伊賀地方(伊賀市・名張市)|地震の記憶 安政伊賀地震ほか |
はじめに
日本は地震大国で、そこかしこにその痕跡がある。 とりわけ、伊賀上野地震は、嘉永7年6月15日(1854年7月9日)14時頃に三重県伊賀市北部で発生した地震である。活断層(木津川断層帯)で発生した内陸直下型地震(M7.25)とみられる。「安政」への改元前に発生した地震であるが、歴史年表では嘉永7年1月1日に遡って安政元年としており、安政伊賀地震とも呼ばれる。
安政伊賀地震では本震の3日前から鳴動が始まり,2日前にはかなり強い前震が2回あって鳴動が盛んになり,27回の小地震があった.前日には午後2時頃に強い地震を1回感じただけで,比較的静かになったが,当日の午前2時に本震が来た.
上野城の東・西大手門の石垣が崩れ、番人4名が死亡し、地滑りなどの被害も大きかった。死者は995名。うち伊賀上野付近の死者は625名、負傷者994名、家屋倒壊2270戸、蔵倒壊306件だった。その後の余震も同年7月10日(新暦8月3日)2時頃までは規模が大きいものが多かった。 東高倉、三田、島ヶ原に死亡した方が多い。 この辺りが震源地だったか。
上野の北側で西南西-東北東の方向に断層を生じ、断層の南側で長さ約1km、幅約200mの範囲で最大1.5m沈下した。 奈良の薬師寺東塔が損傷した。 京都伏見で液状化現象が発生・・・。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページ内索引 [ 安政伊賀上野地震供養塔|法華経塔|大村神社|福成就寺|名居神社 ]
伊賀市野間 安政伊賀上野地震供養塔
■【市指定有形文化財】安政伊賀上野地震供養塔(伊賀市野間)嘉永七(1854)年、6月15日伊賀を震源とする大地震が発生し、死者約1000人を出す大災害となった。供養塔は野間村死者の七回忌にあわせ、蓮のお寺で有名な慶明寺の墓地入口に造られた。
『当時野間村には浄土宗の空照山慶明寺と、天台真盛宗の平楽山西雲寺の二か所があり、慶明寺の檀徒二十六人と西雲寺の檀徒九人が横死し、合わせて三十五人がこの地に埋葬されました。
二段積みの花崗岩製の基礎石(高さ52cm)の上に、三層の台石(計64cm)を重ねていて、三層のうち、下二層は四角柱の石材を組み合わせていますが、最上層は一石積みとなっています。その上に高さ81cmの石碑を載せていて、総高は197cmです。
石碑の正面には「南無阿弥陀仏」と陰刻され、他の三面には横死者三十五名の戒名が陰刻されています。三層の台石のうち、最上段のものには、三面にわたって建碑の由緒が刻まれています。
平成24年3月28指定 伊賀市教育委員会』
安政伊賀上野地震供養塔(伊賀市野間) |
安政伊賀上野地震供養塔 |
|
建碑の由緒 南面 |
建碑の由緒 西面 |
建碑の由緒 北面 |
★建碑の由緒
南面 嘉永七寅 六月十四日の夜 大地震に家潰れ 当邑に死者三十五名 此処にこれを葬
西面 ことし七回忌に当たれば 横死菩提の 為にこれを建て 追善を営むもの也
北面 安政七庚申三月 発起 善三郎 世話人 周吉 住僧 態戴誉
伊賀市服部町 法華経塔
■【市指定有形文化財】 法華経塔(服部町)
建立当時の法華経塔は、服部川の河川敷にありましたが、平成13(2001)年にくれは水辺公園に移設されました。 法華経塔は、特徴的なドーム状の基壇に方形の切石2石の台座があり、その上に「法華経塔」と刻んだ塔身が乗ります。移設時の調査で、塔身の長さは334cm、重さは5.5tあることがわかりました。また、基壇内部は、石材と砂利を交互に重ねて、重い塔身を支えるための工夫が施されていました。
法華経塔 |
法華経塔 碑文 |
法華経塔 説明 |
★塔身には碑文があり、功徳主(くどくしゅ)として上行寺の僧侶と、同志として上野の町衆の名前のほか、法華経8巻を収めたことも刻まれていました。調査では、そのほかにも塔の台座から天台宗や真言宗などの宗派名を記した法華経がいくつか見つかりました。
法華経塔の形や構造から、この塔が丁寧に造られたことがうかがえます。また、出土した経本からは、宗派を超えて法要が営まれたことを知ることができます
伊賀市阿保 大村神社
■”地震除け”地震の神様『大村神社』(おおむらじんじゃ)
式内社 伊賀國伊賀郡 大村神社 旧県社
御祭神 大村神 配祀 武甕槌神 經津主神 天兒屋根命
合祀 應神天皇 大日?貴命 天押雲命 市杵嶋比賣命 大物主命 大山祇命 事代主命
火之迦具土命 建速須佐之男命 多紀里毘賣命 狹依毘賣命 多岐津比賣命 水波能賣命
宇迦能御魂神 速玉男命 月夜見命 稻田姫命
三重県伊賀市にある。 青山駅の南西2Kmほどの阿保に鎮座。 165号線から木津川を越えた場所にある丘の上が境内。 参詣したときは女性の宮司さんが親切に対応してくれました。
※武甕槌の神(たけみかづちのかみ)は、雷神、かつ剣の神とされる。建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
※大村神=息速別命(いこはやわけのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第11代垂仁天皇の皇子である。息速別命の墓は、宮内庁により三重県伊賀市阿保の息速別命墓に治定されている
※阿保親王(あぼしんのう、延暦11年(792年) - 承和9年10月22日(842年12月1日)は、平安時代の皇族。平城天皇の第一皇子。 三品・弾正尹。贈一品。桓武天皇の嫡系の孫である。 橘逸勢らから東宮恒貞親王の身上について策謀をもちかけられるが、阿保親王は与せずに、これを逸勢の従姉妹でもあった皇太后橘嘉智子に密書にて報告、判断を委ねた(承和の変)。
名張市箕曲中村 福成就寺の石塔
■福成就寺 名張市箕曲中村1041 名張地方最大の石造十三重塔(正応6年(1293年)の紀年銘)あります。 『市指定文化財(工芸) 石造十三重塔
この塔は、千二百九十三年(正応六年卯月二十三日、鎌倉時代)源頼政の臣、猪之早太追善のために建立されたと伝えられている。 軸部には蓮弁の上に乗る四方仏を深く陰刻りしてある。 総高 4.8m、基盤の角石 1.27m四方、方仏 五●二cm四方、笠石(最下部) 78.8㎝四方 市内最大の石塔で笠石の配列・軒反塔の格調もきわめて優美であり、伊賀三古塔(赤目町長坂延壽院(えんじゅいん)・上野市湯屋谷蓮徳寺(れんとくじ))の一つと称されている。 名張市教育委員会』
※慶長伏見地震の逸話 「地震加藤」:歌舞伎「増補桃山譚」(ももやまものがたり)の通称である。
明治2年(1869年)東京市村座で初演された。 内容は、伏見大地震の時(真夜中)、石田三成の讒言で秀吉の怒りを買い朝鮮の陣から召還され、閉門中の加藤清正が第一番に豊臣秀吉のいる指月伏見城へ駆けつけ、動けない秀吉をおんぶして脱出させ、閉門を解かれるという話である。
実際の所、大坂から伏見。現代と違い暗夜を余震警戒態勢のままタイマツに頼って移動するわけだから、いの一番に駆けつけたことによって「地震加藤」とあだ名されたとか、三成を妨害したとかは後世の創作だった可能性が高い。
名張市下比奈知 名居(ない)神社
■名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知) 式内社 伊賀國名張郡 名居神社
名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知)は式内社で、かつては「大己貴社」と称された。 江戸時代には國津大明神を祀り、比奈知川に点在する國津神社の惣社であったという。 大己貴命を主祭神に少彦名命、天児屋根命、市杵嶋姫命、事代主命、蛭子命を祀る。 社頭に到るまで細長い参道が続く。
社碑には、推古七年に大和地方が中心の大地震(M7.0)があり諸国に地震の神が祭られたが、伊賀では当社がそれであろう、と記してる。 「なゐ」とは地震の古語である。
『日本書紀』推古天皇七年・四月二十七日条に「地(なゐ)動(ふ)りて、舎屋(やかす)悉(ことごと)に破(こぼ)れぬ。 則(すなは)ち四方(よも)に令(おほ)せて地震神(なゐのかみ)を祭らしむ」とある。式内社で、このとき祀られた地震神の「なゐ」の名称が残る全国で唯一の神社とも謂う。
祭神に天照大神の神名は無いが、倭姫命が足を洗ったという濁池、国津神の大神への御田の献上、大神に鮎を献じたという河川の石碑、神宮領のこの地から神戸の産物供進など、附近には元伊勢に繋がる伝承が散在する。
名居神社の拝殿 |
名居神社の本殿 |
名居神社の拝所 |
名居神社の境内と鳥居 |
名居神社の縁起・由緒碑 |
|
※推古地震(すいこじしん)は、『日本書紀』に現れる日本最古の被害記録が残る歴史地震。 『日本書紀』推古天皇7年4月27日(ユリウス暦599年5月26日、グレゴリオ暦5月28日)の条項に被害地震の記述が登場する。
地震が発生し建造物が悉く倒壊した。四方に命じて「地震神」(なゐのかみ)を祀らせたとある。 聖徳太子の伝記によれば、太子が地震を予測して建物の補強を促し、地震後は税の免除を建言したと伝わる。
注)Wikipedia、伊賀市地震の資料、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
伊賀地方(伊賀市・名張市)|地震の記憶 安政伊賀地震ほか |