Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 美術切手|ルネサンス(産業革命)の絵画 画家(ナ行〜ワ行): ロマーニ、ベッリーニ、マサッチオ(始祖)、フォルリ、ホルバイン、ブリューゲル、モラーレス、ペルジーノ 、ピントゥリッキオ、マンテーニャ、ポントルモ、ブロンツィーノ、パルミジャニーノ、フランチェスカ、フォンテーヌブロー派(School of Fontainebleau) 他

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西洋美術切手 ルネサンス(産業革命)の絵画 画家(ナ行〜ワ行)

 ルネッサンス(ルネサンス)とは、「文芸復興」と訳されるが、本来「再生」を意味するように、人間の全精神の核心を意味し、中世の教権主義的なカトリック教会封建的な豪族諸侯との結託からなる旧秩序に対抗して、イタリアの知識的な商工市民階級が、十字軍の結果や皇帝党対法王党の葛藤などに起因する都市の隆盛に伴って次第に勃興し、「人間の再生」を目指して展開した人間生活の種々の面における革新運動と、その成果に対して、この概念が与えられている。 この新興市民階級は、長く忘れられていたローマや古代ギリシアの古代社会に彼らと共通する理想を見出し古代文化に憧れ、それに追従することによって「人間の解放」を達成しようとした。 この運動はまずフィレンツェを中心に展開され、イタリアの諸都市に及び、一般に、15世紀末-16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。 ネーデルラント(ベルギー・オランダやその周辺) は中世以前の頁で、同時期のスペインのエル・グレコはロココに、イタリア・ドイツの有名画家のボッティチェリ、ダヴィンチ、ラファエロ、デューラーは別の頁に分離しました。この時期の絵画は、キリスト教を中心とした宗教画が多いです。 フォンテーヌブロー派(School of Fontainebleau)。  拡大○は画像クリックで拡大。
 


■ルネサンス画家の先頭の頭文字(ア行〜タ行ナ行〜ワ行その他

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ルネサンス イタリア・ルネサンスは、初期(15世紀)、盛期(1500〜30)、後期(1540〜80)

ジョヴァンニ・ベッリーニ
(Giovanni Bellini)

ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini、1433〜1515)はヴェネツィア派の基礎を築いた画家。父親ヤコブ、弟ジェンティーレとともに、家族工房を形成し、活躍した。ヴェネツィア派の第一世代を代表する画家であり、15世紀同派最大の巨匠である。ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレットらを生んだヴェネツィア派の第一世代を代表する画家。


ベッリーニ 『牧場の聖母』(パナマ発行) 

『牧場の聖母』(アイルランド、1974年クリスマス) 

『聖母子』(チャド、1972年)

ベッリーニ ルネサンス 絵画切手 パナマ発行 牧場のマリア 牧場のマリア(アイルランド、1974年クリスマス) ベッリーニ 絵画 『聖母子』(チャド、1972年) ベッリーニ ルネサンス

ベッリーニ(モンゴル、1972年発行)

『聖母子』(ベッリーニ、USA ナショナルギャラリー)

『聖母子と洗礼者聖ヨハネ、聖女』

『教会でのプレゼンテーション』

『聖母子』(ベッリーニ、USA)
ベリーニ ルネサンス (モンゴル、1972年発行) 聖母子と聖ジョン ベリーニ ルネサンス (モンゴル、1972年発行) 教会でのプレゼンテーション

『聖母子』
カメルーン、1976年発行

『ピエタ』
(ベッリーニ)カメルーン発行

ベッリーニ ルネサンス 絵画切手 カメルーン発行 聖母子 ベリーニ ルネサンス 絵画切手 カメルーン発行

■『聖母子(双樹の聖母)』(Madonna col Bambino (Madonna degli alberetti))は、ベッリーニの円熟期の作品で、敬虔な表情を浮かべる聖母マリアと幼子イエス・キリストを描いた典型的な聖母子像の図像だが、画面左右へ対照的に配された、情緒的に描かれた双樹が、ある種の不安定感を帯びた精神性を与え、本作の印象をより深いものとしている。また、その他の筆記事項として署名と年期が画面下部に記さることが挙げられる。

『聖母子』(ドミニカ、1975年)
ベッリーニ

『聖母子』(ドミニカ、1976年)
ベッリーニ

『聖母子(双樹の聖母)』
(ブルンジ、1976年)

『聖母子(双樹の聖母)』
(アンチグア、1974年)

『聖母子』(ドミニカ、1975年) ベッリーニ 絵画 ルネサンス 『聖母子』(ドミニカ、1976年) ベリーニ 絵画 ベリーニ ルネサンス  聖母子 『聖母子』(アンチグア、1974年) ベッリーニ 絵画

『山上のキリストの変容』:マタイ書17:1-9  聖母子(ベッリーニ)

■ジョヴァンニ・ベッリーニ晩年期の傑作『サン・ザッカリア祭壇画』。ヴェネツィア派らしい縦長に描かれる大祭壇画の図像を用いながらも、画家の晩年期の大きな特徴である、ダイナミックに構成されリアリスム的に描かれた色彩豊かな空間表現など注目すべき点は多い。また、この空間表現は一部研究者から画家の弟子であったジョルジョーネからの影響も指摘されている。本作の主題は中央の≪玉座の聖母子と奏楽の1天使≫を中心に諸聖人を左右に配した≪聖会話≫で、ジョヴァンニ・ベッリーニが長年かけて辿り付いた画業の集大成とも言える作品である。 拡大○

ベッリーニ ルネサンス (モンゴル、1972年発行) 山上のキリストの変容:マタイ書17:1-9  ベリーニ ルネサンス (モンゴル、1972年発行) 聖母子

『サン・ザッカリア祭壇画 (Pala di San Zaccaria)』 ベッリーニ

ベッリーニ 『聖母子と洗礼者聖ヨハネ、聖女(ジョヴァネッリの聖会話)
Madonna con il Bambino, san Giovanni Battista e una santa』 アカデミア美術館

『サン・ザッカリア祭壇画 (Pala di San Zaccaria)』 ベッリーニ  ベッリーニ 『聖母子と洗礼者聖ヨハネ、聖女(ジョヴァネッリの聖会話) Madonna con il Bambino, san Giovanni Battista e una santa』アカデミア美術館

■『聖母子と洗礼者聖ヨハネ、聖女』は、ジョヴァンニ・ベッリーニらしい非常に明瞭な風景描写がなされているのが大きな特徴である。聖母マリア、幼子キリストを中心にし、洗礼者聖ヨハネと聖女を左右水平に配することで、画面に安定感をもたらしている。また本作の最も大きな特徴のひとつである、情緒的描写に専念し描かれた風景の描写は、豊水の都であったヴェネツィアに定住していたジョヴァンニ・ベッリーニだからこそ描くことのできた表現である。ヴェネツィアの旧家ジョヴァネッリ家が旧蔵していたことから「ジョヴァネッリの聖会話」とも呼ばれる情緒的な風景描写が秀逸であるジョヴァンニ・ベッリーニの代表的な作品。 ジョヴァンニ・ベッリーニらしい非常に明瞭な風景描写がなされているのが大きな特徴。
■『聖母子(双樹の聖母)』、ベッリーニの作風に円熟味を増しつつあった中期頃に描かれた本作は、敬虔な表情を浮かべる聖母マリアと幼子イエス・キリストを描いた典型的な聖母子像の図像だが、画面左右へ対照的に配された、情緒的に描かれた双樹が、ある種の不安定感を帯びた精神性を与え、本作の印象をより深いものとしている。
■中央の≪玉座の聖母子と奏楽の1天使≫を中心に諸聖人を左右に配した≪聖会話≫ ベッリーニ は、バチカン絵画館。  
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中央の≪玉座の聖母子と奏楽の1天使≫を中心に諸聖人を左右に配した≪聖会話≫ ベッリーニ

中央の≪玉座の聖母子と奏楽の1天使≫を中心に諸聖人を左右に配した≪聖会話≫ ベッリーニ バチカン

ジョヴァンニ・ベッリーニ 『キリストの死の哀悼』 
描かれている4人は死せるキリスト、マグダラのマリア、
聖ニコデモ、アリマタヤの聖ヨセフ

『子供を抱き玉座に座る聖母』
ベッリーニ(クック諸島、1984年)

ベッリーニ アカデミア美術館
『聖母子(双樹の聖母)』(マルタ、1990年) ヴェネツィア

ジョヴァンニ・ベリーニ 『キリストの死の哀悼』 描かれている4人は死せるキリスト、マグダラのマリア、聖ニコデモ、アリマタヤの聖ヨセフ

バチカン絵画館・絵画館  拡大○

ベッリーニ 『子供を抱き玉座に座る聖母』(クック諸島、1984年) ベッリーニ 聖母子

ベッリーニ ルネサンス 絵画 グレナダ発行 bellini イースター
ピエタ(Pieta) ほか

ベッリーニ ルネサンス 絵画切手 グレナダ発行 bellini ベッリーニ ルネサンス 絵画切手 グレナダ発行 bellini

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ベッリーニ『circumcision』(割礼)(グレナダ) ジョヴァンニ・ベッリーニ 『キリストの死の哀悼』バチカン絵画館

『circumcision』(割礼) ジョヴァンニ・ベッリーニ 『キリストの死の哀悼』バチカン絵画館

ベッリーニが描く『ピエタ(聖母と聖ヨハネに支えられる死せるキリスト、Pieta)』(ルワンダ) 
ミラノ ブレラ美術館

■『死せるキリストへの哀悼』の名でもよく知られた≪ピエタ≫。本作はその中で初期の最高傑作と名高い『ピエタ(聖母と聖ヨハネに支えられる死せるキリスト)』で、悲劇性に満ちた表現と、背景の詩情的な描写がドナテッロの強い影響を示している。この人物像に強く表れている構造的造形美や精神性の表現は、初期ルネサンスの三大芸術家のひとり彫刻家ドナテッロからジョヴァンニ・ベッリーニが強く影響を受けたからであると考えられている。主イエスの右わき腹に見える傷跡はキリストの死を確認するためにローマ兵士が持っていた槍で突いたものだとされているが、後にその兵士の名がロンギヌスと誤訳されたり、槍がイエスの処刑自体に使われたという誤認まで生まれることになった。

ベッリーニが描く『ピエタ(Pieta)』 ルワンダ 聖母と聖ヨハネに支えられる死せるキリスト

またキリストを支える聖ヨハネ姿は一世紀に生まれたキリスト教の聖人で、キリスト十二使徒の一人。同じくキリスト十二使徒の一人であったヤコブ(大ヤコブ)の弟でもある。ヨハネ福音書の著者とされ、エーゲ海の小島に流刑にされたときには、新約聖書の「黙示録」を書いたとされている。
■ブレラ美術館 (Pinacoteca di Brera) は、イタリアのミラノにある美術館。アンドレア・マンテーニャ『死せるキリスト』(1497年以降) ラファエロ『聖母の婚礼』(1504年) も収蔵。

マサッチオ(始祖) Masaccio

近代絵画の創始者 マサッチオ(マザッチョ、Masaccio, 1401年12月21日 - 1428年)

フィレンツェ派の若き天才画家。マゾリーノに師事,ブルネレスキやドナテルロが開拓した新表現法を消化し,ダ=ヴィンチとともに絵画における真の15世紀ルネサンス様式を確立。いわばマサッチオ(マザッチョ)近代絵画の創始者ともいえる。しかしこの天才児は未完のままローマにて27歳で夭折した。そのため彼の作品が師マゾリーノの作と混同され,定かでないものもあるが,れでもフィレンツェのサンタ=マリア=デル=カルミネ寺院のブランカッチ礼拝堂の壁画のうちの「楽園追放」「貢の銭」「貧者に施物を分つペテロ」や「影を投じて病者を癒すペテロ」などはマサッチオの作とされている。A fig leaf(イチジクの葉) is the covering up of an act or an object that is embarrassing or disagreeable.

《聖母子(ピサ祭壇画)》はロンドン・ナショナル・ギャラリー

マザッチョ
《聖母子(ピサ祭壇画)》

マサッチオ「楽園追放」 フィレンツェ サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

『聖母子』 ピサ祭壇画
(マサッチオ) 
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『貢の銭(Pagamento del tributo、1424-27頃)』(ブランカッチ礼拝堂壁画) マサッチオ 拡大○

『聖母子』(マサッチオ) ピサ祭壇画 貢の銭(Pagamento del tributo、1424-27頃)(ブランカッチ礼拝堂壁画) マサッチオ

■『貢の銭』(みつぎのぜに(伊: Pagamento del tributo))は、ルネサンス期のイタリア人画家マサッチオが描いたフレスコ画。 イタリア フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂(1268年に創設)ブランカッチ礼拝堂の壁画で、最終的には共同制作者でマサッチオの師ではないかとも考えられているマソリーノ(マジリーノ、Masolino da Panicale, 1383年 − 1440年頃)が完成させた。 描かれているモチーフは『マタイによる福音書』に書かれている聖ペトロに関するもので、神殿への税を支払うことが出来ないペトロに対し、キリストが魚の口から銀貨を見つけるように説いたエピソード。
■聖母子(ピサ祭壇画)では、聖母マリアはずんぐりとしていて、彫刻的な威厳がある。重さ、影がしっかりと描かれている玉座に座っている。聖マリアが抱く赤ん坊のキリストは、本当の赤ん坊である。指をしゃぶり、空中を見つめている。それまでの、ビザンチンの王といった赤ん坊とは違っている。 マザッチョの作品は、人間的な情念の表現が増し、強められている。聖母マリアには強さと傷つきやすさが美しく混在している。 音楽を奏でている天使たちも、丸々としていて、真剣な表情である。 そして、徐々に科学的な遠近法に近づいているのが分かる。
 

ペルジーノ (Perugino、本名ピエトロ・ヴァンヌッチ)

 ラファエロの師・ピエトロ・ペルジーノ(Pietro Perugino)

ペルジーノ (Perugino)は、15世紀に活躍したウンブリアを代表する画家。本名ピエトロ・ヴァンヌッチ。 フィレンツェ派の写実性とウンブリア派に見られる情緒豊かな表現によって優雅でありながら、曖昧さも残す甘美な独自の様式を確立。弟子であるルネサンス三大巨匠のひとりラファエロの作風に大きな影響を与えたが、自身もラファエロから刺激と影響を受ける。最初期の活動は不明であるが、最初はペルージアで絵画を学び、その後、当時人気の高かったヴェロッキオの工房で助手をおこなったと研究されるほか、ウンブリア派の巨匠ピエロ・デラ・フランチェスカの影響も認められている。同地で若くして名声を博したペルジーノは教皇シクストゥス四世の召命によりローマでシスティーナ礼拝堂の壁画装飾を、フィレンツェ派最大の巨匠のひとりボッティチェッリらと共に携わる。

ペルジーノ 『ペテロへの鍵の授与』 1481-82年、システィーナ礼拝堂
バチカン博物館の書籍を参考 拡大○

ペルジーノ 『モーゼのエジプトへの旅』 システィーナ礼拝堂
バチカン博物館の書籍を参考 拡大○

システィーナ礼拝堂 ペルジーノ 『ペテロへの鍵の授与』 バチカン博物館の書籍を参考 ペルジーノ 『モーゼのエジプトへの旅』 システィーナ礼拝堂

■『聖ペテロへの天国の鍵の授与』(Consegna delle chiavi)は、教皇シクストゥス四世の召命によりローマのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾として描かれた本作は、主イエスより十二使徒の長として選ばれた聖ペテロへ、天国の門を開く鍵を与える場面≪聖ペテロへの天国の鍵の授与≫を主題に描かれた壁画で、部分的にバルトロメオ・デラ・ガッタ、ピントリッキオの手が加わっていることが指摘されている。またペルジーノは本作以外にも『キリストの洗礼』、『エジプトを旅するモーセ(モーゼのエジプトへの旅)』(双方とも大部分がピントリッキオの制作と考えられている)の2場面を、礼拝堂の正面には後にミケランジェロの『最後の審判』が描かれたために破壊された3場面を描いていた。若きラファエロの師でもあった。

ペルジーノ 
『ペテロへの天国の鍵の授与』

ペルジーノ 『ペテロへの天国の鍵の授与』

『王の礼拝』(チャド、1972年)、
ペルジーノ Pietro Perugino,

ピエトロ・ペルジーノ
『聖母子』 

『聖セバスチャン』
ペルジーノ (ソ連、1982年)

ペルジーノ 『キリストの復活』
バチカン絵画館

『王の礼拝』(チャド、1972年) ピエトロ・ペルジーノ Pietro Perugino ルネサンス ピエトロ・ペルジーノ  『聖セバスチャン』(ソ連、1982年) ピエトロ・ペルジーノ ピエトロ・ペルジーノ 

ピエトロ・ペルジーノ(1450年頃 - 1523年)は、ルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家。1450年頃、ペルージャ近郊に生まれ。本名はピエトロ・ヴァンヌッチ。「ペルジーノ」は「ペルージャ人」の意味。ペルジーノの事績のうち重要なことは、ボッティチェリ、ギルランダイオらとともに、バチカン、システィーナ礼拝堂の壁画装飾を担当したことである。ペルジーノは、この壁画制作にあたり棟梁的な役目を果たしたとみなされており、若きラファエロの師。イタリア中から発注を受け「神のごとき画家」と賞賛されるも、宗教改革以降に多くの祭壇画が散逸してしまった。
■モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)はイタリア、ローマの南東130キロに位置する標高519mの岩山。
■ヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia, 480年頃 - 547年)は中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれる。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。ベンディクトとも表記され、イタリア語ではベネデット(Benedetto)と呼ばれる。正教会ではノルシヤの克肖者聖ベネディクトと呼ばれる。イタリアのモンテ・カッシーノに修道院を設け、530年頃修道会則(戒律)を定めて、共同で修道生活を行った。彼の戒律に従った修道会の1つをベネディクト会と呼ぶ。ベネディクトゥスはモンテ・カッシーノに移り、修道院を設立。モンテ・カッシーノで547年に没した。

ピエトロ・ペルジーノ Pietro Perugino|
『洗礼者ヨハネと聖ルキア』 メトロポリタン美術館

ピエトロ・ペルジーノ Pietro Perugino|『洗礼者ヨハネと聖ルキア』

ペルジーノ MC Pietro Perugino (1446-1524), Detail Madonna Enthroned between St John and St Sebastian 聖母マリア

『聖ベネディクト』 ペルジーノ

『モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)の風景』ペルジーノ

ピエトロ・ペルジーノ Pietro Perugino (1446-1524), Detail Madonna Enthroned between St John and St Sebastian ピエトロ・ペルジーノ 聖ベネディクト ピエトロ・ペルジーノ モンテ・カッシーノ(Monte Cassino) の風景

ペルジーノ 『キリストの復活』の見張りの兵士

ピエトロ・ペルジーノ 

ペルジーノの人物像は、やや感傷的、類型的なきらいはあるが、優美で上品な表現が特色である。殊に、フィレンツェのピッティ美術館にある『マグダラのマリア』(1496-1500頃)は、これが宗教画であることを忘れさせるほど、甘美で官能的な女性像である。

ピッティ美術館にある
『マグダラのマリア』 
ペルジーノ 
拡大○

ペルジーノ  拡大○
『玉座の聖母子と聖ラウレンティウス、トゥールーズの聖ルイ、聖エルコラーノ、聖コンスタンツォ』

ピントリッキオ派
『聖母子(窓敷居の聖母)』
バチカン絵画館 拡大○

ピッティ美術館にある「マグダラのマリア」 ペルジーノ 『玉座の聖母子と聖ラウレンティウス、トゥールーズの聖ルイ、聖エルコラーノ、聖コンスタンツォ』 ピントリッキオ派『聖母子(窓敷居の聖母)』

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)ことベルナルディーノ・ディ・ベット(Bernardino di Betto)

ピントゥリッキオ(Pinturicchio, 1454年 - 1513年)は、ルネサンス期のイタリアの画家。ピントゥリッキオはペルージャに生まれた。 ベネデット・ボンフィリ(Benedetto Bonfigli)やフィオレンツォ・ディ・ロレンツォ(Fiorenzo di Lorenzo)といったあまり有名ではないペルージャの画家たちの下で修行を積んだ。

『少年』 
ピントゥリッキオ(Pinturicchio)

『聖母子』 ピントゥリッキオ(Pinturicchio、ヴァージン諸島、1973年)

ピントゥリッキオ(Pinturicchio) MC
子供の礼拝 Adoration of the Child by Pinturicchio, 1501

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)ことベルナルディーノ・ディ・ベット(Bernardino di Betto) 少年 ピントゥリッキオ(Pinturicchio) MC Adoration of the Child by Pinturicchio, 1501

ジョルジョ・ヴァザーリによると、ピントゥリッキオはペルジーノの助手をしていたという。 ルネサンスのペルージャ派の作品はどれもよく似ていて、ペルジーノ、ピントゥリッキオ、ロ・スパーニャ(Lo Spagna)、それに若い頃のラファエロの作品は、別の画家の作品と間違われることが多い。巨大なフレスコ画を制作する時には、師匠の描いたスケッチを実物大の下絵に拡大する時、壁に下絵を写す時、あるいは背景や装飾品を描く時、弟子や助手が重要な役割を果たしていた。

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書

"Adoration of the Child" is a fresco; it is dated aproximately 1501, when Pinturicchio was 47 approximately. Thus, we may deem it a Late Maturity masterpiece of Pinturicchio.
"Adoration of the Child" is exhibited at Cappella Baglioni, Collegiata di Santa Maria Maggiore, Spello, together with other important works of art of the Early Renaissance period.
右や下の絵画は ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書から

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書
下の絵画の拡大図

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書
シエナのピッコローミニ家図書室のフレスコ画『議会に出発するアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ』

ピントゥリッキオ(Pinturicchio)の絵葉書

シエナのピッコローミニ家図書室のフレスコ画『議会に出発するアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ

■1493年、ピントゥリッキオはローマに戻り、教皇アレクサンデル6世(ボルジア家出身)に雇われて、アレクサンデル6世が建てたばかりのバチカン宮殿の6つの部屋の装飾を手掛けることになった。『ボルジアの間』と呼ばれるこの部屋は、現在バチカン図書館の一部となっていて、そのうち5つの部屋にはピントゥリッキオが熟練の腕で装飾した連作のフレスコ画が今でも残っている。
壁の上部と丸天井は、絵だけでなく、レリーフの中に精巧な化粧漆喰細工が施され、その装飾デザインは壁画装飾の良い手本である。各部屋のピントゥリッキオの仕事は次の通りである。
受胎告知、キリスト降誕、東方三博士、キリスト復活 / 聖カタリナ、聖アントニウスといった聖者たちの生涯からの場面 / 音楽、算術とそれに類するものの寓意画 / 豪華なアラベスクを施した半分の長さの4つの画 / 惑星、各月の仕事、その他の寓意画

アンドレア・マンテーニャ
 Andrea Mantegna

アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431年 - 1506年9月13日)は、イタリアルネサンス期の画家。イギリスの挿し絵画家ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 1872-98)がぞっこんだったのがこのアンドレア・マンテーニャ(1431-1506)です。ビアズリーが25才で死んだとき、投宿先だっったフランス・メントン(モナコのそば)のホテルの壁には、マンテーニャの版画のコピーが貼り付けられていたそうです。初期ルネサンスの北イタリアにおいて、その普及に中心的な役割を担った15世紀を代表するパドヴァ派の画家。



『聖母子』(San Zeno Polyptych (central panel)、ドミニカ、1975年)

マンテーニャ 『聖母子』 拡大○

マンテーニャ
『聖母子』(ドミニカ、1976年)

『岩場の聖母』 ウフィツィ美術館 (マンテーニャ、グレナダ)

マンテーニャ ルネサンス 絵画 聖母子 マンテーニャ ルネサンス 絵画 聖母子 マンテーニャ ルネサンス 絵画 聖母子 ドミニカ マンテーニャ ルネサンス 絵画 岩場の聖母

マンテーニャ、東ドイツ

マンテーニャ 『勝利の聖母』(ミゼルコルディア(慈悲)の聖母) パリ、ルーヴル美術館 拡大○

The Holy Family ドイツ発行のルネサンス時代の画家の絵画作品 マンテーニャ ルネサンス 絵画

The Holy Family
1495-1500

マンテーニャ没後500年(バチカン市国、2006年) 有名な『聖母子』他 マンテーニャ 『勝利の聖母』(ミゼルコルディア(慈悲)の聖母) パリ、ルーヴル美術館

マンテーニャ没後500年(バチカン市国、2006年) 
マンテーニャの傑作の『聖母子』他

マンテーニャ没後500年(バチカン市国、2006年) 有名な『聖母子』他

ミラノのブレラ絵画館にある代表作『死せるキリスト』は、十字架から降ろされたキリストが、両足の裏を観者の方へ向けて横たわる姿を短縮法(遠近法を適用した描写法の一種)を駆使して描写したものである。キリストの手足に残る釘の跡、変色した皮膚まで容赦なく描写するこの絵には、マンテーニャの写実への執念が感じられる。

アンドレア・マンテーニャ 『キリスト昇天』 と部分拡大
ウフィツィ美術館参考資料より転載

アンドレア・マンテーニャ 『割礼』 と部分拡大
ウフィツィ美術館参考資料より転載

アンドレア・マンテーニャ 『キリスト昇天』 ウフィツィ美術館 アンドレア・マンテーニャ 『キリスト昇天』 ウフィツィ美術館 アンドレア・マンテーニャ 『割礼』 ウフィツィ美術館 アンドレア・マンテーニャ 『割礼』 ウフィツィ美術館

ポントルモ Jacopo da Pontormo

ミケランジェロの下絵にもとづくヤコポ・ダ・ポントルモ画
『ヴィーナスとキューピッド』  ルーマニア

ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo, 1494年5月24日 - 1557年1月2日)。ポントルモは初期マニエリスムの代表的な巨匠で、ミケランジェロの人体表現やデューラーから影響を受けつつマニエリスムと呼ばれる絵画、ねじれのある構図や明るい色彩を持つ絵画を自分の個性としました。当時彼の作風は奇異なものではなかったようで、若いうちから才能を認められ主要な画家となり、仕事も宗教画をメインにこなしていたそうです。


フィレンツェ アカデミア美術館

『コジモの妻となったエレオノーラ・ディ・トレドと、息子のドン・ガルツィア』(ウフィッツィ美術館蔵)です。
ポントルモの最高傑作と言っても良いほどの素晴らしい肖像画です。フィレンツェのウフィッツィ美術館で是非ご覧になってください。

ポントルモ『聖家族』 キリストを描いたもの

ヤコポ・ダ・ポントルモ画 拡大○
『ヴィーナスとキューピッド』 アカデミア美術館

ポントルモ『聖家族』

ポントルモの代表的な寓意画とされる、この『ヴィーナスとキューピッド』(Venere e cupido) 。肉体の表現や構図などミケランジェロの素描に基づき制作された本作の主題は、題名の意味するものと同様に≪愛と美≫で、ミケランジェロの友人であったバルトロメオ・ベッティーニの為に制作されるが、その後、公爵アレッサンドロ・デ・メディチが所蔵することとなった。

アーニョロ・ブロンツィーノ
Agnolo Bronzino

『愛の寓意(ヴィーナス、キューピッド、時間、愚行)』ブロンツィーノ ロンドン・ナショナル・ギャラリー

ブロンツィーノ『コジモの妻となったエレオノーラ・ディ・トレドと、息子のドン・ガルツィア』

アーニョロ・ブロンツィーノ(Agnolo Bronzino, 1503年11月17日 - 1572年11月23日)は、マニエリスム期のイタリアフィレンツェの画家。盛期ルネッサンスの古典的調和への意識的反逆、宗教改革時代の精神的不安の表現としてのマニエリスムとはひと味違う、まったく意識を持たずに鑑賞することのできる、なにか退廃的な雰囲気がブロンツィーノの作品には漂っているような気がします。ポントルモの弟子。ブロンジーノはトスカーナ大公コジモ1世の宮廷画家だった。

『愛の寓意(ヴィーナス、キューピッド、時間、愚行)』ブロンツィーノ  ルネサンス 『愛の寓意(ヴィーナス、キューピッド、時間、愚行)』ブロンツィーノ 

色調も人工的、表面はエナメル質のような滑らかな絵画です 
 
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ブロンツィーノ『コジモの妻となったエレオノーラ・ディ・トレドと、息子のドン・ガルツィア』

(ウフィッツィ美術館蔵)

マニエリスム期を代表する画家ブロンツィーノ随一の代表作『愛の勝利の寓意(愛のアレゴリー)』。ヴィーナスの勝利(Trionfo Venere)とも呼ばれる本作の主題は、愛と美の女神≪ヴィーナス≫であるが、複雑に配される人物の解釈によってその内容が異なるミステリアスな作品である。しかしブロンツィーノ独特の冷艶でありながら、不安定な登場人物の官能性が見事に表現されており、数多くの者を魅了してきた。画面中央には美と愛の女神である天上のヴィーナスと、その息子で愛の神エロス(キューピッド)の全身像が描かれている。この口づけを交わすヴィーナスとキューピッドが見せる冷艶な表情と、不気味な程にエロティックな白い肌の表現は、ブロンツィーノの際立った個性のひとつである。一方、画面右上には右肩の上に砂時計を乗せていることから、時司の寓意とされる鮮やかな青布を広げる≪時の翁≫が配されており、≪真理≫と共に青布を広げる≪時の翁≫は、本作の真意をまざまざと暴き示す存在として描かれている。右方を見つめる力強い眼差しと、筋骨隆々に描かれる身体の表現は、画家の極めて卓越した技量の表れでもある。また画面右下部、ヴィーナスの足元には≪偽り≫の寓意とされる二つの仮面が描かれており、この美と愛の女神である天上のヴィーナスと、快楽を示す男児の足元に置かれた二つの仮面は、愛と快楽に潜む≪偽り≫を示すとされている。
『十字架降下(ピエタ)』は、フィレンツェ アカデミア美術館

ブロンツィーノ 拡大○
『十字架降下(ピエタ)』

ブロンツィーノ  『十字架降下』(ピエタ)

パルミジャニーノ Parmigianino
マニエリスム

パルミジャニーノ画のMC 『turkish slave(トルコ人奴隷)』、『ディアナ Parmigianino's Diana』

パルミジャニーノ (Parmigianino、1503年1月11日パルマ - 1540年8月24日カザルマッジョーレ) 。パルミジャニーノは、はじめパルマ派のコレッジォの影響を受ける。長く引き延ばされた人体、極端にひねったポーズなどに初期マニエリスムのもっとも典型的な特徴が見られ、その耽美的スタイルは優美で洗練を極めている。
MC : MAXIMUM CARD

 

パルミジャニーノ
『貴婦人の肖像(アンテア)』
ポディモンテ美術館(拡大○)

パルミジャニーノ 
『長い首の聖母』 
ウフィツィ美術館(拡大○)

■マニエリスムを代表する画家パルミジャニーノが手がけた同様式の傑作『長い首の聖母』 (Madonna dal collo lungo)。宗教画としは極めて異質な部類に入る、このパルミジャニーノの名画は、美の新たな可能性を追求したマニエリスムという時代に描かれる作品群の大きな様式的特徴である、極端に強調された遠近法、引き伸ばされ捩れを有する独特の人体構造が顕著に示され、それは同時にパルミジャニーノの傑出した表現力と世界観を表すものでもある。

パルミジャニーノ 『聖母子と聖ザカリヤ、マグダラのマリア、幼児聖ヨハネ』 1530年頃 ウフィツィ美術館(拡大○

パルミジャニーノ《貴婦人の肖像(アンテア)》カポディモンテ美術館 聖母子と聖ザカリヤ、マグダラのマリア、幼児聖ヨハネ(Madonna col Bambino, san Zaccaria, la Maddalena e san Giovannino) 1530年頃

アントニアッツォ・ロマーノ(Antoniazzo Romano)

アントニアッツォ・ロマーノ(Antoniazzo Romano, 1430年頃 - 1510年頃)、本名アントニオ・ディ・ベネデット・アクィロ・デリ・アキリ(Antonio di Benedetto Aquilo degli Aquili)はルネサンス期のイタリアの画家。15世紀のローマ派の中心的人物である。アントニアッツォは、ローマの画家・彩飾者のギルドである聖ルカ・アカデミアを創設した3人のうちの1人で、1478年に法規に署名した。

『聖母子』(ロマーノ)

ルネサンス ロマーノの絵画

アントニアッツォ・ロマーノ(Antoniazzo Romano)

フォルリ(Melozzo da Forli)

メロッツォ・ダ・フォルリ(Melozzo da Forli)はルネサンス期イタリアの画家。ウンブリア画派に近い。短縮遠近法の実践に成功した最初の人物で、15世紀の傑出したフレスコ画家の一人。また、フォルリ画派の最も重要な人物でもある。


■サンピエトロ大聖堂聖具室蔵のメロッツォ・ダ・フォルリ作 サンティ・アポストリ教会の天使像の1つ。『奏楽天使』。このフレスコ画は1711年の改築工事に際し剥がされ、現在は断片の状態で保存されている。

フォルリの「奏楽天使」

 (拡大○)

フォルリの「奏楽天使」

フォルリの「奏楽天使」

フォルリ フォルリ フォルリ

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フォルリの「奏楽天使」

フォルリの「奏楽天使」の一部(バチカン絵画館所蔵)

フォルリ フォルリ

■メロッツォ・ダ・フォルリ(Melozzo da Forli、 1438年頃 - 1494年11月8日)はルネサンス期イタリアの画家。ウンブリア画派に近い。短縮遠近法の実践に成功した最初の人物で、15世紀の傑出したフレスコ画家の一人。また、フォルリ画派の最も重要な人物でもある。

リュートを弾く天使

■サンピエトロ大聖堂聖具室蔵のメロッツォ・ダ・フォルリ作 サンティ・アポストリ教会の天使像の1つ。『奏楽天使』。このフレスコ画は1711年の改築工事に際し剥がされ、現在は断片の状態で保存されている。バチカン博物館
■メロッツォはフォルリのアンブロージ家という名前の裕福な家系の出身と言われている。1480年頃、メロッツォはピエトロ・リアリオから、ローマのサンティ・アポストリ教会後陣の丸天井に絵を描く仕事を依頼された。メロッツォは『キリスト昇天』を主題とした絵を描いたが、キリストは太い線で、「天井を通り越して飛び出しそう」に見えるほどの効果的な短縮遠近法で描かれた。このフレスコ画は1711年に天井から降ろされ、キリストの部分は現在はクイリナーレ宮に移されて、それ以外の部分、つまり、天使と使徒たちの絵はバチカン絵画館 サンピエトロ大聖堂聖具室に(ラファエロ級の扱いで)おさめられている。

フォルリの「奏楽天使」の一部
(バチカン絵画館所蔵)

フォルリ 『ヴァチカン図書館長を指名するシクストゥス四世
(シクストゥス4世の謁見を受ける司書長プラティナ)』 
バチカン絵画館 (
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フォルリ ルネサンス フレスコ画 『奏楽天使』 サンピエトロ大聖堂聖具室蔵 フォルリ ルネサンス フレスコ画 『奏楽天使』 サンピエトロ大聖堂聖具室蔵 フォルリ ルネサンス フレスコ画 『奏楽天使』 サンピエトロ大聖堂聖具室蔵
フォルリ ルネサンス フレスコ画 『奏楽天使』 サンピエトロ大聖堂聖具室蔵フォルリ ルネサンス フレスコ画 『奏楽天使』 サンピエトロ大聖堂聖具室蔵 フォルリ ルネサンス フレスコ画 『奏楽天使』 サンピエトロ大聖堂聖具室蔵
メロッツォ・ダ・フォルリ作『ヴァチカン図書館長を指名するシクストゥス四世(シクストゥス4世の謁見を受ける司書長プラティナ)』

マルコ・パルメッザーノ(フォルリの弟子、Marco Palmezzano)

マルコ・パルメッザーノ 『玉座の聖母子、洗礼者聖ヨハネと聖ヒエロニムス』 1510 (拡大○

マルコ・パルメッザーノ 『聖家族、聖エリザベツと少年聖ヨハネ』(フォルリの弟子) (拡大○

マルコ・パルメッザーノ 『玉座の聖母子、洗礼者聖ヨハネと聖ヒエロニムス』 1510

マルコ・パルメッザーノ(フォルリの弟子)
Marco Palmezzano (Forli, 1460 - 1539) was an Italian painter and architect, belonging to the Forli painting school, who painted in a style recalling earlier Northern Renaissance models, and was mostly active near Forli.

ホルバイン  (Holbein)

ハンス・ホルバイン(Hans Holbein the Younger 、1497-1543)はアウグスブルク出身。父親(後期ゴシック様式を代表する画家で、鮮やかな色彩の宗教画を多く描いた。)も、同名の画家。宗教改革に共鳴し、エラスムス、トマス・モアの肖像を描いた。イギリスではヘンリー8世の宮廷画家。宗教画以外にも教会のステンドグラス窓のデザインや肖像画などにも取り組んだ。



『Wedigh一族の一人の肖像』

自画像(ホルバイン、ブルンジ)

自画像(パラグアイ)

聖母と子供(SAAR,1954年)

『Wedigh一族の一人の肖像』 ホルバイン ルネサンス ホルバイン ルネサンス 絵画切手 自画像 ホルバイン ルネサンス 絵画切手 パラグアイ 聖母と子供(SAAR,1954年) ホルバイン ルネサンス 絵画

ホルバイン 『エラスムス
(Desiderius Erasmus)』

『』ホルバイン(ソ連)

『自画像』
ホルバイン(西ドイツ)

『Anne of Cleves』
Hans Holbein the Younger

『エラスムス【Desiderius Erasmus】』  ホルバイン 『自画像』ホルバイン(西ドイツ) 『Anne of Cleves』 ホルバイン ルネサンス

エラスムス【Desiderius Erasmus】 : (1466 頃-1536) オランダ出身の人文学者。ギリシャ語新約聖書刊行をはじめ古典の注解、校訂を行うとともに、「痴愚神礼讃」「キリスト教戦士の手引き」を著し貴族・教会を風刺。

ホルバイン 『ヘンリー8世と6人の妻』 (ルネサンスの宮廷画家 ホルバインが描いたものと思われる) 
妻は左からキャサリン王妃、アン・ブーリン、セイモア、アン、ハワード、パー(1997年、イギリス)

 ヘンリー8世と6人の妻(ホルバインが描いたものと思われる) 妻は左から王の肖像、キャサリン王妃、アン・ブーリン、セイモア、アン、ハワード、パー

ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲"Pastime with Good Company"など)が現存しているなど、文化史にもその名を残している。王の没後450年を記念して発行。熱心なカトリック教徒であったが、離婚問題でローマ教皇と対立し、離脱。自ら英国教会の長となり、以後、結婚・離婚を繰り返す。
@キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1485年 - 1536年):1509年結婚、1533年離婚 はじめアーサー王太子妃。死別後、その弟ヘンリーと再婚。メアリ1世の母。結婚から20年余りを経た後に離婚。
Aアン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507年? - 1536年):1533年結婚、1536年離婚 エリザベス1世の母。元はキャサリン・オブ・アラゴンの侍女。離婚後にロンドン塔で刑死。
Bジェーン・シーモア(Jane Seymour, 1509年? - 1537年):1536年結婚、1537年死去 エドワード6世の母。元はアン・ブーリンの侍女。エドワード出産後に産褥死。
Cアン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves, 1515年 - 1557年):1540年結婚、同年離婚 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚。 肖像画があまりにも美化されていたため、初対面時にヘンリーが激怒したというエピソードが残されている。
Dキャサリン・ハワード(Katherine Howard, 1521年? - 1542年):1540年結婚、1542年離婚 アン・ブーリンの従妹。結婚1年半後に反逆罪で刑死。
Eキャサリン・パー(Catherine Parr, 1512年? - 1548年):1543年結婚、1547年夫と死別 学識高く、メアリー、エドワード、エリザベスの教育係も務めた。結婚3年半目にヘンリーと死別。

ピーター・ブリューゲル
  (Pieter Bruegel)

デューラーと並び北方ルネサンスを実現し、近代絵画の原点を創ったのが、ブリューゲル(Pieter Bruegel)である。「農民画家」と呼ばれた。現在のベルギー、リンブルク州に生まれたと推定される。 「農民」という異名は、ブリューゲルには似つかわしくない。彼は見識豊かな教養人であった。フランス、イタリアへ旅したにもかかわらず、古典的な理想の姿を追求する、イタリア的なところは少しもない。彼の作品にはボッシュの空想力、パティニールの敬虔で大きな風景の影響が強く現れ、北方の伝統が色濃い。




ブリューゲル『花瓶』

『農民の踊り』(フランス)

ベルギー発行(ブリューゲル)

ブリューゲル 絵画 花瓶 ルネサンス 農民の踊り(フランス) ブリューゲル 絵画

『子供の遊戯』ウィーン美術史美術館
ベルギー発行 ブリューゲル 『子供の遊戯』

ブリューゲル
『老人たちと一緒のスザンナ』

ブリューゲル『農民の結婚式』
(ユーゴスラビア)

ルネサンス ユーゴスラビア 老人たちと一緒のスザンナ ブリューゲル ユーゴスラビア ブリューゲル 農民の結婚式

『東方の3博士の礼拝』
(ブリューゲル、ドミニカ)

『ナップル湾』(サンマリノ、1970年)

『森の風景』 実物 拡大○
ヤン・ブリューゲル(父)

ブリューゲル(オーストリア)
ブリューゲル 絵画 『聖母子』(ドミニカ) 『ナップル湾』(サンマリノ、1970年) ルネサンス ブリューゲル 絵画 ブリューゲル(オーストリア)

■『森の風景』ヤン・ブリューゲル(父)1605−1610年頃 油彩、板 ウィーン美術史美術館蔵 「Theハプスブルグ」より

『画家と買い手』
(オーストリア、1969年、エッチング)

子供の遊び(レソト、1979年) ブリュ-ゲル

『画家』(オーストリア、1969年、エッチング) ブリューゲル 子供の遊び(レソト、1979年) ブリューゲル 子供の遊び(レソト、1979年) ブリューゲル 子供の遊び(レソト、1979年) ブリューゲル

『Adoration of the Magi』(ガボン、1972年)拡大○

東方の3博士の礼拝

『Adoration of the Magi』(ソ連)

『Adoration of the Magi』 ブリューゲル 絵画 『Adoration of the Magi』 ブリューゲル 絵画

ブリュ-ゲルの絵画 『農民の婚礼の宴』ウィーン美術史美術館、『冬景色』、『子供の遊戯』ウィーン美術史美術館、『イカロスの墜落のある風景』ブリュッセル王立美術館、『農民の結婚祝いの踊り』、『盲人の寓話』カポディモンテ国立美術館

■『イカロスの墜落のある風景』は、古典神話を題材とした現存する画家唯一の作品としても知られる。描かれるのは、オウィディウスの転身物語より、クレタ島の王ミノスに仕えた伝説的な名工ダイダロスが、自身の裏切りによってミノス王に捕らえられている息子イカロスの救出を目論み、息子イカロスに蝋(ろう)と羽で拵えた翼を与え空から脱出を試みるも、脱出途中で興奮した息子イカロスが空高く舞い上がったために太陽の熱で蝋(ろう)が溶け、海へと墜落して死してしまう≪イカロスの墜落≫の場面で、イタリアでの修行からの帰国直後頃に描かれたと考えられている。

ブリュ-ゲルの絵画 『謝肉祭と四旬節の喧嘩』ウィーン美術史美術館、『バベルの塔』ウィーン美術史美術館、『東方三賢王の礼拝』、『農民の踊り』 ウィーン美術史美術館、『婚礼の宴』ウィーン美術史美術館、『ネーデルランドのことわざ』ベルリン国立美術館

ブリュ-ゲルの絵画 『謝肉祭と四旬節の喧嘩』、『バベルの塔』、『東方三賢王の礼拝』ブリュ-ゲルの絵画 『農民はダンス』、『婚礼の宴』、『ネーデルランドのことわざ』

■『謝肉祭と四旬節の喧嘩』は、風刺的寓意画で、主イエスの死からの復活を記念する祝日≪復活祭(イースター)≫の前の40日間、受難者イエスの死を偲び(伝統的に)肉食など食事の節制と祝宴の自粛をおこなう修養期間≪四旬節(レント)≫と、四旬節に先立ち(一週間から数週間)肉食など禁則事項との告別をおこなう祭事≪謝肉祭(カーニバル)≫を題材に人間の利己と愚考に満ちた姿を描いた作品で、一般的にはカトリック(四旬節)とプロテスタント(謝肉祭)の対立を表現したものと解釈される。
■『ネーデルランドの諺』には当時の人々の生活を舞台に、様々に繰り広げられる諺や格言の場面が80種類以上(一説では約120種とされる)描かれている。古くから諺を題材とした作品は幾多の画家が描いているも、本作のように複数の諺や格言が収集、編纂され構成される作品は、当時(15〜16世紀)の人文主義者がおこない流行させた。ブリュ-ゲル代表作。

モラーレス(モラレス)

ルイス・デ・モラレス(Luis de Morales, 1510年? - 1586年5月9日)は、スペインの宗教画家。モラーレスは孤高の宗教画家で、スペインにおける「エッケ・ホモ」および「ピエタ」の図像の決定者の一人。その深い宗教性ゆえに聖なるモラーレスと呼ばれた。フランドル的技法にイタリア的形態感を加味し、画中の人物の長身化においてエル・グレコを先駆する神秘的な作品を多く描いた。 
世界の美術家500[美術出版社]より引用




ルイス・デ・モラレス『聖母子』
(プラド美術館)

モラレス 『キリスト』(ガボン)

ルイス・デ・モラレス『聖母子』(プラド美術館) MC

モラーレス ルネサンス 聖母子 『キリスト』(ガボン)

■両方とも、『聖母子』 ルイス・デ・モラーレス 
1568年頃 油彩 板 84×64cm マドリード プラド美術館です。
左はギニアビサウ,右はグレナダ・グレナディーンの発行です。

モラーレス ルネサンス  モラーレス ルネサンス 

barnaba da modena(Italian painter (活動期 1353-1383) ジェノバ

マルコ・バサイーティ

『聖母子(Madonna and Child)』
1367年 ビザンチン様式

マルコ・バサイーティ Marco Basaiti (Italian, 1470-died circa 1530) 『聖母子』

『聖母子 Madonna and Child』 barnaba da modena  マルコ・バサイーティ Marco Basaiti (Italian, 1470-died circa 1530) 聖母子

■Barnaba da Modena was active in Genoa (Liguria) from about 1353 to about 1383. These years marked the high point of Genoa's power in the 14th century - rivalled only by Venice, the Genoese fleet controlled Mediterranean trade, though the city was still riven by factional rivalry.

フランチェスカ

ピエロ・デラ・フランチェスカまたはピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca, 1415/20年 - 1492年10月12日)は、イタリアルネサンス期の画家。 ルネサンスの巨匠たちのあいだにも、とりわけ絵画理論の裏づけを、幾何学、解剖学といった科学に求め、情熱の半分以上をそこに注いだアーティストがいました。『画家』であるとともに『科学者』であった人たちです。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)がそうです。そしてこのレオナルド・ダ・ヴィンチに先立って、強力な幾何学理論とそこから導き出される『遠近法』の裏付けを築いていた人が、ピエーロ・デッラ・フランチェスカです。




■ピエロ・デラ・フランチェスカを代表する対画肖像作品『ウルビーノ公夫妻の肖像(フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの肖像)』。妻であったバッティスタ・スフォルツァの肖像とともに、イタリアルネサンス肖像画の傑作のひとつとして、どの時代でも評価されてきた本作は、半身、真横という、この時代におけるイタリア特有の肖像形式を取りながらも、背景には空気遠近法を用いるなど、ネーデルランド絵画の特徴を示しているが、フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの肖像における背景は正方形を暗示しているとされ、対を為す肖像画と同様、ウルビーノの繁栄を単純化し、象徴したものと研究されている。ウルビーノ公であるモンテフェルトロは、1460年代頃からピエロ・デラ・フランチェスカと深く親交を持ったことが記録に残される。また片目を失っていたモンテフェルトロの肖像画が、横顔で描かれることは珍しいことであった。空気遠近法を用いるなど、ネーデルランド絵画の特徴を示すこのウルビーノの繁栄を単純化し、象徴した背景は、正方形を暗示しているとされる。かれたこの作品は、2枚の絵を蝶番でつないで本のように開くよう作られた。

『ウルビーノ公夫妻の肖像』(ピエロ・デラ・フランチェスカ) 
フィレンツェのウフィッツィ美術館

二人は静かに互いを見つめ合うように並べられている。ウルビーノ公爵の真紅の帽子と服が鮮明な印象を与え、騎士合戦の際に折れたという鼻が正確に描写されている。目尻のしわと慈愛に満ちた瞳が人生の年輪を物語るかのようである。婦人の横顔は陶磁器のように白く滑らかで、信頼にあふれた微笑をたたえている。

ベルナルディーノ・ルイーニ
 (Bernardino Luini)

■ベルナルディーノ・ルイーニ (Bernardino Luini, 1480年/1482年頃 - 1532年)は、イタリアの画家。レオナルド・ダ・ヴィンチに影響されている。レオナルドと直接仕事したと言われている 。ルイーニは、ベルナルディーノ・デ・スカピス(Bernardino de Scapis)として、マッジョーレ湖近郊のドゥメンツァの分離集落、ルーノで生まれた。彼の生涯の詳細は非常に乏しい。



ルイーニ 『聖母子』
(ヴァージン諸島、1972年)

『静寂(Silence)』
(ルイーニ) コンゴ

『カーネーションの聖母」(ワシントンナショナルギャラリー蔵)』
(USA,2007年)ペーンカバーと切手、クリスマス

『聖母子』(1972年) ベルナルディーノ・ルイーニ (Bernardino Luini) ルネサンス 『静寂(Silence)』(ルイーニ)コンゴ ルネサンス 『カーネーションの聖母」(ワシントンナショナルギャラリー蔵)』(USA,2007年)ペーンカバーと切手、クリスマス

フォンテーヌブロー派
(School of Fontainebleau)

フォンテーヌブロー派(School of Fontainebleau)はフランス・ルネサンス期に宮廷で活躍した画家のグループである。名の伝わらない画家も多い。
フランソワ1世の時代にイタリアから招かれたルネサンス(マニエリスム)の画家、ロッソ・フィオレンティーノらの影響を受けている。 16世紀末の絵画『ガブリエル・デストレ姉妹』(2人の裸婦が描かれ、左の女性が右の女性の乳首をつまんでいる)は様々に引用され、有名な作品であるが、筆者は不明である。官能的なテーマはいかにもフォンテーヌブロー派を象徴している。



フォンテーヌブロー派 『ガブリエル・デストレ姉妹』 
ルーヴル美術館参考資料より転載  
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フォンテーヌブロー派 『入浴する二人の女』 
ウフィツィ美術館参考資料より転載  
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フォンテーヌブロー派 『ガブリエル・デストレ姉妹』 ルーヴル美術館  フォンテーヌブロー派 『入浴する二人の女』 ウフィツィ美術館

■ガブリエル・デストレ(Gabrielle d'Estrees, 1571年 - 1599年4月10日)は、フランス王アンリ4世の愛妾。ブールデジエール城(現在のアンドル=エ=ロワール県にあった)で、クーヴル侯アントワーヌの娘として生まれた。ガブリエルは21歳でアンリの愛妾となった。アンリはカトリック同盟と苦闘している最中だったカトリック教徒のガブリエルは、この内戦に勝つにはアンリ自身がカトリックに改宗すべきだと考えていた。1593年7月25日、アンリは正式にカトリックに改宗し、1594年に戴冠式を行った。その礼にガブリエルの夫との結婚を無効にしてやり、ガブリエルはモンスー伯爵夫人の称号を得た。 
ガブリエルはアンリの最も有能な外交官で、カトリック同盟内の多くの女の友人らを起用して平和に貢献した。彼女はアンリとともに馬にまたがって猟や遠乗りをするのが好きで、よくパリ郊外へ出かけていた。およそ7年の間、ガブリエルはアンリの事実上の妻であり、彼に3人の子供を生んだため、1597年にボーフォール公の称号を授かった。 何れの絵も、同じ姉妹(ガブリエル・デストレと妹のヴィラール公爵夫人)を描いたもの。

■巨匠の絵画切手 [ ボッティチェッリダ・ヴィンチラファエロミケランジェロデューラーティツィアーノルーベンスベラスケスアングルエル・グレコレンブラントカラヴァッジオフェルメールダイクドラクロワゴヤ|ゴッホ(no.1|no.2)|ルノワールマネとモネセザンヌゴーギャンマチスピカソダリ葛飾北斎安藤広重クリムトシャガールモディリアーニミュシャ ]

掲載のルネサンスの主要な画家一覧:
ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini)、マサッチオ(始祖)、フラ・アンジェリコ(FRA ANGELICO)、コレッジョ(Antonio Allegri da Correggio)、アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna)、ミケランジェロ、ジョルジョーネ(Giorgione)、ティツィアーノ(チチアン、Titian)、アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto)、アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)、ロレンツォ・ディ・クレディ(Lorenzo di Credi)、ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio)、フォルリ(Melozzo da Forli)、グリューネ・ヴァルト、ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach der Altere)、ヴィットーレ・カルパッチョ(Vittore Carpaccio)、フランソワ・クルーエ、ジョバンニ・バッティスタ・シーマ(Giovanni Battista Cima)、ホルバイン(Holbein)、ピーター・ブリューゲル(Pieter Bruegel)、フランチェスコ・アルバーニ(アルバーン)、モラーレス、マルティン・ションガウアー(Martin Schongauer)、カルロ・クリヴェッリ( Carlo Crivelli)、パオロヴェロネーゼ(paolo veronese)、バルトロメーオ・ヴィヴァリーニ( Bartolomeo Vivarini )、ベルゴニョーネ(Bergognone)、アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina)、コズメ・トゥーラ( Cosimo Tura)、ピントゥリッキオ(Pinturicchio)ことベルナルディーノ・ディ・ベット(Bernardino di Betto)、ベルナルディーノ・ルイーニ (Bernardino Luin)、アントニアッツォ・ロマーノ(Antoniazzo Romano)


 

 ルネサンスのはじまりと各派の特徴

ヴェネツィア派はルネサンス時代、特に15世紀後半から16世紀にかけてヴェネツィア共和国とその周辺で活躍した美術の流派。絵画、彫刻、建築など様々な分野でその特徴は見受けられるが、一般的には絵画の流派を指す。絵画においてはデッサンを重視したフィレンツェ派とは異なり、画面を色を使って構築し、流動的で詩的な雰囲気で人間の感覚に直接訴えかける効果を追求した。
ヴェネツィア派画家の一覧 :ヤーコポ・ベッリーニ 、ジェンティーレ・ベリーニ 、ジョヴァンニ・ベリーニ 、ヴィットーレ・カルパッチョ 、パオロ・ヴェロネーゼ 、ジョルジョーネ 、ティントレット 、ティツィアーノ
フィレンツェ派は、13〜17世紀のイタリアで、フィレンツェを中心に活躍した画派。ルネサンス美術は彼らが主導したことで発展し、その影響もヨーロッパ各地に大きく及んだ。フィレンツェは、盛期ルネサンスの初期の中心地でもあった。デッサンを重視
フィレンツェ派代表者画家の一覧 : ジョット・ディ・ボンドーネ 、マサッチオ 、フラ・アンジェリコ 、フィリッポ・リッピ・フィリッピーノ・リッピ父子 、ボッティチェリ 、レオナルド・ダ・ヴィンチ 、ミケランジェロ 、アンドレア・デル・サルト
シエナ派(イタリア語:Scuola senese、英語:Sienese School)は、ルネサンス期のイタリアにおいてシエナを中心に活動した画家群。 フィレンツェ派と較べると保守的で、後期ゴシック様式に傾倒した優雅で装飾的な画風が特色として挙げられる。その絵の中には、自然主義的なフィレンツェ派の絵とは異なる、神秘主義的な傾向が見受けられる。奇蹟を主な題材とし、時空は超現実的に歪曲し、それはしばしば夢のようで、彩色も非現実的
シエナ派の画家の一覧:ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ、シモーネ・マルティーニ 、ピエトロ・ロレンツェッティ 、アンブロージョ・ロレンツェッティ 、サセッタ 、ジョヴァンニ・ディ・パオロ 、アンドレア・ブリオスコ 、ソドマ 、ドメニコ・ベッカフーミ

 

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