西洋美術切手 ルネサンス(産業革命)の絵画・彫刻 画家(ア行〜タ行)
ルネッサンス(ルネサンス)とは、『文芸復興』と訳されるが、本来『再生』を意味するように、人間の全精神の核心を意味し、中世の教権主義的なカトリック教会封建的な豪族諸侯との結託からなる旧秩序に対抗して、イタリアの知識的な商工市民階級が、十字軍の結果や皇帝党対法王党の葛藤などに起因する都市の隆盛に伴って次第に勃興し、『人間の再生』を目指して展開した人間生活の種々の面における革新運動と、その成果に対して、この概念が与えられている。 この新興市民階級は、長く忘れられていたローマや古代ギリシアの古代社会に彼らと共通する理想を見出し古代文化に憧れ、それに追従することによって『人間の解放』を達成しようとした。 この運動はまずフィレンツェを中心に展開され、イタリアの諸都市に及び、一般に、15世紀末-16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。ネーデルラント(ベルギー・オランダやその周辺)
は中世以前の頁で、同時期のスペインのエル・グレコはロココに、イタリア・ドイツの有名画家のボッティチェリ、ダヴィンチ、ラファエロ、デューラーは別の頁に分離しました。 この時期の絵画は、キリスト教を中心とした宗教画が多いです。
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フラ・アンジェリコ |
フラ・アンジェリコ(Fra Angelico, 1387年 - 1455年)はイタリア、フィレンツェの農村地方に生まれた。『アンジェリコ』という呼び名は彼の死後になってからつけられた名で、その敬虔で愛らしい人柄から彼を『天使のような(アンジェリコ)』と記述していたことからこの名が普及する。つい最近、1982年になってフラ・アンジェリコはローマ教皇ヨハネ・パウロ二世によって正式に『福者』に列せられた。 彼の二十歳以前の経歴は資料がなくあまり知られていないが、1417年には画家としての活動を始め、1425年に修道士となり宗教書の写本装飾師として活動している。 後期ゴシック様式の作風に影響を受けて出発しているが、それにとどまらず、マザッチオやマゾリーニから市民的新芸術を、レオン・バッティスタ・アルベルティの新しい透視図法にも影響を受けている。 フラ・アンジェリコは『受胎告知』をはじめとして、多くの天使の絵を残した。 |
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1973年モナコで発行された |
フラ・アンジェリコの『受胎告知』の一部(大天使ガブリエルの部分)。 |
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バチカン市国 サン・マルコ僧院内のフレスコ画 |
スペイン(1956年) |
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フラ・アンジェリコ 『聖母子』 (セントルシア、1977年) |
『聖母子』(グレナダ・グレナディーン、1977年) |
フラ・アンジェリコ死去500年でバチカン市国で発行 |
フラ・アンジェリコ |
フラ(ベアート)・アンジェリコ 『受胎告知』 |
フラ・アンジェリコ |
フラ・アンジェリコ 『聖母子と天使たち、跪拝する聖ドメニコとアレキサンドリアの聖カタリナ』 |
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バチカン絵画館 拡大○ |
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フラ・アンジェリコ死去500年でイタリアで発行 |
『キリストの哀悼 (THE DEPOSITION FROM THE CROSS)』(1992年)サンマルコ美術館 |
アンジェリコ『キリストの降誕』(チャド、1972年) |
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サン・マルコ美術館 |
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コレッジョ(Antonio Allegri da Correggio)1489-1534 |
コレッジョ(Antonio Allegri da Correggio) マニエリスム 生涯の大半を北イタリアのパルマで過ごし、生前からコレッジョは画家として高く評価された。パルマのサンタントニオ聖堂の祭壇画として描かれた『聖ヒエロニムスのいる聖母』(1527−1528年)は、聖母、幼児キリスト、マグダラのマリア、天使らの甘美な表情のなかに宗教的崇高さをも表現した代表作である。 マニエリスト。 |
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『聖母子と幼児聖ヨハネ』、『聖母子(カンポリの聖母)』モデナ, エステ美術館、『幼児イエスを礼拝する聖母』ウフィツィ美術館、『かごの聖母 (Madonna della cesta)』ロンドン・ナショナル・ギャラリー 他(ベトナム) コレッジョ |
『聖母子と智天使(聖母子と奏楽天使)』(グレナダ・グレナディーン)フィレンツェ, ウフィツィ美術館 |
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■コレッジョの『ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな) (Noli me tangere)』、『東方三博士の礼拝』、『聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス』(右端) 他 4世紀の聖女カタリナの婚姻的体験を描く≪聖カタリナの神秘の結婚≫を描いた作品であるが、その背景では聖セバスティアヌスが、その身に矢を受ける有名な場面≪聖セバスティアヌスの殉教≫が描かれるなど、主題が2つ存在している。 |
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ラオスで発行されたコレッジョの絵画 『ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな) (Noli me tangere)』、『羊飼いの礼拝』ミラノ ブレラ美術館、『4聖人』メトロポリタン美術館、『』、『聖カタリナの神秘の結婚と3聖人』ワシントン・ナショナル・ギャラリー 、『聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス(Nozze mistiche di santa Caterina, con san Sebastiano)』ルーヴル美術館 |
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■名作『聖カタリナの神秘の結婚と聖セバスティアヌス』は、4世紀の聖女カタリナの婚姻的体験を描く≪聖カタリナの神秘の結婚≫を描いた作品であるが、その背景では聖セバスティアヌスが、その身に矢を受ける有名な場面≪聖セバスティアヌスの殉教≫が描かれるている。これは、コレッジョが物語的意図を明確に示した初の作品とされている。幼子イエスと聖カタリナの婚姻を、静かに見つめる聖母マリアの姿の、暖かな光に包まれることによって輝きを放つ聖母の聖性と母性の表現は、コレッジョ作品の大きな見所のひとつである。 |
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コレッジョ『愛(母親と3人の子供』 (ハンガリー、1970年) |
コレッジョ『聖母子と智天使(聖母子と奏楽天使)』(ベニン、1982年) フィレンツェ, ウフィツィ美術館 |
コレッジョ 拡大○ |
コレッジョ 『幼子イエスを礼拝する聖母』 ウフィツィ美術館 |
■『聖母子と智天使(聖母子と奏楽天使)』:金色の光と雲に包まれる聖母子を中心に楽器を奏でる二天使が姿を現す構図を取っている本作は、ヴェネツィア派を思わせる光影の表現から、今世紀の初めまでティツィアーノの作品とされてきた。また本作は確かな典拠や資料を欠いているが、同時期に描かれたとされる一連の作品群との密接な関係性から、画家が18歳〜20歳の頃に描いたものとされ、マンテーニャやジョルジョーネの影響を受けていたコレッジョ初期の作風がよく示されている。イエスを静かに見つめた母性を感じさせる聖母マリアの表現も特筆すべき点であるが、聖母の胸の上で結ばれるヴェールの薄く透明で繊細な質感と、さらにその上から覆われる濃紺のマントの対比的な表現が見事である。また画面右部分で楽器を奏でる智天使は、神学者たちによって分けられた天使九階級の中で、第二階級(上級三隊)の位置に在し、ヘブライ語源では『知識』や『仲裁する者』を意味する智天使(ケルビム)。また旧約聖書の創世記にはエデンの園の東の入り口を、炎の剣を持ち守るとされ、神の姿を見ることができる存在とされる。 |
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ラオス発行・コレッジョ 『聖ゲオルギウスの聖母』 |
ソマリア(2004年)・コレッジョ 神話画(下段で解説) |
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■ラオス発行のシート:玉座の聖母子にて制作された祭壇画、マニエリスムの画家コレッジョ作『聖ゲオルギウスの聖母』。主題は作品からわかるように青いヴェールとマントを纏い、赤の衣を身につけた聖母マリアとキリスト、聖人たちを画面に配する≪聖家族≫で、モデナにあるサン・ピエトロ・マルティーレ聖堂のために制作された。 ドイツ,ドレスデン,アルテ・マイスター絵画館 |
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コレッジョ『十字架降下 (Deposizione)』パルマ国立美術館 |
『聖母子』(コレッジョ) |
コレッジョ『幼児イエスを礼拝する聖母』 フィレンツェ, ウフィツィ美術館 |
『幼児イエスを礼拝する聖母』(クック諸島、1974年)(拡大○) |
コレッジョ 『4聖人』 |
『ダナエ』 コレッジョ |
■『聖カタリナの神秘の結婚』とは、カタリナが聖母マリアに抱かれた幼き姿のイエスに婚姻の指輪を与えられる場面を指し、カタリナとイエスの精神的な深いつながりを示し、ルネサンス以降はよく描かれた主題である。また本作にはイエスとの婚姻的体験を持つとされる4世紀の聖女、アレクサンドリアのカタリナが描かれているがシエナでは、アレクサンドリアのカタリナと同様に、イエスとの婚姻的体験を持つとされるシエナ出身で守護聖人でもある聖カタリナ(1347-1378)がよく描かれ、その姿は修道女のいでたちで、手には十字架と百合を持ち、悪魔を踏みつけている。 |
コレッジョ 『聖カタリナの神秘の結婚(Nozze mistiche di santa Caterina)』 |
ボルゲーゼ美術館 |
ナポリ, |
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コレッジョの |
コレッジョの |
■コレッジョの『聖母子(カンポリの聖母)』:名家カンポリ家が1894年まで所有していたことから≪カンポリの聖母≫と呼ばれているコレッジョ屈指の聖母子画『聖母子』。スフマート(ぼかし技法)など、これまでの作品同様レオナルド・ダ・ヴィンチの影響も見られるほか、聖母マリアと幼児イエスの丸みを帯びた柔らかい表現や、色調の優雅さなど、ラファエロから受けたであろう表現の影響も確認されている。 ロンドン・ナショナルギャラリー |
コレッジョ 写真 |
コレッジョ 『レダと白鳥』 (土候国MANAMA) 絵画館(ベルリン) |
コレッジョの |
コレッジョ 『羊飼いの礼拝 Nativity (Adoration of the Shepherds, or Holy Night (1528-30) 』、ドレスデン美術館 |
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ベルリン国立美術館 |
エルミタージュ美術館 |
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コレッジョの聖母子 (サンマリノ、1984年、クリスマス) |
コレッジョの『聖母子(カンポリの聖母)』 ロンドン・ナショナルギャラリー |
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■イタリア特別編 [ イタリアのトップ|ミラノ|ヴェローナ|ヴェネツィア|フィレンツェ( ドゥオーモ|ヴェッキオ橋|ウフィツィ美術館とアカデミア美術館 )|ローマ( コロッセウム|フォロ・ロマーノ )|バチカン市国( バチカン博物館|ラファエロの間|システィーナ礼拝堂 ) ] |
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ジョルジョーネ |
ジョルジョーネ(Giorgione/Giorgio Barbarelli da Castelfranco, 1478年頃 - 1510年)は、16世紀に活躍したヴェネツィア派の巨匠で、初期ルネサンス様式から逸脱し、盛期ルネサンス様式を確立した人物。主題や物語を伝えられるよう(記されるよう)ありのまま表現するよりも、その主題に潜む人物の内面や心象の表現、また風景の情緒的な描写に秀で、繊細かつ豊潤な色彩表現と共にジョルジョーネの表現様式はヴェネツィア派の画家を始め、後に活躍する画家たちに大きな影響を与えた。 |
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『聖母子』(ドミニカ,1976年) ジョルジョーネ |
『玉座の聖母子と聖リベラーレ、聖フランチェスコ』 (アンティグア,1974年) |
ジョルジョーネと協力者 『モーセの火の試練』 |
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ジョルジョーネ『テンペスト(嵐)』 (1504-07、アカデミア美術館) |
『羊飼いの礼拝(アレンデールの降誕)』 ジョルジョーネ(usa,1971年) |
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■ジョルジョーネが制作した祭壇画の代表作『玉座の聖母子と聖リベラーレ、聖フランチェスコ』。カステルフランコ・ヴェネト・サン・リベラーレ聖堂に置かれていることから『カステルフランコ祭壇画』として知られている。主題は祭壇画の典型であった玉座の聖母子に聖人を配した≪聖会話≫で、本作では聖堂の名称ともなっている同地の守護聖人リベラーレと、イタリアはアッシジ生まれの聖人フランチェスコが描かれた。 |
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アンドレア・デル・サルト Andrea del Sarto, |
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『Lamentation of Christ』 |
■アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto, 1486年 - 1531年)は、ルネサンス期のイタリアの画家。本名はアンドレア・ダニョーロ・ディ・フランチェスコ。イタリアのゴシック期、ルネサンス期の画家には、もっぱら通称で呼ばれる者が多いが、彼もその一人で、『アンドレア・デル・サルト』は『仕立て屋のアンドレア』の意である。ミケランジェロやラファエロらがローマで華々しく活躍していたのと同じころ、フィレンツェの美術の伝統を守っていた画家である。1486年、フィレンツェに生まれ、徒弟時代はフィレンツェ派の巨匠の一人であるピエロ・ディ・コジモに師事する。1518年から翌年にかけてフランス王フランソワ1世に招かれ、フォンテーヌブローへ赴いた。代表作である『アルピエ(ハルピュイア)の聖母』には、安定した三角形構図(中央の聖母の頭部と、両脇の聖人の頭部を結んだ線が三角形をなす)、甘美な色彩、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響が見られるスフマートsfumato(もやのかかったように表す描法/霧状効果)技法などの、アンドレアの画風の特色が見られる。アンドレアの弟子からはポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノなど、次世代のマニエリスム絵画を担う画家が出ている。結果として、ルネサンスとマニエリスムの橋渡し的な存在となった。 |
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アンドレア・デル・サルト 『アルピエ(ハルピュイア)の聖母』 (Madonna delle arpie) 1517 ウフィツィ美術館参考資料より転載 (拡大○) |
■『アルピエの聖母』。フィレンツェのサン・フランチェスコ・デ・マッチ聖堂の主祭壇画として制作された。2天使に支えられる聖母子を中心に、左に聖フランチェスコ、右に福音書記者聖ヨハネを配した≪聖会話≫を主題とし、18世紀初頭メディチ家の所蔵を経て、ウフィツィ美術館へ収蔵された経緯を持つ。画面左右に配される聖フランチェスコ、福音書記者聖ヨハネの表現は、豊かな人体表現を用いながらも、聖人としての神性も兼ね備えている。聖母子を中心に取られる、安定した三角形の構図は聖母子像の典型とされ、アンドレア・デル・サルトの描く殆どの聖母子像は、この構図が取られている。また聖母マリアのモデルは画家の妻とされている。 |
アンドレア・デル・サルト |
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ドメニコ・ギルランダイオ Domenico Ghirlandaio |
『老人と少年の肖像』 |
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『ジョバンナ・トルナブオーニ |
ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio, 1449年 - 1494年1月11日)は、ルネサンス期のイタリアの画家。15世紀後半のフィレンツェの人気画家であったギルランダイオの作品は宗教画が主であるが、その画面には当時のフィレンツェの実在の人物や日常生活が描き込まれ、宗教的な厳粛さよりは世俗性が勝っている。本名はドメニコ・ビゴルディ。イタリアのゴシック期、ルネサンス期の画家には、もっぱら通称で呼ばれる者が多いが、この画家もその一人で、『ドメニコ・ギルランダイオ』とは、『花飾りのドメニコ』の意である。サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のマリア伝壁画のうち、『マリアの誕生』の図がもっともよく知られている。ミケランジェロが若き日に師事したとも伝えられる。 |
An Old Man and His Grandson ルーヴル美術館 |
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ギルランダイオ フィイレンツェ捨て子養育院の『東方三博士の礼拝』 |
ギルランダイオ 『聖母子』 |
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ドメニコ・ギルランダイオ 『東方三博士の来訪』 MC |
ドメニコ・ギルランダイオ |
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イタリア、1976年 |
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ギルランダイオ |
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ドメニコ・ギルランダイオ画 『聖ヤコブと聖ペテロに囲まれた聖ステバノ』 フィレンツェ アカデミア美術館 実物 |
ドメニコ・ギルランダイオ 『聖母子』のキリスト |
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セバスティアーノ・マイナルディ(Sebastiano Mainardi) |
ドッソ・ドッシ(Dosso Dossi) |
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"Virgin and Child with St. John the Baptist and the Three Archangels, Raphael, Gabriel, and Michael" |
ドッシ 『聖家族』 |
■ドッソ・ドッシ(Dosso Dossi, 1490年頃 - 1542年)、本名ジョヴァンニ・ディ・ニッコロ・デ・ルテーリ(Giovanni di Niccolo de Luteri)はルネサンス期イタリアの画家。フェラーラ派に属する。1514年にはフェラーラ公の宮廷にいて、以後30年間、アルフォンソ1世・デステとエルコレ2世・デステに仕え、後には宮廷の主席画家にまでなった。ローマのラファエロの工房で修行した弟のバッティスタとは、よく一緒に仕事をした。 |
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■セバスティアーノ マイナルディ(Sebastiano Mainardi、San Gimignano, 1460 - Firenze, 1513) |
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アントニオ・デル・ポッライオーロ |
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『若い婦人の横顔』 . Domanico Veneziano 絵画館(ベルリン) |
■アントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiolo, 1429年/1433年1月17日 - 1498年2月4日)はルネサンス期イタリアの画家、彫刻家、版画家(エングレービング)、金細工師。また、エナメル技法に大きな貢献をした。アントニオ・デル・ポッライオーロはフィレンツェで生まれた。弟のピエロ・デル・ポッライオーロも画家で、よく一緒に仕事をした。2人の作品はともに古典主義の影響が見受けられ、また人体解剖学への関心の高さも示している。 1484年、アントニオはローマに居を構え、そこでローマ教皇シクストゥス4世の墓碑を制作した(完成は1493年)。 |
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アントニオ・デル・ポッライオーロ 『若い女性の肖像』(1465年頃) |
ピエロ・デル・ポッライオーロ『ある女性の肖像』ミラノ、ボルディ・ペッツォーリ美術館(1470年頃) |
アントニオ・デル・ポッライオーロ 『ヘラクレスとアンタエウス』 (1478年頃)ウフィツィ美術館 |
アントニオ・デル・ポッライオーロ 『ヘラクレスとヒュドラ』 (1475年頃)ウフィツィ美術館 |
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio) |
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ヴェロッキオ 『聖母子』 |
ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)は金工家として彫刻家として修行した。客観的な観察に基づく写実的な作風で、フィレンツェでも主要な彼の工房には若きレオナルド・ダ・ヴィンチやクレディなど優秀な弟子がいた。代表作『キリストの洗礼』はレオナルド・ダ・ヴィンチとの合作。確実な絵画作品は少ない。ボッティチェッリもヴェロッキオの元にはよく出入りしていた。 |
ヴェロッキオ工房 『幼子キリストを礼拝する聖母』 拡大○ |
ヴェロッキオとダ・ヴィンチ 『キリストの洗礼』 ウフィツィ美術館 |
拡大○ |
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マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grunewald) |
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マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grunewald)は、デューラーと並びドイツ・ルネサンスを代表する画家の一人。 マティアス・グリューネヴァルトの苦悩に満ちたリアリズムで、ゴシックは幕を閉じる。デューラーと同世代であるが、デューラーがイタリア・ルネサンスの影響を強く受けていることに対し、グリューネヴァルトの様式には、それが見られない。フランス、アルザス地方コルマールのウンターリンデン美術館にある『イーゼンハイム祭壇画』においては、はっきりと、ゲルマン的造形を見ることができる。雪のように透き通る聖母子の肌の白さから、聖母の雪の奇蹟の祭壇画と称される、シュトゥパハ教区聖堂の祭壇画中央部分『シュトゥパハの聖母子』。 |
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『シュトゥパハの聖母子(Stuppach Madonna)』 |
■『イーゼンハイム祭壇画』(Isenheimer Alter)1512-1515年頃、この作品は、イーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂にあったものであり、修道会の守護聖人聖アントニウスの木像を安置する彩色木彫祭壇である。第1面の中央パネルは十字架上のキリストの左右に聖母マリア、マグダラのマリア、使徒ヨハネ、洗礼者ヨハネなどを配したもの。左パネルには聖セバスティアヌス、右パネルには聖アントニウスの像を表わし、プレデッラにはピエタを表わす。聖セバスティアヌスはペスト患者の守護神であり、聖アントニウスは『聖アントニウスの火』というライ麦から発生する病気の患者の守護神である。シュトゥパハの聖母子(Stuppach Madonna)はこの祭壇画に描かれている。雪のように透き通る聖母子の肌の白さから、「聖母の雪の奇蹟の祭壇画」と称される。 |
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グリューネヴァルトの名称は17世紀J・フォン・サンドラルトが誤伝し定着したもの。宮廷画家を務めるなど高い功績を残していたが、弟子の名が残っていないことや、ドイツ・ルネサンスの主流作品のひとつであった版画を制作していなかったこともあり、没後は忘れられた存在となったが、メランヒトンはデューラーに次ぐ巨匠と高い評価をした。 |
『聖家族』、『東方の三博士の礼拝』、『受胎告知(The Annunciation)』 |
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50fは聖セバスチャンの画家、100fはUlrich Apt兄弟 ダホメー、1967年 |
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『シュトゥパハの聖母子(Stuppach Madonna)』 |
『ピエタ(The Lamentation)』、『イーゼンハイム祭壇図の部分:キリストの復活(The Resurrection)』 |
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ロレンツォ・ディ・クレディ(Lorenzo di Credi 1459〜1537) |
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『羊飼いの礼拝』・クレディ |
『聖母子』 |
『聖家族』 |
『祈り』(グリューネヴァルト) |
画家、彫刻家。 |
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■ロレンツォ・ディ・クレディ(Lorenzo di Credi, 1459年頃 - 1537年1月12日)は、イタリアの画家、彫刻家。レオナルド・ダ・ヴィンチに影響を与え、後には、反対にダ・ヴィンチから影響を受けた。クレディの初期の作品の中には、ウフィッツィ美術館にある『受胎告知』、トリノのサバウダ美術館にある『聖母子』、ヴェネツィアのクェリーニ・スタンパーリアにある『幼子の崇拝』がある。もう少し後の時代の作品では、ルーヴル美術館の『聖者たちと聖母』(1493年)、ウフィッツィ美術館の『幼子の崇拝』といったものがある。フィエーゾレでは、サン・ドメニコ修道院祭壇のフラ・アンジェリコのパネルの一部を作り直した。ゲッチンゲン美術館の『キリスト磔刑』、イギリス、ケンブリッジの『受胎告知』、ピストイアの『聖者たちと聖母』は、クレディの円熟期の作品で、フラ・バルトロメオ、ペルジーノ、若きラファエロの影響が強い。 |
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ルーカス・クラナッハ(父) |
クラナッハはドイツの画家。クラナハ、クラーナハとも表記される。デューラー、ホルバインとともにドイツ16世紀絵画を代表する三大画家の一人。美人画(ビーナス、ユディト、ルクレチアなど)や、マルチン・ルターの友人として宗教改革運動のためにの改革者肖像画、聖書の木版画を多く残した。神話画に描かれるヴィーナスにエロティックな表現を用いるなどイタリア・ルネサンスの影響が見られ、ウィーン時代に形成されたクラナッハ独特の背景描写は、ドナウ派に強い影響を与えた。独特の官能美をかもし出している。 |
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『Portrait of a Woman』 |
クラナッハ |
『Judith with the Head of Holofernes』 |
『ヴィーナス』(パラグアイ発行) |
(1532年、フランクフルト、 シュテーデル美術館) |
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『マルガレーテ・ルター(マルチン・ルターの母)の肖像画』、『Young Mother with Child』, |
クラナッハ |
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宗教改革 |
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ルーカス・クラナッハ |
クラナッハの『ピエタ(Pieta)』 ヴァチカン絵画館 |
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■ルーカス・クラナッハが芸術家として最初に製作した絵画は1504年のものである。 1508年以前に、彼はアルブレヒト・デューラーやハンス・ブルクマイアーらと競いながら、ヴィッテンベルクにあるCastle Churchの数多くの祭壇画を描いていた。 ヴィッテンベルクに工房を構え、当地の領主ザクセン選帝侯フリードリヒ3世に御用絵師として仕えた。 |
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クラナッハ 『ヴィーナス Venus : 1532 』(赤道ギニア) |
クラナッハの『葡萄の聖母子』 |
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■『葡萄の聖母子』の絵ではブドウはほんの少ししか見えませんが、新約聖書の『ヨハネによる福音書』15章では、イエス・キリスト自身が『わたしはまことの葡萄の木』と明言していることからイエス自身のシンボルでありワインが聖体拝領や最後の晩餐の食卓には欠かせないものであったことから『キリストの受難』の象徴でもあると思います。 |
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クラナッハ 『風景の中のヴィーナス』ルーヴル美術館、『パリスの審判』、『ヴィーナス』(マラウィ発行) |
クラナッハ 『ヴィーナスとキューピッド(Venus and Cupid )』、『ウェヌスとアモル』、『アダムとイヴ』 |
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ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)肖像画 |
クラナッハ 『ヴィーナスとキューピッド(Venus and Cupid )』 |
クラナッハ 『アレクサンドリアの聖カテリナ』 |
クラナッハ 『ユディト(ある婦人の肖像)』(エルミタージュ美術館) |
ルーカス・クラナッハ(父)『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』 1530年代 油彩、板 |
ルーカス・クラナッハ(父) |
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■『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』 は『The ハプスブルグ』で見ました。 サロメの肌の色が透き通るほど綺麗で、恐ろしい事をしたにも関わらず笑顔が美しい絵でした。顔の肌色・頬の赤み、被り物の緋色、服(腕とスカート)の深緑、豪奢なアクセサリーのオレンジ色。とにかく綺麗。 サロメ(Salome )は、1世紀頃の古代パレスチナに実在したとされる女性。義理の父は古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス、実母はその妃ヘロディア。古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』や、『新約聖書』の『福音書』などに伝わる。イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めた人物として、キリスト教世界では古くから名が知られ、その異常性などから多くの芸術作品のモティーフとなってきた。(画像は、国立新美術館サイトより) |
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ヴィットーレ・カルパッチョ |
ヴィットーレ・カルパッチョ(Vittore Carpaccio, 1455年頃 - 1525年頃)はイタリア、ヴェネツィア派の画家で、同じくヴェネツィア派のベッリーニに師事した。風景描写に優れる。カルパッチョはとりわけ、『聖ウルスラ物語』として知られる、9枚の絵画よりなる連作で著名である。1490年に着手されたサントルソラ同信会館の連作で自己の画風を確立。 |
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この作品がヴィットーレ・カルパッチョが作成した |
『聖ウルスラ物語(伝)』 ヴィトーレ・カルパッチョ Vittore Carpaccio |
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■『聖ウルスラ伝』 ヴィトーレ・カルパッチョ Vittore Carpaccio は、ヴェネツィアのアカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)にある絵巻物のような大作品。初期キリスト教の伝説的な聖人として黄金伝説を典拠とする≪聖ウルスラ伝≫を描いたもので、描かれた9作品全てがカルパッチョ直筆とされる。 |
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『schiavoni shore』 |
『St. Mark's Square |
フェラーラ派の影響を思わせる柔軟な光彩の描写のほか、遠近法によって描かれる精密な空間構造など、カルパッチョ独自の様式が示される。また細部にまで丹念に描かれる描写から、当時の生活を知ることのできる貴重な資料として重宝されている。聖ウルスラとはイギリス王の娘として生まれ、婚約者コノンと1万1000人の侍女を連れローマへ巡礼の旅に出るも、その帰路の途中、蛮族ケルンのフン族に襲われ殉教した初期キリスト教伝説の聖女である。なお『聖ウルスラ伝』の場面は≪イギリス大使の到着≫、≪出発の挨拶をおこなうイギリス大使≫、≪イギリス大使の帰国≫、≪巡礼への出発≫、≪巡礼者たちと教皇の会見≫、≪聖ウルスラの夢≫、≪ケルンへの到着≫、≪巡礼者たちの殉教と聖ウルスラの埋葬≫、≪聖ウルスラの称揚≫の9場面から構成されている。 |
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フランソワ・クルーエ |
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フランソワ・クルーエ (Clouet 、 1510年頃- 1572年12月22日)は、フランス・ルネサンス期のミニアチュール画家・画家。画家ジャン・クルーエの息子。特にフランス・ヴァロワ王家の肖像を多く描いたことで知られる。クルーエはトゥールで生まれた。彼の名前が分かる最も古い記録は1541年12月、王がフランソワのために父の所領を、外国の所領と見なして国家に没収したことからわかっている。 |
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ディアーヌ・ド・ポワティエ (1970年、ブータン、立体切手) |
『Guilluame Bude 1536』 |
ディアーヌ・ド・ポワティエ |
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ディアーヌ・ド・ポワティエ |
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ディアーヌ・ド・プワティエ (Diane de Poitiers, 1499年9月3日 - 1566年4月25日) はフランスの貴族女性。フランソワ1世とアンリ2世の親子2代のフランス王の時代に宮廷に出入りしたが、特にアンリ2世の愛妾として有名である。絵の題材((1571年)
ナショナル・ギャラリー、ワシントンDC)は、浴室に座る裸のディアーヌである。1559年、アンリが馬上試合で重傷を負うと、王妃カトリーヌ・ド・メディシスが支配権を握り、王への接見を制限した。 |
フランソワ・クルーエ 『フランソワ1世の肖像画』 のFDC |
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アルバーン(Francesco Albani) |
フランチェスコ・アルバーニ(Francesco Albani、1578〜1660)、通称アルバーンは、17世紀のボローニャ派のもっとも偉大な画家の一人で、ボローニャとローマで新しい古典主義を明確にした、カラッチの主な弟子たちの一人である。この新古典主義の波及した領域は広く、かつ持続的なものであった。特にフランスで、1658年、アルバーンは、グイド・レーニ、ル・ゲルシャン、ドミニカンとともに近代絵画の『四人の福音主義者』の一人と言われた。 |
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『The Holy Family with St. Elizabeth and St. John the Baptist』 アルバーニ |
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教会のフレスコ装飾や教会絵画の制作に携わったのは、アルバーンが小型の作品や、優雅な人物のいる調和のとれた風景などで名を馳せていたからである。こうした作品の中で、彼は個人的な詩的感性を生かし、神話や聖史などの壮大なテーマを描きだした。穏やかな光に包まれた、静謐なパノラマは牧歌的な古典主義の一つの伝統の源になり、彼の後、クロード・ロランに受け継がれていく。これらの作品は重要な評価を受けるが、19世紀に入るとほとんど関心が払われなくなる。 |
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マルティン・ションガウアー |
マーティン・ションガウアー ( 1450 -1491年 )は、ドイツの彫刻家、画家。ションガウアーは、アウグスブルク出身の金細工師の子で、画家であり最も優れた版画家の一人である。初期の修業については不明であるが、ロヘール・ファン・デル・ヴァイデンおよびその他のネーデルランドの画家の影響を受けて独自のスタイルを確立したことは確かである。彼の確かな絵画としては、1473年に制作した『バラ垣の聖母』(コルマール、サン・マルタン)のみである。 |
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受胎告知の天使 |
受胎告知 |
天使 ションガウアー |
キリスト降誕 |
カルロ・クリヴェッリ( Carlo Crivelli、1430頃-1495 ) |
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燕の聖母(Virgin and Child |
『ろうそくの聖母 (玉座の聖母子)』(ブルンジ) |
カルロ・クリヴェッリ |
カルロ・クリヴェッリ ( Carlo Crivelli, 1430-1495 ) |
(Madonna della candeletta (Madonna col Bambino in trono))、ブレラ美術館(ミラノ) |
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■カルロ・クリヴェッリ( Carlo Crivelli、1430頃-1495 )は、15世紀のヴェネツィアにおいて最も特異で独創的な存在の画家。当時最新の絵画理論であった遠近法やパトヴァ派・フェラーラ派に通ずる金属的で硬質な線描を用い、過剰にすら感じられる華やかで豪壮な装飾によって古典芸術を表現した。ヴェネツィア出身のカルロ・クリヴェッリは修行時代をヴィヴァリーニ一族の工房で過ごしパトヴァに移った後、おそらくは同地の大画家マンテーニャの影響を受けるも、私生活では人妻を誘拐して有罪となる。各地を放浪し1459年イストニア(旧ユーゴスラヴィア)のタザールに滞在、1468年から生涯を終えるまでマルケ地方で画業を営む。同地で画家の特異な才能が開花し、極めて悲観的で個性的な多翼祭壇画を多数制作し『多翼祭壇画の詩人』と呼ばれた。 古典主義的だが気品のあるフォルムは精緻を極め、聖人画ではあるが高貴なエロティシズムが画面に満ちている。 |
『受胎告知』 カルロ・クリヴェッリ |
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カルロ・クリヴェッリの絵は、切手ではなく実物を見ると凄く色彩もタッチもモデルも綺麗です。ただ、冷めた感じで物憂げな目が特徴です。 |
聖母子(1973年、ヴァージン諸島) |
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■『受胎告知』は聖母マリアが大天使ガブリエルより聖胎を宣告されるキリスト教で最も良く描かれた教義のひとつ≪受胎告知≫で、当時最新の絵画理論であった遠近法を大胆に起用し金属的で硬質な線描による狭い空間の中に配された、祈祷台で祈る聖母マリア、父なる神の意志を示す白い鳥に姿を変えた聖霊、聖胎を告げる大天使ガブリエル、大天使ガブリエルの隣でアスコリ・プチェーノ市の模型を持つ同市の守護聖人聖エミグディウスなどの登場人物に、カルロ・クリヴェッリの非常に個性的な特徴が良く示されている。 |
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カルロ・クリヴェッリ 拡大 |
『マグダラのマリア』 (Maria Maddalena) 1477年頃 拡大 |
『ろうそくの聖母(玉座の聖母子)Madonna della Candeletta』 拡大 |
カルロ・クリヴェッリ 『聖母』 |
アムステルダム国立美術館 |
カメリーノ大聖堂の多翼祭壇画 ブレラ美術館、ミラノ |
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『聖母子』カルロ・クリヴェッリ( Carlo Crivelli) バチカン |
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■『マグダラのマリア』は、主イエスの御足に香油を塗り自らの髪の毛でそれを拭ったとされる聖女で、姉マルタと共に主イエスが起こした弟ラザロの蘇生の奇蹟を目撃したマリアや、娼婦に身を堕とし石打の刑に処されるところを「あなた方の中で罪の無き者が最初に石を投げよ」とイエスの言葉によって救われた娼婦マリア、悪霊に憑かれた病を主イエスによって癒された「マグダラの女」などと混同される、≪マグダラのマリア≫の単身像。華やかで豪壮な装飾や、流麗で黄金色を多用した衣服・頭髪のほか、マグダラのマリアの聖女としての聖性や気高さを感じられる鋭謐的な表情の描写などに後期ゴシック的な特徴を示す古典技法を用いながら、カルロ・クリヴェッリの特徴である金属的で硬質な線描によって他の画家の作品からは見られない画家独特の表現が随所に示されている。主イエスの復活を目撃した最初の人物である逸話でも知られる。 |
『マドンナ・デッラ・ロンディネ(燕の聖母)』カルロ・クリヴェッリ 絵の左上に燕(ツバメ)が。(ロンドン、ナショナルギャラリー) 拡大 |
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『聖母子と四聖人(グロッターマーレ祭壇画)』 1481 |
『聖母子と四聖人(グロッターマーレ祭壇画)』 1481 |
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■マニエリスム (Mannerism) とはルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。 |
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ジョヴァンニ・バッティスタ・チーマ(Giovanni Battista Cima (1459-1517)) 別名 チーマ・ダ・コネリアーノ(Cima da Conegliano) |
ジョヴァンニ・バッティスタ・チーマ |
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『オレンジの木の聖母(Madonna of the Orange Tree)』 |
チーマ・ダ・コネリアーノ『聖母子』 ウフィツィ美術館 |
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Giovanni Battista Cima, also called Cima da Conegliano (c. 1459 - c. 1517)
was an Italian Renaissance painter. |
『聖母子』 1482 カルロ・クリヴェッリ( Carlo Crivelli) 拡大 |
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コズメ・トゥーラ( Cosimo Tura) |
ドナテッロ(Donatello) |
フィレンツェ・シニョリーア広場 |
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コズメ・トゥーラ( Cosimo Tura, 1430年頃 - 1495年)『聖母子』 |
■コズメ・トゥーラまたはコジモ・トゥーラ(Il Cosme or Cosme Tura, aka Cosimo Tura, 1430年頃 - 1495年)は、イタリア初期ルネサンス(またはクアトロチェント)の画家。フェラーラ派(School of Ferrara)を作った一人と考えられている。トゥーラはフェラーラで生まれた。パドヴァのフランチェスコ・スクァルチォーネの弟子となり、後にボルソ・デステならびにエルコレ1世・デステ両公の庇護を受けた。1460年にはフェラーラ宮廷から俸給を受けていた。 |
■ドナテッロ(Donatello, 1386年 - 1466年12月13日)は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェ生まれの彫刻家で、本名はドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ (Donato di Niccolo di Betto Bardi) 。写実的な表現を追求した。彼はデザインの技法に打こみ、きわめて稀有な彫刻家、優秀な彫像作家となったのみならず石膏細工の技巧に優れ、透視図法に精通し、そして建築においても高く評価された。また彼の作品は優美でデッサンに優れ、際だった美質をそなえていた。 拡大 |
ドナテッロ作(複製) 旧約聖書 「ユディットとホロフェルネス」像 |
ピエロ・ディ・コジモ |
フィレンツェ一の美女『シモネッタ・ヴェスプッチの肖像』 拡大 |
シモネッタ・ヴェスプッチの肖像 コンデ美術館 イエメン |
シモネッタ・ヴェスプッチの肖像 コンデ美術館 Manama |
シモネッタ・ヴェスプッチの肖像 コンデ美術館 パラグアイ |
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■ピエロ・ディ・コジモ(Piero di Cosimo,, 1462年頃 - 1521年)は、イタリア・ルネサンス期のフィレンツェで活動した画家。宗教画のほか、古代の神話などに想を得た幻想的な作品を多数残しており、イタリア盛期ルネサンスにおける異色の画家。ピエロは本名をピエロ・ディ・ロレンツォ(Piero
di Lorenzo)という。1462年頃フィレンツェに生まれ、画家コジモ・ロッセリのもとで修業した。ピエロ・ディ・コジモとの通称はこの師匠の名に由来する。ピエロの生涯については、ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』以外に確実な資料が少なく、不明な点が多い。 |
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コジモ・ロッセリ 『山上の垂訓』 システィーナ礼拝堂右側 バチカン博物館の書籍を参考 拡大 |
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1481年、ピエロは師のロッセリとともにバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画装飾に携わり、ロッセリが担当していた壁画『山上の垂訓』の背景部分を手伝ったという。画業の初期においてピエロはネーデルラントの画家ヒューホ・ファン・デル・フースの写実表現の影響を受けている。当時(1480年代初頭)、フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院付属聖堂にはファン・デル・フースの描いた『ポルティナーリの祭壇画』(現・ウフィツィ美術館蔵)があった。ファン・デル・フースの影響はピエロの作品のうち特に『羊飼いの礼拝』(ベルリン美術館)に顕著である。また、『シモネッタ・ヴェスプッチの肖像』などに見られるスフマート(ぼかし技法)にはレオナルド・ダ・ヴィンチの影響も指摘されている。 |
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コジモ・ロッセリ |
コジモ・ロッセリ |
コジモ・ロッセリ |
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ドメニコ・ヴェネツィアーノ(Domanico Veneziano) |
ジャンボローニャ(Giambologna) |
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聖ルチア祭壇画 ドメニコ・ヴェネツィアーノ 1445年頃 フレンツェ・ウフィツィ美術館 拡大 |
ジャンボローニャ(Giambologna) |
ジャンボローニャ(Giambologna、1529年 - 1608年8月13日)は、後期ルネサンスまたはマニエリスムの彫刻家。生まれたときの名前はジャン・ブローニュ
(Jean Boulogne)で、間違ってジョバンニ・ダ・ボローニャ (Giovanni da Bologna) またはジョバンニ・ボローニャ
(Giovanni Bologna)と称されることもある。 |
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■ドメニコ・ヴェネツィアーノ. Domanico Veneziano (活動期 1438-61). イタリア 初期ルネサンス. 主としてフィレンツェで活躍した15世紀イタリア画家。生涯についてはほとんど不明。中世の祭壇画はポリヴティク(多翼祭壇画)が多かったが、ルネサンスには聖人と聖母子が同一空間に描かれる単一パネルが好まれた。『サクラ・コンヴェルサツィオーネ(聖会話)』と呼ばれる形式です。この絵は単一とは言えアーチ列で3つに分かれている。トリプティク(三連祭壇画)とも見なされています。 |
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サセッタ(il Sassetta) ステーファノ・ディ・ジョヴァンニ(Stefano di Giovanni) |
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サセッタ、本名ステーファノ・ディ・ジョヴァンニ 『謙譲の聖母(ウルミタの聖母)』 バチカン絵画館 写真は拡大 |
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■サセッタ(il Sassetta、1392年 - 1450年 or 1451年)本名ステーファノ・ディ・ジョヴァンニ(Stefano di
Giovanni)はイタリアの画家。 |
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ベノッツォ・ゴッツォリ(Benozzo Gozzoli) |
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ベノッツォ・ゴッツォリ、本名ベネッツォ・ディ・レーゼ 『聖トマスに腰帯を手渡す聖母 |
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■ベノッツォ・ゴッツォリ(Benozzo Gozzoli, 1421年頃 - 1497年)は、フィレンツェ出身のイタリア・ルネサンスの画家。ゴッツォリの最も知られている作品は、メディチ・リカルディ宮にある連作の壁画である。フィレンツェのサン・マルコ修道院にあるいくつかの作品は、アンジェリコのデザインをゴッツォリが仕上げたものである。1444年から1447年にかけて、ロレンツォ&ヴィットリオ・ギベルティ親子と共同で、サン・ジョヴァンニ礼拝堂の楽園の扉を制作した。 1447年5月23日、ゴッツォリはアンジェリコと共に、ローマ教皇エウゲニウス4世の依頼で、バチカン宮殿礼拝堂の装飾をした。ゴッツォリの絵は、崇高さ・力強さの点で、同時代の巨匠たちの敵ではないかも知れない。しかし、それでも魅力的である。贅沢に生き生きと画面を賑わす人物たち・オブジェ。鳥や動物(とくに犬)などがひしめきあう背景は、どんな先達の作品より、バラエティ豊かで、魅惑的である。ゴッツォリの作品にぎっしり描きこまれた人物たちは、悲劇的な場面、騒乱する場面よりも、楽しそうにのびのびしている時の方が、より真に迫って見える。 |
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■マニエリスム (Manierismo;Mannerism) とはルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の『マニエラ(maniera:手法・様式)』に由来する言葉。 |
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ルネサンスのはじまりと各派の特徴 |
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■イタリア・ルネサンスの始まりはチマブーエあるいはその弟子ジオット(1276年? - 1337年)の絵画とされる場合も多い。しかし『人間性』を尊重した彫刻家ドナテッロと『線遠近法』を完成させた建築家フィリッポ・ブルネレスキの二人の特徴を絵画において融合させたマサッチオ(1401年
- 1428年)が始まりだとする見解もある。このことからドナテロ、ブルネレスキ、マサッチオは初期ルネッサンスの三大巨匠と呼ばれる。 |
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ヴェネティア派(Venetian School 15世紀) イタリア |
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『the visitation』 |
『Nativity』 |
『聖母子(1350年)』 |
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■ヴェネツィア派はルネサンス時代、特に15世紀後半から16世紀にかけてヴェネツィア共和国とその周辺で活躍した美術の流派。絵画、彫刻、建築など様々な分野でその特徴は見受けられるが、一般的には絵画の流派を指す。絵画においてはデッサンを重視したフィレンツェ派とは異なり、画面を色を使って構築し、流動的で詩的な雰囲気で人間の感覚に直接訴えかける効果を追求した。 |
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■巨匠の絵画切手 [ ボッティチェッリ|ダ・ヴィンチ|ラファエロ|ミケランジェロ|デューラー|ティツィアーノ|ルーベンス|ベラスケス|アングル|エル・グレコ|レンブラント|カラヴァッジオ|フェルメール|ダイク|ドラクロワ|ゴヤ|ゴッホ(no.1|no.2)|ルノワール|マネとモネ|セザンヌ|ゴーギャン|マチス|ピカソ|ダリ|葛飾北斎|安藤広重|クリムト|シャガール|モディリアーニ|ミュシャ ] |
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掲載のルネサンスの主要な画家・彫刻家一覧: |
西洋美術切手 ルネサンス(産業革命)の絵画・彫刻 画家(ア行〜タ行) |
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