名張・万葉の会|藤井寺&羽曳野 道明寺と道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう) |
道明寺(どうみょうじ)・尼寺
道明寺(どうみょうじ)は、聖徳太子が尼寺を発願され、7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺が起源。 901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた伯母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。 この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。 道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。 当初は天満宮の南側参道付近に位置していましたが石川の洪水で天満宮の境内に移り、さらに明治の神仏分離令によって現在地に移りました。 本尊は国宝「十一面観音立像」で、毎月18日と25日に拝観できます。 当日のご案内は尼さんが丁寧に対応してくれました。 掃き清められた庭は見事でした。
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道明寺の入口と石碑 |
道明寺の山門 |
道明寺の本堂(国宝を祀る) |
道明寺の格式高い5本線の土塀 |
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■国宝・木造十一面観音立像は、 平安時代初期、9世紀の作。カヤ材の一木造で、彩色を施さない素地仕上げとする。カヤ材をビャクダンの代用材として用いた檀像様(だんぞうよう)の作品である。像高98cm。 |
■近年の発掘調査によれば、道明寺は地方寺院であるが本格的な伽藍を有する寺院で、相当早い時期にこの地に営まれていたようである(現天満宮南側の平地)。 時代が下るが治安三年(一〇二三)藤原道長が大和・河内を巡歴したときに当寺に立ち寄ったことが『扶桑略記』に記されていて、法隆寺や四天王寺と比肩しうる堂塔伽藍を具備した有数の寺院であったようである。 延喜三年(九〇三)の道真の没後、約二百年後の道明寺の様を惟宗孝言の詩に、道明寺の塔が五重であり、本尊が観世音菩薩であったこと、そして道真が檀越でしばしば当寺をおとずれ、文章や状跡が残っていると詠まれている。 また平安末期から南北朝にかけて当寺と菅原氏との結び付きは密接で、同一族が別当であったことが記録されている。
■和菓子の材料として用いられる道明寺粉は、道明寺の尼が乾燥した糯米(糒)を挽き粉状にしたのが始まりという。
■道明寺糒(ほしい)の起源は菅原道真公の伯母上が、この寺に住んで居られ、道真公が築紫に左遷された後、毎日、伯母の覚寿尼が九州に向ってお供へされたご飯のおさがりを、分かち与へたが、これをこれをいただくと病気がなほるといふのが評判となり、希望者が多くなるにつれてあらかじめ乾燥、貯蔵するようになったのが糒のはじまりで、千年以上前の事です。 「ほしい」は純粋のもちごめを二日間水につけて、のち、むしあげ屋内で十日程乾燥し、のち二十日程天火で干してから石ウスにかけて仕上げます。 和紙の袋の上の「ほしいひ」の文字は豊臣秀吉の文字です。
江戸時代には金裡、将軍家に献納したのち、諸侯の求めに応じて少量づつわかつていたが明治以後は一般民間にも販売するようになりました。 寒中に作つてあり幾年をすごしても変質、変色せず、昔は軍糧にしたもので行軍、山登りなどには欠くことの出来ないものです。
道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)
道明寺天満宮は、土師氏の氏神として創建され、のちに一族の子孫である菅原道真公の没後、道真公を主神とした天満宮に改められました。 宝物館には国宝の「伝菅公遺品」を始め、多くの文化財が所蔵されています。 また、境内に80種800本の梅があり、梅の名所としても名高く、毎年2月から3月に開催される梅まつりには全国から多くの参拝者が訪れます。 祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真のおばに当たる覚寿尼公です。
■道明寺天満宮には入って右手に土俵もありました。道真公の遠祖天穂日命《あめのほひのみこと》を氏神として祭祀して以来、
毎年9月1日(旧暦8月朔日)に神事が行われていました。 そこで、農家の節を祝う八朔祭と合わせ、奉納相撲を行なっています。
これは、道真公の祖先に相撲の祖といわれる野見宿祢《のみのすくね》がおられることに関係しています。土師社の前には、
元前頭筆頭の関取で当地出身の「花の国」の手形の石碑があります。
■「道明寺のもくげんじ」(道明寺・道明寺天満宮周辺):道真公は光孝天皇元慶8年(884)に、この道明寺で五部の大乗経を書き写されました。
(このころの道明寺(土師寺)は、現在の道明寺天満宮の石段の南側にありました。)この経文の写経の際に、
硯の水を寺の北側にある井戸まで汲みにいっておられました。硯の水がなくなったときに、二人の子供が現われ、硯の水を汲んでくれました。このため道真公は、写経を早く終わらせることができたと伝えられています。また、その経文の納める場所にお困りのとき、3人の僧の姿をした神様が現われ、「我等こそ、伊勢、八幡、春日の三神なり」と講堂の西の方を指して消えてしまいました。このため道真公は、書き写した五部の大乗経を神様の指した講堂の西側に埋めました。この大乗経を納めたところから、数年後にもくげんじが育ったと伝えられています。
もくけんじ:ムクロジ科の落葉高木。高さ約10メートル。葉は羽状複葉。小葉は卵形で縁に不規則なぎざぎざがある。
夏、枝先に黄色い小花を群生。実は三角形の袋状をし、中の種子は黒色で堅く、金剛子といい数珠に用いる。
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