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名張・万葉の会 とは
地元の名張(mie perf. nabari)で作っている万葉集(A Collection of a Myriad Leaves)の歌を愛でて、万葉集にゆかりの地の散策と万葉集を学習する会(2010年5月現在、95名、三重県名張市/伊賀市、名張市桔梗が丘南公民館のサークル活動)のプライベート写真集です。 万葉集は、日本でもっとも古い歌集で、奈良時代の終わり頃にできたと考えられています。 全部で20巻、およそ4,540首あり、平城(へいぜい)天皇の勅撰(ちょくせん)とも、大伴家持(おおとものやかもち)の私撰(しせん)ともいわれています。 名張・万葉の会には平成22年4月1日より参加。
今、奈良はまさに平城遷都1300年の真っ只中。 藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出され、710年(和銅3年)3月10日
(旧暦)に遷都された。 大内裏に相当する辺りは現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。 古の心に思いを馳せたいと思います。
補足のページはfacebookの「万葉万華鏡」にあります。
万葉集の石碑:巻1-43番 |
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※平成25年6月6日万葉の会は奈良・橿原の藤原京とおふさ観音(下ツ道)に行きました。「大和の風景の切手と写真|橿原 古都・藤原京と橿原神宮」、「大和の風景の切手と写真|橿原 おふさ観音、今井町、八木札の辻交流館 他」に統合しました。 |
奈良県高市郡高取町(高取の道)
奈良県高市郡高取町(高取の道、平成22年04月01日)。奈良県高市郡高取町(たかとりちょう)、有名な明日香村の隣。 8世紀初頭「いにしえの渡来人」が活躍した古代の国際都市高取町でした。
奈良県桜井市(多武の道) 談山神社
奈良県桜井市の談山神社(たんざんじんじゃ、多武の道、平成22年05月06日)と花の寺・長谷寺を別の日に。 奈良県桜井市は、縄文時代や弥生時代の土器の欠片が一般の畑などでも見られるなど歴史の深さを窺わせる。また、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く今日まで残っている。 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足(Fujiwara Kamatari)公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね、Tonomine)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
奈良県桜井市(泊瀬の道) 海柘榴市
奈良県桜井市の談山神社(たんざんじんじゃ、多武の道、平成22年05月06日)と花の寺・長谷寺を別の日に。 奈良県桜井市は、縄文時代や弥生時代の土器の欠片が一般の畑などでも見られるなど歴史の深さを窺わせる。また、弥生時代や古墳時代の前方後円墳などの古墳が多く今日まで残っている。 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足(Fujiwara Kamatari)公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね、Tonomine)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
野見宿禰顕彰碑 |
十二柱神社の祭祀 |
武烈天皇 |
出雲人形 |
白山神社 |
「仏教伝来之地」石碑 |
磯城島公園の |
磯城瑞籬宮(しきのみつかきのみや)の地の碑 |
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※武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、日本の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(−のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。
※第29代の欽明天皇(509〜571年)は継体天皇の皇子で安閑天皇や宣化天皇の異母弟です。欽明天皇の磯城嶋金刺宮(推定地)として「初瀬川と栗原川に挟まれた地域は、かつて磯城嶋と呼ばれ、古くは室町時代に法隆寺僧訓海が著した「太子伝玉林抄」、元文元年(一七六三)の並河永らによる「大和志」、大正三年の 大神神社宮司斎藤美澄による「大和志料」により、この地域に金刺宮があったものと推定されている。
奈良県天理市(山の辺の道) 石上神社
日本最古の道である大和の古道(やまとのこどう)のうち、奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道が『山の辺の道』です。 山の辺の道は、三輪山のある桜井市から天理市を経由して奈良市の春日山まで続く道です。 今回は道のりの丁度真ん中の天理周辺のの神社・仏閣・古墳(遺跡)を対象としました。 天理市は天理教の本山、伊勢神宮と同じ古さの日本最古の石上神社と七支刀、天皇陵があります。
石上神宮 入口 |
石上神宮 鳥居 |
石上神宮・楼門 |
夜都岐神社の由来 |
夜都岐神社の入口の石碑 |
夜都岐神社の石の鳥居 |
[ 奈良・天理(山の辺の道) |−天理市&天理教会本部 |−石上神宮 |−内山永久寺跡 |−乗鞍古墳等の古墳 |−夜都岐神社,環濠集落 |−行燈山,渋谷向山古墳 |−長岳寺 |−黒塚古墳と柳本駅 ]
奈良県奈良市(西ノ京・歴史の道)
奈良県桜井市西の京には鑑真縁の、唐招提寺や薬師寺などの名刹が並んでいます。静かな西ノ京、歴史の道を歩くと「古の奈良」を髣髴とさせてくれます。今回は、近鉄橿原線西ノ京駅から"がんこ一徹長屋”から唐招提寺を経由し秋篠川、鑑真の墓所、、垂仁(すいにん)天皇陵や尼ヶ辻駅を経由して行基のお寺・喜光寺、天神さんの菅原神社から西大寺までを晴天・炎天下でしたが歩きました。 距離は短いですが、古墳時代や平城京の華やかさ、仏教の歴史などを探訪できる楽しい散歩道です。
唐招提寺南大門 |
唐招提寺金堂 |
鑑真和上の唐招提寺 |
垂仁天皇陵と |
垂仁天皇陵 |
菅原神社の拝殿 |
西大寺・本堂(重文) |
西大寺・南門と本堂 |
西大寺・本堂(重文) |
奈良県橿原市(飛鳥の道) 見瀬丸山古墳、益田岩船
橿原市(飛鳥の道)には、高松塚古墳から鬼の雪隠,石舞台,岡寺,酒船石,入鹿の首塚, 飛鳥寺等があります。 今回は近鉄岡寺駅周辺の歴史的な遺物を探る。見瀬丸山古墳、益田岩船、牟佐坐神社、沼山古墳、菖蒲池古墳、植山古墳、軽寺跡。
牟佐生魂神の杜と鳥居 |
万葉歌碑 柿本人麻呂 |
「孝元天皇軽境原宮址」 |
万葉歌碑 中大兄皇子 |
沼山古墳 横穴式石室内部 |
菖蒲池古墳 石碑 |
竹薮に佇む益田岩船 |
益田岩船 |
植山古墳と二上山 |
見瀬丸山古墳 |
見瀬丸山古墳 全景 |
軽寺の説明 |
※牟佐坐(むさにます)神社 日本書紀天武紀は、安康天皇の御代牟佐村(現見瀬町)村主青の経営であった。当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり、江戸初期まで榊原(境原}天神と称されていた。享保の頃に菅原道真公を祭神としたが、明治に至り古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀して今日に至る。 境内は孝元天皇の即位された宮地と伝えられている。
奈良県御所市(葛城の道(一言寺道))
金剛・葛城山麓を南北に走る山裾の道で、街道として最も古いと言われる竹ノ内街道から、北葛城郡新庄町大字寺口・笛吹を経由して、御所市大字小林・櫛羅・楢原・森脇・名柄・極楽寺・朝妻・高天・伏見・鴨神に至る古道で、この道に沿って数多くの名神大社や由緒ある寺院が存在し、更に歴史の彼方へと消え去ってしまった、高間千坊や戒那千坊と伝えられる、おびただしい数の古代寺院が存在していた。また、この道は、鴨族、葛城族などの古代豪族が、当時の主要道として往来していた道でもあります。
高鴨神社の拝殿と太鼓 |
高鴨神社の本殿重 |
極楽寺の山門 |
天彦神社の前にある鶯宿梅 |
高天原伝承地の石碑 |
圓照寺「御所御坊」本堂 |
大阪府藤井寺市(陵の道)
大阪府藤井寺市と羽曳野市 葛井寺(ふじいでら、平成22年06月03日)から古市古墳群(陵の道)に。 藤井寺市は大阪府南河内にあり、大小の古墳が密集する古市古墳群や、西国三十三箇所第5番札所の葛井寺の門前町として知られる。 市名は、市内にある「葛井寺」に由来する。 藤井寺では今、百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産への準備を進めています。
東高野街道は、京都から高野山への参詣道の一つ。 生駒山西麓を南下し、国府遺跡、道明寺、誉田八幡宮を通り、古市への街道は、古道ならではの昔の面影を偲ばせます。 修羅は古代の重量物を運搬した木橇で、巨大墳墓、前方後円墳の築造に使われた道具だと考えられています。巨大な修羅が出土した道明寺一帯は“土師氏の里”と呼ばれ、当時の壮大な土木建築の様子が甦ります。
葛井寺の山門と石碑 |
辛國神社の本殿 |
道明寺の本堂 |
岡ミサンザイ古墳のハッキリ分かる前方後円墳も姿 |
岡ミサンザイ古墳 |
道明寺天満宮の |
※岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)は、大阪府藤井寺市藤井寺にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群(世界文化遺産)を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ、惠我長野西陵)」として第14代仲哀天皇の陵に治定されている。
[ 大阪・藤井寺&羽曳野|−葛井寺(ふじいでら) |−辛國神社 |−道明寺と天満宮 |−アイセルシュラホール |−国府(こう)遺跡 |−古市古墳群&陪家陵 |−岡ミサンザイ古墳 |−誉田御廟山古墳 |−仲津姫命陵 |−市ノ山古墳 |−割塚・古室山・三ツ塚 ]
和歌山県和歌山市・和歌浦
和歌山県指定文化財 名勝・史跡 和歌浦。 2012年7月5日 万葉集には和歌山の詠んだ歌が107首もあり、古くから風光明媚な土地として万葉の歌人に詠まれた和歌の浦は、斉明天皇・持統天皇らの紀温湯(牟婁温湯。現在の白浜)行幸の際に立ち寄られただけではなく、後に聖武天皇が和歌の浦・玉津島を目的地として行幸したほど、万葉人にとっては馴染みの深い景勝地だったそうです。 近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。
滋賀・大津&琵琶湖
滋賀・大津&琵琶湖(平成22年9月2日)。近江宮(おうみのみや)は、7世紀後半の天智天皇が営んだ宮。近江大津宮(おうみのおおつのみや)、大津宮(おおつのみや)とも呼称される。滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。義仲寺(ぎちゅうじ)は、滋賀県大津市馬場にある単立(天台宗系)の寺院。山号は朝日山。本尊は聖観音菩薩。この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
琵琶湖・大津港 |
錦織遺跡・柿野本人麻呂 |
「幻住庵」の門 |
義仲寺の入口 |
木曽義仲公の側室 |
木曽義仲の墓 |
※近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこおりいせき)は、天智天皇(626-671)が1,300年以上も昔に、奈良の飛鳥(あすか)から遷都したという大津宮跡といわれています。国指定の史跡。現在、巨大な柱を埋め込むための1辺2m近い穴と、直径40mから50cmほどの柱跡が7つ、門跡、中心建物を囲んだと思われる柵列とその北側の倉庫群が発掘されています。
万葉集 とは
『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)とは7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3)以後とみられる。
『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。
歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本に基づく数え方があり、歌数も種々様々の説がある。
内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌・挽歌の三大部類になっている。
雑歌 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
相聞歌 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。
挽歌 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。
歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。
山部赤人・富士 (山部赤人は奈良県宇陀市にお墓があります |
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田子の浦に うち出でて見れば 白砂の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 小倉百人一首 4番 |
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持統天皇・天の香具山 |
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春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 小倉百人一首 2番 |