西洋美術切手 ローマ帝国分裂以降の中世の絵画(ビザンティン・キリスト教・ロマネスク・ゴシック美術、ネーデルラント)
ローマ帝国が東西に分裂した4世紀末以降からルネサンス以前の絵画・15世紀以前の絵画・彫刻・美術工芸品切手を特集します。 本頁では4世紀末にローマ帝国が東西に分裂、コンスタンティノポリス(現在のトルコ領イスタンブル)を首都とする東ローマ帝国が誕生すると、東西の美術が混合したビザンティン美術が誕生する。東ヨーロッパでは、聖人の肖像が描かれた板画であるイコンや教会堂のモザイク画など、独特なキリスト教美術として発展した。西ヨーロッパでは西暦1000年を機に教会堂の復興が盛んになり、11世紀初頭から13世紀初頭にかけて、ロマネスク美術が修道院を中心に発展した。13世紀以降の美術はゴシック美術と呼ばれ、フランス中心にヨーロッパ各国で発展した。ロマネスク美術に比べ、より自然な人体表現などがなされるようになった。修道士などに代わり、専門の画家が誕生してきた。また、ステンドグラスが作られるようになったのはこの時期である。 ゴシック期や15世紀後半の初期ネーデルラント(オランダ、フランドル)絵画期の作品(ウェイデンなど)もルネサンスの時期と重複しますがこちらで掲載しています。
ページ外 [ 先史・原始|エジプト時代|ギリシャ時代|メソポタミア・中国(敦煌)|ローマ時代 ] |
||||||
美術・工芸切手 [ トップ|先史代|中世
|ルネサンス ( ア行〜タ行、ナ行〜ワ行、その他 )
|バロック|ロココ|
ロマン派、新古典とアカデミック絵画|写実主義
|印象派|象徴主義、耽美主義、ラファエル前派
|近代絵画|日本(画家|作品)
|ポップ(モダン)|故宮(絵画
|文物)
|世界の美術工芸品|仏教美術
|デザイン|浮世絵(1,2)|アジアの美術|メトロポリタン美術館(切手)|プラハ美術館(切手) |キリスト教絵画の見方
|美術用語集(備忘録)| ギリシア神話とローマ神話の神々(切手&写真) |
||||||
■中世の美術:4世紀末にローマ帝国が東西に分裂、コンスタンティノポリス(現在のトルコ領イスタンブル)を首都とする東ローマ帝国が誕生すると、東西の美術が混合したビザンティン美術が誕生する。東ローマ帝国のもと東ヨーロッパでは、聖人の肖像が描かれた板画であるイコンや教会堂のモザイク画など、独特なキリスト教美術として発展した。西ヨーロッパでは西暦1000年を機に教会堂の復興が盛んになり、11世紀初頭から13世紀初頭にかけて、素朴な信仰心に満ちた美術様式であるロマネスク美術が修道院を中心に発展した。この時期絵画は文字の読めない人々にキリスト教を教える役割も持っていた。13世紀以降の美術はゴシック美術と呼ばれ、フランス中心にヨーロッパ各国で発展した。ロマネスク美術に比べ、より自然な人体表現などがなされるようになった。修道士などに代わり、専門の画家が誕生してきた。また、ステンドグラスが作られるようになったのはこの時期である。 |
||||||
ゴシック期 |
||||||
Giotto(ジョット) |
■ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone, 1267年頃 - 1337年1月8日)は、ゴシック期のイタリアの画家、彫刻家、建築家。平面的・装飾的なビザンティン絵画の描写法から現実味ゆたかなルネサンス絵画への先鞭をつけた。ヴァザーリによる近代最初の画家という評価をはじめ、生前から一貫して巨匠としての名声を保っている。ジョットの絵画においては人物は背後の建物や風景との比例を考慮した自然な大きさで表わされている。こうした描写方法は当時の絵画界においては革新的なもので、こうした点からジョットは「西洋絵画の父」といわれている。 |
|||||
ジョット 『エジプトへの逃避』スクロヴェーニ礼拝堂(1305年頃) カメルーン 拡大○ |
ジョット『東方三博士の礼拝』スクロヴェーニ礼拝堂(1305年頃) カメルーン発行 |
1973年モナコで発行されたGiottoの絵画 |
||||
13世紀のローダ教会の絵画 |
ジョット 『キリストの磔刑』 |
ジョット 『聖母子』(ネヴィス) |
Giottoの絵画 『聖母子』ジョット |
|||
『キリスト磔刑』ストラスブール・ボザール美術館(1320年 - 1325年頃) |
ST.LUCIA -1977 - CHRISTMAS |
|||||
イタリア国鉄アッシジ駅から、公共バスに乗り、かなりの距離の山を上った中腹の細長い台地にアッシジは位置する。アッシジ旧市街中、聖フランチェスコ聖堂の下部聖堂には、彼の遺体が納められた石造りの棺が安置されている。上部聖堂には13−4世紀の巨匠ジョットの代表作である「聖フランチェスコの生涯」と題する壁画がある。 |
||||||
ジョット『祈り』 聖年 |
ジョット |
ジョット 『4人の天使、 |
■西洋絵画の祖ジョット・ディ・ボンドーネの傑作『荘厳の聖母(オニサンティの聖母)(Madonna in Maesta (Ognissanti
Madonna)) 』。元々はフィレンツェのオニサンティ聖堂の主祭壇画として制作された本作は、玉座に聖母マリアと幼子イエスを描き、その左右に複数人の聖人を配する祭壇画(宗教画)独特の図式≪聖会話≫を主題とする祭壇画の原型になった作品であると共に、西洋絵画の祖と称されるジョットを研究する上での基準作品ともなっており、西洋美術史上最も重要な作品のひとつとして広く認知されている。中央の玉座に描かれた荘厳な聖母マリアは、それまでの平面(様式)的に描かれることが通常であった聖母子像から、画家は劇的なまでに聖母と幼子イエスの内面性まで深く表現されている。1306-10年頃 325×204cm
| テンペラ・板 | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)ゴシック様式の美 |
|||
ジョット 『マグダラのマリア、我に触れるな』、『天使と神の選民(Elect)、最後の審判』 |
||||||
ジョット 『マエスタ(荘厳の聖母、オンニッサンティの聖母)』 |
ジョット 『マエスタ(荘厳の聖母)』 |
|||||
■16世紀後半の画家・伝記作家のジョルジョ・ヴァザーリはその著書で「それまでの洗練されていなかったビザンティン美術を徹底的に打ち壊し、現在見られるような現実味あふれる素晴らしい絵画をもたらした。200年以上にわたって忘れ去られていた絵画技術を現代に蘇らせた画家である」とジョットを絶賛している。 |
フィレンツェのジョットの鐘楼とドゥオーモのクーポラ |
ゴシック様式のジョットの鐘楼 |
||||
ベルナルド・ダッディ(Bernardo Daddi) |
||||||
ベルナルド・ダッディ 『聖母子』1335-40 バチカン絵画館 拡大 |
||||||
ベルナルド・ダッディ(Bernardo Daddi, 1280年頃 - 1348年)はルネサンス初期のイタリアの画家。ジョットの弟子。ロレンツェッティ(兄弟)らシエナ派からも影響を受けている。ダッディの名前が最初に記録に出てくるのは1312年のことで、宗教をモチーフとしたアルターピースが主な仕事だった。1328年に制作した三連祭壇画は現在ウフィツィ美術館にある。またナショナル・ギャラリー
(ワシントン)、ウォルターズ絵画館にもいくつかのパネル画がある。 |
||||||
ピエトロ・ロレンツェッティ |
ロレンツェッティ |
『Adoration of the Magi』 |
ロレンツェッティ 『聖母子』 |
|||
■ピエトロ・ロレンツェッティ(Pietro Lorenzetti or Pietro Laurati, 1280年頃 - 1348年)はイタリアのゴシック期のシエナ派の画家。代表作はシエナ大聖堂内サン・サヴィーノ礼拝堂のために描かれた祭壇画『聖母の誕生』。 |
||||||
チマブーエ(Cimabue, 1240年 - 1302年) |
チマブーエ(Cimabue, 1240年 - 1302年)はイタリア、ゴシック期のフィレンツェで活躍した画家。ジョットは彼の弟子と考えられている。西洋絵画が中世から近代へと歩み始める最初期に位置する画家として、美術史上に重要である。近代以前のイタリアの画家には、本名でなくもっぱら通称で呼ばれる者が多いが、チマブーエもその一人であり、本名はチェンニ・ディ・ペーポ(Cenni di Pepo)といった(「チマブーエ」は雄牛の頭の意)。 ルネサンスの祖。 |
|||||
チマブーエ 『聖母と天使たち』 1270頃 ルーヴル美術館 拡大○ |
■チマブーエの絵画には、金地の背景、正面性・左右相称性の強い構成、人物の図式的・平面的な配置のしかたなど、古代ギリシア様式を基礎にもつビザンティン美術の様式が、まだ色濃く残っている。しかし、中世絵画に比べると、人物の自然な表情、聖母の台座や衣服の表現にみられる空間表現への意識など、ルネサンス絵画への道を確実に歩み出していることが見て取れる。 |
■イタリア・ルネサンスの始まりはチマブーエあるいはその弟子ジョット(1276年? - 1337年)の絵画とされる場合も多い。しかし「人間性」を尊重した彫刻家ドナテッロと「線遠近法」を完成させた建築家フィリッポ・ブルネレスキの二人の特徴を絵画において融合させたマサッチオ(1401年 - 1428年)が始まりだとする見解もある。このことからドナテロ、ブルネレスキ、マサッチオは初期ルネッサンスの三大巨匠と呼ばれる。 |
||||
ステファン・ロホナー(Stefan Lochner) |
||||||
ロホナー『薔薇垣の聖母』 |
ステファン・ロホナー(Stefan Lochner , 1400年 - 1452年)はイタリア、ゴシック期の画家。 |
|||||
ケルン派(Cologne School 1510-20) ドイツ |
||||||
『聖母と子聖人』 |
『音楽を奏でる天使と聖母子』(Aachener Altares、1450 - 1520) |
『聖ジョンを伴う聖母子』 |
||||
ジョヴァンニ・ディ・パオロ・ディ・グラツィア(Giovanni di Paolo di Grazia) |
||||||
中世の祭壇画、Christmas Altarpiece,Metropolitan Museum |
■ジョヴァンニ・ディ・パオロ・ディ・グラツィア(Giovanni di Paolo di Grazia, 1399年 or 1403年 - 1482年)は、イタリアのシエナ派の画家。タッデーオ・ディ・バルトーロの徒弟をしていたようで、その後、たくさんの絵画、写本(ダンテを含む)の挿絵を描いた。また彼の後期の作品、とくに『最後の審判、天国と地獄』(1465年頃)と『聖母被昇天』(1475年)(ともにシエナ絵画館所蔵)は、高尚なテーマをグロテスクに処理している。パオロの評価は死後衰退したが、20世紀になって再評価された。 |
ルネサンス時代のジョヴァンニ・ディ・パオロ・ディ・グラツィア(Giovanni di Paolo di Grazia)の『天地創造と楽園追放』 |
||||
■シエナ派(イタリア語:Scuola senese、英語:Sienese School)は、ルネサンス期のイタリアにおいてシエナを中心に活動した画家群。
フィレンツェ派と較べると保守的で、後期ゴシック様式に傾倒した優雅で装飾的な画風が特色として挙げられる。その絵の中には、自然主義的なフィレンツェ派の絵とは異なる、神秘主義的な傾向が見受けられる。奇蹟を主な題材とし、時空は超現実的に歪曲し、それはしばしば夢のようで、彩色も非現実的。 |
||||||
ロレンツォ・モナコ(Lorenzo Monaco) |
ロレンツォ・モナコ 『モンテオルヴェートのトリプティク』 |
|||||
■ロレンツォ・モナコ(Lorenzo Monaco, 1370年頃 - 1425年)本名ピエロ・ディ・ジョヴァンニ(Piero di Giovanni)は、イタリア、フィレンツェの画家。 |
||||||
ロレンツォ・モナコ 『聖母戴冠』の祭壇画(1414年)サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のためのもの。 ウフィツィ美術館参考資料より転載 |
||||||
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(Duccio di Buoninsegna) |
||||||
ブオニンセーニャ 『玉座の聖母子と六天使(ルチェライの聖母)』 ウフィツィ美術館参考資料より転載 |
||||||
■ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(Duccio di Buoninsegna, 1255/1260年頃 - 1319年頃)は、ゴシック期のイタリアの画家。13世紀末〜14世紀初頭にシエナで活動した。その様式はビザンティン絵画を基盤としながらも、人間描写や空間把握は現実感を増している。チマブーエ、ジョットとともにゴシックとルネサンスの橋渡しをした、西洋絵画史上重要な画家の一人である。代表作としてはフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂にあった『ルチェライの聖母』と通称される『聖母子と六天使』(1285年、ウフィツィ美術館蔵)及びシエナ大聖堂のために制作された『マエスタ(荘厳の聖母)』(1308
- 1311年)がある。『ルチェライの聖母子』は、長らくチマブーエの作とされていたものである。 |
||||||
ライン川派(Rhenish school、circa 14世紀) ドイツ |
1340年 |
|||||
『Annunciation』 |
『Nativity』 |
『Adoration of the Kings』 |
『Presentation at the Temple』 |
|||
■「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。 |
||||||
北方ルネサンス |
||||||
■北方ルネサンス(蘭: Noordelijke renaissance、英: Northern Renaissance)は、狭義には北ヨーロッパでのルネサンス運動を指し、広義ではイタリア以外でのヨーロッパにおけるルネサンス運動全体を指す美術史用語。北方ルネサンスは16世紀の宗教改革と密接に関係している。対国内、対国外ともにプロテスタントとローマ・カトリック教会との長期にわたる対立が、ネーデルラントなどのルネサンス運動に影響を与え続けた。 |
||||||
初期のフランドル絵画 |
(オランダ絵画、ネーデルラント絵画) |
|||||
■初期フランドルは、初期ネーデルラント派、15世紀から16世紀初頭にかけてフランドル地方、特にブルッヘ、ヘントといった都市で活動した芸術家たちとその作品の意味で、初期フランドル派は時期的にはイタリアの初期・盛期ルネサンスとほぼ合致する。だが作風は、ほとんどが何らかの宗教的な意味合いを持ったものか、小さな肖像画であり、イタリアでよく描かれたギリシア・ローマ神話をモチーフとした物語風の絵画はほとんど見られなかった。初期フランドル派は北ヨーロッパ中世美術の集大成とルネサンス理念からの影響の両方を融合させたもので、美術様式としてはルネサンス、ゴシック両方にカテゴライズされている。 みなマリア様のご尊顔が似ていると思いませんか? |
ロベルト・カンピン(Robert Campin(1375-1444)) |
|||||
『サラマンカから来た少女マリー』 |
■ロベルト・カンピン(フレマールの画家) Robert Campin (MASTER of Flemalle):初期ネーデルランド絵画における革新者のひとり。また初期ネーデルランド絵画の創始者的存在であるヤン・ファン・エイク同様、油彩による着色方法を使用した最初期の画家のひとりでもある。弟子にはロヒール・ファン・デル・ウェイデンなどを従え、後世の初期ネーデルランド絵画を代表する画家を輩出した。 |
|||||
ディルク・ボウツ (dirk bouts) |
||||||
■ルーヴェンの画家―ディルク・ボウツ Dirk(Dieric) Bouts/BOUTS, Dieric the Younger 1415頃-75年、オランダ地区のハーレム生まれ。1440年代半ばにルーウ゛ェンを拠点に活動。1448年頃にカトリーヌ・ヴァン・ブルッヘンと結婚。ヴァン・マンデルは『画家列伝』のなかでボウツのことを「ハールレム出身のディルク」「ルーヴェン出身のディルク」と二つの異なった名称で書いてしまっている。ボウツの前半生についてはほとんど分かっていないが、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンに大きな影響を受けており、ウェイデンの弟子だった可能性もある。 ボウツの最初の作品といわれるのは1445年の日付が入っているプラド美術館所蔵の『幼児キリストの三連祭壇画 (Infancy Triptych)』である。スペイングラナダの王室礼拝堂にある『十字架降架の祭壇画 (Deposition Altarpiece)』もこの時期、1450年から1460年ごろに描かれたと考えられている。ボウツは北ヨーロッパで最初に遠近法における消失点を表現した画家の一人で、それは1464年から1467年の作品『最後の晩餐』で見ることが出来る。 |
ディルク・ボウツ 『聖母子』 |
ディルク・ボウツ 祭壇画 |
||||
ディルク・ボウツ 『』 |
ディルク・ボウツ 『』 |
ディルク・ボウツ 『髑髏を持つ男』 |
||||
ハンス・メムリンク(Hans Memling) |
||||||
■ハンス・メムリンク(Hans Memling)は15世紀後半の初期ネーデルラント絵画期にブリュッヘ(現ブリュッセル)地方で活躍した画家。初期ネーデルラント絵画伝統である細密な線描を用いた写実性の高い描写に、温和な甘美性や独特の華奢な人物構造を携える表現でブリュッヘを代表する画家となる。ファン・エイクの影響が感じられる宗教画のほか、寄進者像を中心とした肖像画にも優れたものが残っている。代表作の一つに『聖女ウルスラの聖遺物箱』がある。 |
||||||
『聖母子と寄進者 |
『東方三博士の礼拝』 ハンス・メムリンク(Hans Memling) |
『キリスト降誕』 ハンス・メムリンク(Hans Memling) |
||||
マールテン・ファン・ニーウウェンホーフェの肖像 1487 ブルッヘ、メムリンク美術館、『林檎を持つ聖母子』を寄進した人。 |
Adoration of the Magi |
|||||
『東方三博士の礼拝』 ハンス・メムリンク(Hans Memling) ザイール |
『聖母子』(セントヴィンセント) ハンス・メムリンク(Hans Memling) |
|||||
『東方三博士の礼拝』 ハンス・メムリンク(Hans Memling)クック諸島 |
ハンス・メムリンク |
ハンス・メムリンク 『聖母子』 |
||||
ハンス・メムリンク(Hans Memling、(1430/35-94)) |
『聖母子』(カナダ) ハンス・メムリンク(Hans Memling) |
ハンス・メムリンク 『林檎を持つ聖母子』、フランス、2005年 |
||||
『東方三博士の礼拝』 |
聖母子・『ジャン・デュ・セリエの二連祭壇画』(左翼) |
|||||
ハンス・メムリンクの聖母子 |
ハンス・メムリンクの聖母子 |
『林檎を持つ聖母』(Hans Memling 、ベルギー、1961年) メムリンク美術館 |
||||
《聖カタリーナの神秘の結婚》の一部分 |
■初期ネーデルランド絵画伝統画法と優美で色彩豊かな表現が組み合わされたメムリンクの作品は当時の人々のみならず、19世紀ロマン主義者やヴィクトリア朝の画家たちをも魅了した。 |
|||||
『林檎を持つ聖母子』 (Hans Memling 、クック諸島) |
『聖家族』 |
■『林檎を持つ聖母』は、マーティン・ファン・ニーベンホーベに依頼された二枚の肖像画の妹を描いた絵です。この出で立ちといい頭から放つ神々しさはまるで聖母子像ですね。聖母の後ろのステンドグラスを見ると、左側にファン・ニーウェンホーフェ家の紋章が描かれ、右側の窓には聖ゲオルギウスと聖クリストフォロスの像が認められます。聖母の差し出すリンゴを受け取ろうとしています。リンゴは、アダムとエヴァが犯した原罪の象徴です。それを受け取るということは、将来の救世主としての使命を受け入れたことを暗示しているのです。 |
『聖母子と天使』 ハムメスリンク (Hans Memling 、クック諸島) |
|||
クエンティン・マセイス(Quentin Massys,1465- 1530) |
||||||
マセイス 『キリストの磔刑』 |
マセイス 『両替商とその妻』(オートボルタ) |
|||||
パリ、ルーヴル美術館 |
■クエンティン・マセイス. Quentin Massys / Matsys/ Metsys /Quinten Metsys (1465-1530).
|
|||||
ヤコポ・ディ・チョーネ(Jacopo di Cione,フィレンツェ、1325 -1399) |
||||||
ヤコポ・ディ・チョーネ |
■Jacopo di Cione (c. 1325 - after 1390) was an Italian painter. |
ヤコポ・ディ・チョーネ |
ヤコポ・ディ・チョーネ工房 『キリストの幼児の物語』(拡大○) |
|||
ヤン・ファン・エイク(Jan Van Eyck, 1387年 - 1441年) |
||||||
■ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck)、神の手をもつ男と称えられたほど卓越した技量を持った15世紀ネーデルラント絵画の創始者。画家としての修行暦は不明。乾性油と樹脂・うすめ液を用い、それまでおこなわれていた油彩画法を改良し、細密な描写と鮮やかな着彩法を確立。ルネサンスにも劣らない革新をもたらした。ヤン・ファン・エイクの傑作『アルノルフィーニ夫婦』。モデルはイタリア出身の銀行家で、フィリップ善良公に仕えたジョヴァンニ・アルノルフィーニと、その婚約者ジョヴァンナ・チェナーミ。二人の結婚の立会い者として、画家自身が中央の鏡の中に描かれている本作は、ネーデルラント(現ベルギー)で描かれた当初から名画として名声を博し、オーストリア(ハプスブルグ家)やスペインを経由した後、現在の所蔵先である英国へと渡った。 |
||||||
『宰相ニコラ・ロランの聖母』 (カメルーン,ルーブル美術館) |
『宰相ロランの聖母』(FUJIEIRA) (オータンの聖母子) |
『受胎告知(Annunciation)』|ヤン・ファン・エイク |
||||
受胎告知(1434-1436)(ナショナル・ギャラリー (ワシントン)) |
||||||
『アルノルフィーニ夫婦』 |
||||||
■『宰相ロランの聖母』(さいしょうロランのせいぼ(蘭: De Maagd van kanselier Rolin、仏: La Vierge du chancelier Rolin)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1435年ごろに描いた絵画。パネルに油彩で描かれ、現在パリのルーブル美術館に所蔵されている。 |
||||||
ヤン・ファン・エイクの絵画 『宰相ニコラ・ロランの聖母』(ルーブル美術館, 1434年頃) |
天使ガブリエル |
|||||
|
受胎告知 (ヤン・ファン・エイク) |
|||||
■ヤン・ファン・エイクの傑作『アルノルフィーニ夫婦』。モデルはイタリア出身の銀行家で、フィリップ善良公に仕えたジョヴァンニ・アルノルフィーニと、その婚約者ジョヴァンナ・チェナーミ。二人の結婚の立会い者として、画家自身が中央の鏡の中に描かれている本作は、ネーデルランド(現ベルギー)で描かれた当初から名画として名声を博し、オーストリア(ハプスブルグ家)やスペインを経由した後、現在の所蔵先である英国へと渡った。主題については、妊娠説、占い説など当時より諸説唱えられていたが、1960年代に、ドイツ人学者によって、ジョヴァンニ・アルノルフィーニとジョヴァンナ・チェナーミの婚礼の秘儀を描いたものと発表されてからは、この説が最も有力視されている。 |
『宰相ニコラ・ロランの聖母』 |
ヤン・ファン・エイク |
||||
『泉の聖母』 |
||||||
アントワープ 王立美術館 |
||||||
■『ヘントの祭壇画またはゲントの祭壇画(Ghent Altarpiece)』、または『神秘の子羊の礼拝(英語Adoration of the
Mystic Lamb, オランダ語:Het Lam Gods)』 かつてはベルギーのヘントにあるシント・バーフ大聖堂(聖バボ聖堂)Joost
Vijdt礼拝堂にあった。 中央の大きなパネルに描かれているのは、神の子羊の崇拝である。崇拝にやってきた人々が四方に列を作っている。その上空には鳩(聖霊)が光を放っている。子羊を取り囲んでいるのは14人の天使たち。手前では、生命の泉が噴き出、宝石を敷き詰めた小川に清水を流している。 |
||||||
ヤン・ファン・エイク 『ヘントの祭壇画(ゲントの祭壇画)』 |
『マルガレータ・ファン・エイクの肖像』 ヤン・ファン・エイク |
|||||
■15世紀ネーデルランド絵画の代表する作品となった傑作『ヘントの祭壇画(ゲントの祭壇画、The Ghent Altarpiece)』。主題は開扉時下段中央に描かれている≪子羊の礼拝≫だが、上段部分、閉扉時部分に見られる細心綿密な写実描写など本作には特筆すべき点が多い。本祭壇画の開扉時下段中央に描かれている主題≪子羊の礼拝≫。ヨハネの黙示録に記される『諸聖徒日(天上諸聖徒と殉教者を祭る11月1日)』の場面を描いたとされる。 真紅の衣を纏い装飾的な玉座に座る、信仰・崇拝・儀礼・神話・教義などの中心となる位格・存在、キリスト教においての超越的絶対者の父なる神や、典型衣装とも云うべき濃紺の衣をまとう聖なる神の教典を読む聖母マリア、神の審判が迫ることを説き、人々に悔い改めの証として洗礼を施した、洗礼者聖ヨハネの描写は現実性を強く感じさせるほど、写実的描写を用いて描かれている。 |
ターバンを巻く男 エイク |
『青い帽子の男』 エイク |
||||
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden) |
■ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden)[1400-1464]は、ヤン・ファン・エイクと並ぶ初期フランドル派の代表的画家だが、ファン・エイクと違って署名や年記のある作品は知られず、その生涯にも不明な点が多い。北方絵画の常として、彼の絵画も徹底した写実表現が基礎になっている。登場人物の身振りや表情に、激しい宗教的感情があらわになっているところが、ウェイデンの作風の特色である。祭壇画の大作のはか、肖像画にも優れたものがある。 |
|||||
『キリストの磔刑(Crucifixion Diptych)』、パラグアイ |
Portrait of Philip the Good |
『聖書を持つ聖母子』 |
ウェイデン |
|||
『聖母子(Virgin and Child (Duran Madonna))』 |
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン |
|||||
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの様式は同時代最大の巨匠ヤン・ファン・エイクに比べ写実性は劣るも、それを補って余るほどの深い精神性を携えた。彫塑的人物表現や既に時代遅れとなっていたゴシック的表現を組み合わせ独自の世界観を示し、晩年期には曲線を多様した悲観的表現によって高い支持を得た。またヒューホ・ヴァン・デル・フースやハンス・メムリンクなど後世に活躍する画家を育てるほか、15世紀の初期ネーデルラント絵画の画家の多くがウェイデンの様式の規範とした。 |
『聖母子』(Rogier van der Weyden、ベルギー、1961年) |
イエメン発行のウェイデン絵画 |
||||
|
||||||
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン 『受胎告知(Annunciation)』 |
『聖母子(St Columba Altarpiece)』 ウェイデン(グレナダ) |
ウェイデン 『イースター』(グレナダ) |
||||
受胎告知(三連画中央パネル)1432−35頃 ルーヴル美術館と似ています。大天使ガブリエルと聖母マリア。ウェイデン 『十字架降架』(ベルギー) |
||||||
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン|『キリストの磔刑』 ウィーン美術史美術館 |
『Nativity、ブラデリンの祭壇画(ミッデルブルクの祭壇画)』ウェイデン(クック諸島,1974年)(拡大○) |
|||||
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの絵画(ベルギー) |
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン『キリストの哀悼』 |
|||||
キリストの埋葬 (Entombment of Christ) |
||||||
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの絵画(ベルギー) |
||||||
『聖母を描く聖ルカ』(1435年 - 1440年頃)|ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden、1399年 - 1464年) ボストン美術館 |
Christ Blessing, 1481|ハンス・メムリンク(Hans Memling, 1430年/1440年頃 - 1494年) ボストン美術館 |
|||||
その他のその時代の画家 |
||||||
ヒエロニムス・ボス |
||||||
■ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)は、ルネサンス期のネーデルラント(フランドル)の画家。 |
ヤン・ホッサールト・マビューズ |
|||||
ヒエロニムス・ボス 『聖母子』 |
||||||
フーホー・ヴァン・デル・フース(Hugo van der Goes) |
ヤン・ゴッサールト、通称マビューズ Jan Gossaert (1478頃〜1532) |
|||||
『楽園のアダムとイヴ』 |
■ヒューホー・ファン・デル・フース. Hugo van der Goes (1436-82). フランドル 初期フランドル. ネーデルランド。画家の師であったウェイデンとは一線を画す象徴性と表現性の高い独自の様式を確立。画家としての生い立ちの詳細は特定が難しいが、1467年ヘントの画家組合に登録し、翌年には国際的環境の整ったブルッヘでも活躍。 |
『聖母子』 ミクロネシア |
マビューズ 『アダムとイヴ』 |
|||
フアンデフランドル (Juan de Flandes (1460-1519) )(ジョンフランダース)はスペイン人で初期のオランダの画家。 |
ジャン・エイ(Jean Hey / Jean Hay、1475年頃から画家として活動 - 1505頃死去)、初期フランドル派の画家。 |
|||||
フアンデフランドル 『カナ(Cana)の結婚式』 |
『ピエール2世 (ブルボン公)』 |
|||||
イエス様がカナの結婚式で水を葡萄酒に変えた主イエスの奇跡物語の事。 |
ジャン・エイ(Jean Hey / Jean Hay、1475年頃から画家として活動 - 1505頃死去)は初期フランドル派の画家。「ムーランの画家(Maitre de Moulins)」として知られていた画家と同一人物だと考えられている。フランスとブルゴーニュ公国で活動し、ブルボン公爵家の宮廷人だった。 |
|||||
コルネリス・ファン・ハールレム |
||||||
ハールレム 『バテシバの入浴(Bathsheba in her Bath)』 |
ハールレム 『旧約聖書、ロトと彼の娘達』、ソドムとゴモラ DIX |
(国連、1981年) |
||||
■古代イスラエルのダビデ王は水浴をする人妻バテシバを一目見て恋に落ち、夫である将軍ウリヤを戦地に送り戦死させ、自らの妻にしてしまいます。神がそのことを善しとせず、ダビデ王の子どもの命を次つぎと奪います。悔い改めたダビデ王は退位し、バテシバとの第2子ソロモンに王位を譲るという話です。『旧約聖書』 |
13世紀ブルガリアのフレスコ画 |
|||||
■ロト(Lot)は『旧約聖書』の登場人物。『創世記』11章後半から14章、および19章に登場する。父はテラの息子ハランであり、ロトはアブラハムの甥にあたる。また、『新約聖書』では義人として紹介されている(『ペトロの手紙二』2:7-8)。後に、天使がソドムに派遣され、ヤハヴェ(エホバ)がソドムとゴモラを滅ぼすことを決定したことをロトに伝える。そこでロトは夜が明ける前にロトの妻(エシェット・ロット)と2人の娘を伴ってソドムを脱出し、近隣の都市ツォアル(ベラ)へと向かう。逃げる際に「後ろを振り返ってはいけない」と指示されていたが、ロトの妻は後ろを振り返ってしまい、「塩の柱」(ネツィヴ・メラー)となる。その後、彼らは山中の洞窟に移住したが、ここで娘たちは父を酔わせ、父によって男子を1人ずつ生んだ。長女の息子は「モアブ(父親より)」と名付けられモアブ人の祖となり、また、次女の息子は「ベン・アミ(私の肉親の子)」と名付けられ後にアンモンの人々の祖となった。 |
||||||
シュヴァーベン派(Swabian School 15世紀) ドイツ |
アントウェルペン派(Antwerp School 15世紀) オランダ |
|||||
『キリスト降誕』 クリックで拡大 |
『東方の3博士の礼拝』 |
『聖母子』(Master of the gold brocade) クリックで拡大 |
||||
■シュヴァーベン(標準ドイツ語:Schwaben, アレマン語:Schwobe(シュヴォーベ))は、ドイツ南西部の地域。日本語では「シュワーベン」と音写される場合もある。17世紀には、神秘主義的傾向をもつルター派の一派敬虔主義運動の中心地となった。 |
||||||
■アントウェルペン派:アントワープ王立美術アカデミー(Koninklijke Academie voor Schone Kunsten van Antwerpen) は、ベルギーのアントワープにある美術学校。1663年にDavid Teniers the Youngerによって創立され、ローマ(1588年)、パリ(1648年)に続く美術アカデミーの中でも最も古く伝統のある学校の1つ。ここから輩出された人物たちやベルギーを拠点にするデザイナーなどがアントワープ派と呼ばれることがある。ピーテル・パウル・ルーベンス。 |
||||||
■巨匠の絵画切手 [ ボッティチェッリ|ダ・ヴィンチ|ラファエロ|ミケランジェロ|デューラー|ティツィアーノ|ルーベンス|ベラスケス|アングル|エル・グレコ|レンブラント|カラヴァッジオ|フェルメール|ダイク|ドラクロワ|ゴヤ|ゴッホ(no.1|no.2)|ルノワール|マネとモネ|セザンヌ|ゴーギャン|マチス|ピカソ|ダリ|葛飾北斎|安藤広重|クリムト|シャガール|モディリアーニ|ミュシャ ] |
||||||
■掲載の主要な画家一覧:Giotto(ジョット)、ピエトロ・ロレンツェッティ 、チマブーエ(Cimabue)、ステファン・ロホナー、ジョヴァンニ・ディ・パオロ・ディ・グラツィア、ロレンツォ・モナコ(Lorenzo Monaco)、ロベルト・カンピン(Robert Campin)、ピエトロ・ロレンツェッティ、ハンス・メムリンク(Hans Memling)、ディルク・ボウツ (dirk bouts)、ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden)、ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)、クエンティン・マセイス、ヤコポ・ディ・チョーネ、フーホー・ヴァン・デル・フース、ヤン・ゴッサールト(通称マビューズ )、コルネリス・ファン・ハールレム、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(Duccio di Buoninsegna)、ベルナルド・ダッディ(Bernardo Daddi) 他 |
||||||
■建造物切手の索引 [ ステンドグラスとモザイク |神仏・寺院・教会 ] |
||||||
西洋美術切手 ローマ帝国分裂以降の中世の絵画 |
|||