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山の辺の道(天理から柳本へ)
日本最古の道である大和の古道(やまとのこどう)のうち、奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道が『山の辺の道』です。 山の辺の道は、三輪山のある桜井市から天理市を経由して奈良市の春日山まで続く道です。 今回は道のりの丁度真ん中の天理周辺のの神社・仏閣・古墳(遺跡)を対象としました。 天理市は天理教の本山、伊勢神宮と同じ古さの日本最古の石上神社と七支刀、天皇陵があります。 各々格式だけでなく相当古く有名な神社や遺跡。 また各神宮等の謂れは、Wikipedia を参考にしてます。 奈良・桜井(泊瀬の道の海石榴市が山の辺の道の出発点若しくは終点と言われています。 平成22年6月5日及び平成24年4月5日撮影。
切手以外の写真はクリックで拡大。 参考 天理市(山の辺の道)
索引 [ 1.天理市と天理教・教会本部|2.石上神宮|3.内山永久寺跡|4.峠と乗鞍古墳|5.夜都岐神社|6.竹之内環濠集落|7.萱生環濠集落、西山塚古墳|8.西殿塚古墳(衾田陵)|9.行燈山古墳 (崇神天皇陵)|10.渋谷向山古墳 (景行天皇陵)|11.長岳寺|12.黒塚古墳|13.柳本駅へ ]
天理市と天理教・教会本部
■−天理市&天理教会本部 天理市(てんりし)は、奈良県北中部に位置する市。日本で唯一宗教団体の名称が市名となっており、市の中心部には天理教関連の施設が集中する等、宗教都市として知られてる。
市の中心部には石上神宮、大和神社や天理教関連の施設が集中しており、宗教都市としての性格を持ち合わせる。 「信者=落ち葉」で、天理市にお参りすることを“おぢばがえり”といいます。 天理市は歴史も古く、山の辺の道の中間点、文化財や史跡が散在してます。 天理市は天理教の本山、他には伊勢神宮と同じ古さの日本最古の石上神社と七支刀、天皇陵があります。
「天理参考館」という博物館は天理大学の付属施設で、アジア、アフリカなど世界各国の生活文化俗学、考古学関係の展示物が大充実。
天理の宿泊所 |
「天理参考館」 |
「天理参考館」という博物館 |
桜満開の「天理参考館」 |
「天理参考館」という博物館 |
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■天理教(てんりきょう)は、日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つである。中山みきを教祖(おやさま)とする宗教団体で、主祭神は天理王命(てんりおうのみこと)。そのほかに教祖と御霊を祀る。 |
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天理教本部(おぢばがえりで有名です) 正面が南礼拝場、右手が東礼拝場、左手が西礼拝場 |
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石上神宮(いそのかみじんぐう)
■−石上神宮 石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。 古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。 所在地は、天理市布留町。 境内に入ると驚くのは多数の鶏と泣き声です。 伊勢神宮にも居ました。 結構、神宮と鶏は相性が良い。 鳥居をくぐった瞬間に、「おお、この場所は何だか普通じゃないぞ」という感覚があります。心地よい気が流れてるとか、癒されるとか、そんな生っちょろいものではありません。ホンモノの神様パワーは、もっと圧倒的で怖いほどのものです。
物部氏ファンのページ 天璽瑞宝
内山永久寺跡
■−内山永久寺跡 内山永久寺跡 : 内山永久寺は、永久2年(1134)に鳥羽天皇の勅願により、興福寺大乗院第2世頼実が創建、大和では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受けていました。明治の廃仏毀釈の嵐の中で廃寺。石上神宮摂社「出雲建雄神社」の割拝殿(国宝)は、内山永久寺の鎮守だった住吉神社拝殿です(1914年に移築)。
『太平記』によると延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと伝えられ、「萱御所跡」という旧跡が残された。 大和国では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされた。
峠と乗鞍古墳
■−乗鞍古墳等の古墳 大和古墳群(おおやまとこふんぐん)は、奈良県天理市南部の萱生町から中山町に所在する古墳群である。「オオヤマト古墳集団」とも表記される。最大の古墳は西殿塚古墳である。
奈良盆地の東南の山麓に沿って、南から纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の3つの古墳群が、初瀬川右岸をおよそ南北に縦に並んで存在している。細分すると3つに分かれるが、1つの古墳集団としてとらえることができ、「オオヤマト古墳集団」は、このような最も広い意味で用いられる呼称である。
夜都岐神社(やつぎじんじゃ)の約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われている。
夜都岐神社(やつぎじんじゃ)
■−夜都岐神社と竹之内環濠集落 夜都岐神社(やつぎじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社である。旧社格は村社。夜都伎神社とも書かれ、「やつき」「やとぎ」などとも読まれる。 乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する。祭神は、武甕槌命・姫大神・経津主命・天児屋根命。 社地は宮山(たいこ山)と呼ぶ前方後円墳で、現拝殿前附近は土をならして平面にしたという。
竹之内環濠集落
■竹之内環濠集落は、県内で最も高地(標高およそ100m)にある環濠集落です。環濠の堀は西側にかろうじて池として残り、北側のラインには竹やぶが現存し、集落の西側入口の小さな児童公園に案内板が有ります。環濠集落は、南北朝時代から筒井順慶による統一まで、大和の戦国乱世が生んだ自衛の集落です。周囲に堀を穿って成立したと考えら、溝の内外を土塁により盛り上げ、さらに外側には竹を植えることにより防衛性を高めたようです。
竹之内環濠集落の入口の所 |
竹之内環濠集落の柿の木 |
竹之内環濠集落の菜の花畑 |
萱生環濠集落、西山塚古墳
■萱生環濠集落は、戦国時代に作られた環濠集落の一つです。西山塚古墳の周濠も環濠の一部として利用されたようですが、現在は溜池として利用されています。
萱生環濠集落 |
萱生環濠集落の野仏 |
西山塚古墳の説明 |
西殿塚古墳(衾田陵)
■西殿塚古墳(衾田陵)(にしとのつかこふん(ふすまだりょう)は、大和古墳群の中の中山支群の盟主的存在の前方後円墳。全長220mで衾田の陵と呼ばれている。出土土器の中に特殊器台などがあったことから、箸墓山古墳に準ずるごく初期の大型前方後円墳と判定されている。
西殿塚古墳(衾田陵)の案内 |
西殿塚古墳(衾田陵) |
衾田陵の傍の梅の花 |
行燈山古墳 (崇神天皇陵)
■−行燈山&渋谷向山古墳 崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)
- 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代の日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇であるともいわれる。都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。
大和古墳群では古墳間の規模にあまり差がなく、主墳と陪墳という関係ではない。南にある柳本古墳群は主墳と陪墳の傾向が強く、纏向古墳群は主墳と陪墳の関係で構成されている。なお、陪墳といっても強制の殉死をするわけではない。
大和古墳群中最大の前方後円墳である西殿塚古墳(墳丘長234メートル)は、柳本古墳群の行燈山古墳(現崇神天皇陵、241メートル)や渋谷向山古墳(現景行天皇陵、310メートル)に先行して築造された可能性が高い。
渋谷向山古墳 (景行天皇陵)
■景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年(紀元前13年)- 景行天皇60年11月7日(130年12月24日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代の天皇(在位:景行天皇元年7月11日(71年8月24日)
- 同60年11月7日(130年12月24日))。
景行天皇陵 |
景行天皇陵・拝所 |
和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。 垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。 |
景行天皇陵の全景(前方後円墳がハッキリと見えます。) |
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長岳寺(ちょうがくじ)
■−長岳寺 長岳寺(ちょうがくじ)は奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院。山号は釜の口山(かまのくちさん)、本尊は阿弥陀如来、天長元年(824年)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。関西花の寺二十五霊場第19番札所。釜口大師の名で親しまれます。 大門
は、1640年再建。 塀の縞模様が3本線で由緒あるお寺です。1万2千坪の広大な寺領に四季折々の美しい花々が咲き匂う長岳寺は、山の辺の道に位置し、最古の鐘楼門(重文)が伝わる古刹。
長岳寺境内に居た野良猫 |
長岳寺の境内図 |
長岳寺の大門 |
お寺の塀の線の数:お寺の壁ではなく塀に入ってる横線が五本のお寺は天皇家と関係がある寺院(門跡寺院といいます)です。 三本は天皇家との関係はないが、大きなお寺である場合が多いです。 横線が入ってないのは一般の寺院です。
JR桜井線「柳本」駅下車。 駅前広場から真直ぐ東側に延びている商店街(いささか寂れているが)を進む。400m程歩くと左手に黒塚古墳が見える。更に約200m進むと国道169号線に行き当たるのでそれを越えて、数十メートル北側にある三叉路を東の方向に向かう。途中、右手に崇神天皇陵が見える。左方向にトレイルセンターの建物が見えるので、その敷地内を通過すると長岳寺の大門に着く。
「柳本」駅から徒歩約20分。
黒塚古墳 卑弥呼に関連?
■−黒塚古墳と柳本駅 黒塚古墳は、全長約130m、後円部径約72m、後円部高さ約11m、前方部高さ約6mの前方後円墳。3世紀後半から4世紀前半の 古墳時代前期前半頃の築造と考えられている。大量の鉄製刀剣類や、U字形の鉄製品とともに、34枚の鏡(三角縁神獣鏡
33面、画文帯神獣鏡1面)が出土した。 邪馬台国の女王、卑弥呼は魏に遣使していたとされ、中国の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」には239年(景初3年)魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述があることから、三角縁神獣鏡がその鏡であるとする説がある。
参考:黒塚古墳資料館。
後円部中央に、墳丘主軸に直行して南北方向に竪穴式石室が造られていた。石室 は幅約 1.3〜0.9m、高さ約1.7m、長さ約8.3mで、古墳の規模から比べて大きな石室と言える。石室の大きさ、 副葬品の内容と数から推測できる被埋葬者は、当時この辺りで権力の中枢か、それに近い地位にいた人物人だと考えられる。 埴輪、葺き石などは確認されていないが、周濠だったと考えられる池が現存している。付近には崇神天皇陵・景行天皇陵と いった巨大古墳や、多数の鏡が見つかっている天神山古墳などがあり、また約2km南には卑弥呼の墓と言われる箸墓(は しはか)古墳がある。
柳本駅へ
■柳本駅(やなぎもとえき、JR Yanagimoto Station )は、奈良県天理市柳本町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)桜井線(万葉まほろば線)の駅。 黒塚古墳 - 前方後円墳で地元民には《くろづか》という名称で親しまれ、かつては公園と一体となった子供達の遊び場だった。30枚以上の三角縁神獣鏡が発見されたことで知られる。邪馬台国の女王卑弥呼の墓だという説もあるが、まだよく分かっていない。
柳本駅近くの町家 |
駅前の水仙の花 |
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