三重写真集|三重・松阪が生んだ国学者・本居宣長 本居宣長旧宅、本居宣長記念館、鈴屋 |
三重県 国学者・本居宣長
本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。 本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。 また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。 契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。
2020年11月現在、今は新型コロナウイルス感染症( COVID-19(coronavirus disease 2019))が蔓延している状況で、最新の写真は2013年7月撮影。
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本居宣長旧宅鈴屋
■鈴屋(スズノヤ)は、宣長の書斎の名前。「古事記伝」で有名な本居宣長が60年間暮らしていた旧宅が見学できます。 国指定の特別史跡であり、2階の書斎は、部屋に鈴がかけてあったことから「鈴屋」と呼ばれています。
松坂城跡の隠居丸跡は、本丸の南にあり、2棟の道具蔵と宝蔵、米蔵がありました。後に米蔵は移築したとされ、御城番屋敷の敷地にある土蔵がそれといわれています。
現在、隠居丸跡には、松阪出身の江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」があります。魚町1丁目にあった本居宣長旧宅を保存しようという声が高まり、隠居丸跡地に移築することになり、明治42年、移築と桜松閣が建設されました。その後、昭和28年に国の特別史跡に指定されています。
■この建物は、本居宣長が12歳のときから亡くなるまで住んでいました。宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」、また講釈や歌会に使用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」など一階の各部屋は上がってごらん頂くことが出来ます。 二階「鈴屋」は保存のために上がっていただくことが出来ませんが、石垣の上に見学場所を設置していますのでそこからご覧になって下さい。
建坪74.25平方メートル 昭和28年3月31日、国特別史跡指定。
本居宣長記念館
■本居宣長記念館は、公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する登録博物館です。江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」を管理して公開し、展示室では『古事記伝』などの自筆稿本類や遺品、自画像などを公開しています。また関連資料の収集や、宣長に関する調査や研究も行っています。 場所は鈴屋(スズノヤ)の隣。
★戴恩之記は、江戸前期の歌学書。2巻。松永貞徳著。正保元年(1644)ごろ成立。 天和2年(1682)刊。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事やその歌学思想を平易に述べたもの。
宣長の行動範囲は、医者としての往診など仕事やまた家の行事などを除くと、歌会と行楽が大きなウエートを占める。歌会は、市内の寺院やまた個人宅などが含まれる。行楽は、宣長自身が好きであったことと、門人との大事な交友の場でもあったので、四季を通じて行われた。
本居宣長旧宅跡
■本居宣長旧宅跡・附春庭旧宅、土蔵:この宅地は、宣長の曾祖父小津三郎右衛門が承応(しょうおう)3年(1654)に本町の家屋敷とともに小津某より購入したものである。本町の家が小津家の本宅であり宣長が生まれた家であるが、現在は何も残らない。この宅跡とは溝を隔てて地続きで、裏口で通じていた。
この周囲には、向かいに御目見得医(おめみえい)で親友の小泉見庵(こいずみけんあん)、門人長谷川常雄、本町には三井高蔭(みついたかかげ)、中町にも門人の殿村安守(やすもり)、後に宣長養子となる稲懸大平(いながきおおひら)などの屋敷が、まさに指呼(しこ)の間にあった。これらも宣長の門人との協力体制を強固にした原因であったといえる。
宣長旧宅が移築されてからも、春庭宅とされている離れと土蔵、一部の樹木は残されて当時の名残を今に留(とど)めている。また礎石なども復元され、傍らには宅跡碑が建つ。
★本居 春庭(もとおり はるにわ、宝暦13年2月3日(1763年3月17日) - 文政11年11月7日(1828年12月13日))は、江戸時代後期の国学者、国語学者。 本居宣長の実子で長男。幼名は健蔵で父と同じ。
住所・松阪市魚町1645。指定面積436.36平方メートル。 昭和28年3月31日、国特別史蹟指定。
本居宣長旧宅跡・附春庭旧宅、土蔵 本居宣長宅跡碑 |
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本居宣長宅跡説明 本居宣長旧宅跡・附春庭旧宅、土蔵 |
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■「奥墓」は「オクツキ」と読みます。宣長の指示に基づき、遺体を埋葬しています。墓の上には山桜が植えられ、毎年4月末には満開になります。ただ、木立が深く、また木が大変高いので、花をよく見たいという方は双眼鏡の持参をおすすめします。奥墓の側から伊勢湾や愛知県までの眺めることが出来ます。 墓のある山の下には妙楽寺があります。ここまでは公共交通機関の便が無いのでタクシーか自家用車をご利用下さい。また駐車場から徒歩15分の山道を登っていただくことになります。
場所は松阪市山室町高峰1365。指定面積は231.14平方メートル。昭和11年9月3日、国指定。
「奥墓」 本居宣長記念館から |
■本居宣長旧宅跡・附春庭旧宅のある松阪市魚町。 前には見庵(国登録有形文化財、旧小泉家住宅主屋)、並びには明治維新に関連した化蝶碑(下里千穎辞世碑)、その前には松阪牛で有名な牛銀本店があります。 その他にも三井創業の地や大豪商の家が沢山立ち並んでいます。 |
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★見庵(旧小泉家住宅主屋)は、魚町通り沿いの旧長谷川治郎兵衛家(国指定重要文化財旧長谷川家住宅)の北隣に建っている。江戸時代末期に建てられたと考えられる町家で、本居宣長と親交があり紀州藩御目見医師であった小泉見庵を輩出した小泉家の所有だった。
正面の格子や庇の幕板は、当地域の典型的な町家の外観を示している。 このように、見庵(旧小泉家住宅主屋)は松坂城下町の中規模町家の特徴を良く残しており、隣接する旧長谷川治郎兵衛家(重要文化財旧長谷川家住宅)等とともに歴史的景観に寄与している。
★広辞苑には、「牛鍋」と「すき焼き」について以下のような記載がある。
「牛鍋」は、牛肉を野菜などと鍋で煮ながら食う料理。明治時代行われた、現在のすきやき風のもの。うしなべ。 「すき焼き」は、 牛・鳥肉などに葱・焼き豆腐などを添えて鉄鍋で煮焼きしたもの。
維新前まだ獣肉食が嫌われていた頃、屋外で鋤(すき)の上にのせて焼いて食べたからとも、肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。
★牛銀前にある「化蝶碑(かちょうひ)」は、下里千穎(ちかい)の歌碑です。「露の身の きえても残る わが魂は 花に飛かふ 胡蝶なりけり」幕末勤王の志士と交わり、明治初年神社総取締役をしています。
注)Wikipediaと観光地のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
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