的な理想の姿を追求する、イタリア的なところは少しもない。彼の作品にはボッシュの空想力、パティニールの敬虔で大きな風景の影響が強く現れ、北方の伝統が色濃い。 |
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ブリューゲル『花瓶』 |
『農民の踊り』(フランス) |
ベルギー発行(ブリューゲル) |
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『子供の遊戯』ウィーン美術史美術館 |
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ブリューゲル |
ブリューゲル『農民の結婚式』 |
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『東方の3博士の礼拝』 |
『ナップル湾』(サンマリノ、1970年) |
『森の風景』 実物 拡大○ |
ブリューゲル(オーストリア) |
■『森の風景』ヤン・ブリューゲル(父)1605−1610年頃 油彩、板 ウィーン美術史美術館蔵 「Theハプスブルグ」より |
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『画家と買い手』 |
子供の遊び(レソト、1979年) ブリュ-ゲル |
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『Adoration of the Magi』(ガボン、1972年)拡大○ |
東方の3博士の礼拝 |
『Adoration of the Magi』(ソ連) |
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ブリュ-ゲルの絵画 『農民の婚礼の宴』ウィーン美術史美術館、『冬景色』、『子供の遊戯』ウィーン美術史美術館、『イカロスの墜落のある風景』ブリュッセル王立美術館、『農民の結婚祝いの踊り』、『盲人の寓話』カポディモンテ国立美術館 |
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■『イカロスの墜落のある風景』は、古典神話を題材とした現存する画家唯一の作品としても知られる。描かれるのは、オウィディウスの転身物語より、クレタ島の王ミノスに仕えた伝説的な名工ダイダロスが、自身の裏切りによってミノス王に捕らえられている息子イカロスの救出を目論み、息子イカロスに蝋(ろう)と羽で拵えた翼を与え空から脱出を試みるも、脱出途中で興奮した息子イカロスが空高く舞い上がったために太陽の熱で蝋(ろう)が溶け、海へと墜落して死してしまう≪イカロスの墜落≫の場面で、イタリアでの修行からの帰国直後頃に描かれたと考えられている。 |
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ブリュ-ゲルの絵画 『謝肉祭と四旬節の喧嘩』ウィーン美術史美術館、『バベルの塔』ウィーン美術史美術館、『東方三賢王の礼拝』、『農民の踊り』 ウィーン美術史美術館、『婚礼の宴』ウィーン美術史美術館、『ネーデルランドのことわざ』ベルリン国立美術館 |
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■『謝肉祭と四旬節の喧嘩』は、風刺的寓意画で、主イエスの死からの復活を記念する祝日≪復活祭(イースター)≫の前の40日間、受難者イエスの死を偲び(伝統的に)肉食など食事の節制と祝宴の自粛をおこなう修養期間≪四旬節(レント)≫と、四旬節に先立ち(一週間から数週間)肉食など禁則事項との告別をおこなう祭事≪謝肉祭(カーニバル)≫を題材に人間の利己と愚考に満ちた姿を描いた作品で、一般的にはカトリック(四旬節)とプロテスタント(謝肉祭)の対立を表現したものと解釈される。 |
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モラーレス(モラレス) |
ルイス・デ・モラレス(Luis de Morales, 1510年? - 1586年5月9日)は、スペインの宗教画家。モラーレスは孤高の宗教画家で、スペインにおける「エッケ・ホモ」および「ピエタ」の図像の決定者の一人。その深い宗教性ゆえに聖なるモラーレスと呼ばれた。フランドル的技法にイタリア的形態感を加味し、画中の人物の長身化においてエル・グレコを先駆する神秘的な作品を多く描いた。 |
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ルイス・デ・モラレス『聖母子』 |
モラレス 『キリスト』(ガボン) |
ルイス・デ・モラレス『聖母子』(プラド美術館) MC |
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■両方とも、『聖母子』 ルイス・デ・モラーレス |
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barnaba da modena(Italian painter (活動期 1353-1383) ジェノバ |
マルコ・バサイーティ |
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『聖母子(Madonna and Child)』 |
マルコ・バサイーティ Marco Basaiti (Italian, 1470-died circa 1530) 『聖母子』 |
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■Barnaba da Modena was active in Genoa (Liguria) from about 1353 to about 1383. These years marked the high point of Genoa's power in the 14th century - rivalled only by Venice, the Genoese fleet controlled Mediterranean trade, though the city was still riven by factional rivalry. |
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フランチェスカ |
ピエロ・デラ・フランチェスカまたはピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca, 1415/20年 - 1492年10月12日)は、イタリアルネサンス期の画家。 ルネサンスの巨匠たちのあいだにも、とりわけ絵画理論の裏づけを、幾何学、解剖学といった科学に求め、情熱の半分以上をそこに注いだアーティストがいました。『画家』であるとともに『科学者』であった人たちです。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)がそうです。そしてこのレオナルド・ダ・ヴィンチに先立って、強力な幾何学理論とそこから導き出される『遠近法』の裏付けを築いていた人が、ピエーロ・デッラ・フランチェスカです。 |
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■ピエロ・デラ・フランチェスカを代表する対画肖像作品『ウルビーノ公夫妻の肖像(フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの肖像)』。妻であったバッティスタ・スフォルツァの肖像とともに、イタリアルネサンス肖像画の傑作のひとつとして、どの時代でも評価されてきた本作は、半身、真横という、この時代におけるイタリア特有の肖像形式を取りながらも、背景には空気遠近法を用いるなど、ネーデルランド絵画の特徴を示しているが、フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの肖像における背景は正方形を暗示しているとされ、対を為す肖像画と同様、ウルビーノの繁栄を単純化し、象徴したものと研究されている。ウルビーノ公であるモンテフェルトロは、1460年代頃からピエロ・デラ・フランチェスカと深く親交を持ったことが記録に残される。また片目を失っていたモンテフェルトロの肖像画が、横顔で描かれることは珍しいことであった。空気遠近法を用いるなど、ネーデルランド絵画の特徴を示すこのウルビーノの繁栄を単純化し、象徴した背景は、正方形を暗示しているとされる。かれたこの作品は、2枚の絵を蝶番でつないで本のように開くよう作られた。 |
『ウルビーノ公夫妻の肖像』(ピエロ・デラ・フランチェスカ) |
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二人は静かに互いを見つめ合うように並べられている。ウルビーノ公爵の真紅の帽子と服が鮮明な印象を与え、騎士合戦の際に折れたという鼻が正確に描写されている。目尻のしわと慈愛に満ちた瞳が人生の年輪を物語るかのようである。婦人の横顔は陶磁器のように白く滑らかで、信頼にあふれた微笑をたたえている。 |
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ベルナルディーノ・ルイーニ |
■ベルナルディーノ・ルイーニ (Bernardino Luini, 1480年/1482年頃 - 1532年)は、イタリアの画家。レオナルド・ダ・ヴィンチに影響されている。レオナルドと直接仕事したと言われている 。ルイーニは、ベルナルディーノ・デ・スカピス(Bernardino de Scapis)として、マッジョーレ湖近郊のドゥメンツァの分離集落、ルーノで生まれた。彼の生涯の詳細は非常に乏しい。 |
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ルイーニ 『聖母子』 |
『静寂(Silence)』 |
『カーネーションの聖母」(ワシントンナショナルギャラリー蔵)』 |
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フォンテーヌブロー派 |
フォンテーヌブロー派(School of Fontainebleau)はフランス・ルネサンス期に宮廷で活躍した画家のグループである。名の伝わらない画家も多い。 |
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フォンテーヌブロー派 『ガブリエル・デストレ姉妹』 |
フォンテーヌブロー派 『入浴する二人の女』 |
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■ガブリエル・デストレ(Gabrielle d'Estrees, 1571年 - 1599年4月10日)は、フランス王アンリ4世の愛妾。ブールデジエール城(現在のアンドル=エ=ロワール県にあった)で、クーヴル侯アントワーヌの娘として生まれた。ガブリエルは21歳でアンリの愛妾となった。アンリはカトリック同盟と苦闘している最中だったカトリック教徒のガブリエルは、この内戦に勝つにはアンリ自身がカトリックに改宗すべきだと考えていた。1593年7月25日、アンリは正式にカトリックに改宗し、1594年に戴冠式を行った。その礼にガブリエルの夫との結婚を無効にしてやり、ガブリエルはモンスー伯爵夫人の称号を得た。 |
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■巨匠の絵画切手 [ ボッティチェッリ|ダ・ヴィンチ|ラファエロ|ミケランジェロ|デューラー|ティツィアーノ|ルーベンス|ベラスケス|アングル|エル・グレコ|レンブラント|カラヴァッジオ|フェルメール|ダイク|ドラクロワ|ゴヤ|ゴッホ(no.1|no.2)|ルノワール|マネとモネ|セザンヌ|ゴーギャン|マチス|ピカソ|ダリ|葛飾北斎|安藤広重|クリムト|シャガール|モディリアーニ|ミュシャ ] |
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掲載のルネサンスの主要な画家一覧: |