名張・万葉の会|佐保の道 奈良・新大宮 他を訪ねて ・・ |
奈良市新大宮
今回は近鉄電車の新大宮駅から万葉集で多数取り上げられている佐保川に沿って舟橋商店街から不退寺、24号線を渡り佐紀盾列古墳群のウワナベ古墳やコナベ古墳を経て海龍王寺と法華寺、平城旧跡、西大寺へ歩きました。30年程前には自宅から歩いて10分程度のところばかり。懐かしさだけでなく新たな発見も多数ありました。 2015年06月04日。
※ ページ内索引 [ 佐保川沿いの万葉歌碑|大仏駅|興福院|狭岡神社|不退寺|ウワナベ古墳、コナベ古墳|海龍王寺と法華寺|平城旧跡 ]
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新大宮駅前 銅像 |
新大宮駅前 南方面 |
奈良駅 若草山方面を |
新大宮駅前 北方面 |
新大宮駅周辺の案内図 有名なお寺・史跡も近い |
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■新大宮駅(しんおおみやえき)は、奈良県奈良市芝辻町四丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線の駅。駅周辺は大宮通りを中心とした官公庁の他、企業の支店や営業所の入ったビルが立ち並ぶビジネス街となっているが、居酒屋・スナック・レストランなどの飲食店も多く賑わっている。
佐保川沿いの万葉歌碑
■佐保川(さほがわ)沿いにはいくつもの歌碑が立っている。その中でも、佐保に住んでいたとされる大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌碑が多い。
佐保川は、若草山東麓を走る柳生街道の石切峠付近に発し、若草山北側を回り込むようにして奈良盆地へ出、奈良市街北部を潤す。奈良市新大宮付近から南流に転じ、奈良市と大和郡山市との境で秋篠川を併せる。大和郡山市街東部を南流し、同市南端付近の額田部で大和川(初瀬川)に注ぐ。江戸時代には「南都八景」の一つとして「佐保川の蛍」が。 佐保川小学校の南の土手に歌碑がある。
■佐保川を詠む万葉集の歌
佐保河の小石ふみ渡りぬばたまの 黒馬の来る夜は年にもあらぬか(大伴坂上郎女、万葉集)
佐保川の水を塞きあげて植ゑし田を 刈る早飯は独りなるべし(上の句:尼/下の句:大伴家持、万葉集) …最古の連歌とされる。
見渡せば佐保の河原にくりかけて 風によらるゝ青柳の糸(西行法師、山家集)
★夢窓庵(日本料理 奈良市法蓮町)は、万葉集にも歌われた佐保川の堤に静かに佇み庭には300種に及ぶ山野草が可憐な花を咲かせます。
大仏駅(だいぶつえき)
■大仏駅(だいぶつえき)は、かつて奈良県添上郡佐保村(現・奈良市)の関西鉄道線(通称:大仏線もしくは大仏鉄道)に存在した駅(廃駅)であり、1898年(明治31年)4月19日
関西鉄道加茂 - 当駅間開通に伴い終着駅として開業した。駅構内の奈良寄りは佐保川に接していた。1907年(明治40年)8月21日 木津経由への経路変更に伴い廃止。奈良に住んでいたときも、こんな鉄道があったことすら知りませんでした。
船橋商店街 入口 |
大仏駅の痕跡・レンガ |
佐保川と若草山 |
船橋商店街は、昭和期に大変栄えた歴史ある商店街。最寄の油阪駅廃止に伴い衰退化の歴史を辿りました。 |
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佐保川と若草山 |
大佛鐵道記念公園 |
大佛鐵道記念公園 |
SLの大きな動輪 |
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大佛鐵道記念公園 石碑 |
大仏駅の説明 |
ご近所マップ |
この大佛鐵道記念公園が大仏駅の南端だったそうです |
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奈良県総合庁舎 |
佐保小学校の正門 |
佐保小学校の外観 |
興福院(こんぶいん)
■興福院(こんぶいん)は、奈良県奈良市法蓮町にある浄土宗の尼寺。山号を法蓮山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は和気清麻呂ともいい、藤原百川ともいう。 大門・本堂・客殿と素晴らしい伽藍です。
興福院はツバキとサツキの名所として知られていて、奈良で最も美しい尼寺の一つとされている。秋のもみじも綺麗そうだ。
「佐保小学校前」バス停下車、徒歩5分。
興福院から狭岡神社へ向かう途中に、参道と思しき物があり「是より境内地 死んだ宗教を活かす長慶寺 神佛となるは生きた人間にかぎる」と彫られた石柱が立っています。 (融通念仏宗)
佐保山普門院「長慶寺」というお寺さんです。 話では、吉村長慶師(1863〜1942)が私費を投じて建立開基したお寺で、境内の岩窟内に、十数体の観世音など金色の仏像が刻まれているそうです。
(融通念仏宗) 佐保山普門院「長慶寺」 |
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門前に万葉学者小野寛先生揮毫の大伴家持万葉歌碑 |
奈良市マンホールの蓋 |
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主碑(原文) 和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘓氣伎 許能由布敝可母 |
副碑(書き下し文と解説) |
★万葉歌碑の補足説明 天平勝宝五年二月二十三日 大伴家持が佐保の自邸で詠んだ歌。
歌碑の歌は天平勝宝5年(753年)2月、36歳の大伴家持が平城京佐保の自邸で春の愁いの心を 詠んだ「春愁絶唱三首」と称せられる中の一首(万葉集巻19、4291)です。
歌にある「いささ群竹(むらたけ)」は「わずかばかりの小さな竹群」、「かそけき」は家持 独自の造語で、家持の心でとらえた「かすかな」と解されています。
狭岡神社
■狭岡神社(さおかじんじゃ)は、延喜式神名帳に、『大和国添上郡 狭岡神社八座』とある式内社。八座 の祭神は若山咋之神・若年之神・若沙那売神・弥豆麻岐之神・夏高津日之神・秋比売之神・久久年之神・久久紀若室綱根之神となっている。
社務所で頂いた由緒記には、「本狭岡神社は霊亀2年(715)藤原不比等《淡海公・659--720》が国家鎮護・藤原氏繁栄のため、勅許により己の邸宅佐保殿の丘上に天神八座を奉祀して崇拝しました。これが佐保丘天神・狭穂岡天神・狭加岡天神となって、今の狭岡神社になったのであります。
次いで、藤原淡海公(不比等)は天平神護景雲年間(767--70)に、河内の国枚岡より藤原氏の祖神である春日大明神を、大和国奈良の御蓋山へ移され、斉祀せられました。これが今の春日神社であります。 それ以来、国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門《公家・女官たち》がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、それより日の出を待って国政に掌り、春日社詣をしたと古事に出ています」とある。
■狭穂姫伝承(さほひめ・でんしょう): 参道を登ると左の森の中に、狭穂姫が姿を写したという鏡池、狭穂姫伝承地と刻した石碑があり、それぞれに案内板が立っている。
狭穂姫伝承とは、垂仁天皇の皇后・狭穂姫が、兄・狭穂彦の反乱に際して天皇と兄との板挟みになって苦しみ、遂には兄に従い、天皇に攻められて焼死したという古代ロマンとして著名な伝承で(書紀・垂仁4年・5年条、古事記も同じ)、それを狭穂・佐保の類似から当地での出来事するのだろうが、当地であったとする根拠はない。神話伝承と現実とを混合した俗信であろう。
狭穂姫が姿を写した鏡池 |
鏡池 説明 |
奈良建都1300年 |
狭穂姫伝承地と刻した石碑 |
狭穂姫伝承地 説明 |
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参道階段左手に、「佐保姫旧跡保存地」という鏡池と呼ばれた窪地があり、 |
不退寺
■不退寺(ふたいじ)は、奈良市法蓮町にある真言律宗の寺院。本尊は聖観世音菩薩(業平観音とも呼ばれる)。山号は金龍山。寺号は詳しくは不退転法輪寺と称する。仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が開基したと伝わる。その由緒から「業平寺」とも呼ばれる。平城天皇の第一皇子阿保親王の菩提所である。
不退寺 南門(重要文化財) |
不退寺 本堂(重要文化財) |
不退寺 庭園 |
不退寺 本堂 入口 |
不退寺 本堂 壁面 |
多宝塔…桟瓦葺宝形造 |
★南門(重要文化財) - 切妻本瓦葺の四脚門。鎌倉時代末期の建立で、様式は桃山時代の先駆とされる。冠木上には笈形調の装飾が見られる。1934年(昭和9年)の修理時、多くの墨書銘が確認された。
★本堂(重要文化財) - 南北朝時代から室町時代前期の建立。単層本瓦葺、寄棟造。内部は内陣と外陣に分かれ、その境に吹寄菱欄間(業平格子)と木連格子を入れている。須弥壇上中央に本尊聖観音菩薩像、その周囲に五大明王像、地蔵菩薩像を安置している。須弥壇の左右に小部屋があり、東小部屋に神仏習合名残りの伊勢太神宮を奉安し、西小部屋に阿保親王坐像と平城天皇、伊都内親王の尊儀が祀られている。
★塔婆(多宝塔)(重要文化財) - 鎌倉時代に建立された不退寺で最古の建物。初層のみで上層と相輪を欠いているが、建立当初は檜皮葺きの二層構造であった。
★石棺−5世紀のもの。国道24号線バイパスの工事の際にウワナベ古墳付近にて発掘されたもの。庫裏北側に置かれている。
■JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「一条高校前(不退寺口)」下車、徒歩7分 ・・ 昔は家がこの近所にあり、通勤ではこのバス停を利用していました。
ウワナベ古墳、コナベ古墳
■ウワナベ古墳(宇和奈邊古墳/宇和奈辺古墳)は、奈良県奈良市法華寺町にある前方後円墳。
宮内庁により「宇和奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:第16代仁徳天皇皇后八田皇女)として陵墓参考地に治定されている。付近に存在する大小60あまりの古墳集団である佐紀盾列古墳群(ウワナベ古墳群)の東端に位置している。
国道24号線バイパス |
ウワナベ古墳 |
ウワナベ古墳 |
ウワナベ古墳 |
ウワナベ古墳 |
ウワナベ古墳と自衛隊 |
ウワナベ古墳もコナベ古墳も、ともに全長200メートルを超える規模を有し、三段築成の前方後円墳が前方部を南方に向けて東西に並んで立地する。古墳時代中期の古墳。 |
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ウワナベ古墳 |
亀が多いコナベ古墳 |
遠くに見える奈良市中心部 |
コナベ古墳 |
平城宮跡・水上池 |
若草山を臨む |
■コナベ古墳(こなべこふん)は、奈良県奈良市法華寺町にある前方後円墳。宮内庁により「小奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:第16代仁徳天皇皇后磐之媛命)として陵墓参考地に治定されている。コナベ古墳の墳形は市庭古墳(奈良県奈良市)や誉田御廟山古墳(大阪府堺市)との相似関係が指摘されている。
海龍王寺と法華寺
■海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。海龍王寺は平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれている。
海龍王寺 表門 説明 |
海龍王寺 表門 |
海龍王寺 |
■法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。
聖武天皇は天平13年(741年)2月14日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した(詔の日付は『類聚三代格』による)。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。
★本堂(重要文化財) - 寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。慶長6年(1601年)、豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。
★南門(重要文化財) - 切妻造・本瓦葺の四脚門で、本堂と同時に再建された。
■光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
平城旧跡
■平城宮(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りした。
■平城宮の第一次大極殿(恭仁京(くにきょう)遷都までの大極殿)は平城宮の正門である朱雀門の真北に位置し、周囲は築地回廊で囲まれ、南の朝堂区域とつながる「閤門」があった。この区域は「大極殿院」と呼ばれる。
奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元された。その規模は東西約44メートル、南北約20メートル、高さ約27メートル!復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大棟中央飾りが設置されている。
奈良の時は新大宮で生活し、近くに在原業平の不退寺や法華寺や奈良高校や一条高校があり、平城旧跡は子供らの 遊び場でした。
平城旧跡正式ガイド
名張・万葉の会|佐保の道 奈良・新大宮 他を訪ねて ・・ |