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今回は大阪府藤井寺市と羽曳野市 葛井寺(ふじいでら)から古市古墳群(陵の道)に。 藤井寺市は大阪府南河内にあり、倭の五王や大小の古墳が密集する古市古墳群や、西国三十三箇所第5番札所の葛井寺の門前町として知られる。 市名は、市内にある「葛井寺」に由来する。 藤井寺では今、百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産への準備を進めています。
東高野街道は、京都から高野山への参詣道の一つ。 生駒山西麓を南下し、国府遺跡、道明寺、誉田八幡宮を通り、古市への街道は、古道ならではの昔の面影を偲ばせます。 修羅は古代の重量物を運搬した木橇で、巨大墳墓、前方後円墳の築造に使われた道具だと考えられています。巨大な修羅(シュラ)が出土した道明寺一帯は“土師氏の里(はじしのさと)”と呼ばれ、当時の壮大な土木建築の様子が甦ります。 当日は藤井寺市観光協会のガイドさんが案内を。 平成22年06月03日。 羽曳野市と藤井寺市は現在、古市古墳群を世界遺産の登録すべく頑張っています。 切手以外の写真はクリックで拡大。
藤井寺には、古くから、堺と奈良を結ぶ長尾街道(古代の大津道)と竹内街道、高野山へ通じる東高野街道が通じていた。
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藤井寺への行き帰りの風景
名張から藤井寺へのコースは近鉄電車を利用し、往は、名張→大和八木→橿原神宮前→古市→藤井寺、復は柏原市安堂→河内国分→名張でした。早朝から温度もどんどん上昇し、帰る時は奈良に入ると俄かに雷が聞こえる天気模様。一気に電車のドアを開けるたびにひんやりとした風が入ってきた。 ボランティアガイドさんも沢山きてもらい、充実した1日でした。
畝傍山(うねびやま)は、奈良盆地南部に位置する山。かつては「畝火山」、「慈明寺山」、「御峯山」などと呼ばれることもあった。耳成山、天香具山とともに「大和三山」と呼ばれ、標高は198.8メートルと三山の中では最も高い。明治に入ってから、国は神武天皇(じんむてんのうの宮(畝傍橿原宮)があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を興し、それまで多武峰で奉斎してきた神武天皇の「御霊」を移したとされる。付近には藤原京跡、飛鳥京跡などの都城跡や数々の古墳がある。神武天皇(庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)〜神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。都は畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)である。『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」とある。
橿原神宮前駅からの畝傍山 |
近鉄電車・古市駅 |
近鉄電車・藤井寺駅前 |
藤井寺駅前の万葉歌碑 |
・春されば ををりにををり うぐひすの 鳴く我が山斎ぞ やまず通はせ 第六巻−1012 葛井広成 |
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■遣唐使 井真成のふるさと 大阪府藤井寺
井真成(いのまなり)文武2年(698)南河内に生まれました。19歳のとき、縁あって第9次遣唐使の一員に選ばれ、唐の都憧れの長安に向かいました。同期生には阿倍仲麻呂、吉備真備、僧玄ムなど英才が揃っていました。
10次遣唐使船が帰国する時に同期生と共に乗船する予定でした。ところが、帰国を目前にした開元22年(734)の正月、急に命を落とすことになってしまいました。
井真成の墓誌の発見以降、彼の出自をめぐっては、井真成(いのまなり)という姓名をどう読み取るかでさまざまな議論が交わされています。 まず、井真成は日本名そのままだとする説と中国で改名されたものだという説に大きく分かれます。改名説は日本名にちなんでいるという説と、全く中国風に改名したという説に分かれます。日本名にちなんでいるという説は葛井氏説と井上氏説に代表されます。
葛井、井上氏ともに藤井寺に本拠をおいた渡来系氏族でした。葛井氏は葛井寺を氏寺とし、その周辺に集落を営んでいました。井上氏は衣縫廃寺あるいは大井廃寺を氏寺とした可能性があり、居住域もその近辺に求められるでしょう。
井真成(いのまなり)のふるさとは、現在確定させるまでにはいたっていません。しかし、その有力な候補地は藤井寺市内にあるのです。
葛井寺の本堂 |
葛井寺の本堂の脇の仏像 |
葛井寺の本堂・十一面千手千眼観世音菩薩像の手と目 |
辛國神社の一の木製両部鳥居 |
辛國神社の本殿 |
辛國神社合祀の春日大社 |
道明寺天満宮入口 |
道明寺天満宮・「土師窯跡」 |
道明寺天満宮の |
■藤井寺市船橋町に鎮座する大山咋神社(おおやまぐいじんじゃ)。
『大山咋神社御縁起(おおやまぐいじんじゃ)』では、古事記によれば、須佐之男命の子、大耳神が父で母は天知迦流美豆比売である。大山咋神の亦の名は、山末之大主神とある。大山咋神は比叡山松尾山の頂く居ます地主神で山林農耕を司る神であると共に雷神水神としての性格を持ち合わせた神でもある。
■江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川ともいう、本流)・楠根川・玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、吉田川など一部は寝屋川が注ぎ込む深野池(大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の水と長瀬川本流は現在の大阪市鶴見区放出周辺で合流し、さらに淀川支流の古川、同じく河内平野を流れる平野川と次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。淀川はそこからまた安治川や木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のように堺に向け西流するようになった。大和川の旧流路にあたる中河内では河川敷の跡地や大きな池の跡地が新田(深野池は深野新田などに、新開池は鴻池新田などに)となり、とくに川床跡の砂地に適した木綿栽培や綿業がさかんになった。
■ミサンザイ古墳(みさんざいこふん)とは、日本の古墳の名称。 ミサンザイとは『みささぎ(御陵)』がなまったものとされており、各地に同名の古墳がある。
世界遺産 |
岡ミサンザイ古墳のハッキリ |
世界遺産 |
★世界遺産名:「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」
百舌鳥・古市古墳群は,古墳時代の最盛期であった4世紀後半から5世紀後半にかけて,当時の政治・文化の中心地のひとつであり,大陸に向かう航路の発着点であった大阪湾に接する平野上に築造された。
世界でも独特な,墳長500メートル近くに達する前方後円墳から20メートル台の墳墓まで,大きさと形状に多様性を示す古墳により構成される。墳丘は幾何学的にデザインされ,埴輪などで外観が飾り立てられ,葬送儀礼の舞台となった。(令和元年登録)
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