大和の風景の切手と写真|山の辺の道(桜井市) 大神神社、纏向珠城宮ほか |
山の辺の道
日本最古の道である大和の古道(やまとのこどう)のうち、奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道が『山の辺の道』です。 山の辺の道は、三輪山のある桜井市から天理市を経由して奈良市の春日山まで続く道です。 今回は道のりの丁度半分の天理-桜井間の神社・仏閣・古墳(遺跡)を対象としました。 天理市は天理教の本山、伊勢神宮と同じ古さの日本最古の石上神社と七支刀、天皇陵があります。 桜井市は三輪山を本尊とする大神神社や纏向遺跡(まきむくいせき)。 各々格式だけでなく相当古く有名な神社や遺跡。 また各神宮等の謂れは、Wikipedia を参考にしてます。 古代からのパワースポット、大神神社と石上神社。 この石上神宮と大神神社は、日本の古代史や神話とも深いかかわりのある、日本最強のパワースポット。 個人的には一番は、気持ちが穏やかになる事と背筋が寒くなる感じで大神神社、石上神宮と伊勢神宮だと確信しております。 そこに居て凄い気を感じます。 昔、比叡山や高野山でも同じ感じがした。 平成22年6月5日撮影。 切手以外の写真はクリックで拡大。
索引 [ 奈良県桜井市 三輪、巻向(纏向遺跡)|大神神社|穴師坐兵主神社|纏向珠城宮伝承地|箸墓古墳|檜原神社|国史跡・珠城山古墳群 1号、2号 ]
ご注意)画像の無断転用はお断りします。 |
||
山の辺の道・溜池と三輪山(大神神社のご神体) 大和三山の畝傍山と耳成山 |
||
■山の辺の道は、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の若草山に並んでいる春日山のふもとまで、盆地の東端を山々の裾を縫うように通って居るのが、山の辺の道(山辺の道、やまのべのみち)です。 現在のその道の起点は、海石榴市(つばいち、椿市:つばきのいち)である。
古代には、海石榴市の八十(ヤソ)の衢(ちまた)と称されたところで、桜井市粟殿(おおどの)を中心とした地域であった。 平安時代中期の926年(延長4)には椿市観音堂付近が起点の地になった。 山辺の道の道程は、その時々の交通事情により少しずつ変化してきてる。山辺の道の名称は、『古事記』では、崇神天皇の条『御陵は山辺の道のまがりの岡の上にあり』同じく景行紀には『御陵は山辺の道上にあり』とあり、これらに由来すると思われる。 パワースポットの集まりです。
この山の辺の道は、弥生時代後期には、布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道であったとも推測されてる。
第38代天智天皇が667年(天智6年)3月飛鳥から近江の大津へ遷都(せんと)の時、額田王が『山の辺の道』のこの辺りで振り返って詠まれだ歌が万葉集にあり、その歌碑がこの辺りに建っています。
『三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや』 万葉集巻1−17の反歌、18
桜井市 三輪、巻向(纏向遺跡)
遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定された。
■纒向遺跡または纏向遺跡は奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡。 建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。 邪馬台国に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。 「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。
3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。 2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3kuになる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3ku(300万u)に達する。
纒向石塚古墳は、桜井市太田字石塚に位置する纒向型前方後円墳丘墓で、規模は全長96m、後円部径64m、後円部の主丘部の東西59m、南北45m、前方部の長さ約32m、幅約34m。くびれ部の幅15-16m。周濠幅約20mである。
大神神社(おおみわじんじゃ)
■大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県桜井市にある神社である。式内社(名神大)、大和国一宮で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。旧社格は官幣大社(現・別表神社)。三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから『日本最古の神社』と称される。日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられる。三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残してる。
大神神社は、崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたとある。 昔の人は、わたしなんかよりもずっと目に見えないものに敏感だったでしょうから、よいエネルギーの集まるところを聖地と定めたのは確かだと思います。 「大神神社」の大鳥居(明神鳥居)の大きさは、熊野大社に次ぎ、高さが32mで、十階建ビルの高さに相当し、また、棟木の断面は五角形で、笠木と島木を二段重ねにして、長さが41m程あり、総重量185ton。
大神神社のご神体である三輪山は、木や草の一本、一本にまで神が宿るとされるため、一切斧を入れることをせず、松、杉、ヒノキなどの大樹に覆われてるそうです。 三輪山内には、神様がお座りになる場所である磐座(いわくら)が点在しますが、ここもむろん禁則地で、昔は、みだりに入山することはできませんでした。
Sakurai (桜井市, Sakurai-shi) is a city in Nara, Japan. The city was founded
on September 1, 1956.
Sakurai is home to Oomiwa Shrine, traditionally considered one of the oldest
Shinto shrines in Japan dedicated to the god of sake. Sake dealers across
Japan often hang a wooden sugi ball, made at Oomiwa Shrine, as a talisman
to the god of sake. It features in Yukio Mishima's novel Runaway Horses.
大神神社の本殿 ・・ 「ほかの神社にはみんなりっぱな神殿があるのに、ここだけ本殿がないのはおかしい。何とかして本殿を作ろう。」というので、本殿を作ることになった。ところが一晩のうちに幾百幾千のからすがやってきて、この本殿を食い破ったり、ふみこぼったりして、その木などを口にくわえて、どこかへ運んでしまったというのである。
「これは全く神のお心だ。」というので、それからは本殿を作ることはしなくなったという。
※古事記の「赤糸伝説」 赤糸伝説は、夜ごと訪れる青年の素性を知ろうと、身ごもった活玉依媛(いくたまよりひめ)が青年の着物の裾に糸を縫い付けて跡をたどると、赤土に染まった糸は三輪山の神社に至り、青年は大物主神だったという物語。
古代、赤土は邪を防ぐ力があると考えられていたようで、赤土をまくことには、魔除けの意味合いがあったのかもしれません。
神宝神社(かんだからじんじゃ)と天皇社、三輪成願稲荷をめぐる
■神宝神社(かんだからじんじゃ) 熊野三山の神々をまつる。神社名の通り、古くよりお宝・財物を守護する神として信仰されている。
神宝神社 案内 |
神宝神社 |
神宝神社 紅葉 |
天皇社 案内 |
天皇社 |
天皇社 |
■天皇社 三輪山の麓に都をおかれた第十代の崇神(すじん)天皇をまつる。日本の国の姿をととのえられた天皇で、三輪の神様を丁重におまつりされた。 |
||
三輪成願稲荷 案内 |
三輪成願稲荷 |
三輪成願稲荷 きつね |
■三輪成願稲荷 神宮寺の一つで尼寺であった浄願寺の鎮守祠として鎌倉時代に創祀。商売繁盛・心願成就の霊験があらたか。 |
狭井(さい)神社へ向かう
まず目に入るのが三島由紀夫の碑”清明”です。「奔馬」に描いた、狭井神社の鳥居内、鎮女池のほとりに、その碑はあります。
■狭井神社は、正式には狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわのあらみたま)神社とよばれ、大神神社の摂社です。 その歴史は古く、垂仁天皇の時代に創祀され、延喜式神名帳にも記載されている古社で、本社(大神神社)の荒魂を祀る神社です。 社殿は入母屋造り(檜皮葺)の拝殿、その奥の階段上に春日造り本殿が西面して鎮座します。
拝殿の左後ろにある井戸は、「狭井」の名前の由来になっており、太古から薬水と称して、この霊泉は万病に効くと古くから伝えられ、多くの人が訪れています。 尚、 この狭井神社の境内より社務所で許可をいただいて、三輪山に登拝することもできます。
桧原神社へ向かう
穴師坐兵主神社
■穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。 式内社で、旧社格は県社。 元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、祭神;右殿・若御魂神(稲田姫命)、中殿・兵主神(御食津神)、左殿・大兵主神。 この地はもと穴師大兵主神社の鎭座地であった。穴師坐兵主神社は弓月岳にあり、巻向坐若御魂神社は巻向山中に在つた。応仁の頃、上社が焼失したので三社を当地に合祀した。。元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。 摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されてる。 相撲発祥の地です。 兵主神とは、漢の高祖が『蚩尤:シユウ』を祀って勝利を祈った事に由来する。
■相撲神社の万葉歌碑 『巻向の 山邊響(とよ)みて行く水の みなあわの如し 世の人吾は』(作者/柿本人麻呂) (筆者/市原豊太)
纏向珠城宮伝承地
■垂仁天皇の都は纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)。『古事記』には『師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)』とあり、奈良県桜井市穴師周辺に比定されてる。『山の辺の道』は、『珠城山古墳群』の東を通っているが、『新池』に沿って西へ向うと、国道169号線の手前で、右(北)側の道端にあります。
★纏向珠城宮跡(桜井丼市大字穴帥)
日本書紀 :垂仁紀二年十月条「纏向に都つる。足を珠城宮と謂う。」
古事記:垂仁記「師本の玉垣宮に坐 して、天の下治らしめしき」
※師本…初瀬川流域(纏向、長谷(白瀬)等)―帯の広域のこと
玉垣… 珠城の美称
第11代垂仁天皇の宮とされ、古事記や 日本書紀に記載されています。現在は伝承地に石柱が建てられていますが、宮跡の所在地は明確な記載がないため、本当にこの場所にあつたのかは、分かつていません。
■纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡。3世紀を主時期とする。前方後円墳発祥の地とされてます。遺跡名称は、奈良県の旧磯城郡纒向村に由来し、『纒向』の村名は垂仁天皇の『纒向珠城(たまき)宮』、景行天皇の『纒向日代(ひしろ)宮』より名づけられたものである。
箸墓古墳(はしはかこふん)
■箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳とも)は奈良県桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。建造時期や大きさなどから卑弥呼の墓に見立てられることも多いが、未だその確証は無い。 また箸墓古墳よりも古いと考えられている纒向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していること、渡り土手を備えていること、周濠が墳丘の規模に比べ狭いことなど分かってきた。それらのことから箸墓古墳は弥生時代の墳丘墓が飛躍的に巨大化したものであり、弥生墳丘墓の諸要素を継承したものであると考えられている。
7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されている。
箸墓古墳(はしはかこふん、2010年秋) |
|
|||||||||||||
■箸墓古墳が卑弥呼の墓とする説もあります。日本書紀には『日中は人がつくり,夜は神がつくった』と記載されています。 |
||||||||||||||
歴史街道のパネル |
箸墓古墳 2021年 |
ホケノ山古墳 |
||||||||||||
※ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型前方後円墳ともいわれるホタテ貝型の前方後円墳である。2006年(平成14年)1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。 |
||||||||||||||
箸墓古墳そばのホケノ山古墳 案内 |
道標 「赤糸の小道 起点」 |
「赤糸の小道」案内図 |
||||||||||||
赤糸の小道は、媛がたぐり寄せた糸を埋めたという「苧環(おだまき)塚 」や、大物主をまつる大神神社など計9カ所を結ぶ約4キロのコース。 |
箸墓古墳は、最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44〜46m、高さ4mの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)がのったものと指摘する研究者(近藤義郎等)もある。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には四段の段築があるとされる。
古代日本のロマン:卑弥呼と邪馬台国のニュース(箸墓古墳)(2009年5月29日)
檜原神社(ひばらじんじゃ)
■桧原神社(檜原神社、ひばらじんじゃ)は、大神神社の摂社です、元伊勢とも呼ばれます。(笠縫邑の伝承地とされる) 三輪山がご神体で、神殿も拝殿もなく 独特の三ツ鳥居が建ってます。祭神;天照大御神
、配祀:伊弉諾尊 、伊弉册尊 、摂社;豊鍬入姫命神社。 『日本書紀』の崇神記によれば、第10代崇神天皇の6年、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという。 檜原神社はこの先にある大神神社の摂社で、天照大神が祀られてます。天照大神と言えば伊勢神宮ですが、実は、天照信仰の地ではこちらの方が古く、その後、伊勢に移されたのだとか。そのためここは、元伊勢とも呼ばれます。
倭姫命(『宇陀郡(曽爾、御杖)』で詳細記述)。
■万葉歌碑 『神山(みわやま)の 山邊真蘇木綿(やまべまそゆふ)みじか木綿(ゆふ) かくのみ故に 長くと思ひき』 (作者/高市皇子) (筆者/入江泰吉)
萬葉集には『三輪の桧原』とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には『笠縫』の古称が残ってます。 また『茅原(ちはら)』は、日本書紀崇神天皇七年条の『神浅茅原(かむあさぢはら)』の地とされてます。 更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える『ホケノ山古墳』(内行花文鏡出土・社蔵)』があります。 大神神社。
境内に建つ説明板によれば、
『(元伊勢)桧原(ひばら)神社と豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)の御由緒
大神神社の摂社『桧原神社』は、天照大御神を、末社の『豊鍬入姫宮』(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしてます。 第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて『同床共殿(どうしょうきょうでん)』でお祀りされてました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎主)に託され宮中を離れ、この『倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)』に『磯城神籬(しきのひもろぎ)』を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に『元伊勢』と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有してることが室町時代以来の古図に明らかであります。
国史跡・珠城山古墳群 1号、2号
■国史跡・珠城山(たまきやま)古墳群 1号、2号
穴師(あなし)集落の小さな尾根上に位置する3基の前方後円墳で国史跡に指定されています。 築造時期はいずれも古墳時代後期(6世紀)で2号墳→1号墳→3号墳の順に築かれたと思われます。 このように3基の前方後円墳が縦に並んで築造されているのは珍しい事例です。
珠城山古墳の3号墳は全長約50m、後円部径約24m、近年まで前方部と後円部の南に開口する横穴式石室があったが、開墾や採土で形が変わり、今は前方部の先端だけです。