大和の風景|奈良・桜井 長谷寺の奥の院・瀧蔵神社 泊瀬斎宮・倭笠縫邑旧跡伝承地 他 |
奥の院・瀧蔵神社
■長谷寺の奥の院・瀧蔵神社 ご祭神 伊弉冊尊、伊弉諾尊、速玉命、国狭土尊、沙土煮尊、豊雲野御子、大戸道尊、天忍穂身尊、葺不合尊、面足尊、天彦火瓊々杵尊、煌根尊、火々出尊、泥土煮尊、大苫邊尊、天照大神 境内社 六社神社・本殿に向かって右側壇上、六社神社・同じく左側壇上、鎮守神社 鎮座地 奈良県桜井市滝倉字権現山
瀧蔵神社を瀧藏、瀧倉、滝倉、滝蔵等々の表記有り。 川上瀧蔵明神あるいは瀧蔵権現とも呼ばれる。 滝倉の西南、標高430メートルの山上に鎮座する旧指定村社で国史見在社。 古来、輿喜天神とともに長谷寺を守護する地主神として古くから崇拝され、長谷寺奥の院の由縁で、長谷八郷の総鎮守として、飛鳥時代(五〜六世紀)「瀧藏権現この地に座す」と文献に見える。ここを本社とした新宮三社が長谷寺・観音堂の左脇(向かって右)に祭られ鎮守とした。
★興福寺門跡大乗院尋尊識語の応仁元年(1467)書写仁平二年(1152)の『長谷寺密奏記』に、”瀧倉大菩薩当山地主也河上ニ坐シ御ス”とある。 滝倉山一帯は、奈良・春日神社の神領であったが、ここに庶民信仰が根強くあったことを『今昔物語』巻十九 滝蔵礼拝堂倒数人死語第四十二からうかがうことが出来る。
また、『長谷寺観音験記』巻第七によると、保延四年(1138)十一月十八日に美福門院(鳥羽天皇の皇后近衛天皇の母)が、長谷寺に参詣、夢のお告げで若君(近衛天皇)を生んだところで、 「此山ノヲク瀧蔵山ニ一人ノ尼有リ、日天子ト嫁ギ、高貴ノ男子ヲ生ズ。是ニ必取更<カエ>奉ルベシト云ト、(中略)彼瀧藏権現ハ是ノ尼ヲ御座ナリ。」と、瀧蔵権現のご神体を「尼」→女性としている。 懐妊した美福門院は、博士の卜<うらない>で姫宮であるといわれたので、長谷寺に詣って祈ったところ、夢の中で登場した瀧蔵権現の尼の力で姫を若君に取り替えてもらった。 喜んだ院は、「瀧蔵ノ拝殿ヲ営作ス」という。
『今昔物語』巻十九 滝蔵礼拝堂倒数人死語第四十二: 「今は昔、長谷の奧に滝蔵と申す神が鎮座しておられる。その社の前に、軒続きに長さ三間の檜皮葺の家があった。社は山に沿って高い所に建ち、前の家は谷に柱を長く継いで建ててある。その谷ははるか深く、見おろすと目もくらむばかりだ。・・・ 思うに、この助かった者たちは、前世からの宿業が強かった上に、神の助けと観音の加護があったのであろう。じつにこれは不思議きわまることだ、とこう語り伝えているということだ。」
泊瀬斎宮・倭笠縫邑旧跡伝承地
■泊瀬斎宮・倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)旧跡伝承地。(桜井市小夫3147 天神社) 大和の国原より望む、厳粛なる三諸の三輪山、美わしき山の辺の光景は、古代倭の神々の鎮まり給う神山であり、東青垣の連峯は渓谷美優れ、その一円を大和日高見の国と称せられる神の郷、一説に高天原ともいわれ、高貴尊崇の天つ神の霊地であり、聖地であります。 隠国(隠口ともいう。)の泊瀬の地を稜線に沿って、大和川の源流地帯を大和高原に遡る、古は万葉で知られる泊瀬川で神の河、日の河とも呼ばれ、水源をなす秘境の地にして、古代大和における倭笠縫邑という伝承があります。 往昔、神浅茅原と称せられし笠山より東方龍野、和田の山陵、小夫斎宮山、瀧倉山の鬱蒼たる原始林を隔てて、眞平、中岳、貝ヶ平三山と相対し、秋風落莫の頃となれば、太陽は中岳より昇陽、その陽光は雄大なる上之郷を、即ち神の郷の里々谷々を照し、置く霜を溶かして大和川の清流に黄金の波を湛える。
News 2012年6月19日(日本経済新聞社) 泊瀬斎宮の一部か、7世紀の建物跡 奈良の脇本遺跡
奈良県桜井市の脇本遺跡を調査中の同県立橿原考古学研究所は19日、7世紀後半(飛鳥時代)の建物跡を見つけたと発表した。周辺には天武天皇の娘、大来皇女(おおくのひめみこ、661〜701年)が伊勢神宮の斎王になる際に心身を清めた「泊瀬斎宮(はつせいつきのみや)」があったとされ、同研究所は「斎宮の一部である可能性がある」としている。
建物跡は東西約19メートル、南北8メートル。同遺跡でこの時期の建物跡が見つかったのは初めて。遺構の一部は昨年発見され、柵の跡との見方も出ていたが、今回新たに4つの柱穴跡を発見。その配置から建物跡と判明した。
日本書紀によると、大来皇女は673年4月、斎王となるために泊瀬斎宮に入り、翌年10月に伊勢に向かったとされる。 周辺ではこれまでに、5〜7世紀の建物跡や柵跡などが東西約100メートルにわたって見つかっている。
脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し、三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた、泊瀬谷の入り口にあたる場所にあります。春日神社のあたりはその中枢部があり東西約300m、南北約250mの範囲に遺構が散在していた可能性が指摘されています。飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一帯は、大王(天皇)や皇后の宮が13もあったと伝えられ、大和王権の中心地域でした。
5世紀後半の遺構は雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡と推定され発見された南北方向の掘立柱建物2棟は脇殿で正殿は春日神社西側の集落内にあったのではないかと考えられています。(雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇で、当時は大王と呼ばれていました)
また6世紀については欽明天皇の行宮である泊瀬柴垣宮(はつせのしばかきのみや)跡 、7世紀のものについては大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されています。この地は、宮殿の前に泊瀬川(初瀬川)があり、すぐ近くにはヤマト王権の武器庫の可能性がある忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあったとされ、水陸交通の要所として大和と東国を結ぶ重要な場所に位置付けられています。
脇本遺跡は近鉄、大和朝倉駅から約500m(徒歩、約10分)のところにありますが調査区は埋め戻しされたり建物が建てられたりして現在は地中にその姿を隠しています。
★『太陽の道』(サンロード)とは、奈良に在住された写真家、小川光三さんが発見した伊勢の斎宮から箸墓、長谷寺、その延長線上にある伊勢湾内には「神島」があり、西方に戻れば、室生寺の室生山、和泉の堺に大鳥神社、淡路島の伊勢の森に至る東西線、その線上には点々と磐座(イワクラ)が存在し、日の神とも云われる天照大神に関係する神社が建ち並ぶというところから、その東西線を『太陽の道』(サンロード)と名付けて、『大和の原像 知られざる古代太陽の道』 (大和書房)の著書を発表された事が問題提起の発端です。 物凄く不思議な感じがします。