Repubblica Italiana(イタリア共和国)|ウフィツィ美術館とアカデミア美術館 |
フィレンツェ (Firenze)
イタリア共和国(Repubblica Italiana)。 フィレンツェ (Firenze)のウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) とアカデミア美術館(Galleria dell’Accademia)。
アカデミア美術館は、イタリアのフィレンツェにある美術学校であるフィレンツェ美術学校(アカデミア・ディ・ベッレ・アルティ・フィレンツェ、Accademia
di Belle Arti Firenze)の美術館です。 ミケランジェロのダビデ像を設置する場所で当初作られました。
ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、初代トスカーナ大公コジモ1世の治世下、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1560年に着工し、1580年に竣工しました。 メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫です。 展示物は2,500点にのぼり、古代ギリシア、古代ローマ時代の彫刻から、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画を中心に、それ以前のゴシック時代、以後のバロック、ロココなどの絵画が系統的に展示されています。 美術館の建物は、ドーリア式の回廊の上に2階、3階部分が建設されたルネッサンス様式の建築物で、全体としては巨大なU字型をしています。 すぐ側にはヴェッキオ宮殿やドゥオーモがあります。 「ウフィツィ」の名前の由来はイタリア語の
Ufficio (英語の offices (オフィス) にあたる語)で、フィレンツェの行政機関の事務所がもとになっています。 また、アルノ川に面した川沿いの砂地に建築されており、基底部分は世界最初のコンクリート工法とも言われています。 説明資料作成では、Wikipediaとウフィツィ美術館公式ガイド集、アカデミア美術館公式ガイド集を利用しています。 参考写真は一部公式ガイド集を利用しました。
ご注意)写真は私が撮影し著作権があります。転載禁止! |
アカデミア美術館(Galleria dell’Accademia)
■アカデミア美術館(Galleria dell’Accademia)は、イタリアのフィレンツェにある美術学校フィレンツェ美術学校(アカデミア・ディ・ベッレ・アルティ・フィレンツェ、Accademia di Belle Arti Firenze)の美術館。 1784年設立で展示品の多くは設立時より所有。
1873年、ミケランジェロの傑作『ダビデ像』が、シニョーリア広場のヴェッキオ宮殿前から、天候や歳月による損傷を防ぐという理由でここに移設された。 アカデミア美術館のミケランジェロ作品は少数。 ミケランジェロ(ルネサンス)の絵画などの切手
アカデミア美術館(Galleria dell’Accademia)の入口から「ダビデ」のトリブーナへ到達するまでに通るコロッソの間、フィレンツェの間、そして囚人の通廊には多くの芸術家の作品が展示されています。 右はトレチェント(14世紀)の間。 |
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フィレンツェ |
フィレンツェ アカデミア美術館の内部の展示の様子 |
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■ダビデ(David)像は、ミケランジェロが1501年から制作を開始し、1504年9月8日に公開した彫刻作品。ピエタと並ぶミケランジェロの代表作であるばかりでなく、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つです。力強さと若き人間の美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史における最も有名な作品のひとつと言える。大理石で身の丈5.17メートルにかたどられたこの像は、旧約聖書の登場人物ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現しています。 |
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ミケランジェロの傑作『ダビデ像』 |
フィレンツェ アカデミア美術館の入口風景 大混雑 |
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アカデミア美術館 |
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■ミケランジェロが制作した4作品(ただし、完成したのは「サン・ピエトロのピエタ」のみ)の通称と制作年、現在の収蔵場所は以下の通り。 |
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ダビデ像の口元と鼻筋(西ドイツ、1986年) |
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■『ダビデ像』:(フィレンツェ、アカデミア美術館、現在ヴェッキオ宮前にあるのはレプリカ) 高さ4.34mの巨大な像である。敵であるゴリアテを見据える激しい表情は「テリビリタ」と呼ばれる。 |
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ダビデ像(ミケランジェロ、ウルグアイ) |
■ダビデの像はいくつも造られているが、なかでもミケランジェロによる作品(ダビデ像)は最高傑作と呼ばれ高い評価を受けている芸術作品です。 ところで、このダビデ像の男性器が包茎なのは、ルネサンスにおいてギリシャ芸術の手法を取り入れたからである。 実際にはダビデの生きた時代では男子は幼児の時期に割礼という形で、今でいう包茎手術を行うのがユダヤ教徒の伝統であったので、結果的にミケランジェロはデフォルメの仕方を間違えて聖書を曲げてしまったことになる。 |
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■キリスト教の教典である旧約聖書のダビデは割礼を神との契約とするユダヤ人の王であるが、この彫像に割礼の痕はない。このことは、ダビデの父がユダヤ人ではなくパレスチナ人だったと考えているネストリアンやムスリムの歴史認識と一致している。また、瞳の形は丸ではなく、当時割礼に使われた器具と同様のハート型をしている。 唇も鼻の形もハート型していますね。 ダビデ像では、人体の重心を片方(ここでは右足)にのせ、もう片方(左足)を自由に遊ばせることで身体全体の流れをS字形にしてバランスを取る、いわゆる≪コントラポスト≫の構図を用いたことで、人間としての自然の動きに富んだ表現した。戦いを目前に自軍が怯むのを感じ、臆することなく敵陣ゴリアテを挑むような視線で見つめるダビデの緊張感に溢れる視線が、この彫刻を一層表現豊かな作品にしている。 |
ダビデ像(ミケランジェロ、キルギスタン) |
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■ダビデ(ラテン語: David)は古代イスラエルの王(在位:前1000年 -前961年頃)。ダヴィドとも。羊飼いから身をおこして初代のイスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのち王位を継承するとペリシテ人を撃破して要害の地イェルサレムに都を置いて民族の統一を成し遂げた。旧約聖書の『サムエル記』『列王記』に登場し、『詩篇』の作者とされている。イスラム教においても預言者の1人に位置づけられている。英語圏の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。 ダビデはまた、ペリシテ人(小アジア海岸から東地中海岸各地にあらわれた民族)と戦うためイスラエル軍に従軍していた3人の兄に食料を送り届けるため陣営を訪れ、それが機縁となってペリシテ人と戦ってこれを撃破し、モアブを攻略してモアブ人たちをしたがえ、ハマテのゾバの王であるハダデゼルと戦って戦車1,000、騎兵7,000、歩兵20,000をそれぞれ生け捕りにした。さらに、ハダデゼルを援助しようとして現れたスリアの軍2万2,000名を壊滅させ、スリアには守備隊を置いて貢租を納入させた。 とりわけ、ペリシテ人の戦士ゴリアテを倒したことはダビデの名を高めた。 |
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■ゴリアテ(Golyat)は、旧約聖書のサムエル記に登場するペリシテ人の巨人兵士。身長は6キュビト半(約2.9メートル)、身にまとっていた銅の小札かたびら(鎧)は5000シェケル(約57キログラム)、槍の鉄の刃は600シェケル(約6.8キログラム)あったという。サウル王治下のイスラエル王国の兵士と対峙し、彼らの神を嘲ったが、羊飼いの少年であったダビデが投石器から放った石を額に受けて昏倒し、自らの剣で首を刎ねられた。この故事にちなんで、弱小な者が強大な者を打ち負かす喩えとしてよく使われる。 |
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ボッティチェッリ|『聖母子、幼い洗礼者ヨハネと2天使』 フィレンツェ アカデミア美術館資料より |
フィリッピーノ・リッピとピエトロ・ベルジーノの 『十字架降下』 アカデミア美術館資料より |
ジャンボローニャ(Giambologna) |
『無原罪の御宿りの論議』 ジョバンニ・アントニオ・ソリアーニ (Giovanni Antonio Sogliani) |
『聖母子、聖ヨセフと幼い洗礼者ヨハネ』 フランチャビージオ |
『キリスト復活』 |
フランチャビージオ(Franciabigio, 1482年 - 1525年1月24日)はルネサンス期イタリアの画家。フィレンツェ派に属する。 |
ラファエッリーノ・デル・ガルボ(Raffaellino del Garbo (1466 or perhaps 1476 - 1524) was a Florentine painter of the early Renaissance. ) |
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※寓意(ぐうい)は、ある意味を、直接には表さず、別の物事に託して表すこと。また、その意味。 |
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ロレンツォ・モナコ『モンテオルヴェートのトリプティク』 |
マーゾ・ダ・サン・フリアーノ 『剛毅の寓意』 |
ピエル・フランチェスコ・フォスキ 『聖家族と幼い洗礼者ヨハネ』 |
『婚礼の行列またはアディマーリの長持ち』 1450年頃 スケッジャ |
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■マザッチョの弟のジョヴアンニ修道士もまた画家で、『スケッジャ』の通称で呼ばれる。婚礼祝宴の場面を扱っていると考えられるこの絵には、フィレンツエの当時の町並みと建築物(左側に洗扎堂)が見えます。 またルネサンス時代の衣装や服装も見て取れます。 |
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カルロ・ポルテッリ |
ヤコポ・ディ・チョーネ |
ヤコポ・ディ・チョーネ工房『キリストの幼児の物語』 |
マグダラのマリアの親方『改悛するマグダラのアリアとその生涯の8つの物語』 |
ポッピ(フランチェスコ・モランディーニ) 『愛徳の寓意』 |
『コジモの妻となったエレオノーラ・ディ・トレドと、息子のドン・ガルツィア』です。ポントルモの最高傑作と言っても良いほどの素晴らしい肖像画です。フィレンツェのウフィッツィ美術館で是非ご覧になってください。 ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo, 1494年5月24日 - 1557年1月2日)。ポントルモは初期マニエリスムの代表的な巨匠で、ミケランジェロの人体表現やデューラーから影響を受けつつマニエリスムと呼ばれる絵画、ねじれのある構図や明るい色彩を持つ絵画を自分の個性としました。 |
アンドレア・デル・サルト |
ブロンズィーノ |
ブロンズィーノ 『コジモの妻となったエレオノーラ・ディ・トレドと、息子のドン・ガルツィア』(ウフィッツィ美術館蔵) |
■エレオノーラ・ディ・トレド(Eleonora di Toledo, 1519年1月11日 - 1562年12月17日)は、フィレンツェ公(後のトスカーナ大公)コジモ1世の妃。 ナポリ副王ビリャフランカ侯ペドロ・アルバレス・デ・トレドの長女として、アルバ・デ・トルメス(現在はサラマンカ県のムニシピオ)で生まれた。 |
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ヤコポ・ダ・ポントルモ画『ヴィーナスとキューピッド』 アカデミア美術館 / ドメニコ・ギルランダイオ画 『聖ヤコブと聖ペテロに囲まれた聖ステバノ』 |
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ミケランジェロの下絵にもとづくヤコポ・ダ・ポントルモ画『ヴィーナスとキューピッド』 アカデミア美術館 |
ポントルモの代表的な寓意画とされる、この『ヴィーナスとキューピッド』(Venere e cupido) 。 |
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アカデミア美術館前のアートブックショップ / |
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ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi)の入場券 ツアーで事前予約してました / アカデミア美術館(Galleria dell’Accademia)の入場券 個人で事前予約してました |
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ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi)
■ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、イタリアのフィレンツェにあるイタリアルネサンス絵画で有名な美術館である。1591年より部分的に公開されており、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つである。 またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のものである。1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。また、Uffiziは英単語officeの語源でもあります。 メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫です。 館内は写真など一部を除き全面禁止で、撮れる範囲で他の作品は切手で代用をしています。 また参考写真は一部公式ガイド集を利用しました。
■ウフィツィ美術館を予約する
■ウフィツィ美術館収蔵の代表作品 : ミケランジェロ 聖家族(トンド・ドーニ) /フィリッポ・リッピ 聖母子と二天使 1455-60 /東方三博士の礼拝(1475年頃、サンドロ・ボッティチェッリ) /プリマヴェーラ(1477年-1478年頃、サンドロ・ボッティチェッリ) /サン・マルコ祭壇画(1483年、サンドロ・ボッティチェッリ) /ヴィーナスの誕生(1485年頃、サンドロ・ボッティチェッリ) /マニフィカトの聖母(1483-85年、サンドロ・ボッティチェッリ) /ザクロの聖母(1487年、サンドロ・ボッティチェッリ) /東方三賢王の礼拝(1504年、アルブレヒト・デューラー) /東方三博士の礼拝(1423年、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ) /ウルビーノ公夫妻の肖像<対画肖像作品>(1472-74年頃、ピエロ・デラ・フランチェスカ) /アダムとイブ(1528年ルーカス・クラナッハ) /ウルビーノのヴィーナス(1538年、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ) /受胎告知(1475-80年レオナルド・ダ・ヴィンチ)
■ウフィツィ美術館は1769年、ハプスブルク=ロートリンゲン家のレオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の時代に一般に公開されるようになった。彼は古代学者ルイジ・ランディを顧問としてコレクションの分類整理に着手し、それまで収蔵されていたマジョルカ陶器、武具類、科学部門のコレクションを他の博物館へ移管したり、売却したりした。19世紀後半には、ロマネスク以降の彫刻がフィレンツェ市内の国立バルジェロ美術館へ、エトルリアなどの考古遺物がフィレンツェ考古学博物館へ、それぞれ移管され、ウフィツィ美術館は絵画館としての性格を強めていく。この間にも絵画のコレクションは強化されていった。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの著名な「受胎告知」は、1865年に受贈したフェローニ・コレクションにあったものである。
1993年5月27日、美術館近くで自動車爆弾による爆発があり、通行人ら5人が死亡、50人以上が重軽傷を負った。建物の一部も壊れ、一部の美術品や資料も被害を受けた。
Building of the palace was begun by Giorgio Vasari in 1560 for Cosimo I de' Medici as the offices for the Florentine magistrates - hence the name "uffizi" ("offices"). Construction was continued to Vasari's design by Alfonso Parigi and Bernardo Buontalenti and ended in 1581. The cortile (internal courtyard) is so long and narrow, and open to the Arno River at its far end through a Doric screen that articulates the space without blocking it, that architectural historians treat it as the first regularized streetscape of Europe. Vasari, a painter as well as architect, emphasized the perspective length by the matching facades' continuous roof cornices, and unbroken cornices between storeys and the three continuous steps on which the palace-fronts stand. The niches in the piers that alternate with columns were filled with sculptures of famous artists in the 19th century.
ルネサンスのはじまりと各派の特徴 |
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■イタリア・ルネサンスの始まりはチマブーエあるいはその弟子ジオット(1276年? - 1337年)の絵画とされる場合も多い。しかし「人間性」を尊重した彫刻家ドナテッロと「線遠近法」を完成させた建築家フィリッポ・ブルネレスキの二人の特徴を絵画において融合させたマサッチオ(1401年
- 1428年)が始まりだとする見解もある。このことからドナテロ、ブルネレスキ、マサッチオは初期ルネッサンスの三大巨匠と呼ばれる。 |
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■美術工芸について参考にしているページ |
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1.Web Gallery of Art, (英語) |
美術関係のページのサイト内リンク |
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