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エカテリーナ宮殿
エカテリーナ宮殿は、サンクトペテルブルク中心部から南東25kmの郊外の避暑地サンクトペテルブルグ市プーシキン区(ツァールセコエ・セロー)に存在する、ロシア帝国時代のロココ建築の宮殿。
宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカチェリーナ1世(在位:1725年 - 1727年)に由来する。エカチェリーナがドイツの建築家Johann-Friedrich
Braunsteinを雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせたのが最初。
1791年、日本人の漂流民大黒屋光太夫(三重県鈴鹿出身)が帰国を願うため、エカチェリーナ2世(在位:1762年 - 1796年)に謁見した場所としても知られる。 中は金ピカ仕様で贅を尽くした作り。フランスのベルサイユ然り、郊外の城は権力を誇示する象徴だったのですね。
世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」:ロシアの都市サンクトペテルブルクの中心部およびその郊外の建造物を含み、バロック様式・新古典主義にロシア文化が融合したものとして特徴づけられる。ピョートル大帝宮殿と同じく壮麗なロココ建築のエカテリーナ宮殿とその周辺が対象。 |
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ご注意)写真は2017年05月に当方が撮影したものです。著作権は保持しています。
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エカテリーナ宮殿 外観・様式
エカテリーナ宮殿の全長325mに渡るファサードの装飾は見事であり、それ以上に長く見えます。 宮殿の周辺では、緑豊かな庭園に囲まれて、色鮮やかな建物はさながらテーマパークようです。
一度この場所を見た人は、必ずその美しさに息をのむと思います。 彫刻の繊細さ・色使いどれをとっても見事です。 類推するに、ロシア帝国はピョートル1世の死後、女帝と幼帝が続いたことも関係していると思います。
エカテリーナ宮殿の庭(エカテリーナ公園)では今まさにウエディングを挙げたカップルがいました。 大きな池の畔に、瀟洒な建物がありました。
エカテリーナ公園の池 |
今まさにウエディングを挙げたカップル |
トルコ戦勝利記念のパビリオン-トルコ風浴場 |
エカテリーナ宮殿の庭(エカテリーナ公園)内 洞窟パビリオン グロット(grotto) |
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中で、合唱団が素敵な歌声を聞かせてくれた。 |
■グロット(grotto)は、「庭園洞窟」と訳されるが,語源は「グロテスク」と同じである。庭園洞窟は,イタリア,ルネサンス末期からバロック期にかけて多く見られた庭園意匠の特徴の一つで,怪奇趣味を表現したものである。特に怪物庭園とも呼ばれているボマルツォ庭園のグロットは有名で,石造りの怪物の大きく開いた口がグロットとなっている。
エカテリーナ宮殿 内装や調度品
エカテリーナ宮殿の内部に入ってみましょう。これを自身の財力で収集したのかと思うと言葉が出ません。 ほとんどが金ぴか!床を汚さないよう、靴の上にスリッパを履いて宮殿内部へ。写真OKです。
余りにも掲載すべきものが多いので割愛しました。本来であればページ全体が金色に埋め尽くされるようです。
エカテリーナ宮殿 皇帝一家の食事の間、「白の主食堂」 天井画が素晴らしい |
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エカテリーナ宮殿 絵画の間 バロック・ロココ調の絵画が沢山壁に |
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エカテリーナ宮殿 絵画の間 金と陶磁の豪華さは目を見張る 寄木細工のような床です |
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こちらでも目も眩むほどの金・金・金・・・ 相当な財力だ エカテリーナ宮殿 |
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かなり古いマンドリン |
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肖像画はエカテリーナ宮殿内の展示物から、ほとんどが左向きです。
ロココ建築(、Rococo architecture)は、主に宮廷建築で用いられた後期バロック建築の傾向を指すもので、独立した建築様式ではない。 室内装飾に特徴がある。
ヨーロッパのバロック建築最盛期の後、18世紀フランスに始まり、各国に伝わった。
エカテリーナ宮殿 「琥珀の間」
用語:大黒屋 光太夫 等
大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、(1751年 - 1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。 天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。
ここで学者のキリル・ラックスマンの援助で、帰国請願のためサンクト・ペテルブルクに向かい、1791年、エカチェリーナ2世に拝謁して、帰国の儀を聞き届けられている。
キリルの次男アダム・ラックスマンが、江戸幕府の統治下で鎖国状態を続けてきた日本に対して、大黒屋光太夫および小市、磯吉の三名を返還すると同時に、シベリア総督の通商要望の信書を手渡すために、遣日使節として日本に派遣され、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。
エカテリーナ宮殿 見るものに有無を言わせない大広間 大黒屋 光太夫が謁見 |
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※ Wikipediaを参考に一部文の転用もしています。 |
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