名張・万葉の会|藤井寺&羽曳野 割塚古墳・古室山古墳・三ツ塚古墳 |
割塚古墳
■割塚古墳は、方墳、一辺30m。岡ミサンザイ古墳と鉢塚古墳、落塚古墳は同時期に造られたものなのです。また、割塚古墳と岡古墳はそれよりも1世紀も前に造られたことになります。 昔は萩の名所だったそうです。割塚古墳は、岡ミサンザイ古墳の東側約50メートルのところにある一辺30メートルの方墳です。この古墳も内容はよく分かっていませんが、4世紀末から5世紀初めに造られたと考えられています。割塚古墳と岡ミサンザイ古墳は周辺に同時期の前方後円墳が存在せず、陪塚として造られたものではないのです。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。 |
||
割塚古墳の説明/割塚古墳 |
||
割塚古墳は、方墳という墳形からも分かるように、前方後円墳を頂点とした、墳丘の形によって表現された身分の枠組みに組み込まれていたということは想定できます。
現在の鉢塚古墳と割塚古墳は、住宅地の中にひっそりとたたずんでいます。しかし、それぞれの古墳が造られた背景に思いをはせると、当時の情景が目に浮かんでくるようです。
古室山古墳(こむろやまこふん)
古室山古墳(こむろやまこふん)は、内部構造や副葬品については不明であるが、後円部頂に板石が見られることから竪穴式石槨の存在が推測される。墳丘には円筒埴輪列があり、家・衣蓋・盾・靫・冑形などの形象埴輪も確認されている。出土した埴輪の特徴から、仲ツ山古墳とほぼ同時期、5世紀前半の築造と考えられる。
三ツ塚古墳
■三ツ塚古墳は、1978年に修羅が出土。仲津山古墳の南側に、三基の方墳が東西に並んでおり、まとめて三ツ塚(みつづか)古墳と呼ばれています。個々に名前があり、東から順に、八島塚(やしまづか)古墳、中山塚古墳、助太山(すけたやま)古墳と呼ばれています。同じ周壕で囲まれた3つの方墳を三ツ塚古墳と呼びます。昭和53年に中山塚と八島塚の間から、巨石の運搬用に使用したと思われる『修羅』が出土し、大きな話題となり歴史教科書に変化をもたらしました。 見た限りでは、マンション建設で修羅が見つかったようです。 現在はマンションの陰にひっそりと。仲津山古墳の陪塚です。
下の写真は道明寺天満宮の修羅のレプリカです。
道明寺天満宮の修羅の |
道明寺天満宮の修羅の |
1978年(昭和53年)、大阪府教育委員会が、三ツ塚古墳の中の八島塚古墳と中山塚古墳の間の濠の部分の発掘調査を行いました。 この調査で、濠の底をさらに1.3mほど掘り下げたところから、大小二つの木製の「修羅(しゅら)」が発見されました。修羅とは、重い荷物を乗せて運ぶための木ぞりです。 |
★世界遺産名:「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」
百舌鳥・古市古墳群は,古墳時代の最盛期であった4世紀後半から5世紀後半にかけて,当時の政治・文化の中心地のひとつであり,大陸に向かう航路の発着点であった大阪湾に接する平野上に築造された。
世界でも独特な,墳長500メートル近くに達する前方後円墳から20メートル台の墳墓まで,大きさと形状に多様性を示す古墳により構成される。墳丘は幾何学的にデザインされ,埴輪などで外観が飾り立てられ,葬送儀礼の舞台となった。(令和元年登録)
名張・万葉の会|藤井寺&羽曳野 割塚古墳・古室山古墳・三ツ塚古墳 |