名張市|赤目地区の神社・仏閣 |
はじめに 赤目地区の神社・仏閣
・丈六は、宇陀川に支流の滝川が合流する地点付近に位置する。 丈六の地名は、丈六寺の寺の名にちなむ。 なお、丈六寺は室生寺四門の一つで、北門の霊地と伝えられている。
・矢川は宇陀川の右岸で、支流の滝川の左岸との間で位置する。 滝川は赤目の滝から流れる川で流れが早く、昔は早川と言われていた。それが矢川という名に変わったとされている。
2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2017年12月以前のものです。
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赤目・丈六 八幡神社と大ケヤキ
■八幡神社は、丈六地区の氏神として古くから鎮座している。 由緒には「当地にはもとより石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうをまつれり、よってその御分霊を奉迎せんとして正和三年(1314)京都にまいり神輿を買い求め観応元年(1350)ここに遷座した」と言われる。 天正伊賀の乱(1581)で焼かれたが、その後再興してきた。 明治の頃、丈六・相楽・檀・長坂の諸社を合祀した。 また、元禄の頃、檀村・丈六村・一ノ井村・柏原村・星川村・長屋村・矢川村の七ケ村がまとまり、旱魃防止のため雨乞いの神として信仰された。 当神社の主祭神は應神天皇であり、観応元年九月十五日、京都石清水八幡宮より御分霊を奉迎し、現在地に遷座される。
丈六・八幡神社 拝殿 |
丈六・八幡神社 由緒 |
丈六・八幡神社の大ケヤキ |
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★丈六・八幡神社の大ケヤキは、名張市エコツーリズムの資料では、幹周/5. 85m、樹高/41m余り、推定樹齢/ 500年余とあります。 御神木とされている。
赤目・丈六 水神碑
■安政六年(1858)九月二日、滝川の堤防を破り濁流が丈六地区を一飲みにした。 庄屋 堀内新次郎と村年寄 稲荷健次らは地区民を安全な場所へ誘導するとともに堤防の復旧工事にも努めた。 この水神碑は、堤防復旧工事完成を記念して造られたもので今後二度とおこらぬようにと祈りを込めて作られたものである。 碑の裏面には、「たき水の
いくたび川を あらうとも こわしとせじな 水神の神」(作者不詳)と和歌が刻まれている。
水神碑 |
丈六橋の東詰 |
水神碑 |
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★丈六地区では、七月の夜「祇園さん」と呼ばれるお祭りが、この水神碑の前で行われ「水神」と刻まれた文字の中にきゅうりが埋め込まれます。 普通 農家では、その年の最初に取れたきゅうりは、食べずに川へ流す習慣があります。 川に住む河童にきゅうりをお供えして水難事故に遭わぬようにする風習と言えます。
安部田 勝運生地蔵尊
■勝運生地蔵尊(高さ93cm石仏、初瀬街道)昔から「しょうけじぞうさん」と呼ばれ足の病に御利益があると伝えられており、多くの方の信仰を集めていました。 言い伝えによると その昔、足痛のため起き上がる事が出来なかったおばあさんがいました。 ある日の朝、枕元に地蔵さまが現れ「足痛を直してあげるから誰かにお参りしてもらいなさい」と言われました。 おばあさんがおじいさんにその話をすると「その地蔵さまはしょうけ地蔵さまだ」と言い早速お参りしたところ、五日目におばあさんの足は治り、仕事が出来るようになりました。 二人はお礼にワラジを作って御供えしました。」 というお話があります。 この話がいつの間にか広まり、多くの方が、お参りに訪れ、足の病気が治ったというお礼のワラジが数多く供えられるようになりました。 昭和四十二年(1967)、土地を保有・管理している寺嶋夘一郎氏と稲荷生之助氏により、お堂を建立し現在に至っております。 その名のご縁から、スポーツや受験、商売など「勝負運が向く」といわれています。
初瀬街道 安部田 |
勝運生地蔵尊 謂れ |
勝運生地蔵尊 |
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矢川の踏切(近鉄大阪線) |
矢川隧道 記念碑 |
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矢川隧道、通称、熊岩隧道(ずいどう)。 明治初期、名張市の矢川住民らの協力で完成した農業用水トンネル矢川隧道は、別名熊岩隧道とも呼ばれ、その完成を讃える記念碑が矢川の踏切(近鉄大阪線)の脇に大きな石碑として残っている
矢川 春日神社
■祭神 天児屋命、他4柱。創建は不詳である。古く鹿高山に鎮座し「加陁賀(かだか)明神」と称していた。 現在 安部田に鹿高神社が存在しているが、この鹿高神社は古くは案部田神社と称していたという。 神宮寺に極楽寺、円楽寺がある。 春日神社石燈籠は三重県指定有形文化財。 燈籠銘文に「願主藤原康 正平八年癸巳十月廿二日○○沙弥得円」とある。 南北朝時代(正平8年(南朝暦)、1353)の紀年銘がある燈籠は珍しいという。
1333年 元弘3年 ・鎌倉幕府が崩壊する
1334年 建武元年 ・後醍醐天皇が親政を開始。(建武の新政)
1338年 暦応元年(北朝) 延元3年(南朝) 足利尊氏が征夷大将軍になり、室町幕府を開く。
1349年 貞和5年 正平4年 観応の擾乱が勃発(~1352)(将軍足利尊氏の弟で幕府の実権を握る足利直義の派閥と、幕府執事 高師直・将軍尊氏の派閥が争い、最終的に師直も直義も死亡したことから、生き残った尊氏が擾乱に勝利した。)
安元元年(1175年)に東大寺領黒田荘(伊賀国名張郡)に乱入した名張郡司源俊方と興福寺僧らが、東大寺の文書において悪党とされていた。12世紀から14世紀にかけて東大寺領黒田荘(伊賀国)で活躍した「黒田悪党」大江氏が著名である。鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成(河内国)、赤松則村(播磨国)、名和長年(伯耆国)、瀬戸内海の海賊衆らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている。 黒田の悪党(名張の武士団)は、南朝方。
安部田 鹿高神社
■鹿高神社は、三代実録記載の古社である。 社伝によれば、壬申の乱のおり大海人皇子が吉野より美濃へ進軍の際にこの地を通過、おりしも宇陀川が洪水となり、進軍が出来なくなった。 その時、神霊が二頭の鹿となって現れ、軍勢を対岸に渡した。 所が二頭の鹿は一頭に変わってしまい、片鹿と呼ばれたのが地名となり、鹿高(かたか)と転じた。 その後、勝利した大海人皇子が感謝し、この地に鹿高大神として祀った。
★『日本三代実録』は、日本の平安時代に編纂された歴史書。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。
★『菅笠日記』は、本居宣長が43歳の時、明和9年(1772)3月5日から14日まで10日間、吉野、飛鳥を旅した時の日記。上下2巻。この日記は文章、記述、構成も優れ、その後、吉野や飛鳥を巡る人々のガイドブックとしてもよく読まれた。
安部田 兵頭瀬
■壬申の乱の時,大海人皇子は奈良の吉野を出て、鹿高神社を左に見て宇陀川に出ると,白鹿の伝説がある名張市安部田に到達する。 大海人皇子(後の天武天皇)が宇陀川の水かさが増して渡れないので困っていると,白鹿が現れて大海人皇子を背に乗せて渡ったという伝説がある。その地を兵頭瀬(ひよどせ)といい,三重県名張市安部田を流れる宇陀川にある。
宇陀川 |
兵頭瀬(ひよどせ) |
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★夜中に隠郡(なばりのこおり-三重県名張市)に着く。 隠駅家(うまや-早馬がおかれた所・中継点)があり,これを焼き払った。村に向かって,「天皇が東国に入っていくから出てきなさい」と声をかけるがだれも出てきて従う者はいなかった。 日本書紀はここで大海人皇子を「天皇」としている。「天皇」は大海人皇子をさし,ここで初めて「天皇」という称号を用いた。このことは,皇位は大海人皇子にあることを主張しているともいえる。
矢川 矢川隧道、別名熊岩隧道
■江戸期には宇陀川の水利工事と新田開発が進みましたが、矢川の「熊岩」はその象徴です。 巨岩と宇陀川の淵、水際に連続して穿たれた穴は、木製の水路を透すために絶壁を穿った名残です。
明治十八年。熊岩の水路問題を解決するため、村民は結束し水路を通すためのトンネル工事に踏み切ります。 約三年の難工事の末、山の裏側にあたる春日神社まで「矢川隧道」というトンネルが開通し、矢川の水利は安定しました。
矢川 矢川隧道 熊岩 |
矢川隧道 残留物 |
矢川 矢川隧道 穴 |
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矢川 矢川隧道 |
宇陀川 |
近鉄電車 |
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宇陀川用水 |
宇陀川用水 |
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安部田 郷土資料館 オオサンショウウオ
■名張市郷土資料館では、日本固有のオオサンショウウオを保護するため、チュウゴクオオサンショウウオとの交雑種137匹(平成29年6月現在)を敷地内のプールで飼育し、来館者の方に見学していただいたり、専門家の研究などにも役立てています。 阿清水川(安部田地内)で見つかったオオサンショウウオの幼生(生後8ヶ月~2年半程度)を見学してもらうこともできます。
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★日本固有のオオサンショウウオは、1952年に特別天然記念物に指定されている世界最大の両生類で、その大きさは最大で150cmにまで成長し、正確な寿命はわかっていませんが、100年程度生きるのではないかと推測されています。
3000万年前からその姿を大きく変えずに生きてきた「生きた化石」とも呼ばれるオオサンショウウオですが、環境省レッドリスト、IUCN(国際自然保護連合)レッドリストには絶滅危惧種として記載され、近年では開発や、かつて食用として輸入されたチュウゴクオオサンショウウオとの競合などで個体数は減少の一途をたどっています。
安部田 郷土資料館
■名張市郷土資料館は、平成26年3月に閉校した旧錦生小学校の跡地を活用し、翌年4月に開館しました。 市内で出土した埋蔵文化財をはじめ、市で所有している文化財を保管、展示しており、小中学生向けには、まが玉や銅鏡づくりができる体験事業を常時行なっています。
★イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年(天保2年) - 1904年(明治37年))は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。
1878年(明治11年)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年(明治13年)に "Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。
名張へは明治11年に来たそうで、シイタケ栽培に驚いたと書いてあります。
注)Wikipediaと名張雑纂の資料、
等を参考にさせてもらっています。
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