名張・万葉の会|橿原市(うねびの道2) 宣化天皇陵、新沢千塚古墳、国源寺・・ |
橿原市 うねびの道
「橿原」は記紀にみえ、大伴家持(おおとものやかもち)や柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)に詠まれる古地名で、畝傍山(うねびやま)南東麓の微高地一帯をさします。
市内には縄文時代の橿原遺跡、特別史跡の藤原宮跡・本薬師寺跡、国史跡の菖蒲池(しょうぶいけ)・丸山・新沢千塚(にいざわせんづか)などの古墳、神武(じんむ)天皇を祀る橿原神宮、神武・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝元(こうげん)・宣化(せんか)の各天皇陵に指定される古墳などの旧跡が多く、6〜7世紀の古代国家成立期の政治、文化の中心地であったことを物語る。
また、古代の交通路として重要な下津道(しもつみち)や横大路(よこおおじ)の跡も残っている。
今回(2018年7月5日、生憎の雨)は、畝傍山周辺の歴史的な遺物を探る。 宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)、歴史に憩う橿原市博物館、新沢千塚古墳公園、益田池堤防公園、神武天皇陵、国源寺。
索引 [ 宣化天皇陵|歴史に憩う橿原市博物館|新沢千塚古墳公園|益田池堤防公園|国源寺 ]
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宣化天皇陵
■宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳、身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ))
第28代の宣化天皇(在位:535年〜539年 / 『日本書紀』では、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)という。)は第26代の継体天皇の第2皇子で、29代の欽明天皇の兄にあたります。 周囲に濠をめぐらせた前方後円墳の御陵には天皇だけではなく、先立った皇后の橘皇女(たちばなのなかつひめみこ)と孺子(じゅし)と言われる宮中に仕えた童も合葬されたといわれています。橿原市鳥屋町。
一説に、飛鳥時代の歌人・額田王は宣化天皇の4世孫(玄孫)とも言われる。
宣化天皇陵 |
宣化天皇陵から畝傍山 |
額田王の代表歌 |
※宣化天皇の都は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)。 先の安閑天皇が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した。 大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。 即位元年(536年?)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。
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歴史に憩う橿原市博物館
■橿原市には、原始以来の先人の営みが大地に刻まれた、史跡新沢千塚古墳群、特別史跡藤原宮跡や、江戸時代の建造物が数多く建ち並び当時の町並みを今に伝える、重要伝統的建造物群保存地区今井町等の優れた歴史遺産が随所に残されています。
このことから、橿原市は新沢千塚古墳群公園整備事業の先駆けとして、「歴史に憩う橿原市博物館」を開館した。
博物館の入口 |
十市城跡の本物の遺物 |
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国の史跡・菖蒲池古墳の作られ方の展示 |
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菖蒲池古墳は、藤原京の朱雀大路の南延長線上に築かれた古墳で、五条野古墳群の東端に造られています(橿原市(飛鳥の道) ) |
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縄文時代の土器と土偶 |
人形代(ひとかたしろ) |
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土偶(どぐう)は、人間(特に女性)を模して、あるいは精霊を表現して作られたと考えられる土製品で、縄文時代に製作された。 |
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弥生時代の土器 |
人形代(ひとかたしろ):飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し後代につづく。人形代には凶用と善用の2種がある。 |
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※十市城跡(とおいちじょうあと):この遺跡は、北の磯城郡田原本町と隣接した市の北東にあたり、寺川右岸の自然堤防上に位置しています。筒井城(大和郡山市)と同様に中世大和における典型的な平城で、十市氏が鎌倉時代後半から江戸時代にかけて居城しました。、ルイス・フロイスが記した「日本史」によれば、1555年(永禄8)に宣教師のルイス・デ・アルメイダは、十市城主を「サンチョ=イシバシ殿」と報告しています。
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新沢千塚古墳公園
■新沢千塚(旧名:「川西千塚」、「鳥屋千塚」)は総数約600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)。古墳群は、市南側で高市郡高取町との境界となっている貝吹山(かいぶきやま)から四方に派生する尾根のうち、北西方向に伸びる低い丘陵上に立地。 新沢千塚に古墳が造られ始めたのは4世紀の終わり頃、今から1600年ほど前です。
1960年代、新沢千塚一帯の丘陵地に開墾計画(ブドウ畑作成等)がもちあがったことをきっかけとして、古墳群全体の約2割にあたる約130基の古墳の発掘調査が行われました。この調査によって多くの成果があがりました。 遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされた副葬品が出土した126号墳の調査はその代表的なものです。
新沢千塚古墳公園の古墳群 意外と小規模だがかなりの数がある |
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新沢千塚古墳公園の古墳群 盗掘か発掘かは不明だが内部を見ることが可能 |
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新沢千塚古墳群公園は県道を挟んで北群公園と南群公園に分かれています。 |
■新沢千塚126号墳は、遠くササン朝ペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされた豊富な副葬品が出土したことで著名な古墳で、新沢千塚古墳群の代名詞と言っても過言ではありません。 126号墳は古墳群北側の丘陵の中央付近に位置する東西約22m、南北約16mの長方形墳です。5世紀後半頃に築かれたと考えられています。
埋葬施設は長さ約3.1mの割竹形木棺(わりたけがたもっかん)で、棺内および棺外に多くの副葬品が納められていました。 古墳の被葬者は、朝鮮半島あるいは中国東北部から日本に渡ってきた女性ではないかと考えられています。 写真は、「歴史に憩う橿原市博物館」にあったレプリカ。
※空玉(うつろだま):中が空洞くうどうになった金属製の玉。古代のアクセサリー。
※釧(くしろ):古代の腕輪。貝・石・青銅・鉄などで作り、青銅製のものには鈴をつけたものもある。ひじまき。たまき。
新沢千塚126号墳の出土品は殆どが重要文化財であり、本物は全て東京国立博物館にあります。
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益田池堤防公園
■橿原市白橿町の「益田池児童公園」に、平安時代に造られた灌漑用の池の堤跡『益田池の堤』(長さ約55m・高さ約8m)が遺されています。工事の際には、弘法大師空海が碑文を書いて協力したという。 近くの山上にある「益田岩船」は、空海の石碑を建てるための土台ではないかという説もあります。 『益田池の堤』(県指定史跡)は、平安時代に高取川に堤防を築いて水の流れをせき止めて作られた灌漑用の池「益田池」の堤の一部がそのまま残されたものです。 着工が弘仁13年(822)で、現在の地名でいえば「北は鳥屋橋北側、南は鳥坂神社まで」約200mにもわたって築かれていました。
益田池堤 |
益田池堤 頂上 |
益田池復元図 |
益田池堤 |
現在の高取川 |
1984年(昭和59年)4月14日公開の北大路欣也主演の映画『空海』(くうかい)に益田池の話が出てきていましたね。4年をかけて完成させた。 今の高取川はの当時の荒々しさは、微塵も感じなかった。 土手にはネムノキが咲いていました。 |
高取川は、奈良県高市郡高取町の南東部に位置する高取城跡に源を発し北へ流れる。橿原市に入り、神武天皇陵から流れ来る桜川を合わせ、橿原市曽我町で曽我川右岸に合流する。大和川水系の河川。
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国源寺
■国源寺(こくげんじ)は、大窪(おおくぼ)寺の跡地に明治初年元神武領域から移されました。 鎌倉時代後期の作品の聖徳太子立像があります。上半身が裸形で、頭部内に正安四年(1302年)銘の墨書があります。体躯は肉付きが良く、幼児の柔らかい肌の感じがよく表現されています。 国内では太子像として本像が最古のものとなります。 大窪寺は、塔心礎石を残すのみで、いまは国源寺が法燈を伝えている。
※不空羂索観音:六観音の一つ。胎蔵界曼荼羅観音院の一尊。羂索(けんさく)は漁猟に用いる「わな」で,不空(ふくう)は徒労ではないこと,大悲心で衆生を済度して残さないという意味。
『大窪寺跡』と『櫻児伝説/娘子塚・万葉歌碑』へ。その大窪寺跡前には「櫻児(さくらこ)伝説の娘子塚(おとめづか)」があり、本日最後の万葉歌をここで朗詠した。
『櫻児伝説/娘子塚(おとめづか)・万葉歌碑』
◆ 春さらば 挿頭(かざし)にせむと わが思ひし 櫻の花は 散りにけるかも (詠人不祥 巻16‐3786)
◆ 妹が名に 懸けたる櫻 花咲かば 常にや恋ひむ いや毎年(としのは)に (詠人不祥 巻16‐3787)
■娘子塚:櫻兒の墓と伝えられる娘子塚は、『大和志』(享保21(1736)年発行)や『大和名所圖會』(寛政3(1791)年発行)にも紹介されています。また、『奈良県高市郡古蹟誌』(大正12(1923)年発行)には「白橿村大字大久保字中垣内395番地、東西一間、南北亦一間、高さ一尺五寸で、今北面した方形の古墳である」と記されています。
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★Wikipedia、橿原市HPを参考にさせていただきました。 | ||
名張・万葉の会|橿原市(うねびの道2) 宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)、歴史に憩う橿原市博物館、新沢千塚古墳公園、益田池堤防公園、神武天皇陵、国源寺 |