日本の風景|名張・万葉の会 斑鳩 藤ノ木古墳 |
生駒郡斑鳩(いかるが)町
斑鳩町は、奈良県北西部に位置し、生駒郡に属する町。飛鳥時代に聖徳太子の手によって法隆寺が建立されたことなどでよく知られる、古い歴史を持つまちである。法隆寺のすぐ西に広がる西里の集落は、近世初期の日本で最も組織的な力をふるった大工棟梁中井正清の育った集落でもある。古代の大和国平群郡夜麻(やま)郷、坂戸郷の地である。龍田川が大和川に合流する地点の北西にある神南備・三室山山頂に延喜式内・神岳(かむおか)神社が鎮座する。飛鳥時代には聖徳太子が斑鳩宮を営み、当時創建された法隆寺、法起寺、法輪寺、中宮寺は現在に伝わり法隆寺と法起寺が世界遺産に登録されている。
近年、藤ノ木古墳の発掘でも有名になった。 法隆寺は10回位行っている。
切手以外の写真はクリックで拡大。 2015年11月5日撮影。
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藤ノ木古墳
■藤ノ木古墳は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳。 国の史跡に指定されている。「藤ノ木」の名称は所在地の字名に由来するが、法隆寺関係の古文書・古記録によれば、かつては「ミササキ」「陵山」(みささぎやま)などと呼ばれていた。玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代から古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。 古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350メートルに位置する。 出土物は斑鳩文化財センターで見ることができます。
発掘調査結果から、径約50メートル、高さ約9メートルの円墳であるとされている。ただし、現状は周りの水田や建物により少しずつ削り取られていて、高さ約7.6メートル、最大径約40メートルである。大和での埴輪の設置は6世紀前半で終わったと考えられていたが、墳丘裾には円筒埴輪が並べられていて、従来の見解を訂正することになった。
斑鳩文化財センター
■藤ノ木古墳から南へ200メートルほど行くと、ガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されている。奈良県立橿原考古学研究所では出土した馬具を3Dプリンターで復元し一部は一般でも触れるようにしている。
斑鳩文化財センター 平成27年度秋季特別展「藤ノ木古墳と大和の横穴式石室 ―出土品との比較から見えるもの―」 の展示物を中心に。 国宝の藤ノ木古墳出土品のほか、県内の横穴式石室のある古墳の出土品を展示。
★玄室奥には、石室主軸に対し直交する方向で、石棺が安置されていた。大阪府と奈良県の境に位置する二上山(にじょうざん)で産出する白色凝灰岩(ぎょうかいがん)を使用した刳抜式家形石棺で、棺の内外面に朱が塗られていた。棺身の最大長は235cm、最大幅139cm、最大高152cmで、頭側である東側が幅広く作られていた。蓋の長辺には左右各2個の縄掛(なわかけ)突起が作り付けられている。
展示物
金銅製鞍金具(前輪) 環状乳画文帯神獣鏡など(国宝藤ノ木古墳出土品)
割塚古墳(大和郡山市)垂飾付耳飾、 植山古墳(橿原市)金銅製歩揺付飾金具、
平林古墳(葛城市)方製画文帯四仏四獣鏡、 條ウル神古墳(御所市)金銅製冠、
藤ノ木古墳出土品(復元品)金銅製鞍金具(前輪)、 太刀など
生駒郡斑鳩町龍田
■生駒郡斑鳩町龍田は、江戸時代初期には片桐且元を藩祖とする竜田藩が置かれた。
竜田川(たつたがわ)は、大和川水系の支流で奈良県を流れる一級河川である。上流を生駒川(いこまがわ)、中流を平群川(へぐりがわ)という。
竜田川流域は古来から交通の要所であり、斑鳩町龍田の「竜田大橋」付近はいくつかの街道が分岐している。 古よりの紅葉の名所として名高い。
竜田揚げは、この川の紅葉の色に似ていることから名前の由来とされている。
竜田川やその近くにある三室山は、百人一首にも登場している。とくに下流は紅葉の美しさから、歌枕として古来より多くの和歌に詠まれた。百人一首では二首撰ばれている。中でも在原業平の和歌は有名である。この歌を題材とした「千早振る」という落語もよく知られている。
★烏土塚古墳(うどづかこふん) 生駒郡平群町春日丘 形式=前方後円墳 築造=六世紀後半ごろ
竜田川の右岸、生駒山地より延びる廿日山丘陵上にある前方後円墳で、全長約60m、前方部を北に向けている。埋葬施設は、花崗岩の巨石を用いた両袖式の横穴式石室で、全長14.2m、棺を納める玄室は長さ6mである。玄室奥と羨道部に組み合わせ式の石棺が収められていた。玄室の石棺東側面には斜格子文の先刻が見つかり、県内での石棺装飾の数少ない類例である。石室は何度も盗掘を受けていたが、銅鏡、金銅製馬具、象嵌をもつ太刀、鉄鏃、刀子(とうす)、耳環、ガラス小玉など多数の遺物が出土した。また、石室の前庭部に人物や家形埴輪などの形象埴輪が須恵器の甕や子持ち器台とともに出土し、機内での埴輪祭祀の終焉段階の資料として重要である。
大和国平群郡夜麻郷、坂戸郷の地
■大和猿楽四座の一つ。ここから能楽の金剛座が出た。外山(とび)(=宝生座)、結崎(ゆうざき)(=観世座)、円満井(えんまんい)(=金春座)などと共に奈良の春日神社の神事に奉仕した。法隆寺の西、大和国平群郡坂戸郷、現在の奈良県生駒郡平群町付近にあった。坂戸座。
金剛流発祥之地 |
金剛流発祥之地碑 |
水盤の上に石の鶏 |
大和国平群郡夜麻郷、坂戸郷の地 |
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■金剛流(こんごうりゅう)とは、日本の伝統芸能である能楽のうち、能のシテ方の流派の一つ。流祖は室町時代の坂戸孫太郎氏勝(1280〜1384年)と伝える。鎌倉時代から法隆寺に勤仕し、その後、春日社興福寺の神事猿楽に「式三番(翁)」を勤めた大和猿楽坂戸座に属して演能を行っていた。桃山時代には「能狂い」と言われた豊臣秀吉により800石の朱印が与えられるなどしたが、他座の勢力には至らなかった。優美華麗な芸風で、特に舞の型が華やかなことから「舞金剛」ともいわれる。豪快な演技も特徴で、大胆奇抜な離れ業を見せることも多い。猿楽(さるがく、猿樂)は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。
西里の集落
■法隆寺西一丁目付近の「西里の町並み」です。西里は、法隆寺を支える人々の生活する集落で、法隆寺作事に携わった大工が住んでいたと伝えられています。 法隆寺西大門から西一直線に200mほど、歴史を感じる土壁や鳩倉等が残る旧村60軒ほどの家が、続いています。 すぐ近くには藤ノ木古墳があります。 塀で囲まれた屋敷内には畿内らしくしっかりとした質の高い民家が垣間見られ、集落の周りには田園が広がるという「斑鳩の里」を代表する農村集落である。
法隆寺 |
西里公園 案内 |
西里の町並み |
西里の町並み |
コスモス畑 |
柿木 |
立派な西里の町並み |
独特な塀の作り方 |
コスモス畑と柿木 |
西里の土塀 |
民家の庭先 |
西里から法隆寺へ |
安田家は江戸幕府の大工頭、中井家の配下で禁裏御所(京都御所)や城郭など多くの作事・普請に携わった。中井家の中井正清(1565〜1619)は徳川家康に重用され、畿内・近江国の大工を束ねて二条城、伏見城、江戸城、名古屋城、御所、知恩院、法隆寺、日光東照宮などの造営・修理に当たった。
作成にあってはWikipediやパンフレットを参考にしてます。 |
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