三重県名張市
店長が住んでいます第二の故郷の三重県・名張市のイメージと概況・自然・文化についてご紹介します。 江戸時代の有名な錦絵の画家であった安藤広重(二代目)が作成した名張の風景が市立図書館にあります。 近くには有名な赤目四十八滝や関西の耶馬渓と呼ばれる渓谷の香落渓(こおちだに)があります。文化面では、観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。 また、探偵小説の江戸川乱歩は、明治27年(1894)に名張の町に誕生し、今も碑が残っています。 名張の地は、672年の壬申の乱の際に大海人皇子が何度も通過し宿泊した場所。 国の史跡・夏見廃寺(大来皇女が建てた寺と言われている)は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から
7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されています。 赤目には有名な赤目四十八滝や役小角の延寿院。 名張はこの様な町です。 忘れてはならないパワースポット(パワスポ)もあります。 青蓮寺 國津神社の檜と杉が融合したものです。 写真は実際に市内を歩いて撮っています。
尚、作成に当たっては、当方とも深い関連がある名張市役所及び名張観光協会、名張市郷土資料館のHPを一部参考・引用させていただきました。
1.名張のイメージと概況
■下の絵から、名張を想像してください。 江戸有名な錦絵の画家であった安藤広重(二代目)が作成した名張の風景です。 本錦絵は現存数が少なく市立図書館等数点だそうです。 誰もがそうだと思いますが、皆さん家にいらっしゃる時は近鉄電車を利用しますが、山の中をだいぶ来たところが名張で、どんなに山の中かと思われるそうです。 町の中は絵にもあるように3本の川が流れ、それぞれで鮎釣りが出来ます。また、天然記念物の山椒魚も散見できます。水と緑が綺麗な町です。現在の名張の街は、伊勢参りの宿場町が原型。明治以降も小規模な地方鉄道が出来ただけで、交通の便に恵まれなかったが、1930年に参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線)が開通し、発展の礎となった。
名張の風景
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(1)所在地 北緯 34°37’27” 東経 136°06’40”
(2)面積(Km2) 129.76
(3)広ぼう(m) 東西 10,550 南北 13,100
(4)海抜(m) 225.93
(5)交通のご案内
①電車の場合
大阪(難波)から名張:近鉄特急で58分、
名古屋からでは近鉄特急で1時間26分
②自動車の場合
名古屋西ICから102km、梅田ICから93km (6)名張市の人口(令和2年9月1日現在)
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世帯数 |
男 |
女 |
総数 |
住民基本台帳(a) |
34,527 |
37,601 |
40,165 |
77,766 |
外国人登録(b) |
700 |
568 |
506 |
1,074 |
(b)は(a)の内数です。
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安藤広重(二代目)
黒田橋と新町橋 名張川
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(7)名張の位置 万葉の昔から宿駅として開け、壬申の乱に際して大海人皇子が東国へ逃れる際にも当地を経由した。
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温泉、鮎釣り、名物・グルメやフルーツ(イチゴ狩り、ぶどう狩り・・・・)もあり、風光明媚な名張旅行に是非お出で下さい。
2.名張の自然(地質的な面から)
■名張は古琵琶湖の南端部分が及んでいたところと推定され、湖岸の後退によって伊賀盆地となり、名張川周辺に平坦な陸地を作り出したものとされている。 また、日本列島の地質は、日本海側の内帯と太平洋側の外帯に構造線によって分けられ、大断層帯を成している。 名張市はこの構造線近く、内帯の南端の位置している.基礎盤岩は領家片麻岩類により形成されており、この上に第3紀鮮新世成層(古琵琶湖層群伊賀累層)が堆積し、堆積層の下部は粘土、上部は砂層でおおわれている。 市域南部は基礎盤岩の上に室生火山群の活動による流紋岩質溶結凝灰石が分布している。曽爾村境界の山々は、自身の噴火でできたものではなく、約1310万年前、三重・奈良県境にある高見山中腹の爆発により噴出した火山灰が堆積・凝固し、死火山となったのち、風雨や河川の浸食によって現在の山容になったものとされている。
名張は積雪が多いですが、健気に咲く梅の花が春の到来を教えてくれます。
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滝之原国津神社 参道
ホタルブクロ
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真言宗豊山派 平照山 龍性院の立派なコウヨウザン
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積雪は15cm、庭に咲く紅梅
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★コウヨウザン(広葉杉、学名:Cunninghamia lanceolata)は、中国南部原産のヒノキ科(またはスギ科)コウヨウザン属の常緑針葉樹。大きいものでは樹高30m以上、直径1m以上に成長する。日本には江戸時代後期に渡来。
★日本固有のオオサンショウウオは、1952年に特別天然記念物に指定されている世界最大の両生類で、その大きさは最大で150cmにまで成長し、正確な寿命はわかっていませんが、100年程度生きるのではないかと推測されています。 3000万年前からその姿を大きく変えずに生きてきた「生きた化石」とも呼ばれるオオサンショウウオですが、環境省レッドリスト、IUCN(国際自然保護連合)レッドリストには絶滅危惧種として記載され、近年では開発や、かつて食用として輸入されたチュウゴクオオサンショウウオとの競合などで個体数は減少の一途をたどっています。
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赤目四十八滝入口の日本サンショウウオセンター
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オオサンショウウオの「さんしょうまる」
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■不動滝 高さ15m、幅4m。不動明王にちなんでこの名が付けられ、滝参りとは、この滝にお参りすることをいい、明治の中頃まではここより奥は原生林で、入ることができませんでした。渓谷にかけられた不動橋からの眺めは壮観です。 赤目四十八滝
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不動滝(ふどうだき)
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不動滝 遠景
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不動橋上からの霊蛇滝
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■乙女滝 滝も渕も小さくやさしく、清純な乙女のような滝です。滝の中に深さ1mくらいの壺があり、乙女滝と名付けられました。
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八畳岩
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千手滝が見えた
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千手滝(せんじゅだき)
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★香落渓(こおちだに、 Kaochidani Valley , Nabari City)は、名張川の支流・青蓮寺川に沿う香落渓は、関西の耶馬渓と呼ばれる渓谷で、まるで斧で断ち割ったかのような柱状節理の
岩肌が約8kmに渡って続いています。中でも天狗柱岩・屏風岩などの眺めは素晴らしく、その雄大な光景は自然の造形美を楽しませてくれます。蓮寺川上流に展開する、室生火山群の活動がつくりだした雄大な渓谷で、断崖や奇岩が連続する柱状節理の岩壁が、川に沿って8kmくらい続く。紅葉の名所としても有名。 室生赤目青山国定公園の指定区域。
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名張の奥座敷 青蓮寺川の上流に 香落渓
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香落渓
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晩秋の香落渓
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晩秋の香落渓
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青蓮寺川の紅葉
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■名張の地下資源としては、古琵琶湖の関係から粘土と中央構造線に近いことからチタンがある。粘土は市内瓦製造業の材料となり、一部は耐火煉瓦の原料として使われた。 チタンは昭和の初期に滝之原の農家が堀はじめ古河鉱業製錬所が本格的に採掘していた。戦時中には海軍が乗り出したが、すぐに終戦を迎え再度古河鉱業が採掘権を買った。だが、泥水排出の公害問題で廃業した。 埋蔵量は付近一帯666ヘクタールの土中に130万トン。
3.名張の文化と名張の歴史
■名張は、万葉の昔の昔から宿駅として開け、壬申の乱に際して大海人皇子が東国へ逃れる際にも当地を経由した。 墾田永年私財法の施行以降、東大寺の荘園として人口の増加が始まり集落として発達しはじめた。その後自治勢力が武装し「黒田の悪党」と呼ばれ荘園支配から逃れようと地主に対抗したことで中世日本史に名を残す地域である。 悪党は独特の戦闘知識や薬学体系を背景に、後に忍者と呼ばれる存在となる。 その中でも伊賀忍者の名前はあまりにも有名であるがゆえに、発祥の地は北に隣接する伊賀市であると誤解を受けているが、実際は伊賀地域に広く忍者の生活・活動した跡が見られ、その中でも支配的地位にあった上級の忍者(上忍三家)は名張に拠点を置いていた。(伊賀忍者の技・術・道具などの展示は名張の赤目四十八滝入り口付近にある展示施設にて行われている。)
■夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されています。 醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女、最初斎宮なり、
神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。 もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられています。 天智天皇の子、大友皇子と天皇の弟、大海人皇子(天武天皇)の間に、
皇位継承をめぐって壬申の乱(672年6月)が起こり、大海人皇子が吉野で秘かに挙兵し、美濃国不破関に向かう途中、夜半に名張に着きます。 駅家に立ち寄り「天皇、東国に入ります」と告げますが、これが、これまでの「大王」が「天皇」と呼ばれた最初であるという説があります。 戦いに勝った大海人皇子は、3か月後に飛鳥に帰りますが、その前夜名張に
一泊しています。往復とも夏見のあたりを通り、名張川を渡ったと思われます。 天武天皇にとって出陣と凱旋の地、名張を終生忘れられなかったと思われます。
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夏見廃寺入口
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夏見廃寺 金堂
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夏見廃寺 講堂
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金堂塼仏壁(復元)
夏見廃寺展示館展示
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夏見廃寺塼仏
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夏見廃寺塼仏
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■城下町名張を語る上で欠くことが出来ないのが名張藤堂家邸跡です。 津藩藤堂家の一門で寛永13年(1636)から明治維新まで11代にわたり、名張に居を構えた藤堂宮内家の屋敷跡です。現在残されている屋敷は、宝永7年(1710)の名張大火で焼失した後に再建された殿館の一部で「中奥」「祝間」「圍」などの私的な生活を送る建物です。 この屋敷とともに、「豊臣秀吉朱印状」「鉄唐冠形兜・一の谷形兜」「朱具足」「備前無銘刀」「藤堂高吉公一代記」「羽柴秀吉・丹羽長秀の書筒」など学術的にも貴重な文化財が、平成3年に名張藤堂家から市に寄贈されており、平成4年に保存修理事業が完了した屋敷とともに一般公開されています。
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名張藤堂家邸跡 入口
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「備前無銘刀」
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名張藤堂家邸 鉄砲
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「一の谷形兜」
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「豊臣秀吉朱印状」
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「羽柴秀吉・
丹羽長秀の書筒」
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万葉集の石碑:
「吾がせこは いずく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を今日がこゆらむ」
持統天皇の伊勢志摩行幸の際に同行した夫を思い、当麻真人麻呂の妻が692年に詠んだもの。
近鉄名張駅西口
名張駅は、三重県名張市平尾にある、近畿日本鉄道(近鉄)大阪線の駅である。駅長配置駅。1930年(昭和5年)10月10日 - 参宮急行電鉄の榛原 - 伊賀神戸間開通時に開業。
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万葉集の石碑
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近鉄名張駅西口
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古い時代の写真 旧喜多藤は近くの蛭子神社で結婚式を挙げ披露宴をここでやる人が多かった。
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ひわあい、ひやわい:ひさしが両方から突き出している所。(2005.01.01伊賀ジャーナル)
子供の頃には、よく見慣れた風景でしたが、最近ではとんと見かけることが出来ません。昔はどぶ板がはまっていたりで、非常に懐かしい風景です。 写真を戻ったところが江戸川乱歩の生誕地です。 まだ、この様なところが名張には残っています。
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旧喜多藤
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■京・大和方面と伊勢を結ぶ初瀬街道は、現在の松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て奈良県の初瀬(長谷)へと至ることからその名が付きました。
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初瀬街道の大きな石造燈籠・常夜灯(下小波田)
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初瀬街道は松阪市六軒で参宮道と別れて、青山峠を越え、名張・室生を経由して榛原で伊勢本街道と合流して長谷寺のある奈良県初瀬に向かう道です。伊勢本街道が御杖村や伊勢奥津を通って田丸にでる近道ながら山道が多いのに対して、初瀬街道は遠回りながら平坦な道が多く女性に人気の道だったそうです。天皇に代わって伊勢神宮に仕える斎王が通った道としても有名です。
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★名張の古代遺跡(300基を超える古墳を有する)
■考古学上から見た名張市の歴史概要 名張市 市史編集専門部会考古部会
【美旗地域】美旗古墳群、竹原氏城、滝川氏城・桜町中将宅跡
【薦原地域】薦生遺跡、下広遺跡、庄田中世墓、一本杉遺跡、大西谷城跡、峰山城跡
【蔵持地域】塚原遺跡、塚原古墳群、蔵持黒田遺跡、黒田古窯址、四ノ切古墳、小谷古墳群、小谷遺跡、丈間谷遺跡、原出遺跡、久保遺跡、本陣山城跡
【比奈知地域】西畑遺跡、兼前1号墳、下山甲斐守堡、深ケ遺跡
【名張地域】平尾山遺跡、東町遺跡、奥開遺跡、名張藤堂家邸跡
【箕曲地域】鴻之巣遺跡、男山古墳群、夏見廃寺跡、中川原遺跡、上山古墳群、坊垣遺跡、下川原遺跡、糸川橋遺跡、奥出遺跡、奥出古墳群、丁ノ坪遺跡、黒石遺跡、浦遺跡、西遺跡、土山遺跡、白早稲遺跡、人参峠遺跡、高塚古墳群、中村古墳群、観音寺遺跡、根冷古墳群(4号墳)
、愛宕山砦跡、青蓮寺堡
【錦生地域】溜り遺跡、桶子谷古墳、内垣内遺跡、城屋敷遺跡、辻堂遺跡、御所垣内遺跡、鹿高神社1号墳、別所中世墓
【赤目地域】中戸遺跡、二ツ塚古墳群、梅ノ木遺跡、赤目檀遺跡、檀・柏原遺跡、沢代遺跡、坂之上遺跡、大垣内古墳、琴平山古墳、横山古墳群、丸尾山古墳群、石取場古墳群、尻矢古墳群、杉矢谷古墳群、下垣内遺跡、辻垣内遺跡、辻垣内古墳群、上東野遺跡、春日宮山古墳、桃山古墳、柏原城、滝野氏城、脇之田遺跡
【国津地域】北畠具親
古代名張郡夏見郷を治めていた夏身氏の館跡 (飛鳥~奈良時代・鴻之巣遺跡・鴻之台) 市史編集専門部会考古部会 2010年(平成22 年)3月21日
/ 倭国大乱の跡か?丘陵上集落の堀跡(弥生時代後期・塚原遺跡・蔵持町里)
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★衝角付冑(しょうかくつきかぶと)は、日本の古墳時代中期に製作・使用された兜(冑)の一種。古墳の副葬品として出土する甲冑の中でも代表的なものの一つである。4世紀末から7世紀にかけて、甲(短甲・挂甲)と組み合わせて用いられた。 この冑は、直径22袍前後、高さ17袍を測り、タテはぎの台形の鉄板を鋲で留めている。前面には庇状の張り出しが取り付けられている。
★直刀は、全長128袍の巨大なもので、いわゆる飾り太刀である。柄部と刀身の中央背部に表裏一対の象嵌が施される。
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名張・鴻之台の小谷古墳への階段【蔵持地域】
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琴平山古墳
衝角付竪剥鋲留冑
名張市郷土資料館
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■琴平山古墳は、名張市赤目地区の丘陵尾根上に所在する、全長約70m、前方部長約34m、後円部径約36mの前方後円墳である。前方部に金比羅社の祠があることから、この名で呼ばれている。
■小谷古墳群は、名張市役所西にある小山山麓に分布する8基からなる古墳群です。 1号墳は南側の道路建設で調査されました。
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名張・鴻之台の小谷古墳の石碑と小谷古墳跡
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琴平山古墳 直刀
名張市郷土資料館
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下川原遺跡 縄文後期前半(3400年前) 土面 名張市郷土資料館
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下川原遺跡 縄文土器・深鉢 名張市郷土資料館
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下川原遺跡 土器棺に使われた深鉢(縄文後期) 名張市郷土資料館
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■美旗古墳群(みはたこふんぐん) 名張川支流の小波田川上流右岸の標高200mの台地上に、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれています。 現存しているのは、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、「カブト塚」・「矢羽塚」・「玉塚」などの方墳と円墳の多くは消滅しました。 これらの古墳は地域を支配した有力者が、4~6世紀にかけて造ったものと考えられています。
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史跡 美旗古墳群の石碑
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史跡 美旗古墳群の石碑
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美旗古墳群 馬塚古墳
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玉塚古墳 家形埴輪
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美旗古墳群
女良塚古墳 説明
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美旗古墳群 女良塚古墳
帆立貝式古墳後方
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美旗古墳群 殿塚古墳
説明
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美旗古墳群 殿塚古墳
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美旗古墳群 殿塚古墳
六地蔵付近
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★名張の伝統・地元出身の有名人・News・雑学の頁では次の内容をご紹介してます。 伝統面では、 日本六古窯の一つに数えられる伊賀焼や 戦国時代に伊賀忍者が携帯兵糧として考案し、使用しはじめたものと伝えられてる「かたやき」(非常に堅いせんべいです)。
■奈良東大寺二月堂では修二会、いわゆる「お水取り」が行われます。行法としてのお水取りは13日の午前2時頃に行われ、その後内陣で韃陀の妙法と言う水火の荒行がはじまります。この荒行に用いる松明は、古来名張市赤目町一ノ井から調進されるのが習わしで、松明調進と呼ばれています。
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名張市赤目町一ノ井の極楽寺の山門と本堂 伊賀一ノ井松明調進行事
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名張市の市中で昭和初期ごろに撮影された祭典の写真と思われる。当時は平尾や上八町など市内各所に歓楽街があり、芸者遊びも盛んだった。 名張は初瀬街道の宿場町で、撮影された当時は魚屋のほか、畳、豆腐、餅屋が軒を連ね、料理旅館や置き屋が並ぶにぎやかな通りだったらしい。真実は闇の中だが、当時は100人ほどの芸者がいたとされ、さまざまな行事に花を添えていたと考えられる。
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昭和初期ごろに撮影された祭典の写真
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名張市郷土資料館提供
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黒田の悪党
墾田永年私財法の施行以降、東大寺の荘園として人口の増加が始まり集落として発達しはじめた。その後自治勢力が武装し「黒田の悪党」と呼ばれ荘園支配から逃れようと地主に対抗したことで中世日本史に名を残す地域である。荘園支配に抵抗してはいたが、実際に東大寺との関係は深く、年中行事であるお水取りでは当地で伐採された木材が使用されるなど名残を残す。
悪党は独特の戦闘知識や薬学体系を背景に、後に忍者と呼ばれる存在となる。その中でも伊賀忍者の名前はあまりにも有名であるがゆえに、発祥の地は北に隣接する伊賀市であると誤解を受けているが、実際は伊賀地域全体に広く忍者の生活・活動した跡が見られる。
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黒田の
勝手神社参道入口
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勝手神社参道の石碑
には「金比羅」の文字が
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勝手神社勝拝殿の左下
には多数の山神さん
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黒田 初瀬街道 観世音菩薩塔(宝暦5年(1755))供養碑
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黒田 町石(大正5年)「第五十三番黒田村弘法大師霊場 従是五丁 無動寺」・「国寶 不動明王 大正五年十月」、無動寺は北西にある。木造不動明王像は国の重文。
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名張の聖天さん(宝満寺)
名張の聖天さん(宝満寺)「真言宗豊山派」宝満寺は聖天様(歓喜天)を本堂でお祀りされている寺院です。 歓喜天(ナンディケーシュヴァラ 歓喜自在天)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教のガネーシャ(群集の長)に起源を持つ。ガネーシャはヴィナーヤカ(無上)、ヴィグネーシュヴァラ(障害除去)、ガナパティ(群集の主)、またはナンディケーシュヴァラとも呼ばれる。 聖天の名称は、大日如来もしくは観自在菩薩の権化身であるために、歓喜天の本身(大日如来もしくは観自在菩薩)を表すために「聖」の字を用いて聖天としたという。
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名張聖天 案内
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名張聖天 本堂
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名張聖天
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江戸川乱歩生誕地碑 / 江戸川乱歩 銅像 近鉄名張駅東口
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地元出身の有名人では、忍者・百地三太夫、歌手の平井 堅や平家みちよ、吉本のお笑い・亀山房代、落語家・桂 三弥がいます。また作家・伊藤学(さとう たかみ)さんは2006年7月13日、第135回の芥川賞に選ばれています。雑学では、文豪・田山花袋は、大の旅行好きで作家活動の傍ら日本中をくまなく旅しています。名張はことのほか好いていたようで、彼が「名張」に抱いた浅からぬ
愛情を小説「名張少女(なばりおとめ)」にしたためています。名張の温泉も紹介.。
■三重とこわか大会、令和3年に三重県で第21回全国障害者スポーツ大会「三重とこわか大会」が開催されます。 全国障害者スポーツ大会は、障がいのある選手が競技等を通じ、スポーツの楽しさを体験するとともに、国民の障がいに対する理解を深め、障がい者の社会参加の推進に寄与することを目的とした障がい者スポーツの祭典です。 「とこわか(常若)」とは、「いつも若々しいこと。いつまでも若いさま。」を表現した言葉で、県民や来訪者が活力に満ち、元気になるようにとの願いを込めています。
三重とこわか大会
トーチ
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三重とこわか大会
金・銀・銅メダル
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三重とこわか大会
応援旗
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名張市では、正式競技として、ホッケー(全種別)、軟式野球(成年男子)、弓道(全種別)公開競技では、綱引競技、デモンストレーションスポーツでは、ターゲット・バードゴルフが開催されます。
会場は、メイハンフィールド(名張市民陸上競技場)とはなの里スタジアム(名張市民ホッケー場)
名張のパワースポット
■パワースポットとは、心身を癒す助けとなる精神的なエネルギーに満ちた聖地のことで、エネルギースポット、気場などともいい、オカルト的なエネルギーが集中していると風水やスピリチュアリティの観点から見なされる場所を指すそうです。 すなわち、パワースポットとは、心身を癒す助けとなる精神的なエネルギーに満ちた聖地のこと。 特徴として次の5項目を満たしていると思います。 1)水や緑が豊か、2)山や峰にある、3)鉱物が多い、4)巨石がある、5)断層上に位置する地磁気が強い聖人にゆかりがある伝説がある 等です。特に日本のパワースポットは自然系では富士山・阿蘇山などの活火山または断層地帯など、宗教系では伊勢神宮・熱田神宮・箱根神社・高野山などにあります。
■パワースポットの写真と切手全体 [ 世界|日本|地元・名張|エジプト写真集 ]、大阪のパワースポット[ 住吉大社|四天王寺|交野の磐船神社・天孫降臨の地 ]
青蓮寺 國津神社(しょうれんじくにつじんじゃ)青蓮寺の国津神社は、名張では有名なパワースポット(パワスポ)。幹が根元で一体化した杉とヒノキがある「国津神社」(青蓮寺)は、縁結びの神様として知られています。
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青蓮寺国津神社
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拝殿と「和合円満 杉桧 縁結之神」(左)
との掲示有り(パワスポ)
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主な祭神 武甕槌命・天兒屋根命・経津主命 場所は 百合が丘団地の南西 青連寺湖ぶどう組合のすぐ近くです。
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「竜王水」(下小波田) パワースポット
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湧き水がこんこんと湧き出ている「竜王水」(下小波田)。地下水の温度は年間を通じて15度らしく、しかもその場所もまさに秘境というべき奥地。これぞ地元の人しか知り得ない、新鮮な湧き水スポットですよね。3本の河川が通る名張でも湧き水はここにしかありません。
国道165号線からすぐ。 江戸時代。 パワースポット。
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■斎宮(さいぐう、さいくうまたはいつきのみや、いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所。平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指すようになった。伊勢斎王、伊勢斎宮とも称する。『日本書紀』崇神紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を倭の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行した後に伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記しており、これが斎王の忌みこもる宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べており、以後斎王は天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として、長く伊勢神宮に奉仕することとなった。未婚の内親王または女王の中から候補者を選び出し、亀卜(亀の甲を火で焙りひびで判断する卜占)により吉凶を占って新たな斎宮を定める。神に仕える斎宮は穢れを避けまた仏教も禁忌とするため、それらに関連する言葉も禁じられた。
作成にあったては、Wikipediaや当地HP・パンフレット等を参考にしています。
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日本の写真・風景|三重県・名張市 イメージと概況・自然・文化・パワースポット
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