日本の風景|名張・万葉の会 山の辺の道(天理市) 西殿塚古墳(衾田陵)、行燈山古墳と渋谷向山古墳 |
山の辺の道(天理から柳本へ)
日本最古の道である大和の古道(やまとのこどう)のうち、奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道が『山の辺の道』です。 山の辺の道は、三輪山のある桜井市から天理市を経由して奈良市の春日山まで続く道です。 今回は道のりの丁度真ん中の天理周辺のの神社・仏閣・古墳(遺跡)を対象としました。
磯城を中心に山辺・十市の一部を含む三輪山西麓一帯は、かって「ヤマト」と呼ばれた地域である。大和国家はこの地に誕生したとされている。付近には国家創世の事実を裏付けるかのように、六基の前方後円墳が築かれている。 平成22年6月5日及び平成24年4月5日撮影。
切手以外の写真はクリックで拡大。 参考 天理市(山の辺の道)
西殿塚古墳(衾田陵),中山大塚古墳
■西殿塚古墳は、竜王山西麓の幅広い尾根の上に南北方向を主軸にして築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。前方部の先端は箸墓古墳ほどではないが、三味線のバチ状に開いている。墳丘の全長は219m、後円部の径135m、前方部の幅118mと、大和古墳群の中では最大の規模をもち、この地域では渋谷向山古墳(伝景行陵)、行燈山古墳(伝崇神陵)に次いで大きい。
★中山大塚古墳(なかやまおおつかこふん)は、大和(おおやまと)古墳群に含まれる全長120メートルの前方後円墳。 大和古墳群の盟主的な存在である西殿塚古墳(衾田古墳)の南西に位置し、出土埴輪から西殿塚古墳よりも古く箸墓古墳に並行する時期(古墳時代前期)に造られたと推定されている。
歌碑のある休憩所の北に見えるのが中山大塚古墳。竜王山を背景にして万葉歌碑が建っている。犬養孝氏の筆による、柿本人麻呂の泣血哀慟歌の中の短歌を刻んだ碑である。
衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山径(やまじ)を往けば 生けりとも無し (巻2-212)
行燈山古墳 (崇神天皇陵)、櫛山古墳
■崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)
- 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。 和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代の日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇であるともいわれる。都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。
渋谷向山古墳 (景行天皇陵)
■景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日(130年12月24日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代の天皇(在位:景行天皇元年7月11日(71年8月24日) - 同60年11月7日(130年12月24日))。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。 垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。
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