伊賀の風景・歴史|西三重(伊賀市) 倭姫命と「徒然草」の兼好法師、三田廃寺、藤原千方 |
倭姫命と伊賀
六十六年、倭姫命(「宇陀郡(曽爾、御杖)」で詳細記述)は伊賀国の(十)穴穂宮に四年の間、天照大神を斎き奉られた。そのとき、伊賀の国造が山の神戸や御田、鮎を獲る仕掛けの場所など、大神の朝夕の御饌(みけ)(食事)のために供進した、とある。『皇太神宮儀式帳』は佐佐波多宮の次に“市守宮”は見えず、次の仮宮を「“伊賀穴穂宮”に坐しき」と記してる。 穴穂宮(世記。儀式帳・伊賀穴穂宮)。比定地は三ヵ所である。 @
神戸神社(三重県伊賀市上神戸)、A 猪田神社(三重県伊賀市猪田)、B 江寄山常福寺(三重県伊賀市古)。 伊賀市は、京都・奈良や伊勢を結ぶ大和街道・伊賀街道・初瀬街道を有し、古来より都(飛鳥、奈良、京都)に隣接する地域として、また、交通の要衝や、江戸時代には藤堂家の城下町や伊勢神宮への参宮者の宿場町で栄えてきた。 伊賀国は古代より、大和と伊勢を結ぶ交通の要所であり、日本仏教の黎明期より、数多くの寺院が建立されて来た地である。 しかし、戦国時代になり、織田信長の勢力により、伊賀国全域の神社仏閣が焼き払われてしまった。 この辺は壬申の乱や南北朝時代の遺跡も多い所。 「太平記」にある平安時代4鬼を引き連れた藤原千方(忍者の魁)や「徒然草」の兼好法師の塚・・・。 切手以外の写真はクリックで拡大。
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ページ内索引 〔 江寄山常福寺|大村神社|上野天満宮|神戸神社|伊賀東照宮|藤原千方 窟伝説地|種生神社|兼好塚(吉田兼好の墓)|三田廃寺跡 〕
江寄山常福寺
■江寄山明王院常福寺は、三重県伊賀市(旧上野市)の古郡に位置しており、不動山を背に南面し、低く開いた前方に人里田園を控える、すこぶる形勝の地にある。本尊は、五大明王。宗旨は真言宗豊山派で、奈良県桜井市初瀬の長谷寺が総本山。創建は、養老六年(722年)。徳道上人開基。
伊賀国阿保村には阿保朝臣の始祖にあたる垂仁天皇の皇子息速別命(イコハヤワケノミコト)を奉祀した大村神社がある。この息速別命及び子孫が伊賀国阿保村に代々居住し、文化の移入、土地・産業の開発に尽くされ地名に因って阿保朝臣の姓氏を賜ったそうだ。
”地震除け”地震の神様 大村神社
■”地震除け”地震の神様『大村神社』(おおむらじんじゃ)
式内社 伊賀國伊賀郡 大村神社 旧県社
御祭神 大村神 配祀 武甕槌神 經津主神 天兒屋根命
合祀 應神天皇 大日?貴命 天押雲命 市杵嶋比賣命 大物主命 大山祇命 事代主命
火之迦具土命 建速須佐之男命 多紀里毘賣命 狹依毘賣命 多岐津比賣命 水波能賣命
宇迦能御魂神 速玉男命 月夜見命 稻田姫命
三重県伊賀市にある。 青山駅の南西2Kmほどの阿保に鎮座。 165号線から木津川を越えた場所にある丘の上が境内。 参詣したときは女性の宮司さんが親切に対応してくれました。
※阿保親王(あぼしんのう、延暦11年(792年) - 承和9年10月22日(842年12月1日)は、平安時代の皇族。平城天皇の第一皇子。三品・弾正尹。贈一品。桓武天皇の嫡系の孫である。橘逸勢らから東宮恒貞親王の身上について策謀をもちかけられるが、阿保親王は与せずに、これを逸勢の従姉妹でもあった皇太后橘嘉智子に密書にて報告、判断を委ねた(承和の変)。
上野天満宮(菅原神社)
■上野天満宮は、正式には菅原神社といい、菅原道真公を主神とする神社で、旧上野町の産土神として、又文学の祖神あるいは牛馬の守護神として崇敬され、1581年(天正9年)「天正伊賀の乱」後、藤堂高虎による城下町建設の際、城郭鎮守として此の地に祀られました。毎年10月23〜25日に行われる上野天神祭は国指定重要無形民俗文化財に指定され、だんじりや神輿、鬼行列などで賑やかです。又楼門、鐘楼も市の文化財指定を受けています。残念ですが2010年7月の本殿は焼け落ちました。写真は2011年8月。 地元の人間は正月にはお参りに行ったものです。
上野天満宮・正面外観 |
上野天満宮・鐘楼 |
上野天満宮・撫で牛 |
上野天満宮・芭蕉の句碑 |
上野天満宮は、かの俳聖松尾芭蕉が、伊賀藤堂家に仕官していた武士の身分を捨て、俳諧で身を立てることを決意した時に、自分の文運を祈願して「貝おほい(貝おほひ)」という作品集を奉納した神社としても有名です。寛文12年(1672年)のことだったそうです。 |
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天正13年(1585) 筒井定次、大和郡山から移封(転勤)伊賀の領主となり、上野天満宮を祀る(文禄〜慶長=筒井時代に能・狂言等の假面や衣裳を着けて、祭行列の前駆をなしたといわれる)。
神戸神社(かんべじんじゃ)
■元伊勢とも呼ばれる神戸神社は、日本書紀によると、往古より穴穂宮と称し、明治四十一年十月村内諸社を合祀し、社号を神戸神社と改める。 倭姫世紀によれば、第十代崇神天皇御代に倭姫命は天照大神を戴き御杖代となられ、倭国笠縫邑よりお出ましになり、各地を巡幸されました。 崇神天皇六十六年巳丑伊賀国穴穂宮に立ち寄られ四年間御鎮座になりました。伊勢より先に祀られており、元伊勢の名でも呼ばれています。 倭姫命が暗崎川(現在、木津川)の川上の岩鼻という所にて鮎を取り朝神饌・夕神饌に大神様へ共進されてました。 その後、第十一代垂仁天皇即位二年癸巳に同国敢都美恵神社へ遷られる。伊勢神宮とのかかわりも深く、伊勢神宮と同様、神戸神社も20年に1度、伊勢神宮の古材を譲り受けて遷宮を行なっている。
伊賀東照宮
■伊賀東照宮は、1977年(昭和52年)に創建された、比較的新しい神社です。 創建にあたって、創祀者・坂野つなへ氏が日光東照宮から御分霊を受け、天照坐皇大神、天御中主大神、天押雲命とともに奉祀したのがはじまりでした。 三重県伊賀市老川1103-2。
伊賀東照宮の鳥居と拝殿 |
伊賀東照宮の拝殿 |
その後、出雲大社から大國主命の御神像を拝受、それもあわせて奉祀し、境内社として火之神、火之迦具土神、水之社、綿津見神を祀りました。崇敬者から篤い奉賛を賜り、社殿を建立、境内を整備し、1998年(平成10年)には拝殿の改築を終え、現在に至っています。 |
伊賀東照宮の石碑 |
伊賀東照宮の楓樹 |
楓樹(ふうのき)の由来書き |
中国の天子の住まいに植えられる嘉樹である楓樹。
享保年間(1716〜1735年)徳川第8代将軍吉宗公が中国から取り寄せ、皇居に生存していた木の種子を昭和天皇が日光東照宮に下賜され、成長したその内の一本が伊賀東照宮に奉納されております。
藤原千方 窟伝説地
藤原千方 窟伝説地 (ふじわらのちかた、伊賀市高尾)
■藤原千方(ふじわらのちかた)とは、平安時代に伊勢と伊賀との国ざかいでとても大きな勢力をもっていた豪族・藤原千方将軍が、金鬼(きんき)、風鬼(ふうき)、水鬼(すいき)、隠形鬼(おんぎょうき)という四鬼(よんき)を従えて、朝廷に対して反乱を起こしたとされる地。 忍者発祥の地とも言われる。 様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名。 その話によると、平安時代、時の豪族「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。 どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。 藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる。これを受けた表現が謡曲「拾葉抄田村」や各種の御伽草子に散見される。
「藤原千方と四鬼」の話は、どうやら『太平記』「巻第十六 「日本朝敵事」からの引用で、謡曲「拾葉抄田村」に「伊水温故」から引いてつぎのようにあるという。 「伊賀の国霧生(きりゅう)村三国ヶ嶽に、千方将軍の籠居の旧跡あり。谷は北面十五間、東西八間、門は北向石柱二本有り。長さ一丈、一本は折れたり。村上天皇御宇藤原千方正二位を望みしに、其甲斐なかりければ、是を逆心し、日吉の神輿を取り奉り、彼は山に取籠もる・・・云々」 霧生村とは、現在の三重県伊賀市大字霧生であり、隣接して、大字種生(たなお)、その北に大字
川上、大字 阿保(あお)と続く。 また、種生について、種とは山陰で砂鉄のことをいい、タタラに砂鉄を入れるとき、種を入れるという。 太平記は軍記物語で、南北朝時代後半(1370年代)成立。 参考文献 『太平記(二)』(日本古典文学大系 岩波書店) 他
■藤原千方の補足 太平記より抜粋「また天智天皇の御宇に藤原千方といふ者有つて、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼といふ四つの鬼を使へり。金鬼はその身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼はその形を隠して、にはかに敵をとりひしぐ。かくの如く神変、凡夫の智力を以つて防くべきにあらざれば、伊賀・伊勢の両国、これがために妨げられて王化に従ふ者なし。ここに紀朝雄といひける者、宣旨をかうむつて、かの国に下り、一首の歌を読みて、鬼の中へぞ送りける。 草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき 四つの鬼この歌を見て、「さてはわれら悪逆無道の臣に従つて、善政有徳の君を背きたてまつりける事、天罰遁るるところ無かりけり」とて、たちまちに四方に去つて失せにければ、千方勢ひを失つてやがて朝雄に討たれにけり。 底本 新潮日本古典集成『太平記 三』昭和58年(1983)4月、新潮社、校注=山下宏明/p.86-91 藤原秀郷や平将門と遠からぬ縁があったようだ。 他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。
また、この四鬼は忍者の原型であるともされる。 白土三平の「忍法秘話」のエピソードに出てくる四鬼は、火鬼、土鬼、水鬼、隠形鬼となっている。
種生神社(たなおじんじゃ)
国道165号「青山羽根」交差点を南へ。 三重県伊賀市種生松屋敷(旧名賀郡青山町種生松屋敷)
伊賀市の山間部に鎮座する。読み「たなお」。 神宮寺の常楽寺(伊賀市)が隣接する。
■種生神社は明治30年代に合祀を重ね、旧種生村と旧矢持村の六つの大字を氏子区域とし、明治40年に鹿島神社から種生神社に改称された。この合祀により鹿島神社3枚、若宮神社4枚、若宮八幡宮1枚の計8枚の棟札が集められた。老川の若宮神社の棟札3枚とともに昭和20年に重要美術品に認定されていたものである。いずれも杉板で長さ72〜135cm、一点のみ角頭形で、他は圭頭形である。室町時代初期の応永26(1419)年から江戸時代初期の元和6(1620)年の銘が記されている。天正伊賀の乱の激戦地。
主祭神 武甕槌神。その他18柱。 「伊水温故」によると同市阿保の大村神社からの勧請であり、創立は神護景雲三年(771)。 「三国地誌」に「鹿島祠、香取平岡同殿本社若宮」と記されている。
■若宮八幡神社 (ワカミヤハチマンジンジャ) は、伊賀市老川 219。 天押雲命・火之迦具土神・速玉男命 を祀っています。
兼好塚(吉田兼好の墓)
■徒然草で有名な吉田兼好ゆかりの地。 伊賀市種生字国見(伊賀国名張郡国見山)に、地元の人が誇りとする兼好塚(兼好法師遺跡公園)があります。 遺跡地は東西20m、南北30mの平坦な雑木林で、高さ1.2mの遺跡碑が中央に建てられていて、碑の前に土石がすこし高く積み上げられていて、これが兼好の塚と言われてます。 「徒然草」の作者として有名な兼好法師(けんこうほうし)は晩年をここで過ごし、そしてここで生涯をとじたという伝承が土地の人に深く信じられています。 種生区では兼好法師遺跡保存会をつくり、この遺跡を永く保存するように努めているそうです。 「兼好法師遺跡碑」が建っている小公園風の林間に隣接して、今は梅畑になっている草蒿寺跡があります。
三田廃寺跡
■三田廃寺跡(伊賀市三田) JR伊賀上野駅北側に所在し、壬申の乱後に建立された古代寺院の跡。現在は、リクシルの工場の駐車場となっており、見る影もないが、ただ三田廃寺址の石碑がある。
昭和の初めころには元の地形が残存していたようで、地籍図から中門・塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置を措定しています。 創建時の瓦としては白鳳期(660-670頃)の単弁八葉蓮華文軒丸瓦があげられます。 この瓦は山田郡の鳳凰寺廃寺とは同種の瓦でありながら、別系統の製作工人の存在が想定されています。 また、以降の時期(天平期、難波宮・・)の瓦も多数発見されている事から三田廃寺は古代から中世にわたって存在した。
三田廃寺跡(伊賀市三田) |
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日本の風景と歴史|西三重(伊賀市) 倭姫命と「徒然草」の兼好法師 |