三重県総合博物館「MieMu(みえむ)」
■三重県総合博物館(Mie Prefectural Museum)は、三重県津市の三重県総合文化センター前にある公立の博物館。 三重県総合博物館「MieMu(みえむ)」は、現在している観光ガイドの研修で訪れた。 津市郊外にある三重県総合文化センターの隣に、鉄筋コンクリート造3階建、のべ床面積10,800m2の博物館として2014年(平成26年)4月18日に開館した。ミエゾウの巨大骨格を主な呼び物とする。テーマに「三重が持つ多様性の力」を掲げ、三重県の自然・歴史・文化を紹介する展示コーナーに加え、交流学習スペースを設けられる。博物館の機能に加え、公文書館の機能を有している。
切手以外の写真はクリックで拡大。 2020.10.20撮影
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三重県総合博物館 展示物
■目玉展示物はミエゾウです。 ミエゾウは、約400万年前に日本の九州から関東地方にかけて生息していた古代ゾウ。学名は Stegodon miensis(ステゴドン・ミエンシス)。伊勢国河芸郡明村(現在の三重県津市ないし亀山市)で初めて発見されたのでミエゾウと名づけられた。
全長8メートル、高さ4メートルの大型のゾウで、日本国内で見つかっている哺乳類の中では最大である。 日本各地で見つかったミエゾウ化石を収集して全身骨格を展示している。
2016年(平成28年)5月、日本地質学会は47都道府県の「県の石」を選定し、ミエゾウを「三重県の化石」に選定した。
三重県総合博物館
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ミエゾウ
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ミエゾウ
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トバリュウ(鳥羽竜)
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トバリュウの
右大腿骨の化石
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★トバリュウ(鳥羽竜)とは1996年(平成8年)に三重県鳥羽市で化石として発見された恐竜の愛称。ティタノサウルス類の恐竜であるとされている。鳥羽市安楽島町(あらしまちょう)の海岸で化石を発見した。トバリュウは、全長16〜18メートル、体重31〜32トンの恐竜であったと考えられている。。
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シュードタキライト
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ヤベイノサウルス
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パレオパラドキシア
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★断層に沿って急激なずれ(運動)が生じると、摩擦熱が発生して岩石の一部が溶融し、周辺の岩石中に脈として入り込む。これが冷却・固結したものをシュードタキライトという。
★ヤベイノサウルス(矢部竜) 中国 遼寧省 約1億年前の中生代白亜紀
★パレオパラドキシア(Paleoparadoxia)は、約1,300万年前に絶滅した束柱目の哺乳類。 西日本から北米、メキシコまでの太平洋沿岸に生息していた。体長は1.5-2.0mほどで、現在のカバあるいはセイウチに似た姿であったと思われる。
★アケボノゾウ(Stegodon aurorae)は、250万年前 - 100万年前に生息していた古代象。日本の各地で化石が発見されている。比較的小型のゾウで、大陸のコウガゾウとほぼ同時期のミエゾウが、小型化(矮小化)したものであると考えられている。現在のところ大陸には化石記録が無いことから、日本固有種であると考えられる。1954年
- 三重県員弁郡藤原町(現在のいなべ市)でほぼ一頭分の化石が発見された。
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アケボノゾウ 下顎骨
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アケボノゾウ 骨格
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アケボノゾウ
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基本展示室では、大杉谷・大台ヶ原、鈴鹿山脈、伊勢湾、熊野灘に代表される三重の特徴的な自然環境を四隅に配置し、その中で育まれた人・モノ・文化の交流史を展示室中央で展開します。また、山、盆地、平野、磯の4つのくらしの視点から人と自然の関わりを総合的に考えるコーナーを、それらの間に配置します。
オオサンショウウオ
「さんちゃん」
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★オオサンショウウオ「さんちゃん」は、三重県の西の伊賀の盆地にある名張市美旗の小波田川にいるところを、地元の人に発見され旧の博物館に保護され飼われることになった。1992年の夏のことです。皮膚は「保護色」になっていて、すんでいる川の底の土や泥の色とよく似ているので、見つけにくくなっています。オスかメスかはわかりません。食事は、一ヶ月に重さ100gぐらいの魚3匹を丸のみにして食べています。国の特別天然記念物にしていされていて、とったり飼ったりすることはできません。地元では「ハンザキ」「ハジクイ」などと呼ばれています。
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江戸時代に架けられた岩田橋の欄干飾り 1635年
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★岩田橋は、三重県津市の岩田川に架かる国道23号(伊勢街道)の橋。江戸時代初期には木橋が架けられ、欄干が擬宝珠で装飾されていた。「参宮道中の橋に擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)をつけたのは、瀬田の唐橋とこの岩田橋以外には天下にない」といわれていた。当時の橋の大きさは幅
三間(約5.4m)、長さ 三十六間(約65m)だった。
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★巡礼者たちに「西国第一の難所」といわれ、かつては山賊や狼が出没した道。八鬼山越えには、かつて50体ものお地蔵様の形をした町石があったと言われています。(町石は1町ごとに立てられた道しるべ。)かつては距離の目安だった町石ですが、今では場所が移されていて距離の目安にはなりませんが、歩く人を見守っていてくれるようです。現存するのは33体です。
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熊野街道八鬼山の町石 尾鷲市 1587年
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御師とは
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★御師(おし/おんし)とは、特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、伊勢神宮・富士講・松尾・三嶋・白山・大山などの御師も活躍した。伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の伊勢講の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図った。
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下は三日市大夫次郎邸模型です。
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三日市大夫次郎
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三日市大夫次郎邸玄関
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三日市大夫次郎邸台所
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★三日市大夫次郎:江戸時代に神宮と日本全国の庶民を結ぶ架け橋となった御師(おんし)の中でも最大規模を誇った三日市大夫次郎(みっかいちだゆうじろう)をご紹介します。
現在の伊勢税務署と伊勢市役所西側の駐車場から御幸道路を挟んで法務局の辺りにまで敷地があり、その面積は1800坪もあり一日に100人近くの人々を宿泊させることができたそうです。
昭和20年(1945年)7月の宇治山田空襲により三日市旅館は焼失してしまったそうです。
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御師屋敷の神楽膳 贅沢な膳です
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二見が浦の貝細工
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参宮急行名所絵図
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鳥羽の観光案内
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落語「萬金丹」
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★官許伊勢朝熊霊方万金丹(かんきょ・いせあさま・れいほう・まんきんたん);伊勢参りの土産物として萬金丹を選び、送り出した人々からありがたいと喜ばれました。
また、武士が腰に下げていた印籠の中にも萬金丹が入っており、懐中薬の代表でもありました。
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カマイルカ
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★カマイルカ(Lagenorhynchus obliquidens、鎌海豚)はクジラ目ハクジラ亜目マイルカ科カマイルカ属に属するイルカである。
雄は体長2.5m、体重200kg、雌は体長2.3m、体重150kgほどになる。寿命は40年かそれ以上であると考えられている。
クジラの大小比較
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ミンククジラのひげ
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ミンククジラ
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クジラの骨
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★三重県四日市の「鳥出神社の鯨船行事」は、毎年8月14日と15日に開催されます。14日の朝には、各組が松明をもって鳥出神社に参拝し、町の平安と行事の無事を祈願してお祓いを受けます。神火を受け取り、その火を持参した松明に遷し燃え尽きるのを見届けます。その後、各町へ戻って町練りが行われます。 鯨船行事は、北勢地方(三重県の北部)にのみ分布する、珍しい陸上で行われる模擬捕鯨行事です。 「鳥出神社の鯨船行事」は、それらの中でも最も本来の姿をとどめているとのことから平成9年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。ユネスコ無形文化遺産。
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櫓漕ぎ(ロコギ)の衣装
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鯨船の船側を飾る幕
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ドンザと呼ばれる
豪華な衣装
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★櫓漕ぎ(ロコギ)は3〜7歳の一番年少の役ですが、大きく揺れる船の上で櫓や船に必死につかまって櫓を漕ぎます。
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★羽刺し(ハタシ)は、ハザシ・ハダシ・ハタシとも呼ばれ、船上で鯨取りの所作を行う。ドンザと呼ばれる豪華な衣装を両肌脱ぎにして、唄いと太鼓にあわせて演技を行う(小学校4〜6年生くらい)。船上で鯨捕りの所作を行います。体を前後左右に大きく振って舞います。
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熊野通いの商い船
(赤須賀船)
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熊野灘を行き交った廻船
(菱垣廻船)
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東南アジアと交易した船
(御朱印船)
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★赤須賀船は今のような陸上の交通網がない時代に米や塩、味噌、醤油などの食品から衣類、家具などの日用品を桑名方面から熊野灘の浦村に届けていたのです。
★菱垣廻船(ひがきかいせん)とは、日本の江戸時代に、大坂などの上方と江戸の消費地を結んだ廻船(貨物船)である。菱垣とは、両舷に設けられた垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻に装飾として木製の菱組格子を組んだ事に由来する。
★御朱印船 近世初期、豊臣秀吉や徳川家康などから異国渡航許可の御朱印状を下付され、長崎・平戸を基地として安南・ルソン・シャムなど東南アジア各国と貿易を行なった船。文祿元年(一五九二)秀吉がはじめて免許し、徳川幕府にひきつがれて寛永一二年(一六三五)の停止した。
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鳥羽日和山におかれた方位を刻んだ石
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中世(鎌倉時代)に活躍した船(中世貨客船)
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★中世(鎌倉時代)に活躍した船(中世貨客船) 「北野天神縁起」、「伊勢新名所絵歌合」などの中世の絵巻物に描かれた海船を復元。
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★鳥羽日和山方位石 JR鳥羽駅の正面の小さな山が日和山です。方位石は見晴台にあり、市の文化財に指定されています。 鳥羽港は明治中期までの帆船時代に風待ち港として栄えましたが,船頭が明日の天気を見るために日和山に登ったと伝えられています。 この方位石はよく研磨された本場神戸の御影石で,八角柱の上に円形の方位盤を載せた特別な形をしています。
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中世に流通した輸入銭と銭一貫文
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★井田川茶臼山古墳(亀山市は、伊勢湾西岸域に横穴式石室を用いた墓のかたちが導入された時期の古墳のひとつである。
画文帯神獣鏡は、日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われるが、日本では5世紀後半の古墳から出土することがある。日本からは約60面出土している。畿内地域を中心に出土することや2世紀の末頃北部九州の銅矛、畿内や東海地域の銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が現れるのが特徴である。古代中国において発達した神仙思想によって創生された観念上の世界が表現され、不老長寿の理想を文様化したものといえる。
井田川茶臼山古墳(亀山市)出土 画文帯神獣鏡
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城之越と書いて「じょのこし」と読む。 古墳時代前期に造られた大溝が保存されている。大型掘立柱建物跡も発見されており,古代の庭園らしいが,むしろ大溝が重要で,古代の政を行った場である。今も地下からわき出してる水に祈りを捧げたと考えられてる。近くの伊賀市才良には全長120mの前方後円墳である石山古墳がある。
美旗古墳群のある地域からこの辺り一帯を力のある豪族が支配してたことがわかる。大溝の写真の手前が水が湧き出てる所。この遺跡自体は、3つの湧水点があることから形成された遺跡であり、祭祀の対象及び中心的存在が湧水にあったことは疑いありません。
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城之越遺跡(伊賀)
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図書室と2階ロビーの風景。
写真家・浅田政志の
写真集『浅田家』
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図書室に入ってみると、今話題の写真家・浅田政志の写真集『浅田家』が並べてありました。 また博物館の入口ではポスターだけでなく映画のプロモーションビデオが流れ、県が一体となり応援しているように感じた。
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博物館2階のモビール
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三重県にいる動物の剥製と鉱物 特集
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二ホンカモシカ、キツネ、キジ
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チンチラ、ムササビ、ニホンモモンガ
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ヌートリア、チンチラ
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ミエヒタチオビ、ヤナギダニヒタチオビ、カレイ科化石、オルソスフィンクテス(アンモナイト)
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辰砂
松阪市小片野町
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オパール
伊賀市種生(たなお)
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★ミエヒタチオビ(ヒタチオビ科に属する貝類の総称)化石、ヤナギダニヒタチオビ化石、カレイ科化石、オルソスフィンクテス(アンモナイト)
★辰砂(しんしゃ、英: cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られた。
丹生地域の水銀は、中央構造線をはさんで北側の内帯(領家花崗岩類)、南側の外帯(三波川変成岩類)の両方から産出します。丹生水銀の始まりは和銅6(713)年からと伝えられています。また、奈良・東大寺の大仏造立の時には、塗金材として約720kgが使われたそうです。
★オパール 伊賀市種生(たなお)かつてこのオパールが産出した場所は市町村合併により消滅しています。 数年前まで仕事で毎日その辺りを通過していましたが、驚きです。種生は、いまは蛍と吉田兼好塚(兼好法師遺跡公園)で有名な場所。 因みに三重で有名な鉱物産地は、「奥鹿野のサファイア」、「種生のオパール」、「水沢のトパーズ」、「三谷のベリル」。
Wikipediや博物館に関するHPを参考に一部引用しています。
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三重写真集|三重県総合博物館
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