滋賀の歴史風景|自治会旅行 近江商人と水郷、豊臣秀次の町 滋賀・近江八幡 |
滋賀・近江八幡市
近江国 (おうみのくに) は、古事記には「近つ淡海国」「淡海国」「近淡海国」とも記載された。(淡海は、琵琶湖の意味) 近江八幡市(おうみはちまんし)は、滋賀県中部、琵琶湖東岸に位置する市。 2010年(平成22年)3月21日、近江商人と水郷で有名な(旧)近江八幡市と織田信長の安土城で有名な蒲生郡安土町が合併して成立した。 近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。 近世の風情がよく残る「新町通り」・「永原町通り」・「八幡堀周辺」・「日牟禮八幡宮境内地」は「八幡伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。 ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。 2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。これは同法の適用第1号である。さらに2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。琵琶湖国定公園です。株式会社近江兄弟社も有名です。
参考資料《近江蒲生郡志、近江八幡町史》
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八幡山ロープウェイからの近江八幡の町の風景(南、東、南)と山の紅葉 |
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近江八幡の古風な商家 |
白雲館 |
近江八幡の街並み |
■安土城(あづちじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にあった日本の城(山城)。城址は国指定特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域安土城は、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇ったが、1582年(天正10年)の家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして何らかの原因によって焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧している宣教師ルイス・フロイスなどの記録によってその様子をうかがい知ることができる。
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。ロープウェイからも見えます。
■白雲館:明治10年八幡東学校として建築された貴重な擬洋風建造物です。平成6年に解体修理され往時の姿に復元され、現在は観光案内所やギャラリーとして利用されています。
日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)は、滋賀県近江八幡市にある神社。 祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱。
古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」は国の選択無形民俗文化財である。境内地は八幡伝統的建造物群保存地区の構成要素となっている。能舞台も綺麗。商売繁盛/出世開運
と厄除、火除 にご利益がある。
伝承によれば、131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている(この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない)。275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの
神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。
日牟禮八幡宮の石碑 |
日牟禮八幡宮の境内 |
日牟禮八幡宮の本殿 |
日牟禮八幡宮の本殿 |
日牟禮八幡宮の楼門と 拝殿及び境内風景 |
日牟禮八幡宮の境内 |
日牟禮八幡宮の能舞台の遠景 |
日牟禮八幡宮の能舞台 |
日牟禮八幡宮の能舞台 |
991年(正暦2年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、1005年(寛弘2年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける(現在の社殿は下の社に相当)。
■八幡まつり
歴史:275年、応神天皇が母神功皇后の生地・近江息長村(現在の米原市)を訪問する途中、大嶋大神を参詣するため琵琶湖から上陸した。その際、湖辺の葦で松明を作り、火を灯して天皇一行を八幡まで道案内したのが、祭の始めと伝えられる。
まつりの概要:毎年4月14日と15日に、八幡開町以前の旧村落12郷(市井・北之庄・鷹飼・大林・中村・宇都呂・土田・多賀・船木・小船木・大房・南津田)の氏子によって行われる(以前は13郷であったが、秀次の八幡開町により、馬場が消滅)。12郷を神戸(かんべ)・土田(つちだ)・郷(ごう)の3つの座に分け、神戸が上の郷、郷が下の郷、土田が中の郷(祭礼の中役)と呼ばれる。
全体の進行:松明祭と呼ばれる14日の宵宮祭は、各郷から葦と菜種がらで作られた松明が奉納される。午後8時頃に、10mもの大松明をはじめ、大小各種30本以上の松明が古例の順序に従い奉火される。
15日の本祭は太鼓祭とも言われ、12郷の大太鼓が太鼓宿から荘厳な音を響かせながら、古例の順序に従い宮入りする。拝殿の前で大太鼓を差し上げ、神職・神役などの祝詞(シューシ)を受ける。
太鼓の打ち方は各郷異なり、宵宮太鼓・休み太鼓・シューシ太鼓・上り太鼓・御渡り太鼓など独特の伝承を持っている。
日牟禮八幡宮の境内 |
日牟禮八幡宮の楼閣の狛犬 |
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八幡まつりの |
左義長の |
日牟禮八幡宮の楼門と紅葉 |
■幸福稲荷神社:幸福稲荷神社は、近江商人の中で最も早い時期から活躍していた八幡商人たちが商売繁盛を祈願した稲荷社。彼らの守護神として信仰を集めた日牟礼八幡宮のすぐ近くに立ち、古くから親しまれている。この近くに八幡まつりで使われる大小の太鼓が置いてありました。近江八幡市多賀町。
■円満寺は、貞治6年(1367)永源寺の僧寂室が草創したとされる。寂室は円応禅師で、永源寺を開山した。願成就寺所蔵の大般若経奥書中に永徳元年(1381)3月円満寺にて書冩したと記されていることからも、古刹。以後、兵乱により衰亡したが、江戸時代になって中興された。本尊十一面観音菩薩は明治42年(1909)国重要文化財に指定された。この十一面観音菩薩は、井上靖「星と祭」にも記述。
幸福稲荷神社 |
幸福稲荷神社の |
幸福稲荷神社の向かいの |
八幡まつり・小太鼓(実物) |
八幡まつり・小太鼓(レプリカ) |
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八幡まつりは、地元の人に話を聞いたが、太鼓の見える部分は綺麗だが裏側は黒ずんでいて、敲く人の血が滲んで付着してると聞いた。相当激しく雄大な祭りと思う。 |
■近江八幡での左義長まつりは毎年3月の中旬の土日に行われる(以前は14・15日であり、現在は14・15日に近い土日に行われる)。
左義長は、藁で編んだ約3mの三角錐の松明の上に赤紙等で飾りつけた数mの青竹を取り付け、杉葉で作った頭の上には「火のぼり」という御幣、中心には毎年の干支にちなんだ飾り物(ダシ)が付けられる。約10数基の左義長が神社から町に繰り出し、化粧して女装した若者が拍子木を持ち、下駄を履いて「チョウヤレ、ヤレヤレ」と声を掛け合い担ぎ踊りながら町内を御渡りする。「けんか」と呼ばれる左義長同士の組み合いが繰り広げられる。
八幡山・八幡山城
八幡山城(はちまんやまじょう)は、近江国蒲生郡(現在の滋賀県近江八幡市)に存在した山城。羽柴秀次の居城として知られる。八幡山(標高286m)の山上に築城された。城下町は安土城城下町を移住させて形成し、現在は一部が城下の「日牟禮八幡宮境内地」「八幡堀」とともに重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。八幡堀は琵琶湖の水を引いて作られた堀で戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。八幡城の石垣が残っています。
八幡山ロープウェーで頂上に |
八幡山ロープウェー |
市街地から見る八幡山 |
八幡山・山頂の「みすがり観音」傍には「おねがい地蔵堂」 |
八幡山城・二の丸跡 |
八幡山城・北の丸跡 |
八幡山城・北の丸跡から |
八幡山城・西の丸跡 |
八幡山城・西の丸跡 |
村雲瑞龍寺の石碑 |
村雲瑞龍寺の山門 |
村雲瑞龍寺の本堂 |
八幡山(標高271.9m)は、豊臣秀次が築いた八幡城の城跡で本丸跡には村雲瑞龍寺が京都から移築されています。本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が昭和36年(1961年)に移転されている。また、平成13年(2001年)には山麓で豊臣秀次の館跡が発見された。
豊臣 秀次(とよとみ の ひでつぐ、とよとみ ひでつぐ)/羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代(室町時代末期)から天正時代の武将・大名・関白。
豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。通称は孫七郎(まごしちろう)。幼名は治兵衛(じへえ)。はじめ、戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよし
のぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次と改名する。正室は池田恒興の娘・若御前、継室は右大臣・菊亭晴季の娘・一ノ台。側室は、最上義光の娘・駒姫(お伊万の方)、淡輪徹斎隆重の娘・小督局、大島新左衛門の娘・お国など、ほか多数いる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦して武功を挙げた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、このとき「中入り」のため三河国への別働奇襲隊の総指揮を執ったが、逆に徳川家康軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である池田恒興や森長可らを失い、命からがら敗走する。このため、秀吉から激しく叱責された。この時期、羽柴秀次と名乗る。
八幡堀周辺
八幡堀(はちまんぼり)は、日本の滋賀県近江八幡市にて、近世初期より今日まで運用されている運河。幅員約15メートル、全長6キロメートルに及ぶ。 安土桃山時代に豊臣秀次が八幡城を築城した際、城下町の都市計画として整備され、城を防御する軍事的な役割と琵琶湖の水運(当時の物流の要)を利用する商業的役割を兼ね備えた。江戸時代には、近江商人(八幡商人)による町の発展に大きな役割を果たした。堀沿いには白壁の土蔵や旧家が建ち並び、「八幡伝統的建造物群保存地区」として「新町通り」・「永原町通り」・「日牟禮八幡宮境内地」とともに重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
日牟禮八幡宮の入口 |
白雲橋からの古い街並み |
時代劇にでてくる明治橋の全景 |
明治橋から八幡山を見る |
明治橋たもとの柳の木 |
明治橋たもとの柳の木 |
八幡堀:かつて湖上交通の要衝だった八幡堀。桜や花菖蒲が植えられ、市民や観光客の憩いのプロムナードとなっています。かつて帆を立てた商船が往来し、商人らの熱気に満ちあふれていました。
明治橋:近江八幡を流れる八幡堀の新町浜近くに架かる橋。木調の雰囲気を出し、欄干に擬宝珠が付けられている。撮り方によっては江戸時代の雰囲気満点という橋の周辺は『鬼平犯科帳』、『雲霧仁左衛門』などテレビの時代劇のロケ地となっている。
遊歩道は初冬にもかかわらず、柳並木が風に吹かれて、時代錯誤になりそうな風景。
また行ってみたい所です。
新町通り界隈
JR近江八幡駅の北方約2km前後の新町周辺は、古い町並みがよく保存されています。国の重要伝統的建造物保存地域。江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と残る町並みは、近江商人のふるさととして、その保存運動が展開されています。
新町通りの古い町並み |
新町通りの古い町並み |
近江八幡の閑静な町家風景 |
旧西川利右衛門宅(旧西川家住宅)・・重要文化財 |
新町通りの旧邸 |
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市立資料館:近江商人の代表的な人物・西村太郎右衛門の宅地跡 |
京街道筋の旧伴庄右衛門宅 |
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近江八幡の閑静な町家風景 |
京街道筋のお寺さん(正福寺) |
近江八幡の閑静な町家風景 |
■西側に旧西川庄六(しょうろく)宅、森五郎兵衛(ごろべえ)宅、3丁目の京街道筋には旧伴庄右衛門宅などがあります。旧西川利右衛門宅は、町内屈指の八幡商人居宅で、新町通りの町並み景観のもっとも重要な一翼をになっています。もと西村太郎右衛門の屋敷跡にある近江八幡市立資料館には、水郷地帯の農機具・生産器具や古文書などが展示されています。 八幡商人は、近江商人の中でも最も早い時期に活動し、海外進出を果たしたのもこの地の出身者でした。江戸出店も最も早く、特に西川甚五郎、西川庄六、伴伝兵衛、森五郎兵衞等の八幡商人が活躍しました。新町界隈には、彼らの住居がまとまってよく残っており、景観だけではなく、史跡としても重要なものです。
■正福寺は、安土築城とともに創建された浄土宗の寺。織田信長と深い関わりを持ち、信長没後は一時寂れましたが、豊臣秀次の八幡山築城に合わせて現在地に移築されました。 近江八幡市魚屋町元。
建築家・ヴォーリズ
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)は、アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。そしてまたYMCA活動を通し、また「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事した。よく「宣教師」と紹介されるが、彼はプロの牧師ではなくキリスト教徒伝道者である。讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。日本国内に歴史的な足跡を遺した帰化日本人ヴォーリズは生涯私有財産を持たず、すべてを社会事業のために捧げ、自ら住んでいた住居(現ヴォーリズ記念館)さえも私物化しなかった。
旧八幡郵便局・全景 |
旧八幡郵便局・玄関入口 |
旧八幡郵便局・全景 |
■旧八幡郵便局(きゅうはちまんゆうびんきょく)は滋賀県近江八幡市にある歴史的建造物。ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によって1921年に竣工して以来、1960年まで郵便局の局舎として使用されていた。 |
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八幡教会・牧師館 |
ヴォーリズ記念館 |
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■ヴォーリズ記念館は、昭和6年に建築された滋賀県指定有形文化財で、ヴォーリズの日常生活に関する数々の遺品や資料が保管・展示されています。
■ヴォーリズの建築した代表的な建築物
明治学院大学礼拝堂(東京都港区) 1916 、同志社大学今出川キャンパス内校舎(京都市上京区) 、関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス建築群(西宮市)
1929(経済産業省選定「近代化産業遺産群」)スパニッシュ・ミッション・スタイル 、日本基督教団福島教会(福島市) 1909年 (国の登録有形文化財)
、日本基督教団京都御幸町教会(京都市中京区) 1913年 (京都市指定有形文化財) ほか多数有り。
株式会社近江兄弟社
株式会社近江兄弟社(おうみきょうだいしゃ、OMI Corp.)は、滋賀県近江八幡市に本社をおく医薬品メーカー。商標「メンターム」で知られる。
あきんどの里での近江牛ランチ
あきんどの里・千里庵でランチ。近江牛をお手軽な価格で味わえる「千里庵」は、近江八幡の食文化や伝統工芸に触れることの出来る「あきんどの里」の一角にある。近くの八幡堀でドラマの撮影などがあると、千里庵を利用する芸能人も多いらしく、店内にはたくさんのサインが飾られている。
今回いただいたのは、近江牛特上すきやき定食。人気の定食でつきだし1種、味噌汁付き。お肉はやわらかく、噛むと甘みが口に広がる。シジミの味噌汁も素朴でおいしい。口の中で脂身が蕩けるような感触は初めてです。旨い!「赤こんにゃく」、「丁字麩」、何ともいえません。タマネギが入り甘め。
千里庵でランチ・近江牛の特上すきやき定食 |
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■近江牛(おうみぎゅう、おうみうし)は、黒毛和種の和牛が滋賀県内で最も長く肥育された場合に許される呼称であり、そのウシからとれる牛肉にも用いられる呼称。肉用牛としての歴史が長く、三大和牛の1つとされる。江戸時代からすでに、牛肉が「養生薬」の名目で、味噌漬や干し肉として彦根藩から将軍家へ献上、賞味されていた。明治になって西洋文化の影響で牛肉食が始まると、近江牛はブランド牛として全国に普及した。これは、松阪牛の普及に伊勢商人が貢献したように、近江商人の活躍があったためともいわれる。なお、神戸ビーフは神戸産の牛ではなく、輸送のために神戸港に運ばれてきた近江牛(または但馬牛)を在留外国人が賞味し、名付けたともいわれる。素晴らしいグルメ!
■丁字麩は近江八幡開町の祖「豊臣秀次」(豊臣秀吉の甥)が形の丸い麩は持ち運びに不便なため、町並みのような角形にしたと言われ、麩の表裏には城下の民を忘れぬために小径を表す印として線が入っています。
■赤こんにゃくは、派手好きな織田信長がこんにゃくまで赤く染めさせたと言われる説や近江商人が全国を行脚している際にこのような奇抜なアイデアを思いついたと言われる説などがありますがはっきりしたことは分かっていません。
ただ、近江八幡では昔からこんにゃくは赤色とされており、冠婚葬祭や学校給食等で幼い頃から生活と共に赤こんにゃくは存在します。この赤色は唐辛子で染めていると誤解されがちですが、三二酸化鉄という鉄分で染められていますので健康的にも優れた食品です。
滋賀竜王・OUTLET PARK
滋賀竜王・OUTLET PARK。三井アウトレットパーク 滋賀竜王は滋賀県にある本格アウトレットモールです。国内外の有名メーカー&ブランド・セレクトショップから選りすぐりのハイクオリティな商品をアウトレット価格で提供。何であれだけの人がと疑問あり。 洋服が中心でした。 男性には少し寂しいアウトレット。若者向けのブランドが中心かな?
三井アウトレットパーク 滋賀竜王の外観 |
三井アウトレットパーク 滋賀竜王のクリスマスツリー |
三井アウトレットパーク 滋賀竜王の風景 |
三井アウトレットパーク 滋賀竜王の色々なクリスマスツリー |
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滋賀県竜王町の遠景(東の竜王山)と竜王中学校 |
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滋賀県竜王町は、西の竜王山(鏡山)と東の竜王山(雪野山)の二つの竜王山に抱かれています。
その名が示すように竜の神力に庇護されたかのような緑豊かで肥沃な大地に恵まれた地域で、歴史を語るかのように古い神社仏閣や史跡が点在している町です。
有名なところとしては、
@国宝、鎌倉時代の建築で有名な神社:苗村神社(なむらじんしゃ)
A藤原定家・和泉式部の詠んだ歌に、会いに行く:龍王寺(りゅうおうじ)(雪野寺)
B知る人ぞ知る、源義経ゆかりの池 :義経元服の池(よしつねげんぷくのいけ)
C鏡山(かがみやま)山頂・聖徳太子創建の雲冠寺(うんかんじ)跡:龍王宮(りゅうおうぐう)
D日本書紀に残る「近江国の鏡村の谷の陶人」:鏡山古窯址群-須恵器(すえき)
E5世紀中ごろ造営、帆立貝形古墳:雨宮古墳(あめのみやこふん)(滋賀県指定史跡)
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