日本の歴史風景|伊勢街道 奈良県宇陀郡(曽爾、御杖) |
曽爾(そに)村・曽爾高原と御杖村
曽爾(そに)村にある曽爾高原(奈良県宇陀郡曽爾村)は奈良県と三重県の県境に位置した国立公園です。標高は約900mで倶留尊山(くろそやま)と亀山の山肌が高原になってます。曽爾高原の秋は一面見渡す限りのススキが群生しており風によってこの銀色の穂が揺れる様子はそれは見事で、多くの観光客がここを訪れます。この高原のススキは曽爾村の萱葺き屋根の材料として長年使われてたのですが、瓦やトタンが普及し年々使用量が減り、又杉などの植林で高原消滅の危機もあったようですが、この景観を残す為に奈良県に保護を嘆願し守られるようになりました。 兜岳(高さ920m)別称女岳は、鎧岳のすぐ西側にあり、鍬形の兜のような山容から名付けられてます。 鎧岳・兜岳と屏風岩は昭和9年に国の天然記念物。 御杖村は曽爾高原の南側に位置し、名張川の源流がある。
伊勢本街道が通っていて、『和名抄』には、隣の曽爾村と共に「宇陀郡漆部(ぬりべ)郷」として見える。
名張からは三重県道・奈良県道81号名張曽爾線に沿って、名所旧跡が多数有ります。
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★名張川(なばりがわ)は、木津川水系の支流で奈良県・三重県・京都府の県境付近を流れる一級河川。奈良県内では五月川と呼ばれる。奈良県宇陀郡御杖村の高見山地三峰山北麓に発し、程なく奈良県から三重県に入って北流。名張川は渓谷を刻み、再び奈良県に入ったり、奈良・三重県境となったりを繰り返す。奈良市月ヶ瀬付近から、高山ダムが迫るため川面が谷全体に広がり出し、そのまま京都府に入る。高山ダムを過ぎるとすぐ、木津川に合流する。
曽爾村・門僕神社(かどふさ)
■門僕神社(かどふさじんじゃ)は、今井の曽爾村役場の北方に当たり、曽爾川の西岸に鎮座する。社名は「カドモリ」「カドノフサ」あるいは門部と書いて「カドベ」と称した。創祀は不祥であるが、延喜式神名帳には大和国宇田郡十七座のうちに記載された古社である。社殿は、井上幾松氏所蔵の旧記によれば、天文三年(1534)
北畠東門院殿及び井上越後守の助力によって造営に着手し、同年十一月二十八日竣工した。以来二十一年毎に造替して来たという。
門僕神社の鳥居 左に不思議なイチョウの木 |
門僕神社の社殿 |
★獅子舞が有名な神社で延喜式神名帳に大和国宇陀郡十七座のうち1つと記載されている。創建が雄略天皇の御代にまで遡る由緒ある古社。境内には、葉っぱにギンナンの実がなるという不思議なイチョウの木があり、県の天然記念物に指定されている。 |
★三重県道・奈良県道81号名張曽爾線は、三重県名張市から奈良県宇陀郡曽爾村へと至る主要地方道。起点:三重県名張市丸之内38-4番地先(名張駅西口前交差点=三重県道57号上野名張線交点)
で、終点:奈良県宇陀郡曽爾村掛(掛交差点=国道369号交点) 。距離:22.1km。
御杖村・御杖神社(みつえじんじゃ)
■御杖神社(みつえじんじゃ)は奈良県宇陀郡御杖村大字神末にあります。 大和と伊勢の国境の伊勢本街道に沿った要衝に鎮座、疫神であったようだ。 祭神がそれを物語ってる。 承平四年(934年)には伊勢神宮の神領である太良牟六箇山のうちであった。 ここに集中的に国津神社が祀られ、黒葛が神宮に奉納されたと『神鳳抄』にあると『寺院神社大事典』に記載がある。 拝殿両側の御神木「上津江杉・かみつえすぎ」の樹齢は600年。 倭姫命が垂仁天皇の勅により天照大神の御杖代となり、鎭座の地を求めて諸国を巡幸されたとき、この地に三ケ月間とどまられた蹟と伝わります。 倭姫命が置き忘れた杖を祀った神社。 祭神名の「久那斗・くなど」とは杖の義です。 久那斗神は人生の行路を安全に守護し、幸福をもたらす神様です。 神末(こうづえ)の地名も、神杖(こうづえ)から転訛したと謂う。
御杖神社の社殿と「上津江杉・かみつえすぎ」 |
御杖神社の境内杉(神木) 「上津江杉・かみつえすぎ」 |
御杖村大字神末の風景 |
御杖神社の社殿 |
御杖神社の社殿 |
ウチワサボテンの黄色い花 |
■御杖神社縁起:『当社は、延喜式神明帳(927年)の大和國宇陀郡17座の神社で、式内社の格を有する古社である。 第11代垂仁天皇の勅命により、天照大御神の御杖代(大御神を祀り、大御神の言葉を取り次ぐ斎王)となられた皇女倭姫命は、大和國笠縫邑より神慮に叶うべき新たな宮地を求められ、道中この地に行宮を造り御休座になられた処と伝承されてます。
倭姫命の杖(神に占有され掌握の境域を画する玉杖)をお祀りするところから、御杖村の村名が付けられました。 天照大御神は伊勢に遷宮されましたが、故を以て神末村は伊勢神宮の神戸と定められ、明治初期まで五石五斗の貢米を奉献してました。 社殿は、天文15年争乱のため荒廃したが、天文23年(1554年)に造営した、以後、社殿の造営を繰り返し行って、多数の棟札を現在に残してます。 慶長18年(1613年)の頃には近隣32ヶ村の郷社となり、明治6年には奈良県から奥宇陀22ヶ村の郷社と定められました。 なお、境内杉の樹齢は600年と伝えられてます。 』
『大和志』には、「御杖神社は神末村に鎮座しており、今は葛明神と呼ばれてる。 近隣の八村が共に祭祀に預かってる。」とある。 17世紀央以前は九頭明神、国津大明神と呼ばれてたが、それ以降は牛頭天王と称する文献が多い。 社蔵の棟札では、天文二十三年(1554年)に「伊賀国名張上津江之宮」と記されており、上津江とは神杖、御杖のことであろうか。
御杖村・岡田の谷の半夏生園
■最近では自生地が減り、奈良県の準絶滅危惧種に指定されている「半夏生(ハンゲショウ)」。
七十二候のひとつ「半夏生」の頃に花を咲かせることからその名がつきました。葉の一部を残して白く色づくことから「半化粧」とも言われます。 岡田の谷(奈良県宇陀郡御杖村神末)では、7月になると、約3000平方メートルにわたって群生し、まるで白い絨毯をしきつめたような半夏生の群生をご覧いただけます。
半夏生(はんげしょう)は、ドクダミ科の多年生落葉草本植物。
奈良県宇陀郡御杖村神末 岡田の谷の半夏生園 (2018.07) |
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半夏生(はんげしょう) |
半夏生(はんげしょう)の群生 |
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倭姫命(斎王の起源)と崇神天皇
■倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明)は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族。第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。伊勢の地に天照大神を祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎王の直接の起源であるとも伝えられている。 第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に天叢雲剣を与えている。伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎王となった。
■崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)
- 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。
明和町・斎宮での 斎王まつり 禊 (切手、多気郡明和町) |
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明和町・斎宮での 斎王まつり |
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■史跡斎宮跡(三重県多気郡明和町):昭和54年3月に国史跡の指定を受けた「斎宮跡」は東西2,000m、南北700m、面積約140haにも及ぶ全国屈指の大規模遺跡。昭和54年から継続的に発掘調査が進められています。 7世紀後半から14世紀前半の約660年間、天照大神御杖代として代々の天皇ごとに都から伊勢に遣わされた斎王の御所とその事務を取り扱う役所斎宮寮跡。
■660年続いた斎宮制度… 野花菖蒲の開花する6月上旬に斎王歴史博物館を主会場に開催される「斎王まつり」。 斎王・女官・童女など総勢150名ほどによる「斎王群行」は十二単をはじめ平安の雅を再現しまつりのメインイベントとなっております。斎宮の近隣にある伊勢神宮へ向かう斎王とその従者の行列(群行)を再現している。
御杖村・道の駅・伊勢本街道 御杖
■道の駅伊勢本街道 御杖(みちのえきいせほんかいどう みつえ)は、奈良県宇陀郡御杖村神末の国道368号、国道369号交点にある道の駅。村内でとれた農産物を販売する「街道市場みつえ」や、温泉温浴施設「姫石の湯」、御杖村や周辺地域の様々な情報を広く提供する「情報休憩コーナー」を備えています。御杖村も平城遷都1300年を応援しています。
道の駅伊勢本街道 御杖の |
道の駅伊勢本街道 御杖の |
■みつえ温泉「姫石(ひめし)の湯」は、【美肌の湯】や【ぬくもりの湯】と呼ばれる泉質を持ったやさしい温泉です。2つの大浴場をはじめ、露天風呂、つぼ風呂、樽風呂、気泡風呂、打たせ湯、座湯、サウナ、ゆったり休める無料休憩室があります。 |
■姫石明神(ひめしみょうじん) : 御杖村の村名は、倭姫命が天照大神の御霊を奉じる場所の候補地として杖を置いたという故事に由来しています。 その倭姫命が女性病の全快を祈願したことから「姫石明神」と呼ばれるようになったといわれます。 現在も、安産、女性病、または縁結びの明神として知られています。
御杖村・宿泊施設 三季館 |
三季館は、村立御杖西小学校の分校が校舎としての役目を終えて、宿泊施設に生まれ変わったもの。大きな下駄箱や長い廊下、木洩れ陽が降りそそぐ教室など、木造校舎のぬくもりがあなたをやさしく迎えてくれる。 |
御杖村近くの山の風景 |
伊勢参宮街道(いせさんぐうかいどう)
■伊勢参宮街道(いせさんぐうかいどう)は、日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道の事です。伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道と呼ばれ、以下の3街道があった。
@伊勢街道: 日永の追分(東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の間の宿)から東海道と別れ、伊勢にいたる街道。
A伊勢本街道: 大坂から各方面を経由し、奥津経由で最終的に伊勢にいたる街道。
B参宮街道: 奈良県桜井で初瀬街道と分かれ、大宇陀経由で伊勢にいたる街道。
この本街道には支道があり、以下の通りです。
伊勢別街道 |
関宿東の追分で東海道と分岐、椋本宿(津市)を経由し、江戸橋で伊勢街道に合流する。窪田宿には高田本山専修寺(浄土真宗)の寺内町である一身田がある |
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初瀬街道 |
奈良県桜井で参宮街道、榛原で伊勢本街道と分かれ、あお越え(青山高原)を経由し、六軒で伊勢街道に合流する。1953年(昭和28年)に大部分が国道165号として整備された。 |
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和歌山街道 |
和歌山から奈良県吉野を経由、参宮街道と合流・分岐し、三重県松阪に至る街道。 |
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竹内街道 |
飛鳥時代からの古道。 江戸時代以降は伊勢本街道の一部として機能した。(区間:堺市-羽曳野市-葛城市) |
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横大路 |
飛鳥時代からの古道。 元は竹内街道・長尾街道交点付近と藤原京を結ぶ古道であったが、江戸時代以降は伊勢本街道の一部として機能した。 |
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暗越奈良街道 |
奈良時代からの古道。 江戸時代以降は、伊勢本街道の一部として機能した。(区間:大阪市-生駒市-奈良市) |
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上街道 |
飛鳥時代からの古道で、古くは上ツ道とも呼ばれた。奈良から天理市を経て桜井市で初瀬街道と合流する。 |
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清滝街道 |
行基道とも呼ばれ、守口宿から清滝峠を越えて東へ進む街道。 木津町で奈良街道と合流・木津川を越えて山城町に至り、伊賀街道に接続する。 |
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伊賀街道 |
伊賀越奈良道とも呼ばれ、奈良から大和街道を通り、伊賀国を経て津に至る街道。 上野の赤坂で大和街道と分岐、大山田から長野峠を越え前田宿(片田宿)を経由、津の塔世橋南詰で伊勢街道に合流。1608年(慶長13年)津城に藤堂高虎が伊勢・伊賀両国22万石の大名として入城してから藩内の重要路として整備が進んだ。現在大部分が国道163号となっている。 |
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奈良街道 |
五百野(津市美里町)で伊賀街道と分岐、久居城下を経て雲出川を渡り、月本追分(松阪市中林町)で伊勢街道と合流。こちらにも伊賀越奈良道の別名がある。 |
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伊勢路 |
伊勢神宮から、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道。 |