西洋美術切手 ロココ・新古典主義と18世紀のヴェネツィア絵画とイギリス絵画
ロココ(Rococo)時代:フランスにおいて太陽王ルイ14世没後の18世紀末からフランス革命前(1790年代)までに特徴的だった美術上のムーヴメントをロココと呼ぶ。語源は、「人工洞窟の貝殻装飾」であった「ロカイユ」である。 パリのオテルドスービーズのに代表される貴族の室内装飾のように、自由で繊細、左右不均衡で曲線を好む作風が特徴である。この特徴が絵画にも現れはじめて時代全般の呼び名となったのである。18世紀のヴェネツィアの絵画も入れました。当時のヴェネツィアは観光ブームで外人客が押し寄せていました。当時は観光名所の絵葉書などありませんから、カナレットとか、グァルディとか、マリエスキとか、ベッロットなどの風景画家が、このようなお金持ちの外人客の求めに応じて、景観画や奇想画(古代ローマの廃墟みたいなものと現実にある建物とを組み合わせたり、現実には存在しない奇岩を配したりして制作した、奇想に富んだ南国の風景画)を制作し、外国の貴族たちはこれらをイタリア土産として、喜んで買って帰ったわけです。こういう風にしてイタリア人も、自分の祖先が残した壮麗な文化遺産を、新たな目で見ることが出来るようになりました。この頃の景観画の中には、その地方に住んで働いている人々の姿が点景として描かれています。ヴェネツィアだけでなく、例えばナポリであればヴェズーヴィオ火山の素晴らしい風景の中に、網を引いている漁師や洗濯女など、様々な庶民の姿が前景に小さく現われて来てます。掲載の画家はダヴィッド、新古典主義のアングル、プッサン、ルブラン、プーシェ、フラゴナール、ティエポロ、シャルダン、ゲインズボロ、ヴァトー、ロンギなどです。
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ロココ、新古典主義 |
Rococo |
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ジャック=ルイ・ダヴィッド |
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David、1748-1825)は、フランスの新古典主義の画家。18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家。歴史画(物語画)を写実的に描いた。『サン=ベルナール山からアルプスを越えるボナパルト』は、数あるナポレオンの肖像画の中でも最高傑作と言われています。1804年にはナポレオンの首席画家に任命されている。 |
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ダヴィッド 『ナポレオン』 |
『テニスコートの誓い』 |
『The Oath of the Army after the Distribution of the Eagles on the Champs De Mars』 |
『ホラティウス兄弟の誓い』 |
(Serment des Horaces) |
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■『ホラティウス兄弟の誓い』は、古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウスによる著書≪ローマ建国史≫中に記されるほか、17世紀を代表するフランスの劇作家ピエール・コルネイユが悲劇として創作した≪ホラティウス≫を主題とする作品。主人公であるホラティウス兄弟が自身らに降り注いだ過酷な運命を受け入れ勇敢に立ち向かうという場面であり、画面中央の父から戦わず己の死を選択か、戦い勝利を手にするかを迫られ、各々が抱き合いながら剣へと手を伸ばす愛国的精神や英雄的象徴性は、当時のフランスの社会的情勢(※フランスでは数年後に王政が崩壊し共和的政治が誕生する)や思想的展開とも密接に関わっている。 |
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ダヴィッド フランス革命150年 |
ダヴィッド 『自画像』 |
『マラーの死』(ベルギー王立 |
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■ダヴィッドは若い画家の登竜門であるローマ賞に4回失敗して、25歳のときに初受賞する。ローマ留学中も自分の絵の模索を続け、帰国後は次々と作品をサロンに出品した。その頃はまだフランス革命前で、ダヴィッドは王家や貴族の注文で歴史画や肖像画を描いていたが、革命が近くなってきたころに、王室が望むテーマとは異なった、結果的に共和政に与するようなテーマの絵を無断で描いた。 当然、アカデミーからは目をつけられるが、ダヴィッドは我を通しアカデミー内で既存のアカデミーに不満を持っている人間をまとめる役をひきうけたりして、本人が自覚していたどうかは分からないとはいえ、時代の趨勢に乗るのである。 |
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ダヴィッド 『ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマルス』 ブリュッセル王立美術館、『サビニの女たち』(Les Sabines )ルーヴル美術館 |
ダヴィッド |
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ダヴィッド 『』、キューピッドとプシュケ 』クリーグランド美術館 |
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■『サビニの女たち』は、古代ローマの歴史家ティトゥス=リウィウス著『ローマ建国史』などに記されている、ローマ人によって未婚の女性を略奪されたサビニの男たちが、女を奪い返そうとローマ市内へ攻め入るものの、既にローマ人と結ばれていた≪サビニの女≫らが争いを仲裁する場面を描いた作品である(※ローマ市建設の時、女性が少なかった市の建設者ロムルスの発案により、サビニなど近隣の村人をローマの祭りへ誘い、未婚の女性を略奪したとされる)。最前景では画面中央よりやや右側へ手にする槍を振りかざしながらローマ人を攻撃しようとする勇猛なサビニの男の姿が、画面最左側には仰け反りながら左手に持つ盾で攻撃を防ごうとするローマ人が配されており、両者の間(画面中央よりやや左側)には彼らの争いを身体を張って必死に仲裁するサビニの女の姿が描き込まれている。前景から中景にかけてはローマ人とサビニ人の争いの場面が群集構図と幾多の長槍によって描写されており、観る者にこの戦いの激しさを伝えることに成功している。 |
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『レカミエ婦人』(ルーブル美術館 |
『ナポレオンの戴冠式』 部分 |
『サン=ベルナール山からアルプスを越えるナポレオンボナパルト』 |
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ダヴィッド(ナポレオン絵画・ルワンダ) |
ダヴィッド(ナポレオン絵画・オートボルタ) |
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Jean Baptiste Debret |
Claude Gautherot (1729 - 1802) |
Jean Baptiste Debret |
Carle Vernet |
ジャン=バティストDebret ( 1768-1848 )はフランスの画家で、 フランスの芸術アカデミーで学び、 偉大なジャックの弟子は ルイ・ダビッド ( 1748-1825 )です。 |
First remittance of the Legion d'Honneur, 15 July 1804, Saint-Louis des
Invalides, |
『マドリッドの前のナポレオン』 |
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■新古典主義の主な画家としては、ダヴィッド、アングル、ジェラール、グロ等が挙げられる。 ロココ様式の華美で表層的な表現や、イリュージョニズムに熱狂するバロック様式へのアンチテーゼとして、デッサンと形を重視し、理性を通じた普遍的価値の表現を理想とした。フランス革命、ナポレオン・ボナパルトの登場によって、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになった(ダヴィッドによるナポレオンの戴冠式を描いた作品は新古典主義の代表的なもの)。第一帝政期の様式は帝政様式(アンピール様式、Empire)とも呼ばれる。 |
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ピエール・ポール・プリュードン Pierre-Paul Prud'hon |
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『皇妃ジョセフィーヌ The Empress Josephine』ルーヴル美術館 |
(拡大○) | ||
ピエール・ポール・プリュードン( Pierre-Paul Prud'hon 、1758-1823):18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍したフランス新古典主義様式の画家。ダヴィッドと同様、ローマ留学をし、古代を研究した。ダヴィッドは英雄的古代を好んだが、プリュードンは、古代ギリシャの抒情詩人のような世界を好んだ。プリュードンは、ダヴィッドの新古典主義と平行して、ロココから、ロマン主義の掛け橋となるような作品を描いた。ブルゴーニュ地方クリュニー生まれ。ディジョンでヴィアンに学んだ。 |
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『皇妃ジョセフィーヌ The Empress Josephine』 |
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ピエール・ポール・プリュードンの絵画 |
■『皇后ジョゼフィーヌ』は、1796年に英雄ナポレオン・ボナパルトと結婚するものの、貴族出身ながらその奔放な恋愛遍歴と浪費癖でも有名であったフランス皇后≪ジョゼフィーヌ(マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ)≫がマルメゾンの邸館庭の木陰で腰掛けながら休息する姿を描いた肖像画作品で、 |
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皇帝ナポレオンとジョゼフィーヌの間に子供が授からなかったことを理由に両者が1809年に離縁した時にはまだ未完成であったと伝えられている。 |
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エリザベト・ヴィジェ・ルブラン |
エリザベト・ヴィジェ・ルブラン(Elisabeth Vigee-Lebrun、1755-1842 ): 彼女の評判はすぐに上がり、貴族や社交界から注文を受けるようになる。その中には、ロシアの皇帝のナンバー3とうたわれた人物もいる。女王マリー・アントワネットに気に入られ、多くの肖像を描いた。フランス革命勃発後は、フランスを離れ、ヨーロッパ各国を旅し、先々で、肖像画家として成功した。 |
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『ひさまずく女』・フランス |
『娘と自画像』(フランス、1953年) |
ルブラン画・『ヴィジェ・ルブラン夫人と娘』 |
ルブラン画・『ヴィジェ・ルブラン夫人と娘』(拡大○) |
ルブランと娘 |
ルブランと娘 |
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■ルブランは、1776年に、画家で画商であるジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。彼女は当時の貴族の多くを肖像画に描き、画家としての経歴を開花させた。マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に招かれた。王妃は大変喜び、向こう数年間ヴィジェ=ルブランは王妃や子供達、王族や家族の肖像画を数多く依頼された。王妃とヴィジェ=ルブランは画家と王妃を超えた友人関係を築いていたといわれる。ヴィジェ=ルブランは18世紀の最も重要な女性芸術家だと考えられている。彼女は660の肖像画と200の風景画を残した。優雅な自画像もよく知られる。 |
ルブラン自画像 |
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フランソワ・ブーシェ |
フランス・ロココ時代、1703-1770 、宮廷美術を代表する画家。シャルダンと同世代であるが、画風は対極にある。父親は布地装飾の絵付師。父親の手ほどきの後、ルモワーヌに学ぶ。1724年、大賞を得て、イタリアに学ぶ。帰国後、1734年、『ルノーとアルミッド』で、アカデミー会員となった。ヴェルサイユ宮殿、フォンテーヌブロー宮殿などの装飾で活躍。晩年には、首席王室付画家となる。ルーヴル美術館。 |
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タジキスタン発行(2000年) |
フランス発行(1970年) |
『狩りから帰るディアナ』ソマリア発行(2004年) |
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『狩りから帰るディアナ』 |
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ロココ フランソワ・ブーシェ 『ヴィーナスの化粧室 (The Toilet of Venus)』 メトロポリタン美術館 |
フランソワ・ブーシェ |
■フランソワ・ブーシェは、神話画や肖像画、寓意画などが著名であるが、宗教画や風俗画、田園画、風景画のほか、当時流行していたシノワズリ(中国趣味)やオリエンタリズムなど多彩なジャンルを描いた。ブーシェの手がける作品の甘美な世界観や豊麗な官能性は(当時の)一部の知識人・教養人などから「堕落的」との批判を受けたものの、画家の作風は多様なロココ様式の発展に大きく貢献した。 |
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左はルーブル美術館・『水浴のディアナ』。右の作品は『』、「ソファーに横たわる裸婦(黄金のオダリスク、『マリー=ルイーズ・オミュルフィの肖像』、『黄金のオダリスク、金髪のオダリスク』)(1751)、『水浴のディアナ』(1742)ルーヴル美術館、『レダと白鳥』(ソマリア発行) |
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プーシェ・『水浴のディアナ』(ルーヴル美術館の本物) |
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■『レダと白鳥』は、ギリシア神話の主神ゼウスが白鳥に変身し、スパルタ王ティンダリオスの妻であるレダを誘惑したというエピソードをもとにした、西洋の彫刻や絵画などにおける題材。ギリシア神話では、レダは夫であるティンダリオスの子で英雄のカストル、後のミュケナイ王アガメムノーンの妃となったクリュタイムネーストラーとともに、ゼウスの子であるトロイア戦争の原因となった絶世の美女ヘレネ、英雄ポリュデウケスも産んだとされている。多くの芸術家が独自の『レダと白鳥』を描いている。 |
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プーシェ・『水浴のディアナ』、『』、『バード・キャチャー』、『マリー=ルイーズ・オミュルフィ』 |
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フランソワ・ブーシェ作『褐色のオダリスク』ルーヴル美術館(拡大○) |
フランソワ・ブーシェ作『レダと白鳥』、 |
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横たわる(少女の)裸婦を描いた作品として、ルーヴル美術館が所蔵する『褐色のオダリスク』が知られているが、こちらは18世紀に流行した異国的趣味が色濃く反映されている。 |
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フランソワ・ブーシェ作『』、『レダと白鳥』 |
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■下のシートは、ロココのフランソワ・ブーシェ画『ヴィーナスの化粧』(メトロポリタン美術館)。シート地にブーシェの自画像と、『マリー=ルイーズ・オミュルフィ』(アルテ・ピナコテーク)、『水浴のディアナ』『アイネイアスのために造った武器をウェヌスへ贈るウルカヌス』(ともにルーヴル美術館)です。 |
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プーシュ(拡大○)サントメプリンシペ 2009年 |
ルイ・デュシス(フランス 1775-1847,louis ducis) |
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『サン=クルー宮のテラスでのナポレオンと甥たち』 |
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ジャン・オノレ・フラゴナール(Fragonard) |
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ジャン・オノレ・フラゴナール(Fragonard)は、ルイ15世やその寵姫であったポンパドール夫人の庇護を得て1760〜70年代に大活躍をしました。彼の最高傑作でもあり、ロココ絵画の名画と言われているのが『ぶらんこ』です。1732〜1806年 (南仏・グラースに生まれる) |
フラゴナール |
フラゴナール画『ロザリ・フラゴナール』と『ピエロ姿の子供』 |
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ウィリアム・ホガース(William Hogarth) |
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ウィリアム・ホガース(William Hogarth)は18世紀イギリスにおいて同国の絵画の近代化を進めた創始的存在の画家兼版画家。社会的な風俗的主題の中に痛烈な風刺精神を組み込み、独自の道徳的風俗画様式を確立。写実的描写を用いた現実感を顕著に感じさせる場面表現と、人間の内面的・表裏的性格を感じさせる風俗画の連作は、高い人気を博した。 |
『グラハム家の子供達』(ドバイ) |
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ウィリアム・ホガース |
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ティエポロ Tiepolo |
ジャンバティスタ・ティエポロ(父)Giambattista Tiepolo 1696-1770 Venezia-Madrid ジャンドメニコ・ティエポロ(子)Giandomenico Tiepolo 1727-1804 の二人ともイタリアの画家。18世紀イタリア絵画における最大の巨匠。ヴェネツィア派最後の巨匠としても知られる。非常に軽快で優美な筆触と透明感に溢れる明瞭な色彩による、壮麗で輝きに満ちた独自の作風で出生地のヴェネツィアは元よりドイツ、スペインなど諸外国まで、その名声を轟かす。また幻想性や創造性にも優れており、建築的遠近法や仰視法を巧みに使用した空間構成による、画家が生涯手がけた数多くの連作的大装飾壁画は、18世紀の絵画作品の中でも傑出した完成度と芸術性が示されている。バロック的な躍動感とロロコ的な優美な装飾性を兼ね備えていた画風。 |
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『Sarah and Angel』 |
『ゴールドフィンチの聖母』 |
ティエポロの『聖フィリポ・ネリに現れた聖母子』(拡大○) |
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ティエポロ (Goldfinch) |
ティエポロ |
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『Christ Driving the Money Changers from the Temple』 |
ティエポロ |
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ティエポロ |
■『東方三博士の礼拝』はヴュルツブルク司教館の装飾画を制作する為に訪れていたドイツ滞在時に、シュヴァルツアッハの修道院の祭壇画として制作された作品である。ヴュルツブルク司教館はフレスコで制作されたものの、同地は高湿度のために夏季しか装飾制作をおこなうことができず、ティエポロはそれ以外の季節(秋〜冬)に油彩画を数点手がけおり、本作はその中でも特に代表作に数えられる1点である。アルテ・ピナコテーク |
『東方三博士の礼拝 (Adorazione dei Magi)』(クック、1984年) |
『東方三博士の礼拝 (Adorazione dei Magi)』(ガーナ、1973年) |
ティエポロ 『マンドリンを持つ若い娘 (Girl with Mandolin)』 デトロイト美術館、『リナルドとアルミーダの驚き』、 |
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■『リナルドとアルミーダの驚き』(は、魔女アルミーダが将軍リナルドの話)、リナルドの二人の仲間(右側の恋人たちの身を守る朽ち果てた神殿の二本の柱の間に描かれている)が、甲冑をつけたままアルミードの美貌に溺れるリナルドの姿を見つけた瞬間を選んで描いている。 プーシュも描く題材。 |
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■『マンドリンを持つ若い娘』(デトロイト美術館)は、17世紀頃から使用されていた無花果や洋梨を縦割りにした胴形が特徴的なイタリア発祥の撥弦楽器≪マンドリン≫を調弦する若い女性の半身像を描いた作品。描かれる若い娘は、観る者のやや上方に視線を向けながら左手でマンドリンの糸巻を回しながら調弦をおこなっている。その艶かしく魅惑的な視線や赤味の差す健康的な頬などはティエポロ独特の軽やかな筆触によって繊細に描写されており、非常に整った顔立ちと共に観る者を強く惹きつける。 |
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シャルダン (Jean-Baptiste Simeon Chardin) |
『洗濯する女』(ソ連、1971年) |
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ジャン・シメオン・シャルダン(Jean-Baptiste Simeon Chardin、1699年11月2日 - 1779年12月6日)は、ロココ時代のフランスの画家。18世紀を目前にした1699年パリに生まれ、フランス革命前夜の1779年、同じくパリで没した。ロココ美術全盛の18世紀フランスを生き抜いた画家であるが、その作風は甘美で享楽的なロココ様式とは一線を画し、穏やかな画風で中産階級のつつましい生活や静物画を描き続けた。 |
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『裁縫する女』(シャルダン) |
万国郵便連合100年(アメリカ、1974年) |
『封印』(フランス、1946年) |
『静物画』(シャルダン,フランス) |
トマス・ゲインズバラ(Gainsborough,Thomas) |
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ゲインズバラ(Gainsborough,Thomas、1727-88)はイギリスの肖像画家で、画風はフランスのロココ様式を 継承しています。人物画より風景画が多い。ゲインズバラは本当は風景画を描きたかったが、18世紀のイギリスでは、肖像画の需要が高かった。イギリス貴族を描き、名声を得た。彼の描く肖像画は、気品にあふれ、人気があり、流行を生んだ。 |
万国郵便連合100年 |
『青い服の貴婦人(Woman in Blue)』 Thomas Gainsborough |
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ゲインズバラ |
ゲインズバラ |
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「グレース・エリオット 夫人」 |
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ポンピオ バトーニ(Pompeo Batoni (1708-1787)) |
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BATONI, Pompeo (b. 1708, Lucca, d. 1787, Roma) |
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Pompeo Batoni (1708-1787) Rococo |
Pompeo Batoni (1708-1787) Rococo |
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セバスティアーノ・リッチ( Sebastiano Ricci) |
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■セバスティアーノ・リッチ( Sebastiano Ricci 1659-1734 | イタリア | 18世紀ヴェネツィア派) 1659年、ヴェネツィアのベッルーノに生まれ、ヴェネツィアで修行時代を過ごした後、パルマのファルネーゼ公に見出されてボローニャ、パルマ、ピアチェンツァなどエミリア・ロマーニャ地方で画家生活を送る。1680年代半ばから当時の芸術の中心都市であったローマへと旅立ち同地でアンニーバレ・カラッチやピエトロ・ダ・コルトーナ、ルカ・ジョルダーノなどの作品に触れ大いに刺激を受ける。1697年、故郷ヴェネツィア戻り画家として確固たる地位を築き同地の絵画界に認められた存在となる。 イタリア、ウィーン、ロンドンで活躍、後年はヴェネツィアで制作した。甥のマルコも画家で、共同制作もしている。 |
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『バッカスとアリアドーネ Bacchus and Ariadne』(拡大○) |
セバスティアーノ・リッチ『スザンナと長老たち (Susanna e i vecchioni)』、『ヴィーナスとサテュロス(Venus and
Satyr)』ほか(拡大○) |
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セバスティアーノ・リッチ ブダペスト国立西洋美術館 |
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セバスティアーノ・リッチは、17世紀末から18世紀前半まで活躍したヴェネツィア派の画家。17世紀前半のイタリア絵画の主流表現であった激しい運動性と劇的な場面展開の中に、ルネサンスの栄光への回顧的な古典的観念を取り入れ、当時のヴェネツィア絵画に新風を起こす。特に主題への新鮮な観点からの取り組みや華麗で豊潤な色彩表現はヴェネツィアのロココ絵画の先駆的存在となり、後にティエポロを始めとした多くの画家たちへ影響を与えた。国際的な名声を博し欧州各地を巡りパトロン(注文主)の意向に沿った作品を手がけていた為、現存する作品は宗教画や神話画、歴史画などが大半を占める。 |
セバスティアーノ・リッチ 『Medor and Angelica』 |
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ジョージ・ロムニー(George Romney) |
ミケーレ・ロッカ(Michele Rocca) |
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ジョージ・ロムニー(George Romney 1734〜1802) イギリスの画家。肖像画を得意とした。当時は同時代のトマス・ゲインズバラやジョシュア・レノルズと並び称された著名な画家。 |
ミケーレ・ロッカ(Michele Rocca、1666-1751)。ミケーレ・ロッカは、1666年頃にパルマで生まれたと考えられているイタリア人画家です。 |
ミケーレ・ロッカ 『旧約聖書』のSamsonとSamsonの髪を切って裏切った愛人デリラ(delilah) |
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『ダヴェンポルト婦人の肖像』 |
ロムニー 『ウィロビー嬢』 |
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ロンドンの社交界で公娼、また絵画のモデルとして知られていたエマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton,1765− 1815、後にホレイシオウ・ネルソン提督の愛人)の魔法に魅入られた期間、ロムニーは長年の夢であった歴史的・文学的主題の絵を描き始めた。 |
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アントワーヌ・ヴァトー (Antoine Watteau) |
『道化師』(フランス、1956年) |
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アントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau, 1684年10月10日 - 1721年7月18日)は、ロココ時代のフランスの画家。18世紀のヨーロッパはロココの時代であり、前世紀のバロック様式に代わって、曲線的、装飾的で甘美なロココ様式が全盛となった。絵画の主題においても歴史画や宗教画から、男女の愛の駆け引きを主題にした風俗画が目立つようになる。「雅びな宴」(フェート・ギャラント)の画家と呼ばれるヴァトーは、若くして亡くなったが、18世紀フランスのロココ様式を代表する画家と見なされている。 |
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ヴァトー |
ヴァトー 『道化師(ジル)』 |
『ラ・フィネット(悪戯好きな小娘、デリケートな音楽家) |
『ラ・フィネット(悪戯好きな小娘、デリケートな音楽家)』 |
アントワーヌ・ヴァトー随一の傑作『ピエロ(ジル)』。本作は喜劇などで滑稽な格好をし人を笑わせる役者のほか、無言劇(パントマイム)での演者(ゆったりとした白布の衣装は無言劇演者の衣装の定型とされる)も指す≪ピエロ≫を描いた作品で、モデルは当時ピエロ役で名を馳せた喜劇役者ベローニだと考えられている(イタリア喜劇ではピエロ役を務める者をジル(Gilles)と呼称する)。 |
アントワーヌ・ヴァトー画 『』 |
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ヴァトー 『座った貴婦人』(ソ連) |
ヴァトー 『ポーランドの女性』 |
ヴァトーの典型的な作品 『シテール島の巡礼』 |
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ヴァトーの典型的な作品は、『シテール島の巡礼』のような、田園に集い愛を語り合う若い男女の群れを描いたもので、これらは「雅びな宴」の絵と呼ばれた。『シテール島の巡礼』(1717年)(ルーヴル美術館およびベルリン、シャルロッテンブルク城):愛する男女はシテール島へ向けて舟に乗り込もうとしているところなのか、それともこの愛の島を離れるところなのだろうか。 |
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スウェーデンのロココ美術 |
左から香壷(1765年頃)、婦人像(1740年頃)、銀製のコーヒーポット(1764年頃)、 |
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アレッサンドロ・アッローリ |
アーニョロ・ディ・コジモ |
■アーニョロ・ブロンズィーノ(Agnolo Bronzino, 1503年11月17日 − 1572年11月23日)は、マニエリスム期のイタリアフィレンツェの画家。本名はアーニョロ・ディ・コジモ・ディ・マリアーノ・トーリ(Agnolo di Cosimo)。ブロンズィーノという愛称は、恐らく彼の髪の色であった「青銅」色を意味するイタリア語”ブロンゾ”に由来する。メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の宮廷画家として活躍する。「愛の勝利の寓意」に代表される画風は、極めて知的・技巧的で洗練された美しさに満ちている。また、肖像画にも多数の優れた作品を残している。 |
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『スザンナと長老たち』 |
コジモ 『フィリスとデモフォ』 |
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■アレッサンドロ・アッローリ Alessandro di Cristofano di Lorenzo del Bronzino Allori (3 May 1535 - 22 September 1607) was an Italian portrait painter of the late Mannerist Florentine school. Born in Florence, in 1540, after the death of his father, he was brought up and trained in art by a close friend, often referred to as his 'uncle', the mannerist painter Agnolo Bronzino, whose name he sometimes assumed in his pictures. In some ways, Allori is the last of the line of prominent Florentine painters, of generally undiluted Tuscan artistic heritage: Andrea del Sarto worked with Fra Bartolomeo (as well as Leonardo da Vinci), Pontormo briefly worked under Andrea, and trained Bronzino, who trained Allori. Subsequent generations in the city would be strongly influenced by the tide of Baroque styles pre-eminent in other parts of Italy. |
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アンヌ・ルイ・ジロデ=トリオゾン |
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『第一執政ナポレオンの肖像』 |
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■アンヌ・ルイ・ジロデ=トリオゾン(Anne-Louis Girodet-Trioson1767〜1824)アンヌ・ルイ・ジロデ=トリオゾン(1767―1824)は、新古典主義を代表する画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子であるという点を除いては知名度が低いが、当時はナポレオンの寵愛を受け、またバルザックのような小説家達に賞賛され、ドラクロワなど次世代の画家達から敬愛されていた。 |
■ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte, 1769年8月15日 - 1821年5月5日 )は革命期フランスの軍人・政治家。フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(Napoleon
I, 在位:1804年 - 1814年、1815年)。コルシカ島出身。 |
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アントワーヌ=ジャングロ (Antoine-Jean Gros) |
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『皇帝フランツ2世との謁見』 |
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■バロンアントワーヌ = ジャングロ (1771年3月16日- 1835年6月25日)は、 ジャンとして知られるアントワーヌグロ 、新古典主義の 画家。右は自画像(Wikipedia参照)。 |
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マリー=ルイ=ジョルジュルジェ (Georges Rouget 、1783-1869) |
ニコラ・ド・ラルジリエール (Nicolas de Largillere 、1656-1746) |
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『ナポレオンの結婚』 |
『G.De Gueidan』 拡大○ |
ニコラ・ド・ラルジリエールは、17世紀後期から18世紀中期までのルイ14世、15世統治下のフランスで活躍した肖像画家。理想化された流麗で軽快な描写による洗練された肖像画を手がけ、当時最も成功した肖像画家として名を馳せる。特に花などの小物を巧みに活かし、豪奢でありながら愛らしさと官能性が混在する色彩豊かな女性の肖像画は、画家随一の得意分野として認められている。 |
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神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の長女の大公妃マリールイーザ(オーストリア)、とフランス・ナポレオン皇帝の結婚。皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。 |
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Henri Felix Emmanuel Philippoteaux (1815-1884) |
コラード・ギアクイント Corrado Giacquinto |
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『リヴォリの戦い』 |
『聖母子』(マルタ、2009) |
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■Henri Felix Emmanuel Philippoteaux (1815-1884)は、フランスの画家。リヴォリの戦い (battle of rivoli、 1797年1月14〜15日)は、ナポレオンのフランス革命戦争の一部です。 |
■コラード・ギアクイント Corrado Giacquinto (Molfetta 1703 - Napoli 1766)、イタリアのロココの画家。 |
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Jean Raoux (1677-1734), French painter, was born at Montpellier. |
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手紙を読む若い女性(セネガル、1968年) |
After the usual course of training he became a member of the Academy in 1717 as an historical painter. His reputation had been previously established by the credit of decorations executed during his three years in Italy on the palace of Giustiniani Solini at Venice, and by some easel paintings, the Four Ages of Man (National Gallery), commissioned by the grand prior of Vendome. To this latter class of subject Raoux devoted himself, nor did he even paint portraits except in character. The list of his works is a long series of sets of the Seasons, of the Hours, of the Elements, or of those scenes of amusement and gallantry in the representation of which he was immeasurably surpassed by his younger rival Watteau. After his stay in England (1720) he lived much in the Temple, where he decorated several rooms. He died in Paris in 1734. His best pupils were Chevalier and Montdidier. His works, were much engraved by Poilly, Moyreau, Dupuis, etc. |
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ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome) |
新古典主義の画家 |
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■ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome, 1824年5月11日 - 1904年1月10日)はフランスの新古典主義の画家で彫刻家。 |
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ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Leon Gerome)の絵画 『The Bath』、『A Bath in the Harem Pool』、『Femme Nue』、『』 |
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掲載のロココ と18世紀のヴェネツィア絵画の主要な画家一覧: |
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当時のヴェネツィアは観光ブームで外人客が押し寄せていました。当時は観光名所の絵葉書などありませんから、カナレットとか、グァルディとか、マリエスキとか、ベッロットなどの風景画家が、このようなお金持ちの外人客の求めに応じて、景観画や奇想画(古代ローマの廃墟みたいなものと現実にある建物とを組み合わせたり、現実には存在しない奇岩を配したりして制作した、奇想に富んだ南国の風景画)を制作し、外国の貴族たちはこれらをイタリア土産として、喜んで買って帰ったわけです。こういう風にしてイタリア人も、自分の祖先が残した壮麗な文化遺産を、新たな目で見ることが出来るようになりました。この頃の景観画の中には、その地方に住んで働いている人々の姿が点景として描かれています。ヴェネツィアだけでなく、例えばナポリであればヴェズーヴィオ火山の素晴らしい風景の中に、網を引いている漁師や洗濯女など、様々な庶民の姿が前景に小さく現われて来てます。 |
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ピエトロ・ロンギ(Pietro Longhi) |
Oronzo tiso(1726-1800) |
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■ピエトロ・ロンギ ( 1701年 11月5日-1 785年5 月8日 )金細工職人の息子として生まれ、ヴェネツィア、ボローニャで絵を学びました。初期の頃には歴史画や宗教画も手掛けましたが、大規模な装飾画が求められた18世紀ヴェネツィアの画家たちの中ではあまり成功しなかったようです。しかし、40歳頃になってから風俗画に移り、日々の小さな出来事を比較的小さなカンヴァスに描くことで独自の分野を開拓したのです。 |
『聖母子』(ドミニカ、1974年) |
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カナレット(Canaletto) |
カナレット(Canaletto)、本名はジョヴァンニ・アントーニオ・カナール(Giovanni Antonio Canal、1697年10月7日 - 1768年4月19日)はヴェネツィア共和国の景観画家、版画家。都市景観画を得意とした。(サンマリノ、1971年) ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿の風景(ウフィツィ美術館)他 |
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ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(Johann Henry Fuseli) |
■ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(Johann Henry Fuseli, 1741年2月7日 - 1825年4月16日)は、イギリスで活躍したドイツ系スイス人の画家。牧師であった後に1768年にレノルズに奨励されて画家となったフュースリは、多大な称賛を受けたイギリスの画家であった。画家としてのフュースリーは、大胆かつ創意に富んでいて、常に最高のものを目指していた。彼は超自然を好み、万事を空想上の尺度に置き換えて、歴史を扱った絵ではある程度の誇張も当然だと思っていた彼は1800年にロイヤル・アカデミーの教授に就任する。作品制作に常に貪欲な彼は、シェイクスピアに感化を受けた作品が集められた画廊、ボイデル・ギャラリーの設立に参加している。 |
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その他美術関係の切手・写真(切手が主体) |
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■巨匠の絵画切手 [ ボッティチェッリ|ダ・ヴィンチ|ラファエロ|ミケランジェロ|デューラー|ティツィアーノ(チチアン)|ルーベンス|ベラスケス|アングル|エル・グレコ|レンブラント|カラヴァッジオ|フェルメール|ダイク|ドラクロワ|ゴヤ|ゴッホ(no.1|no.2)|ルノワール|マネとモネ|セザンヌ|ゴーギャン|マチス|ピカソ|ダリ|葛飾北斎|安藤広重|クリムト|シャガール|モディリアーニ|ミュシャ ] |
西洋美術切手 ロココ・新古典主義と18世紀のヴェネツィア絵画とイギリス絵画 |
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