奈良の歴史風景|奈良県・山辺郡山添村 神野山、毛原廃寺跡 |
奈良県・山辺郡山添村
山辺郡山添村は奈良県の北東部、三重県との県境に位置する高原の村。 夏は冷涼、冬は厳寒。自然情緒豊かな県指定の名勝神野山は 四季折々に美しい姿を見せる。北東部を名張川が流れる。 名阪国道が通り、路線バスで天理市や三重県伊賀市(旧・上野市)と結ばれています。 山添村の歴史は古く、今から12,000年前にさかのぼることができる。桐山和田遺跡、北野ウチカタビロ遺跡、上津大片苅遺跡(縄文草創期)や、鵜山遺跡、大川遺跡(縄文早期)に生きた人々の生活・文化は、どのようなものだったのだろうか。 「縄文文化」は、土器や狩りというイメージが強いが、もっと高度な文明があったとは考えられないだろうか。古代の信仰や呪術・祭祀に関わる遺跡・遺物の調査研究から、全国各地でその痕跡となる「イワクラ(磐座)」が発見されており、ここ山添村にも、そのイワクラが数多くあることが解ってきた。 神野山や中峰山、北野牛ヶ峯に痕跡があります。 地元の名張から車で30分-1時間の範囲。 月ヶ瀬は言わずもがなですが、日本でも有数の梅の名所です。 五月川の渓谷沿いに梅の木が広がる様から月ヶ瀬梅渓とも呼ばれる。 日本政府が最初に指定した名勝の一つ。 また、月ヶ瀬は大和茶の産地としても知られ、初夏になれば新緑が斜面を鮮やかに彩る。
山添も大和茶の名産地で、神野山や鍋倉渓、県指定特別天然記念物で全長680mに巨石が広がり湧水がある事や、神波多神社や柳生にも近く岩石が多数出ることで、岩石遺跡や野仏、岩石へのレリーフ等が多い所です。
※磐座(イワクラ)とは、日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)である古神道のなかの一つの信仰をさす。 巨岩に対する基層信仰の一種。 切手以外の写真はクリックで拡大。
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神野山(こうのやま)
■奈良県道272号神野山公園線は、奈良県山辺郡山添村大塩を起点とし、同村助命へ至る一般県道。神野山公園と名阪国道方面へのアクセス路です。これで神野山の山頂近くまで行けます。神野山(山添村に所在)は、昭和33年に奈良県指定名勝として、また昭和50年には、「県立月ヶ瀬神野山自然公園」に指定されました。ゆるやかなスロープを描いた円錐形の山で、海抜618.8mあります。山頂までの道の両側に大和茶が沢山出来てました。 展望台から南方を見れば、左から額井岳(
「大和富士」)、香酔峠、中央の窪みが香酔峠で、香酔山、貝ケ平山、真平山が見えます。 西では生駒山、北では伊信楽の山。「県立月ヶ瀬神野山(こうのやま)自然公園」(2010年5月末)
神野山は古墳を見てて背筋が寒くなった。 パワースポットですね。
■パワースポットの写真と切手全体 [ 世界|日本|地元・名張 ]
※王塚は、神野山のほぼ山頂に立地する円形の盛土状構造物です。 村の言い伝えでは、漢速日命(カンハヤヒノミコト。「漢」の本当の部首は「火」だが、変換できないのでこの字で代用)という神の墳墓といわれてます。漢速日命は、『記紀』に登場する樋速日神(ヒハヤヒノカミ)と同神とされてます。 日本神話では、伊邪那岐命と伊邪那美命の間から御子神・火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)が生まれた時、その火神という性格上、伊邪那美命の陰部を焼いてしまい、その結果、伊邪那美命が亡くなってしまったのだといいます。これに怒った伊邪那岐命が火之迦具土神を剣で切り殺した時、飛び散った血が剣に付き、その血が近くにあった石に落ち、そこから生まれた神が樋速日神です。 『記紀』にはこの程度の情報しか載ってませんが、村が伝える伝説によると、樋速日神は女神で、伊勢に住んでいたといわれてます。 絶世の美貌を持ってたので、多くの神々から付きまとわれてたそうです。それを避けようと樋速日神は神野山まで逃れてきて、神野山南方にある弁天池の中に入り、大蛇と化したそうです。 そんなことを知らず、ある男の神が樋速日神を追って弁天池まで来た時、樋速日神の化した大蛇を切り殺してしまいました。そうすると大蛇は樋速日神の姿に戻って死んでしまったので、それを見た男神は大いに嘆き悲しみ、せめてもの弔いとして、この神野山の頂上に墓を造ったのだといいます。これが王塚の築造伝説です。王塚の埋葬者とされる漢速日命は、石に血がついて生まれた神でした。 何か地域の石と関係があるのかも知れない。 神野山大神(甕速日命)の母神ともされる。 確かに山頂に塚は珍しいですね。 鳥居の左のコメントでは白鳥座の方を向いており「デネブ、夏の大三角」と書かれてたように思います。
■神野山大神は、甕速日神も『記紀』によれば、伊邪那岐命が火之迦具土神を斬り殺し、そのとき剣についた血が石に落ち、そこから生まれた神で、樋速日神と同時に生まれてます。 ということは、甕速日神と樋速日神は兄弟関係になるはずですが、村では、甕速日神は樋速日神の母神と位置付けられてます。
神野寺近くの弁財天池 |
神野寺の山門 |
神野寺の本堂 |
神野寺の鐘楼(平成の鐘) |
■弁財天池(弁天池)は自然科学的には非常に珍しいものがあるそうです。ジュンサイなどもあるようです。見た感じは10m四方の池で結構深そうな感じです。周りは木が鬱蒼と茂り、太古に樋速日神が大蛇になり身を潜めたことも理解出来る場所です。 |
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※デネブ(Deneb)、または はくちょう座α星(α Cygni)は、はくちょう座の恒星。「夏の大三角」は、こと座のα星ベガ、わし座のα星アルタイル、はくちょう座のα星デネブの3つの星を結んで描かれる、細長い大きな三角形をしたアステリズムのことである。3星のうちベガとアルタイルは、七夕の伝説における「おりひめ(織姫)」と「ひこぼし(彦星)」である。
■王塚に隣接して神野山大神を祀る神野大明神が鎮座してますが、その祭神(つまり神野山大神)は甕速日神(ミカハヤヒノカミ)とされてます。 狛犬の代わりにお狐さんがいました。 稲荷神でしょうか?
※神野山に関しては、「岩石祭祀学提唱地」さんの奥深い話をある程度、転載させて戴きました。
毛原廃寺跡
■毛原廃寺跡(山辺郡山添村毛原)は、金堂・塔・中門・南門などに精巧な加工の施された礎石が遺存する奈良時代の寺跡で、大正15年10月20日に史跡指定されている。昭和54年に追加指定するのは、本廃寺跡の北東約3キロメートル、名張川左岸に接する丘陵斜面にある窯跡で、昭和53年10月、奈良県教育委員会が発掘調査を実施して、出土瓦から毛原廃寺所用瓦を焼成した窯であることが判明したものである。 笠間川ヲ南ニセル山麓ニ在リ造立ノ由緒未明ナラザルモ殘存セル礎石ノ規模及配置遺瓦ノ文樣等ニヨリテ奈良朝時代ノ大寺ノ遺阯トシテ見ルベキモノナリ (文化庁の国指定文化財等データベースより)
※「毛原廃寺跡六体地蔵」は、毛原廃寺の境内の中に位置しながら、製作年代は室町時代の後期と思われ、廃寺になった後もここが信仰の地として語り継がれてきた証のような存在だ。
※「山辺の御井を見がりて 神風の 伊勢の処女ども 相見つるかも」(万葉集巻一・八十一)―和銅5(712)年に長田王が詠んだこの「山辺の御井」のはっきりとした所在は、いまだ分かっていないが、この毛原廃寺の礎石群の中に伝承として残る「山辺の御井」が本物とすれば、長田王が実際に訪れ、詠んだであろうこの歌の意味が、場所とともに真に心に響くものとして、訪れた人のなかに残るのではないだろうか。
山添村 岩屋瓦窯跡 国指定史蹟
■岩屋瓦窯(がよう)は名張市と奈良県山添村の境界点にある。 名張川と笠間川が合流する地点にあり、南から派生した丘陵の北斜面に立地している。 『県道拡張工事の際に発見され、昭和五十三年と昭和六十年に発掘調査が行われた。 その結果燃焼室や焚口(たきぐち)部分はすでに破壊されていたが、焼成室と灰原の一部が存在しており、奈良時代の瓦窯がようの構造が明らかとなった。 焼成室は幅1.5m、奥行きは1.2mまで残っており、全体を平瓦で小口積みにして構築し、壁面はスサ入り粘土で塗り固めてある。 内部は平瓦を積んだロストル式の平窯ひらがまで、焼成室の奥には三本の煙道が設けられていた。 また周辺に複数の瓦窯の存在していることもわかっている。
当瓦窯から出土した軒瓦は、笠間川の上流約3kmにある毛原廃寺跡の伽藍に用いられていたことが確認されているほか、同型の軒瓦は名張市夏見廃寺をはじめとして伊賀の諸寺院からも出土している。 このことから当瓦窯は奈良時代に毛原廃寺跡の創建を契機に築造され、さらにその製品は近隣寺院の整備のためにも用いられたことが明らかになっている。 山添村』 ※ 掲示より
※ロストル式 炉内にかけ渡した数本の金属棒で作られた格子の上に直接載せて焼くという方式である。 「ロストル」とは、食品を焼く網やストーブ等の火床格子を指すオランダ語の「rooster」が語源である。
岩屋瓦窯(がよう)の説明 |
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岩屋瓦窯(がよう)跡 |
岩屋瓦窯(がよう)跡 |
岩屋瓦窯(がよう)跡 |
名張市葛生の平井亭の前を毛原廃寺方面に曲がってすぐ(10〜20m)の場所にあります。
※平井亭は、地元の食材・鮎やイワナなど旬の魚が美味い老舗料理旅館 明治29年、名張川のほとりで料理旅館として創業以来、平井亭はおよそ100年にわたり、多くのお客様に愛され続けて
おります。2004年12月に純国産材で改築。山の湧水を使用の貸切檜風呂と手作り料理が好評です。
※スサとは「粘土に混ぜる藁や草」のことを言います。 塗り壁の漆喰(しっくい)や窯内部の壁を作る際に見られますが、陶器にもスサを混入させているもの(唐津焼など)があります。 漆喰および窯業において、粘土の「つなぎ」として使われました。
神波多(かんはた)神社
■郷社「神波多神社」:バス停「波多野郵便局前」から更に少し東へ行き、三叉路を左へ曲がり、北へ向かうと直ぐに「神波多神社(牛頭天王)」が右(東)の高台に鎮座してます。 「延喜式」神名帳にその名が見える古社で、「延喜式」臨時祭に畿内堺10ケ所に祀った徐疫神のうち「大和与伊賀堺」に祀られた神と考えられ、本殿の西方から出土した平安時代の古鏡や、正和元年(1312年)の銘を刻む村指定文化財「石灯籠」等があり、かなり古くから信仰を集めてた様ですが、1581年(天正9年)織田信長の伊賀攻めの際に、兵火に遭い、縁記等の資料を欠き、詳細は不明です。「神波多神社」は、古くより徐疫神の「牛頭天王(ずとうてんのう、素盞鳴命)」を祀り、「波多(はた)の天王」として信仰され、毎年10月15日秋季例祭「天王際り」には神輿のお渡り、獅子神楽等が行われ、多くの人々で賑わいます。 本殿は、五間社流造、檜皮葺(ひわだぶき)で銅板覆い、礎石建ての社殿で、正面の屋根中央に千鳥破風が置かれ、正面に一間の向唐破風の向拝が付いてます。
★神波多神社(牛頭天王)は、「延喜式」神名帳(九二七)にその 名が見られる古社で、「延喜式」臨時祭(遷宮、天皇の即位や行幸、国家的危機の時などに実施されるもの)に「畿内堺一〇ケ所(邪悪な鬼神から平安京を守るための第一次防衛線)」に祀
った疫神のうち「大和与伊賀堺」に祀られた疫神であると考 えられている。
式内社 大和國添上郡 神波多神社 鍬 御祭神 神須佐之男命 合祀 櫛稻田姫神 春日大神