Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
忍者の里・名張 (The village of iga-ninja is Nabari.) 伊賀市は伊賀忍者の里、松尾芭蕉生誕の地として知られるようになり、昭和初期に再築された上野城や忍者屋敷、芭蕉翁生家、鍵屋の辻、だんじり会館などの観光名所を有し、特産品に伊賀組紐がある。

三重県名張市の隣町・伊賀市
 

三重県名張市の隣町・伊賀市

 三重県・名張市の隣町の伊賀市をご紹介します。 京都・奈良や伊勢を結ぶ奈良街道・伊賀街道・初瀬街道を有し、古来より都(飛鳥、奈良、京都など)に隣接する地域として、また、交通の要衝として、江戸時代には藤堂家の城下町や伊勢神宮への参宮者の宿場町として栄えてきた。地理的・歴史的背景から京・大和文化の影響を強く受けながらも独自の文化を醸成している。 伊賀忍者の里、松尾芭蕉生誕の地として知られるようになり、昭和初期に再築された上野城や忍者屋敷、芭蕉翁生家、鍵屋の辻、だんじり会館などの観光名所を有し、特産品に伊賀組紐がある。また、市街地は戦災による破壊を免れ、小京都のひとつに数えられる。 
※お断り 旧プラツリさんからページの情報及び画像を頂きました。画像のコメントに社名が入る事はご容赦ください。

 

■三重県名張市の隣町・伊賀市 ・・・  伊賀地方にある小京都

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■歴史|天正伊賀の乱の索引 [ 天正の乱以前(平安時代に4鬼を使った藤原千方 他)|第一次天正伊賀の乱(百地三太夫,石川五右衛門 他)|第二次天正伊賀の乱(伊賀忍者・服部一族・・・)|その後(忍者の末裔? 観阿弥、芭蕉 他) ] 織田信長と伊賀忍者

戦国時代、伊賀国(現在の三重県伊賀地方)は忍術の流派である伊賀流が栄えた。伊賀忍者はその伊賀国を拠点として、戦場やその後方で活躍した。

1.伊賀・上野城

上野城(うえのじょう)は、三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった平山城である。白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれる。
慶長13年(1608)8月、徳川家康は信任厚い 藤堂高虎に、伊賀の国10萬石・伊勢の内10萬石 、伊予の内2万石合わせて22萬石を与えた。 高虎が伊賀、伊勢に移封されたのは、家康の信任が厚かったのと、築城の名手でもあり、来るべく大坂との決戦に備えたもので、筒井定次の城は、大坂城の出城として大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎の城は、大坂を攻撃するための城と全 く逆の立場の城として、慶長16年(1611)正月、 上野城を有事の根城として本丸を西に拡張、高さ 約30メートルという高石垣をめぐらして南を大手と した。  慶長19年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣と家康方の勝利に終わり、幕府は諸大名に城普請を厳しく禁止したので、上野城の天守閣が再建されることがなく、一国一城制では上野城は伊賀の国の城として認められた。 その後、10萬石の加増をうけて、32萬3千950石余の大藩として明治まで城代を置いて存続した。

伊賀・上野城の天守閣

伊賀・上野城の天守閣

伊賀・上野城の天守閣 伊賀・上野城の天守閣

伊賀・上野城の高石垣・・・大坂城の高石垣と共に日本で一、ニを競う石垣は1611年(慶長16年)に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して、延長368mに及ぶ。

伊賀・上野城の高石垣

伊賀・上野城の高石垣

伊賀上野城の高石垣 伊賀上野城の高石垣

藩校 旧崇廣堂

藩校 旧崇廣堂の門と石碑

旧崇廣堂 藩校 旧崇廣堂の門と石碑

旧崇廣堂は文政4年(1821)に伊賀・大和・ 山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため津の藩校有造館の支校として建てられたものです。当時のおよそ半分の遺構が残っていて、現存している藩校としては近畿・東海地方においてはここしか見ることができません。

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2.芭蕉関連

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
松尾 芭蕉は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。松尾家は農業を生業としていたが、苗字を持つ家柄だった。
寛文12年(1672年)、処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。延宝3年(1675年)に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後は延宝6年(1678年)に宗匠となり、職業的な俳諧師となった。延宝8年(1680年)に深川に草庵を結ぶ。門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植え、大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。

芭蕉の坐像 伊賀市役所伊賀支所(旧伊賀町役場)

芭蕉の坐像 伊賀町役場

伊賀上野には「芭蕉五庵」(無名庵・蓑虫庵・東麓庵・西麓庵・瓢竹庵)と呼ばれる芭蕉にゆかりの草庵がありました。その中で唯一現存するのがこの蓑虫庵です。庭内には、芭蕉堂や芭蕉の代表句「古池や蛙飛こむ水の音」をはじめとする句碑が建ち並んでいます。

芭蕉にゆかりの草庵・蓑虫庵

芭蕉にゆかりの草庵・蓑虫庵

芭蕉にゆかりの草庵 蓑虫庵 蓑虫庵

上野公園(伊賀上野城)内 俳聖殿

伊賀上野駅前の松尾芭蕉の銅像

俳聖殿 伊賀上野駅前の松尾芭蕉の銅像

俳聖殿(はいせいでん)は、三重県伊賀市にある松尾芭蕉生誕300年を記念する建物。上野公園(伊賀上野城)内にあり、1942年(昭和17年)に建築家伊東忠太の設計で建設された。2010年に国の重要文化財に指定された。
伊賀流忍者博物館)は、三重県伊賀市の上野公園(伊賀上野城)内にある忍者に関する博物館。

45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。 これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた。 

上野公園(伊賀上野城)内 伊賀流忍者博物館

伊賀流忍者博物館

願成寺(がんじょうじ)の山門・・松尾芭蕉塚

願成寺(がんじょうじ)の山門・・芭蕉翁故郷塚の碑

願成寺(がんじょうじ)の山門・・松尾芭蕉塚 願成寺(がんじょうじ)の山門・・芭蕉翁故郷塚

願成寺(がんじょうじ)の庵

願成寺(がんじょうじ)は、三重県伊賀市にある、真言宗豊山派の仏教寺院。創建年 文治・建久年間(1185年 - 1199年)
願成寺は俳諧松尾芭蕉家代々の菩提寺となっている。元禄7年(1694)10月12日、芭蕉が旅の途中大坂で亡くなり、亡骸はその夜のうちに門弟たちが淀川を川舟に乗せ大津の義仲寺へと運びました。兄半左衛門のもとにも報せが届き、伊賀上野の門弟 服部土芳(蓑虫庵主)と貝増卓袋が義仲寺へかけつけています。二人は形見に芭蕉の遺髪を持ち帰り松尾家の墓所に納め、後に「故郷塚」が築かれました。現在の場所に移されたのは芭蕉50回忌の元文3年 (1738)の時と伝えられています。本堂左手の小さな門をくぐり生け垣沿いの小径を進むと、つき当たりが故郷塚です。茅葺き屋根の小堂の中に高さ70センチほどの自然石の塚があります。碑面は読みにくくなっていますが、中央に「芭蕉桃青法師」・右に「元禄七甲戌年」・左に「十月十二日」と刻まれています。ここ故郷塚には尾崎紅葉、川端康成ら多くの文人墨客が訪れている。

処女作「貝おほひ」1巻を菅原神社前に奉納

伊賀街道起点の地と道標

処女作「貝おほひ」1巻を社前に奉納 初(はつ)さくら 折(おり)しもけふはよき日(ひ)なり 伊賀街道起点の地と道標

現井元薬局角の交差点は大和街道と伊賀街道の追分けで伊賀街道起点の地の標識と道標が建っている。

次の芭蕉の句碑は上野天満宮に建っています。    初(はつ)さくら 折(おり)しもけふはよき日(ひ)なり

「菅原神社(上野天満宮)」は、「上行寺」から北へ「寺町通り」を抜け、左に折れて西へ行くと、直ぐ「上野天満宮」が鎮座し、文学、牛馬の神として、「天神さん」の名で親しまれる菅原道真を祀り、旧上野町6千戸の産土神です。往古は、上野山「平楽寺」の伽藍神で、農耕神祇(じんぎ)に発祥する神を祀っていたが、1581年(天正9年)「天正伊賀の乱」後、藤堂高虎による城下建設の際、当地に奉還され、城郭鎮守として祀られました。

「菅原神社(上野天満宮)」の楼門

「菅原神社(上野天満宮)」のなで牛と道真公

「菅原神社(上野天満宮)」の楼門 「菅原神社(上野天満宮)」のなで牛

菅原神社(上野天満宮) の楼門境内側にいた秀作の木造神殿狛犬

菅原神社(上野天満宮) の楼門境内側にいた秀作の木造神殿狛犬 菅原神社(上野天満宮) の楼門境内側にいた秀作の木造神殿狛犬

参道にある狛犬を参道狛犬と言い神殿内にある狛犬を神殿狛犬と言い、一般に神殿に向かって右が口を開いている阿(あ)像で本来雄の獅子、左が口を閉じた吽(うん)像で古くは一本の角を持っていた雌の狛犬。 古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。

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3.鍵屋の辻 ・・ 鍵屋の辻の決闘

伊賀 鍵屋ノ辻の数馬茶屋(万屋)

鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。

1634年(寛永11年)11月7日旧備前岡山藩士河合又五郎が、武芸の達人河合甚左衛門や桜井半兵衛奈良ら一行10人に護衛され、奈良から笠置を越え、伊賀国島ヶ原を通り、江戸へ下る途中、ここへやって来るのを待ち伏せ、兄渡辺源太夫17才を4年前河合又五郎19才に殺害された渡辺数馬が、松平郡山藩剣術指南役で姉婿の荒木又衛門ら3人の助太刀を受け、隠れていた茶屋です。河合又五郎ら一行11人が人目をはばかるようにして差し掛ると、荒木又衛門ら主従4人は彼らの前に立ち塞がり、仇討ちの主意を伝えて切りかかり、遂に大願を成就しました。

伊賀 鍵屋ノ辻の数馬茶屋(万屋)

この仇討ちは江戸時代から歌舞伎、浄瑠璃、講談などの題材となり大衆の人気を集めた。鍵屋の辻は、伊勢街道と奈良街道の分岐点。

鍵屋の辻の決闘と荒木又右衛門の生誕の地の石碑

鍵屋の辻の決闘  荒木又右衛門の生誕の地の石碑

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4.忍者列車

伊賀鉄道伊賀線には漫画家の松本零士がデザインした忍者をペイントした忍者列車が運行され、鉄道ファンのみならず観光客らの人気を集めている。忍者列車(にんじゃれっしゃ)とは、伊賀鉄道伊賀線で運行されているラッピング列車の愛称。忍者電車とも呼ばれる。

青色ラッピング車両の201編成 忍者列車

ピンク色ラッピング車両の202編成 忍者列車

青色ラッピング車両の201編成 忍者列車 ピンク色ラッピング車両の202編成 忍者列車

2007年(平成19年)に伊賀線が近鉄から伊賀鉄道に移管した後、860系は製造が1961年・1962年製(台車は1957年製)と老朽化が進んでいることから、新しい車両への更新が決定した。東京急行電鉄(東急)から1000系を購入した200系の第1編成に青色の忍者列車ラッピングをして、2009年(平成21年)12月24日より運行を開始している。また201号の運転台側乗務員用出入口のドア横に松本零士の直筆サインが書かれている。

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伊賀上野(現 伊賀市の入口、忍者がお出迎え)

伊賀弁 「忍者の里いがうえの ようおこし(ようこそ)」

地域では関西弁の一種である伊賀弁という方言が使用されている。 名阪国道の上野東インターチェンジから市街地へ向かう方には「忍者の里いがうえの ようおこし(ようこそ)」、市街地から上野東インターチェンジへ向かう方には「またきてだーこ(また来て頂戴)」という伊賀弁の書かれた看板が、それぞれ立てられている。

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5.伊賀の町家や古い建物

伊賀の町家 伊賀上野町家みらいセンター

伊賀の町家

伊賀上野町家みらいセンター

■旧上野警察署(国登録文化財:上野丸之内) : 上野城西大手の門の碑の近くのハイカラな洋風建築は、東大手門にあった上野警察署の建物が昭和10年に払い下げられてこの地に移築されたものです。現在は民家として使用されています。下見板張りの壁面には明治の洋風建築の特色でもある「上げ下げ窓」と屋根形の庇が規則正しく並んでいます。そして玄関ポーチの破風の繊細な細工や軒回りの丁寧に装飾された蛇腹には目を見張るばかりです。ここでは薄紅色のツートンカラーに塗り分けられ濃厚な装いが特徴とも言えるでしょう。

伊賀の町家 
寺村家(国登録文化財)(上野福居町:二の町筋、西之立町通)

伊賀の古い建物 
旧上野警察署(国登録文化財:上野丸之内)

伊賀の町家や古い建物 寺村家(国登録文化財)(上野福居町:二の町筋、西之立町通) 旧上野警察署(国登録文化財:上野丸之内)

■寺村家(国登録文化財)(上野福居町:二の町筋、西之立町通) : 三筋町と立町の交差点は「辻」と呼ばれています。伊賀上野ではこの辻に面して建つ四軒の建物の屋根の形はひと工夫されていて他の一般的な町家の「切妻造」とは異なり「入母屋造」と言ってお寺の屋根の様な形をしています。この家は江戸時代には「両替商」(今の銀行の様な商売)をしていたので、金庫の役割を果たす頑丈な土蔵が通りに面して建てられています。蔵の壁は「海鼠壁」といって平瓦を張付け漆喰で固めて模様を描いています。この土蔵の模様は珍しい形で「鼓繋ぎ」と呼ばれています。伊賀上野現存する町家の中で最も古いとされています。

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三重県・名張市の隣町の伊賀市 歴史のある街・小京都 上野城や忍者屋敷、芭蕉翁生家、鍵屋の辻、だんじり会館など