日本の風景|名張・万葉の会 海南 藤白神社と鈴木姓の発祥の地とされる鈴木屋敷 |
海南市
海南市は万葉の昔から多くの歌人達に歌われた風光明媚な土地としてしられており、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録され、全国から注目されている熊野古道の要衝の地として栄え、熊野古道(紀伊路)沿いには九十九王子の中でも特に格式高い五躰王子の一つで熊野聖域の入り口とされる藤代王子、全国に200万人といわれる"鈴木さん"のルーツといわれる鈴木屋敷などたくさんの歴史的資産があります。 切手以外の写真はクリックで拡大。
海南市索引 [ 藤白王子(藤白神社)|鈴木屋敷|有間皇子の史跡(藤白坂)|海南市内の万葉歌碑|黒江・紀州漆器(黒江塗り)の生産地 ]
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海南市 |
和歌山県・海南市へのアクセスマップ |
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海南市は海に面している |
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海南駅前の東海地震の碑 |
「黒牛」のそばの丸型ポスト |
海南市の港 |
JR海南駅を降りると、そこは海南市名高町という。万葉で詠まれた「名高の浦」の名を残す。でも、そこには海はない。
和歌浦湾の南へ続く海岸線は海南市辺りで大きくその姿を変える。関西電力の火力発電所・住友金属の鉄塔。さらには現在市の中心街となっている駅前商店街・市役所等の官庁。そして石油精製の大きなタンク。
これらはすべて海を埋め立てた干拓地に建つ。万葉の頃の海はもうない。
藤白王子(藤白神社)
■藤白神社(ふじしろじんじゃ)は、和歌山県海南市にある神社。鈴木姓の発祥の地とされる鈴木屋敷がある。九十九王子(※1、王子は参詣途上で儀礼を行う場所)のなかでも別格とされた五体王子のひとつ藤代王子の旧址で、「藤代神社」「藤白権現」「藤白若一王子権現」などとも呼ばれた。
創建年代については不詳であるが、景行天皇(※2)の代の創建とされる。また、社殿は斉明天皇の牟婁の湯行幸の際に建立されたと伝わる。
境内には樹齢千年の子守楠、観音堂には熊野路唯一の熊野本地仏が祀られています。
※1 九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。
※2.景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日
- 同60年11月7日)。史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、655年
- 661年となる。推古天皇から一代おいて即位した女帝である。
■藤白王子権現本堂(観音堂)は、藤代王子を顕彰するもので、祭神の本地仏3体が祀られている。これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州征伐に際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したもの。
■江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌『紀伊続風土記』は藤白若一王子権現社として記載し、境内東西二八間・南北三〇間、本社三扉、庁、御供所、鐘楼、石鳥居、末社三社などがあり、和歌山雲蓋院末の寺院が別当をつとめたと記している。
鈴木屋敷
■鈴木屋敷(すずきやしき)は、藤白神社内に現存する。平安時代に熊野から藤代の地に移り住み約122代続いたと言われる、熊野信仰を広めた神官の一族である藤代の鈴木氏がかつて居住していた屋敷だとされている建物。全国で二番目に多い「鈴木」姓の発祥の地とされる。 牛若丸(源義経の幼名)が熊野往還のたびに滞在して山野で遊んだという言い伝えがある。
衣川で源義経と討ち死にした義経の家来である鈴木三郎重家と、亀井六郎重清兄弟も藤白地区の出身。 屋敷の前には「曲水園」という、今も残る歴史ある日本庭園がある。
鈴木屋敷の説明 |
義経弓立松 |
鈴木屋敷(裏) |
■衣川で源義経と共に討ち死にした義経の家来の鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟もこの地の出身、義経がこの地を訪れたときの、義経弓立松。 |
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当時の鈴木屋敷 |
鈴木屋敷(表) |
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□紀伊国藤白の鈴木氏は、12世紀頃に熊野から同じ紀伊国内の藤白に移り住んで以来、王子社(現在の藤白神社)の神官を代々務めた家である。全国に散らばる穂積姓鈴木氏中でも本家筋とみなされている家で、雑賀の鈴木氏も三河の鈴木氏もいずれも藤白の鈴木氏の分家とされている。
「曲水園」の説明 |
曲水泉式庭園 「曲水園」 |
「曲水園」の池 |
ゼフィランサス カリナタ |
キョウカノコ(京鹿子、Japanese Meadowsweet) |
小栗街道(熊野古道) |
□雑賀衆(さいかしゅう)は、「さいが」とも読み、また、史料に見られる「惣国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は現在の和歌山市及び海南市の一部の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」という五つの地域(五組・五搦などという)から成り立っている。すなわち、雑賀衆とは、この五つの地域が地縁により結びついている一揆集団である。16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。又海運や貿易も営んでいた。
「雑賀衆」という言葉の史料上の初出は、本願寺蓮如の子である実従の「私心記」1535年6月17日条であり、「雑賀衆三百人計」が大坂本山に来援した、とある。そしてこの翌年2月には本願寺証如からこの時の活躍について感謝状(「本願寺文書」)が出されている。
有間皇子の史跡(藤白坂)
■藤白神社から熊野古道を南に向かった藤白坂の登り口に悲劇の皇子、有間皇子の墓碑と皇子が詠まれた歌碑がたっています。 斉明天皇の時代、有間皇子は、皇位継承にからんで謀反をそそのかされ、藤白坂で絞殺されました。 この有間皇子の墓碑とならんで、万葉学者の佐々木信綱先生の筆による、万葉集に収められている有間皇子が詠んだ歌碑があります。
「家にあれば けに盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の 葉に盛る」(『万葉集』巻1・142)
藤白神社の境内には、有間皇子神社があります。
有間皇子(ありまのみこ、640年 - 658年)は、孝徳天皇の皇子。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。天智天皇の娘、明日香皇女・新田部皇女姉妹とは母方の従兄妹になる。後世には有馬皇子と表記される例が多い。中大兄皇子によって謀反の濡れ衣を着せられ藤白坂で絞首刑に処せられた。
藤白坂には、「藤白の み坂を越ゆと 白樽の わが衣手は 濡れにけるかも」(『万葉集』巻9・1675)という、皇子を偲んだものと思しき作者不詳の歌碑も残っている。
当時の人達は誰もが有馬皇子の無実を知っていた。しかし、中大兄皇子(天智天皇)は、なりふり構わず、有馬皇子を処刑したのである。この話は、長く人の心に残り、江戸時代になっても悲劇の人として語られることとなった。
海南市内の万葉歌碑
■海南駅前、労金海南支店東・歩道横、海南消防署・海南警察署のそば、黒江の「黒牛」裏庭、藤白神社の駐車場・・に書かれたご当地の万葉集の歌碑。
黒江
黒江(くろえ)とは、和歌山県海南市の大字。海南市の北部に位置しています。
紀州漆器(黒江塗り)の生産地であるほか、「黒牛」で知られる酒造メーカー名手酒造がある。
■温故伝承館 「黒牛」
生活文化としての酒づくりの姿と心を伝えるため、各種の清酒製造器具・道具類等を展示しています。
「黒牛」 |
地酒「黒牛」の蔵元 |
温故伝承館 |
地酒「黒牛」の蔵元 |
地酒「黒牛」の蔵元 |
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みかん盃:漆器の産地、海南市黒江の職人が作業の合間を利用し、遊び心たっぷりに制作する盃(さかずき)。使うのは和歌山特産のみかん。破れないよう丁寧に実を取り出した皮を乾燥させた後、塗料の中に入れて固め、さらに下塗り、上塗りと工程を重ね仕上げる。 |
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地酒「黒牛」 |
戦前の菊御代(きくみよ)グラス |
みかん盃 |
余り見かけない井戸 |
地酒「黒牛」の蔵元コーナー |
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■中言(なかごと)神社
紀の国名水「黒牛の水」が湧き出る神社。万葉の昔、当時は神社のある山のふもとまでが海で、牛の姿をした黒い大きな岩があったことから黒牛潟と呼ばれていたとか。境内に柿本人麻呂の歌碑がある。万葉の太古より歌枕として『万葉集』に詠まれている「黒牛潟」は当社の境内周辺で、『紀伊続風土記』に「この地古海の入江にてその干潟の中に牛に似たる黒き石あり、満潮には隠れ、干潮には現る。因りて黒牛潟と呼ぶ」とある。
■のこぎり状の町並み
昔の漆器職人たちの住居兼職場や問屋が通りに面して「のこぎりの歯」のように建ち並ぶ町並みが残っています。風情のある家々が特徴的です。
■うるわし館(紀州漆器伝統産業会館)
1階の紀州漆器の展示・販売コーナーに展示されている、青年部が試作したジャンボ雛や漆で塗装したバイク、丸型ポストは、従来の漆器製品に対する先入観を取り除き、新しい応用分野の可能性を感じさせてくれます。2階には、400年以上の歴史を持つ紀州漆器の資料が展示されています。
漆器の資料展示のほか、紀州漆器の伝統的技法である蒔絵による絵付けを体験できます。
紀州漆器伝統産業会館 |
漆塗りのバイク |
紀州漆器 |
紀州漆器 |
紀州漆器 |
ジャンボ雛 |
紀州漆器 風鈴 |
漆塗りの雛人形 |
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紀州漆器 米びつ |
紀州漆器 花瓶 |
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海南市は、弥生式土器や古墳なども見られ古くから人間が生活した痕跡が伺える。熊野古道もあり、古くから都と白浜の湯治場の中継地として栄えていた。市南部の藤白山の麓では有間皇子が非業の死を遂げ、遺恨碑も建てられている。戦国時代には全国を制覇しようと目論む織田信長側とこれを阻む雑賀衆との合戦も行われた。江戸時代、紀州徳川家は黒江地区を紀州漆器の生産地として特別の保護を与え、大いに栄えた。
熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。紀伊半島に位置し、道は三重県、奈良県、和歌山県、大阪府に跨る。紀伊路。
参考 「日本の世界遺産・遺跡の切手 紀伊山地の霊場と参詣道(熊野古道、大峯奥駈道、高野山町石道)」
日本の風景|名張・万葉の会 海南 世界遺産・熊野古道 |
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