名張市|鴻之台・夏見地区 夏見廃寺 |
はじめに
夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されています。
奥春日と呼ばれる大銀杏がある積田神社、他には福典寺、上山古墳群、下川原遺跡 などがあります。
・夏見は、名張川に青蓮寺川が合流する地点の東側にある。川沿いの東側の丘陵に、縄文期から弥生期にかけての遺跡がある。古くから集落があったと思われる。古代からの夏見郷の郷名は、この夏見の集落に由来すると思われる。この地の北側の男山(225m)の南のふもとに、飛鳥期に夏見寺が建立された。
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夏見 夏見廃寺
■夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されています。 醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。 夏身と字す。 もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられています。 天智天皇の子、大友皇子と天皇の弟、大海人皇子(天武天皇)の間に、 皇位継承をめぐって壬申の乱(672年6月)が起こり、大海人皇子が吉野で秘かに挙兵し、美濃国不破関に向かう途中、夜半に名張に着きます。 駅家に立ち寄り「天皇、東国に入ります」と告げますが、これが、これまでの「大王」が「天皇」と呼ばれた最初であるという説があります。 戦いに勝った大海人皇子は、3か月後に飛鳥に帰りますが、その前夜名張に 一泊しています。 往復とも夏見のあたりを通り、名張川を渡ったと思われます。 天武天皇にとって出陣と凱旋の地、名張を終生忘れられなかったと思われます。
★『倭姫命世記』に、「六十四年丁亥、伊賀國の隠(なばり)の市守宮(いちもりのみや)に遷幸(みゆき)なりまして、二年斎(いつ)き奉る」とある。倭姫命は六十四年、伊賀国の隠の市守宮に遷幸され、その地で二年の間大神を奉斎された。倭姫命が大和国から伊賀国に遷られたとする市守宮の記事は世記のみで、書紀にも儀式帳にも無い。世記の遷宮記事は史実の確証を欠くが、市守宮の所在を想定する郷土史家の資料等で、比定地を五ヵ所とした。私共がこの地を訪れたのは、涼風の立ち始めた秋であった。 以下、市守宮(『倭姫命世記』のみに記述。)
① 蛭子神社(えびすじんじゃ、三重県名張市鍛治町)、② 田村大明神(現・小祠。美波多神社に合祀。三重県名張市新田・美波多神社(みはたじんじゃ))、③
名居神社(ないじんじゃ、三重県名張市下比奈知)、④ 宇流冨志禰(うるふしね)神社(三重県名張市平尾)、⑤ 三輪神社((現在箕輪神社に合祀)、跡地に小祠・稲荷神社に合祀。三重県名張市瀬古口丁ノ坪・稲荷神社) 、隠(なばり)は名張の旧称である。佐佐波多宮より隠までの名張街道は、かつて壬申の乱で皇位に就いた大海人皇子が往来した道でもある。
◇日本書紀の記述通り」 専門家、調査の意義強調 越塚御門古墳など被葬者確定的 (夏見廃寺の関連)
新たに見つかった石室などについて説明する西光技師ら(明日香村で) 「まさに日本書紀の記述通りだ」。明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)に接して新たに見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳。9日の村教委の発表を受け、被葬者は、牽牛子塚古墳が斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)、越塚御門古墳が孫の大田皇女(おおたのひめみこ)と確定したとする声が専門家から相次いだ。飛鳥時代の歴史に新たな光を当てる成果に、注目が集まりそうだ。 村文化財顧問の木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「日本書紀の記述通りで、疑いようがない。牽牛子塚古墳にとどまらず、他の飛鳥時代の古墳の被葬者像や、飛鳥の歴史全体を考える定点となる」と調査成果の意義を強調する。 越塚御門古墳の石室は、同村にある「飛鳥の謎の石造物」の一つとされる鬼ノ俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同型だった。猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(同)は、斉明天皇が同古墳から牽牛子塚古墳に改葬されたとする考えを示したうえで、「日本書紀が歴史を忠実に記していたことを目の当たりにする大きな発見だ」と評価する。 昨年9月から続く長丁場の発掘現場。調査を担当した村教委文化財課の西光慎治技師(40)と、調査補助員の関西大考古学研究室3年、辰巳俊輔さん(20)は、牽牛子塚古墳の範囲を調べるうちに、墳丘の痕跡が全くない想定外の場所から、新たな古墳を発見することになった。 西光技師は2002年、鬼ノ俎・雪隠古墳が二つの石室を備えた長方形墳(双室墳)で、斉明天皇と孫の建王(たけるのみこ)の合葬陵との新説を唱えている。今回の発見に、「事実関係をきちんと調査するのが現場担当者の務めだが、個人的には、牽牛子塚古墳と鬼ノ俎・雪隠古墳とのつながりが出てきたのが意義深い。『飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群』の世界文化遺産登録に向けた弾みになれば」と笑顔を見せた。(2010年12月10日
読売新聞)
(参考文献)夏見廃寺 (1981年) 夏見廃寺―第1次発掘調査概要 (1985年)
夏見 積田神社
■積田神社(つむたじんじゃ)は、南都春日大社奥宮や別名を積田の宮とも言われ、今から約1240年前の四十八代称徳天皇(女帝・孝謙天皇)の御宇神護景雲元年(767)丁未六月二十一日鹿島大神(武甕槌命)が常陸国鹿島より(現茨城県鹿島神宮)大和国春日大社(奈良)へ御遷幸の途次留在された霊蹟にして、古書に伊賀の国名張郡夏美郷御成の宮、或いは宇成神社とあるのは即ち是である。 爾来、この神社が南都春日大社奥宮(入口に石碑があり)といわれてる所以である。 前には青蓮寺川、裏には名張川が流れ、直ぐに合流してます。 目前の夏見橋は、曽爾街道の起点。 この辺りは壬申の乱の時も大海人皇子の通過点だったと思われる。
夏見 瑠璃山 寿命院 福典寺
■名賀郡史によると「福典寺は聖武天皇(701年〈大宝元年〉 - 756年)の勅願所・旅宿で、東照院と号し、現在地より500m南の男山にあったが、天正伊賀乱の兵火で焼失し現在地に移った」とある。 また建保六年(1218)の東大寺文書に「僧善巧が東大寺に作田二反を寄進、その内一反が福田院田である」と記され、この福田院が福典寺ではないかと考えられている。 鎌倉初期には既に存立していたことがわかる。 記録によれば、大僧都忠遍を中興の祖としている。 この方の没年は慶長十五年(1610)である。この頃街道筋にある長谷寺との関係も深く、長谷寺十ヵ寺の一つに数えられていたという。 明治維新の神仏分離の際、積田神社の別当寺大五龍寺の本尊十一面観音は当寺に移され、秘仏として尊像は守られてきた。
福典寺 山門 |
福典寺 山門 |
福典寺 本堂 |
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福典寺境内に造立の宝篋印塔 |
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★境内に造立の宝篋印塔は延享四年(1747)、宝暦五年(1755)のものと室町期のものと計三基が造立されている。高さ約三m程の巨大なもの。
夏見 上山古墳群
■名張川と青蓮寺川に挟まれた夏見の中川原地区に散在する古墳群で、総数14基を数える。 昭和61年(1986)に住宅地造成(春日丘)のため、9号墳以下5基の古墳が調査され、13号墳については調査後緑地公園に移設された。 確認されている古墳は、すべて横穴式石室を内部構造とする古墳時代後期の古墳。 7号墳からは銅製の棒状簪(かんざし)が見つかっており、両端は腐食のため欠損しているが、全長76袢、最大厚は5袢であり、片方には耳かきが付くと考えられる。
渡来人の人々が身に着けた飾り |
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夏見 下川原遺跡
■下川原遺跡(夏見字下川原) 名張市の中央部を東から西に流れる名張川の南岸に立地する。 平尾山に当たった水流が蛇行し、やがて砂堆を生じ自然堤防となり、その堤防上に縄文集落がつくられる。 時代により集落の位置は移動し、自然堤防の中央部を区切るような小河川によって、北東側に縄文晩期、南西側に縄文後期の集落がそれぞれつくられる。縄文集落と重複するように弥生集落もつくられる。 昭和57年(1982)の1次調査から平成8年(1996)の5次調査まで、開発に伴い発掘調査が実施されている。
注)名張市 市史編集専門部会考古部会、名張市郷土資料館の資料から一部転載しています。
★縄文晩期は、下川原遺跡の土器棺墓群のほか、頏堂遺跡や奥出遺跡では、一条突帯文の深鉢が弥生前期の土器片と共に出土している。
名張盆地の弥生前期の遺跡は、人参峠遺跡や土山遺跡など丘陵の谷間に立地し、初期の稲作は小規模な範囲で営まれた。中期になって、下川原遺跡など名張川の沖積によって広がった平地に遺跡が立地するようになる。
注)Wikipediaと名張市 市史編集専門部会考古部会、名張市郷土資料館の資料、
等を参考にさせてもらっています。
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