大和の風景の切手と写真|橿原 古都・藤原京と本薬師寺跡、紀寺跡、鷺栖神社、橿原神宮 |
そこかしこに千年の歴史が見え隠れする橿原市。 大和朝廷時代には歴史の中心として、江戸時代には自由都市として栄えた橿原には、日本最初の本格的都城 藤原京、江戸時代の面影を残す今井町、神話と伝説が交差する神社仏閣、そして日本最古の歌集・万葉集に詠まれた場所が数多くあります。
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藤原京・日本で最初の本格的な都
1300年前の首都・藤原京の中心、現在でいえば皇居と国会議事堂と霞ヶ関の官庁街をあわせたところが藤原宮です。都の中央約1km四方を占め、まわりは高さが5.5mもある瓦葺きの塀が巡り、各辺には門が3ヶ所ありました。そして、塀に平行して内堀と外堀がつくられていました。
宮の内部は、中央に政治・儀式の場である大極殿、貴族・役人の集まる朝堂院が南北に並び、大極殿の北は天皇の住まいの内裏でした。大極殿と朝堂は宮殿で初めての瓦葺きで、礎石の上に柱が立つ建物です。
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大和八木駅・ |
近鉄畝傍御陵前駅 |
橿原市観光案内マップ |
イワミンは、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)のマスコットキャラクターです。 |
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大和三山 耳成山 |
談山神社の多武峰 |
※平成25年6月6日万葉の会は奈良・橿原の藤原京とおふさ観音(下ツ道)に行きました。「大和の風景の切手と写真|橿原 古都・藤原京と橿原神宮」、「大和の風景の切手と写真|橿原 おふさ観音、今井町、八木札の辻交流館 他」に統合しました。 |
藤原京の写真
■この藤原京は「大和三山」と言われる、香具山・畝傍山・耳成山という奈良 盆地の中に立つ小さな山が作る三角形の真ん中にあります。これは北の耳成
山で防御をするとともに龍脈を取り入れ、東西の香具山・畝傍山を青龍砂・ 白虎砂とする、風水の基本形を使用していることが見てとれます。
初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。
万葉歌碑 春過ぎて 夏来(きた)るらし白たえの 衣干したり 天(あめ)の香具山 (持統天皇)
■日高山古墳群と横穴墓群:藤原宮跡の正面(南側)には日高山(ひだかやま)という低丘陵が存在します。日高山には5世紀中頃から6世紀には古墳が、6世紀から7世紀には横穴墓が複数築かれています。 これらの墓の一部は藤原京の時代に日高山が朱雀大路(都のメインストリート)の計画線に含まれた結果、削平されるなどして地上からその姿を消してしまいました。横穴墓の中には、この際に改葬されたことが明らかなものも存在しています。
■藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。また、藤原宮跡は大和三山の絶好の眺望スポットとなっています。藤原宮跡から見る朝陽・夕陽は息をのむほどの秀景です。平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されました。特に藤原宮跡から香具山方向を望む展望には、コンクリート系の建物がまったく映り込まないため、「光男の栗」「朱花の月」といった映画の撮影舞台にもなりました。
本薬師寺跡 (もとやくしじあと)
■本薬師寺跡は、現在奈良市の西の京にある薬師寺(やくしじ)の前身にあたる寺です。天武(てんむ)天皇が後の持統(じとう)天皇である皇后の病気平癒のため祈願して、天武9年(680年)に薬師如来を本尊とする寺の建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。当時は、金堂や東西に二つの塔がありました。
■平城遷都に伴って寺は伽藍ともども西の京へ移築されたと言われていましたが、別々に造られたという説が有力です。それ以来、この寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれるようになりました。
■黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年 - 2003年)は日本の小説家。 大阪市生まれ。父方の祖先は和歌山県新宮市の廻船問屋。旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)。1970年代後半から、以前より関心のあった古代史を舞台にした歴史小説の執筆を始め、『天の川の太陽』で吉川英治文学賞をした。古代史の舞台となった場所で生まれ育ち、百舌鳥古墳群の近くで遊んでおり、中学では飛鳥を中心にして古墳を利用するなどの軍事練習をしていたため、後に高松塚古墳が発見されたときに衝撃を受けたという(尾崎秀樹との対談(『紅蓮の女王』))。
紀寺跡
■橿原市の藤原京跡に紀寺跡が残る。 紀寺跡(きでらあと): 地域系古代豪族の勇・紀氏の氏寺の跡とされる県指定史跡。 橿原市の上飛騨町の縁を流れる飛鳥川に架かる橋を上飛騨橋という。橋を渡って飛鳥川の右岸に出ると、三叉路の角に橿原公苑明日香庭球場方面への標識が立っている。
創建時期は、出土した軒丸瓦などから藤原京造営以前の天智朝(7世紀第3四半期)と推定されるが、後に藤原京左京8条2坊の全域(4町)を占めるように整備された形跡がある。天智朝に中心伽藍の造営を開始し、藤原京条坊施行のころ寺域を整備したものと考えられる。
発掘調査によって、金堂跡(東西18.5m、南北16m)、講堂と(東西32m、南北19.9m)、中門跡(東西12m、南北8.2m)、南大門跡、回廊跡(東西76m、南北82m)、南西・東西の大垣、寺域南側の道路跡などが検出された。
紀寺は地名の明日香村小山小字キデラに由来しており、地域系古代豪族の勇・紀氏の氏寺だったと推定される。
鷺栖神社(さぎすじんじゃ)
■「鷺栖神社」は中臣氏の氏神として祀られていた神社で、飛鳥の鳥形山(現在の飛鳥坐神社が鎮座する山)にありましたが、藤原宮遷都の際に持統天皇が藤原不比等の助言で分祀したようです。
藤原宮の鎮守神とも伝えられます。 延喜式内の古社で、春日大明神と称していた時期もあるようです。 祭神;天児屋根命、誉田別命、天照皇大神
藤原京の切手
■藤原京は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。
また、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な中国風都城でもある。 この都城は、周礼が説く思想を表していたとされている。690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(景雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。
大きさは約900m四方、まわりを大垣(高い塀)と壕で囲み、各面に3ヵ所ずつ門が開きます。中には天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と朝堂院、そして役所の建物などが建ち並んでいました。 藤原宮跡は、平城宮跡とともに、歴史的・学術的に貴重な価値を有する重要な遺跡として、昭和27年特別史跡に指定されました。
『日本書紀』には、持統天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」とある。
藤原京創都1300年 |
藤原京創都1300年 |
※壬申の乱 荒々しい岩肌と水量豊かな吉野川が美しい景観を織り成す吉野町宮滝。672年、飛鳥を去って隠遁(いんとん)していた大海人皇子は、この地で挙兵して大津京を目指した。古代最大の内乱と言われる「壬申の乱」。約1カ月で大友皇子軍を破った大海人皇子は、飛鳥浄御原宮を開き天武天皇として即位する。 |
藤原京に纏わる「ふみの日」切手「持統天皇」 |
■持統天皇は天智天皇の皇女であり。おじに当たる天武天皇の后。第41代の天皇。在位は686年~697年。歴史的には、藤原京への遷都を行った天皇として有名です。この百人一首では2番目に登場する方は持統天皇(645~703年)です。日本の切手に名前入りで登場した天皇としてははじめてということ。藤原京は今の橿原市を含む大和三山(畝傍山・香具山・耳成山)をも含む大きさを持っていた。 |
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藤原京から平城京に遷都
■藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日
(旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで74年間都が置かれ政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。 810年(弘仁元年)9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。
遷都の年号の語呂合わせは「710(南都)きれいな平城京」、もしくは「710(南都)大きな平城京」、「710(南都)素敵な平城京」、「710(南都)美しい平城京」、「奈良の710(納豆)平城京」など。
藤原京CG再現プロジェクト
「中ツ道」路面を発見 藤原京-平城京結ぶ幹線道路 奈良 2013.5.12
■橿考研、天理で 奈良盆地を南北に貫く古代の幹線道路「中ツ道」の路面の一部が天理市喜殿町で見つかり、県立橿原考古学研究所が11日、発表した。砂を敷いて突き固めて舗装されたとみられ、同研究所は「謎に包まれた中ツ道の姿を明らかにする重要な資料」とみている。
今回新たに見つかったのは、長さ約15メートルにわたり、幅約3メートルの路面と、その東側に接する幅2・2メートルの側溝跡。中ツ道全体の幅は23~28メートルとされ、今回は東側の一部とみられる。
路面は細かい砂を敷いて、突き固めて整備していたとみられることが判明。側溝跡からは平安時代の土器も見つかり、同研究所は飛鳥時代から平安時代まで使われたと推定している。
中ツ道は、並行する「上ツ道」「下ツ道」とともに藤原京(橿原市)と平城京(奈良市)を結んだ幹線道路。飛鳥時代に整備されたとされ、日本書紀の「壬申の乱」(672年)の記述にも登場する。
奈良・橿原神宮(かしはらじんぐう)
■橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市の畝傍山の麓、久米町に所在する神社。 記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、 神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890年)に官幣大社として創建された。
神武天皇畝傍山東北御陵もあります。橿原神宮は、第一代の天皇であり我が国建国の始祖となられた神武天皇と、皇后の媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が祀られている。 強力なパワースポットです。
神武天皇は、天照大神の天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より四代目に当たり、正式には「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」と申し上げます。皇后の媛蹈韛五十鈴媛命は、大物主命の御娘に当たる方です。
■さざれ石:国歌「君が代」の歌詞「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いわお)となりて苔のむすまで」に出てくる「さざれ石」。 外拝殿(げはいでん)向かって右手には、「さざれ石が巌になった」状態の実物が置いてあり、誰でも自由に見ることができます。 「さざれ石」を漢字で書くと「細石」。「小さな石、細かい石」という意味です。「巌」とは、たくさんの「さざれ石」が長い年月をかけて引っ付き、一つに大きく固まった岩のこと。 一般的に「さざれ石」という場合、この「巌」状態を指すことが多いようです。
若桜友苑へ向かう。
■若桜友苑は、表参道北側に広がる森林遊苑の中心をなす芝生広場。 今までの森厳な林地と対照的に開放的な遊園で、野外ステージ・休憩所などの設備があります。 正面には畝傍山(標高199m)が、優雅な姿で歴史を物語ってくれるようです。 この畝傍山の全容を眺められる遊苑内に、国文学者・民俗学の泰斗で、歌人としても独自の境地を拓かれた釈迢空(折口信夫)の歌碑があります。
■池田神社 (イトクの森古墳) 祭神:大日本耜友尊(懿徳天皇) 橿原神宮外苑の中、若桜友苑の側にある社。古墳時代初期に築かれた、30mほどの前方後円墳の上に鎮座しています。墳丘は前方後円墳。推定寸法は以下のとおり(但し前方部は消滅)後円部径16m、高さ1.8m、前方部幅12~15m、高さ1.2m。前方部を南東に向ける。 その古墳は古来より「イトクの森」と呼ばれ、第4代懿徳天皇のものと考えられてきました。一説には懿徳天皇皇后のものとも。文久三年(1863年)に当社より西南西400mほどのところにある墳墓が比定陵とされています。 明治の終わりに前方部が掘削、現在は後円部だけが残る哀れな姿に。古墳かどうかの判別すら困難なほどの状態に。その時に石槍、石鏃、瑪瑙片、土師器などが出土しています。 なお当社の西200m足らずのところに東大谷日女命神社があり、こちらが本来の式内社、畝火山口神社であると思われます。
■懿徳天皇(いとくてんのう、綏靖天皇29年 - 懿徳天皇34年9月8日)は、日本の第4代天皇(在位:懿徳天皇元年2月4日 - 懿徳天皇34年9月8日)。『日本書紀』での名は大日本彦耜友天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。 宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)、『古事記』では軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)。 陵(みささぎ)の名は畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市西池尻町にある俗称「マナゴ山」に治定されている。
奈良・神武天皇陵(じんむてんのうりょう)
■神武天皇は、皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降られた日向(ひゅうが)国高千穂の宮におられたが、天下の政治(まつりごと)を行うべくはるばる東遷の途に立たれた。途中幾多の困難に遭われたが、ついに大和の国を中心とした中つ国を平定され、畝傍(うねび)の橿原の宮において即位の礼をあげて、国の基をたてられた。
更には、「日本書紀」と「古事記」が伝えるところによると、初代天皇、神武天皇は、日向(現在の宮崎)地方から瀬戸内海を東に進んで難波(現在の大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族長髄彦に阻まれたため、南下して熊野へ回りました。そこで出会った八咫烏というカラスに導かれて吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力をしたがえた後、最後に宿敵の長髄彦を倒して大和地方を平定。 そして、紀元前660年の1月1日に橿原宮で即位されました。
神武天皇陵は、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)と呼ばれ、宮内庁の管轄となっています。 また、平成31年3月26日、天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后)が神武天皇陵を訪ねて「親謁(しんえつ)の儀」で神武天皇に退位を奉告された。
橿原神宮 神武天皇畝傍山東北御陵 |
橿原神宮 神武天皇畝傍山東北御陵の石碑 |
神武天皇畝傍山東北御陵 |
神武天皇畝傍山東北御陵 |
神武天皇畝傍山東北御陵 |
神武天皇畝傍山東北御陵 |
神武天皇畝傍山東北御陵 |
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神武天皇陵 |
神武天皇陵(宮内庁) |
畝傍山の北東の麓、橿原神宮に北接する神武天皇(日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる)陵は、円丘で周囲は約100m、高さ5.5mの広い植え込みがあり、幅約16mの周濠をめぐらせています。 雨が強くなってきた。 |
畝傍山は大和三山の中で最も高い山で、瀬戸内火山帯に属する死火山が、二次的な浸食をうけたことにより現在の形となったものです。記紀によると、畝傍山の麓は初代天皇と伝えられる神武天皇が宮をひらいたところとされ、万葉集にもそのような歌が残っています。
畝傍山を詠んだ万葉歌 玉襷 畝傍の山ゆ 橿原の 聖の御代ゆ 生れましし ・・・
柿本朝臣人麻呂(巻1-29)
※玉襷(タマスダキ) 美しい襷を首(うね)にかけるの意で、「畝傍」の枕詞
※日知 神武天皇のこと。「日知」は農耕の日を知る意で、広く聖に用いる。
周辺には第2代・綏靖(すいぜい)天皇、第3代・安寧(あんねい)天皇、第4代・懿徳(いとく)天皇などの御陵が点在しています。
■綏靖天皇陵(すいぜいてんのうりょう)は、初代神武天皇陵に北接する円丘で橿原森林遊苑の北の端にあります。第2代綏靖(すいぜい)天皇(在位:前581年~549年)を祀る御陵は隣を走る県道の雑音から遮断され、鳥居と玉砂利で囲まれた雰囲気の中では荘厳なひと時を過ごせます。 御陵名は、桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)です。
■事代主神(ことしろぬしのかみ)は、『古事記』において大国主神と神屋楯比売命との間に生まれたとされる。
■平城遷都1300年祭は、メイン会場の平城宮跡では2010年4月24日から11月7日で行われました。 |
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大和の風景の切手と写真|橿原 古都・藤原京と本薬師寺跡、紀寺跡、鷺栖神社、橿原神宮、神武天皇陵、綏靖天皇陵 |