名張・万葉の会|藤井寺&羽曳野 恵我長野北陵(市ノ山古墳・允恭陵古墳) |
恵我長野北陵(允恭陵古墳)
世界遺産・允恭(いんぎょう)陵古墳は、国府台地の北端に立地し、市野山古墳(市ノ山古墳)と書いてある文献もある。 陵名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)。 墳丘230mの前方後円墳。5世紀中頃から後期にかけての築造と思われる。 堤と濠が二重にめぐっている。三段の墳丘の両側には造り出しが付く。 整美な外観は古墳時代中期の代表的な墳形といわれています。出土した埴輪の特徴から、この古墳の築造年代は5世紀中葉でも新しい時期で、誉田山古墳よりも新しく、岡ミサンザイ古墳よりも古い様相をうかがうことができるという。
江戸時代までは「市野山」と呼ばれ、綿作が行われていました。後円部の外周は旧長尾街道(大津みち)です。
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■允恭天皇は、後に小野小町の祖とされ和歌の神となる、衣通郎女(そとおしのいらつめ)という絶世の美女を愛した事でも知られる。衣通姫は、柿本人磨呂・山部赤人と並んで、和歌三神と尊ばれているほど。
国府八幡神社
■衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)は『古事記』、および『日本書紀』にある記紀伝説のひとつ。 允恭天皇の御世、その子に木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)という兄妹がいた。 二人の母方の叔母である八田王女(やたのおうじょ)は美しい女性で、その美しさが衣を通してあらわれるようだという意味を込めて「衣通姫」と呼ばれていたが、軽大娘皇女もまた叔母に似て美しかったため、同様に「衣通姫」と呼ばれていた。
当時は異母きょうだいであれば婚姻も認められていたが、同じ母を持つきょうだいが情を交わすことは禁忌であった。 これは、子供は母に属するものであると考えられていたためである。しかし木梨軽皇子は同母妹であるはずの軽大娘皇女に思慕し、やがてその思いを遂げてしまう。
しかしある朝、允恭天皇が朝食を摂ろうとすると、冬でもないのに汁物が凍りついていた。 これは不吉だと考えた天皇は、側近の者にこれを占わせる。 その者は「身内に良くないことが起こっています。おそらく通じている者がいるのでしょう」と答え、二人の仲は周囲に発覚してしまうのである。
この姦淫、近親相姦を知った群臣は木梨軽皇子から離れて行き、その弟である穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)につく。
軽大娘皇女は「立てた弓が倒れ、また立ち上がり、再び倒れるように」して兄の元へたどり着く。 その時に木梨軽皇子はこう詠んだ。
『こもりくの 泊瀬(はつせ)の山の 大峰(おほを)には 幡張(はたは)り立て さ小峰(をを)には
幡張(はたは)り立て 大峰(おほを)よし 仲定める
思い妻あはれ 槻弓(つくゆみ)の 臥(こ)やり臥(こ)やりも
梓弓(あずさゆみ) 起(た)てり起(た)てりも 後も取り見る 思い妻あはれ』
泊瀬(奈良県桜井市初瀬)の山の峰に幡を立て、仲を確かめあった愛しい妻、立てた弓が倒れ、また立ち上がり、再び倒れるようにしてやって来るその愛しい妻が、たまらなくあはれだ、というような意味である。
木梨軽皇子は再会を喜び、二人はわずかな時間を愛し合うが、やがて二人は自害し物語は幕を閉じる。
★世界遺産名:「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」
百舌鳥・古市古墳群は,古墳時代の最盛期であった4世紀後半から5世紀後半にかけて,当時の政治・文化の中心地のひとつであり,大陸に向かう航路の発着点であった大阪湾に接する平野上に築造された。
世界でも独特な,墳長500メートル近くに達する前方後円墳から20メートル台の墳墓まで,大きさと形状に多様性を示す古墳により構成される。墳丘は幾何学的にデザインされ,埴輪などで外観が飾り立てられ,葬送儀礼の舞台となった。(令和元年登録)
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