アフリカ・エジプトの写真|アレキサンドリア ポンペイの柱とナイルメーター 古代の図書館 |
ポンペイの柱
ポンペイの柱(Serapeum and Pompey's Pillar):ローマ皇帝(ディオクレティアヌス)への感謝の記念碑としてポンペイの柱は立てられました。 西暦292年に建てられたもので柱の高さは30m 胴周りは8mあり、アスワンで産出された赤い花崗岩でできている。 この柱の地下にはパピルスの文書をアーカイブしていた図書館跡もあります。 ポンペイの柱はアレキサンドリアの町中の小高い丘の上にそびえています。 往時の神殿建設当時(西暦292年)は、この柱が400本立っていたといいますからその規模は驚くような大きさだったのでしょうね。 今はただ一本残ったこの柱とスフィンクスだけが、静かに町並みを見下ろしていて、華やかだった頃の当時を偲ばせてくれます。 西暦391年にローマ皇帝の命により破壊されてしまいました。 写真では見えませんが遺跡ポンペイの柱の横には隣接し団地が迫っています。
現代風の中の遺跡も何ともいえません。 アレキサンドリアはそれ程狭い場所です。
アレキサンドリア |
ポンペイの柱にある |
ポンペイの柱(Serapeum and Pompey's Pillar) |
■アレキサンドリアのポンペイの柱は、プトレマイオス朝 |
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「ポンペイの柱」(Amud EL-Sawari )の入場券。 スフィンクス |
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アレキサンドリアは、クレオパトラとアントニーとの激しい恋の舞台ともなりました。
またポンペイの柱は、元々はローマ皇帝ディオクレティアヌ によって建築された「セラピス寺院("the Temple of Serapis")の一部だと言われています。セラピス神に関してはアレキサンドリア国立博物館(グレコ・ローマン博物館)に彫像が収蔵されていました。ところが後の世になって、クレオパトラの庇護を受けた人々達が「ポンペイウスの寺院だった。」と誤解し、その名前に由来する「ポンペイの柱」という名称が付けられ、そのまま現在まで呼ばれ続けてしまったというのです。
ナイルメーター 図書館跡
ナイルメーター(Meter Nile)とは、水位の高さでナイル川氾濫の予想をしたそうです。その予想結果を元に年間の年貢を取り決めていたそうです。 アレキサンドリアはナイル川の河口付近のデルタ地域にあり、古人の思いもむべなるかなと感じました。 写真はポンペイのj柱の傍で。
図書館跡のナイルメーター(Meter Nile) |
アレクサンドリアのセラペウムの遺跡 |
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■トトメス3世はオベリスクを少なくともヘリオポリスに2本,カルナックに7本,合計9本立てたと言われています。そのうちヘリオポリスの2本のオベリスクをローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス帝(在位,B.C.
27 〜 A.D. 14)がB.C. 23年〜A.D. 12年頃に,アレキサンドリアのカエサリウム神殿の正面に飾るため,アレキサンドリアに運んできたということです。しかし,神殿は荒廃してオベリスクだけが残ったのですが,1303年の地震で西側の1本は倒れてしまいましたが,もう1本は健在でした。
19世紀後半になって,倒れていた方は先にロンドンに運ばれてしまいましたが,残った方(健在だった方)が後にニューヨークに運ばれたのです。したがって,いまアレキサンドリアには1本のオベリスクも残っていません。
この2本のオベリスクは,いずれも「クレオパトラの針」(Cleopatra's needle)というニックネームで呼ばれています。
■アレクサンドリア図書館はプトレマイオス朝時代からローマ帝国時代にかけ、エジプトのアレクサンドリアに設置されていた図書館である。古典古代世界における最大かつ最も重要な古典古代の図書館であり、ヘレニズム時代の学問において中心的な役割を果たした。図書館自体は、ムセイオンと呼ばれる文芸を司る9人の女神ムサ(ミューズ)に捧げられた、大きな研究機関の一部であった。 前3世紀と前2世紀の間、多くの重要な影響力のある学者たちが、この図書館で研究した。 この図書館が焼かれて破壊されたという物語は広く知られているが、実際にはこの図書館は数世紀の間に徐々に衰退の道を辿った。この衰退はプトレマイオス8世治世中の前145年の知識人たちの追放と共に始まった。
※セラペウムはアレクサンドリア図書館本館の場所が足りなくなった後、ここに収集物の一部が移された。
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