名張・万葉の会|古の都・吉野宮 宮滝 ・・「たぎつ河内」「夢のわた」「川淀(かわよど)」 |
奈良県吉野郡吉野町にある宮滝
今回は奈良県吉野郡吉野町にある宮滝を探る。 2013年12月5日、晴れ。
■水を乞う祈りのために、ひとときの安らぎを得るために、大和を基盤とした歴代天皇はいく度となく吉野を訪れた。 奈良で吉野といえば皆さんは吉野山を思い浮かべると思います。実は奈良時代末期までは吉野といえば吉野川(水に対する信仰があった)でこの宮滝を言いました。それが時代の趨勢で吉野は宮滝から吉野山に変わりました。この辺りは今は鄙びていますが縄文時代より栄えた所です。 万葉歌が詠むのは「水の吉野」。吉野の川の美しさだ。
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宮滝と言う名は「たぎつ川にある宮」の「滝の宮処」から発した地名だとされているようです。
飛鳥や奈良の都人にとって、吉野は近くて遠い神仙郷のようなものだったそうです。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。 |
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梅谷味噌醤油とR169 |
宮滝しょうゆ |
梅谷味噌醤油 |
★宮滝しょうゆ・梅谷味噌醤油は、 厳選された素材と100年以上使い続けている吉野杉の大樽で決して妥協しない本物の醤油屋さん。
吉野宮跡(吉野歴史資料館)
■宮滝遺跡は吉野宮(斉明・天武・持統朝)や吉野離宮(聖武朝)が営まれたところです。
梅谷醤油店と国道169号線を挟んだ北側一帯に吉野宮の中心がありました。
宮滝遺跡(みやたきいせき)は、奈良県吉野郡吉野町宮滝に所在する、いくつかの異なった年代の遺構の存在するいわゆる複合遺跡。 別称には、吉野宮・吉野離宮推定地などがあり、吉野宮(大和国・吉野川の側に置かれた古代日本の離宮。)の所在については、吉野郡吉野町宮滝の宮滝遺跡であることはほぼ確定しています。
吉野町宮滝 |
かって吉野宮があった所 |
宮滝遺跡地図 |
■吉野歴史資料館の展示物(吉野歴史資料館ホームページ)
吉野歴史資料館では宮滝遺跡の展示を行っています。宮滝はかつて吉野の中心ともいえる場所でした。それを物語るように遺跡からは縄文時代から奈良時代までの遺物や遺構が出土しています。
資料館の正面に見える山が『万葉集』にうたわれた象山と三船山です。
吉野歴史資料館 |
「かはづ鳴く、吉野の川の、滝の上の、馬酔木の花ぞ、はしに置くなゆめ」 万葉集 10-1868 作者不詳 |
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万葉集 10-1868 |
資料館の正面に見える山が『万葉集』にうたわれた |
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吉野山最南端に位置する青根が峰は、吉野地方を潤す水系の分水嶺であり、万葉の時代には水分山(みくまりやま)として信仰されていました。 |
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吉野歴史資料館の展示室 |
宮滝式土器 |
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縄文時代の人びととくらし : この時代の人びとは寒い時期を吉野川の下流域ですごし、暖かくなると川を遡って宮滝でくらしていました。木の実を調理する石皿や敲石、縄文時代後期の標準土器である宮滝式土器などを展示。 |
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●吉野宮の成り立ちと移り変わり : 飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました。この宮には持統天皇が30回以上も訪れていることが記録に残されています。ここでは吉野をよんだ代表的な万葉歌や、壬申の乱の経路図も展示。 |
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吉野宮の成り立ちと移り変わり |
吉野離宮の瓦 |
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吉野宮模型 |
吉野宮模型 |
★671年12月 天智天皇が46歳で没すると,子の大友皇子(乱当時25歳)の政治が始まります。 |
壬申の乱(紙人形) |
壬申の乱(紙人形) |
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★吉野を出て伊賀へ・・・大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行します。6月24日 舎人たちに作戦開始を告げます。そして,子の高市皇子(たけちのみこ),大津皇子(おおつのみこ)の都からの脱出と東国(美濃,尾張,三河から甲斐,信濃)の兵を集めることを部下たちに指示します。 |
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■柴橋のたもとに建つ万葉歌碑 ・・ 持統天皇が吉野宮に行幸した際に同行した柿本人麻呂が作った歌で「やすみししわご大君の聞し食す 天の下に国はしも多にあれども 山川の清き河内と御心を吉野の 国の花散らふ秋津の野辺に宮柱 太敷きませば百磯城の大宮人は 舟並めて朝川渡り船競ひ夕川渡る この川の絶ゆることなくこの山の いや高知らす水激つ瀧の都は 見れど飽かぬかも」 万葉集巻1-36 柿本人麻呂 |
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石碑 史跡宮滝遺跡 |
万葉集巻1-36 |
史跡宮滝遺跡 説明 |
★この碑の辺りから出土した縄文時代後期の土器にわざわざ「宮滝式」の名称が付けられ、また遺跡の北側から飛鳥時代以後から平安時代初期の建物跡も発見されました。 |
■斉明天皇が水の祭祀を行い、持統天皇が幾度も行幸に訪れた吉野宮は、縄文時代から人が住んでいた宮滝にあったとされる。吉野離宮が造営されたのはその西。同じ場に宮がくり返し建てられた事実は、この地の魅力を雄弁に語っている。
宮滝 柴橋
■宮滝の「柴橋(しばはし)」 「喜佐谷川」が「吉野川」へと流れ込む直ぐ上流に架かっているのが古書にも記された「柴橋」です。旧東熊野街道上の橋で、当時は松の丸太を橋桁にしてその上に歩み板を張り、柴垣で欄干を造っていたので鉄橋に架け替えられた今でも「柴橋」と呼ばれます。
昔の街道と柴橋 |
柴橋 宮の滝から見る |
柴橋宮 滝河川交流センター |
■「宮滝は滝にあらず」。貝原益軒が『和州巡覧記』に書いたように、名称から誤解されることが多い宮滝。 古語の「タギツ」は川水がたぎり流れるところ。激流する「たぎつ瀬」である。
付近を流れる吉野川の両岸は巨岩でおおわれ、水の流れはエメラルド色。
南東の大台ケ原山から発した吉野川が一番の屈曲を見せる場所です。吉野川左岸の道端に展望所が設けられていて、そこから吉野川を一望できる。
桜木神社 喜佐谷 象の小川
■吉野・桜木神社:天武天皇がまだ大海人皇子といわれてた頃、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しましたが、あるとき天皇の子、大友皇子の兵に攻められ、かたわらの大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れたいう伝説があります。のち大海人皇子は勝利を得て(壬申の乱・六七二)明日香の浄見原に都を定めて、天武天皇となられたのです。 このあと吉野の宮(宮滝)に行幸されると、篤くこの宮を敬われ、天皇なきあとは、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられてる。
■山部赤人の歌碑
「み吉野の 象山の際(ま)の木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声かも 」 万葉集 巻6−924
高市連黒人が桜木神社で詠んだ歌は
「大和には 鳴きてか来(く)らむ呼子鳥 象の中山呼びぞ越ゆなる」 万葉集巻1−70
■「万葉の道」の喜佐谷(きさだに)集落を流れる現在の喜佐谷川が、万葉の御代「象(きさ)の小川」と呼ばれていた頃、丁度、吉野川と合流する地点の水のよどみに作られていた橋で、名を「うたたね橋」と呼ばれていたそうです。何時の時代か老朽のため取り壊され、左下写真のように碑だけが残っております。「うたたね」の謂われは、源頼朝から追われた義経が吉野落ちのとき、この橋の上で疲れのため、うたたねをしたことからつけられたと云われております。
喜佐谷 は、昔は象谷と書いて「きさだに」と読んでいました。
義経 うたたね橋 |
喜佐谷の紅葉と吉野すぎ |
紅葉の「万葉の道」 |
★桜木神社にも「うたたね橋」があり2つあったようです。うたたね橋は源義経が頼朝の追手から逃れるために吉野まで来た時、疲れがたまっていたのかついうたたねしてしまったと伝わる橋です。 |
■象の小川(きさのおがわ)は、喜佐谷の杉木立のなかを流れる渓流で、やまとの水31選のひとつ。 吉野山の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもつ流れがこの川となって、吉野川に注ぎます。
万葉集の歌人、大伴旅人もその清々しさを歌に詠んでいます。 その昔、明神が大象に乗って天降ったと伝わるが、「キサ」は象牙の波状の縞文様を蛇行する地形にあてたものという。
★神聖視された神奈備・青根ヶ峰に端を発する清流(象の小川)は、やはり特別なものだったに違いない。 神聖な川水は吉野川へとそそぎ込み、都人が憧憬を寄せた「たぎつ河内」を育んだ。
万葉時代には今の「喜佐谷川」も「象の小川」として歌に詠まれ、大伴家持の父旅人は
「昔見し 象の小川を今見れば いよよ清けく なりにけるかも」 万葉集 巻3−316
宮滝河川交流センター〜菜摘
■宮滝河川交流センターを下っていったところが「宮の滝」といって宮滝の地名の元になっている名がついています。滝と云っても「滝」でなく、たぎつ瀬のこと。 たぎつ瀬とは川底の岩などの変化でさかまいたり激しく流れる瀬をいいます。
柿本人麻呂は「滝のみやこ」と歌っています。
■ 菜摘・華籠神社 「吉野川」が大きくうねり湾曲、山々に囲まれた「菜摘」集落に鎮座する社。「菜摘」は万葉集に「夏身」「夏実」としても見られます。 地元の伝承では、静と義経は二人で吉野山から喜佐谷を下り、菜摘の大谷家に逗留したといいます。 義経はここから奥州の勢力を頼みに行き、必ず迎えに来ると静ここ菜摘に残し立ちます。静はその間、この地域に伝わる籠編みを習います。 静は器用でみるみるうちに多くの花籠を編んでいきます。ある日この花籠を持って吉野山へ持っていくと、大評判になり、それが後の吉野山の土産物となります。 そんな静と花籠の伝承のある華籠神社です。
菜摘 華籠神社 |
菜摘 華籠神社 灯篭 |
菜摘 華籠神社 拝殿 |
■ 菜摘・十二社神社 急で長い石段の上に本殿が有ります。地元の人に聞けば皆年齢もとり、余りに急な階段は上れなくなり、下に下ろしたそうです。創祀・由緒など不詳ですが、古くから祀られていたようです。境内には、湯原王の万葉歌碑があります、 湯原王は志貴皇子の子で天智天皇の孫です。
「吉野なる夏見の河の川淀に 鴨ぞ鳴くなる山影にして」 万葉集巻3-375 湯原王 ( 吉野の菜摘の川のよどみに鴨が鳴いている。山陰になっているところで)。
菜摘・十二社神社 |
菜摘・十二社神社 |
菜摘・十二社神社 |
「吉野なる夏見の河の川淀に 鴨ぞ鳴くなる山影にして」 |
十二社神社そばの古井戸 |
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■菜摘大橋の袂には、謡曲 「二人静」の謂れを記載した説明がありました。
その話とは、 静御前の霊が菜摘み女に乗り移って舞をまい、吉野の勝手明神の神職に回向(えこう)を頼む・・・。 また、近くには静御前の小鼓といわれるものを所有する方もいらっしゃいました。
ここを流れる吉野川の一部を「菜摘川」というそうです。
万葉家人が好んだ「菜摘の岡」はこの辺りです。
菜摘の奇妙な山 |
冬の菜摘に咲くスミレ |
菜摘大橋付近の紅葉 |
菜摘大橋付近の吉野川 |
菜摘大橋付近の吉野川 |
謡曲 「二人静」の説明 |
源義経と吉野は吉野山も含めて非常に関係が深い場所のようです。
静御前の歌 二首
1.吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の あとぞこいしき
2.しずやしず しずのおだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな
※Wikipediaや寺院各所のHPを参考にさせて貰っています。 |
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名張・万葉の会|古の都・吉野宮 宮滝 |