名張市|百合が丘・青蓮寺の古墳・遺跡 |
はじめに 地区の古墳・遺跡
名張市域には現在までに旧石器時代の遺物、遺跡は確認されていない。 最も早い例として今から約1万年前の縄文時代草創期の標識的な石器の一つである有舌尖頭器3点を含む石器が出土した白早稲遺跡があり、共伴する土器は確認されていないが掻器、剥片、石鏃などが出土している。
稲作農耕を基盤とした弥生文化は、紀元前300年前後頃、北九州に定着した後、順次東進し、瀬戸内から近畿地方、伊賀地域に達した。 名張盆地の弥生前期の遺跡は、人参峠遺跡や土山遺跡など丘陵の谷間に立地し、初期の稲作は小規模な範囲で営まれた。 弥生時代後期の斜面をテラス状に掘り込んだ特異な遺構(土山遺跡)この時期以降は、集落は丘陵を上り、白早稲遺跡へと移動する。 その後は人参峠遺跡に移り、再び古墳時代前期に土山遺跡(土山遺跡は中村台地の南を流れる釜石川(「ホタル保護地」、青蓮寺から赤目中学辺りで宇陀川に注ぐ、百合が丘を取り囲む)の源流にあたる。 丘陵はもともと里山として利用され、谷の奥まで谷水田が開かれていた。)に戻ってくる。
★縄文時代は 草創期(約1万6,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500
- 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)
2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2020年12月以前のものです。
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※ページの索引 [ 土山遺跡|人参峠遺跡|中村古墳群|白早稲遺跡|用語 ]
土山遺跡(百合が丘西4番町) 消滅
■土山(どやま)遺跡は中村台地の南を流れる釜石川の源流にあたる。丘陵はもともと里山として利用され、谷の奥まで谷水田が開かれていた。尾根の平坦部にあたる水田部分から弥生時代前期中段階の土器と東海地方条痕の土器(水神平)系の土器が一緒に見つかっている。この地方では、初期農耕が谷水田を基盤として行われたと考えられる。
土山遺跡があったと想定される場所 |
土山遺跡・祭祀遺物 |
土山遺跡・祭祀遺物 |
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★土山(どやま)遺跡 百合が丘西4番町(ネムの木公園辺り) 弥生~古墳 範 囲100m×70m、祭祀遺構、竪穴住居、テラス状遺構、掘立柱建物 弥生土器、土器、祭祀遺物、青銅鏡、弭金物、鋳造鉄斧 昭和52年度市発掘調査、消滅
古墳時代前期は、各竪穴住居からやや粗雑なつくりの小型丸底壷を代表とする、5世紀前後の土器が見つかっている。 大石の付近に散乱していた祭祀遺物は、鉄器では、鉄の素材(インゴット)ではないかといわれる鋳造鉄斧、剣、ヤリガンナがそれぞれ見つかっている。 石製模造品としては、滑石製の模造品があり、勾玉が3点、管玉1点、鏡を模したといわれる有孔円盤4点、剣形品2点、舟形1点、結晶片岩の剣形品が4点である。 銅製品として、弓の下方に付ける弭金物(ゆはずかなもの)、素文鏡(径3.3袍)、四
獣 鏡(径7.8袍)がある。
★神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とは、神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のこと。または、神代(かみしろ)として自然環境を神体(しんたい)とすること。 この場所の真正面に茶臼山が見えるのでそれを神体としたのか?
人参峠遺跡(瀬古口字順添)
■人参峠(にんじんとうげ)遺跡は名張川の南岸の丘陵上に位置している。 遺跡は丘陵の尾根上に広がっており、丘陵裾部との比高差は65mほどである。縄文時代から中世にまで及ぶ幅広い時期の遺構や遺物が検出された。 特に、古墳時代前期から中期にかけての遺構や遺物が多く見つかっており、一連の丘陵上に存在している白早稲遺跡や土山遺跡などの古墳時代の遺跡との関連も窺われる。
★人参峠遺跡 百合が丘西1番町 弥生~古墳 範囲5500裃(凡そ1,670坪)、竪穴住居、土坑、土器溜まり 弥生土器、石包丁、土師器 昭和54年度市発掘調査、一部保存
★裃(かみしも)は面積を表す単位、凡そ3.3で割り返したものが坪数になる。
中村古墳群(箕曲中村字高尾他)
■中村古墳群は、名張盆地南東部を占める箕曲中村地区に広がる盆地東部を画する「前山」と称される丘陵地に位置する古墳群で、26基が確認され、住宅地「百合が丘」の開発事業にともない6基が発掘調査された。
発掘調査された古墳は中村2号墳、中村3号墳、中村5号墳、中村10号墳、白早稲1号墳 。
★中村1号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径12m、高1.8m、横穴式石室 緑地保存
★中村2号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径20m、横穴式石室(両袖) 土師器、
須恵器、馬具、釘 消滅、昭和52年度市発掘調査
★中村3号墳 百合が丘西5番町 古墳 円墳、径11.5m、横穴式石室(右片袖)、
組合せ石棺 土師器、須恵器 昭和51年度市発掘調査、消滅
★中村4号墳 中村字高尾 古墳 円墳、横穴式石室 抜取り昭和59年度発掘調査、消滅
★中村5号墳 中村字高尾 古墳 方墳、一辺11.2mの正方形、木棺直葬2基、
割竹型木棺 碧玉製管玉、やりがんな、鉄斧、刀、鉄鏃、石突、刀子
平成4年度発掘調査、復元保存
★中村6号墳 中村字高尾 古墳 円墳、径8.8m、高0.7m 緑地保存
★中村7号墳 中村字高尾 古墳 円墳、径8m、高0.8m 緑地保存
★中村8号墳 中村字高尾 古墳 方墳、径8.7m、高1m 緑地保存
★中村9号墳 青蓮寺字南成滝 古墳 方墳、径13m、高3.5m、横穴式石室 一部破壊
★中村10号墳 百合が丘西4番町 古墳 円墳、径10m、横穴式石室(片袖) 土師器、
須恵器 昭和51年度市発掘調査、消滅
★中村11号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径14m、横穴式石室、天井石落下
宅地地内緑地保存
★中村12号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径13m、石室、天井石 宅地地内緑地保存
★中村13号墳 中村字高尾 古墳 円墳、径11m 宅地地内緑地保存
★中村14号墳 中村字高尾 古墳 円墳、径10m 宅地地内緑地保存
★中村15号墳 中村字高尾 古墳 円墳、径10.2m 宅地地内緑地保存
★中村16号墳 中村字高尾 古墳 方墳?、径16.6m、高1m 宅地地内緑地保存
★中村17号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径9m、高1m、横穴式石室 墳丘一部破壊
、天井石及び側壁の一部残存
★中村18号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径11m、高1.5m、南 に 開口、
横穴式石室、墳丘一部破壊、天井石及び側壁の一部残存
★中村19号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径8m、高1m、南に開口、横穴式石室
墳丘一部破壊、天井石及び側壁の一部残存
★中村20号墳 百合が丘西2番町 古墳 円墳、径9m、高1m、南に開口、横穴式石室
墳丘一部破壊、天井石及び側壁の一部残存
白早稲遺跡(百合が丘西2番町) 消滅
■古代においては、名張郡の中心として郡衙(ぐんが)が置かれ、官人の墳墓地として源流の白早稲(しらわせ)遺跡。
名張盆地の中央やや南寄りに広がる前山丘陵(現百合が丘住宅地)にある遺跡群の1つで、宅地造成により発見され事前調査した集落遺跡である。 なかでも白早稲遺跡は、標高290mを最高所として比高10mの範囲内に住居が分布しており盆地低部との比高が80m前後あり、前山丘陵内の遺跡では最高所に位置する。 1万数千年前の縄文草創期の有舌尖頭器や石鏃などの石器、弥生時代末から古墳時代前半期にかけての竪穴住居、奈良時代の掘立柱建物などが検出された複合遺跡である。 古墳時代初頭から前半の方形の竪穴住居が35棟、そのほか土坑などと奈良時代の掘立柱建物2棟、火葬骨の集積が2か所見つかっている。 団地に入り「百合が丘」の石碑の南側と想定される。
白早稲遺跡があったと想定される場所 |
縄文草創期の有舌尖頭器 |
★有舌尖頭器は、手で投げる槍の先端に付ける石器で、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣の狩猟に使われてきた石槍の一種です。石槍と弓矢に付ける石鏃(せきぞく)の中間型ともいえる有舌尖頭器は、弓矢の普及により作られなくなるので、1万数千年前の縄文時代草創期にのみ見られる石器です。 |
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■白早稲遺跡 百合が丘西2番町 縄文~ 範囲7300裃、竪穴住居35棟、土坑、
掘立柱建物2棟、火葬墓2基 弥生土器、土師器、須恵器、有舌尖頭器、石器
昭和53.55年度市発掘調査、消滅
■白早稲1号墳 百合が丘西2番町 古墳 規模不明、横穴式 石室 土師器、須恵器、鉄鏃、
銀環 昭和53年度市発掘調査、消滅
■白早稲2号墳 百合が丘西2番町 古墳 規模不明、横穴式石室 須恵器
昭和55年度市発掘調査、消滅
奥出遺跡 奥出古墳群(夏見)
■名張川と青蓮寺川の合流点、南側には南東から派生してきた丘陵の末端が幾筋もの小尾根を形づくっている。奥出遺跡も、標高250mから240mの小さな尾根に立地し、奥出古墳群と重複している。標高の高い部分には、基盤層の花崗岩が露出しているが、低い部分には河岸段丘の名残である洪積世の砂礫層が堆積する。縄文時代晩期の土器集積と、弥生時代後期の住居、古墳時代前期の住居がそれぞれ見つかった。 名張青峰高校裏
奥出遺跡 夏見字奥出 縄文~室町 範囲2000裃 縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、玉、盒子 昭和57年度市発掘調査
■奥出11号墳 夏見字奥出 古墳 円墳、径8m、高1.5m
■奥出12号墳 夏見字奥出 古墳 円墳、径11m、高1.2m
■奥出13号墳 夏見字奥出 古墳 規模不明、横穴式石室、南西開口
昭和57年度市発掘調査
■奥出14号墳 夏見字奥出 古墳 規模不明、横穴式石室(小石室) 須恵器
昭和57年度市発掘調査
■奥出15号墳 夏見字奥出 古墳 規模不明、横穴式石室(小石室)
昭和57年度市発掘調査
百合が丘周辺には他には以下のものがあります。 尚、奥出は名張青峰高校の裏手を積田神社に向かう途中に左側にあります。
■百々(どど)1号墳 百合が丘西6番町 古墳 円墳、径9m、横穴式石室が2基 土師器
昭和52年度市発掘調査、消滅
■百々3号墳 青蓮寺字百々 古墳 円墳、径15m、高2m、横穴式石室
■南成滝遺跡 青蓮寺字南成滝 弥生古墳 範囲250m×40m 弥生土器、土師器
■堀切1号墳 青蓮寺字堀切 古墳 円墳、横穴式石室
■平家屋敷跡 青蓮寺字地蔵尾 鎌倉 範囲30m×30m、四方土塁の削平地、空堀あり
通称「ひげやしき」
■下出流遺跡 夏見字奥出 縄文室町 範囲50m×100m サヌカイト、瓦器 通称「下出」
■観音寺遺跡 中村字観音寺 弥生~中性 範囲30m×40m、竪穴住居、方形周溝 墓、
掘立柱建物、中世城館 土師器、須恵器、瓦、昭和59年度県発掘調査
名張川の支流釜石川左岸に面した丘陵端に位置し、水田面からの比高は20m前後で、
前面に広がる水田を眺望できる立地である。
■竪穴式住居(pit-house, pit-dwelling)は、地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺いた建物のことをいう。日本の竪穴住居は後期旧石器時代(5万年前から1万年前に遡る。)から造られ始めたと考えられており、縄文時代(始期に関しては一般的に16,000±100年前~終期は概ね約3,000年前
)には盛んに造られるようになり、弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)以降にも引き継がれた。 伏屋式と壁立式があり、そのうち伏屋式が主流で、壁立式は拠点集落の大形住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳(3世紀半ば過ぎ~7世紀末頃)の両時代に築造されたと考えられている。 そして、日本の農家や民家のもととなっていった。 竪穴住居自体は平安時代(794~1192)ごろまで造られ、さらに時代が下がった例で東北地方では室町時代(1338年(延元3年/建武5年)~1573年(元亀4年))まで造られていた。
■飛鳥、奈良時代は古代国家の成立とともに、官道や地方の諸施設も整備されていく。 掘立柱建物が建ち並び官衙的性格を持つとされる観音寺遺跡や鴻之巣遺跡があるが、日本書紀に出る壬申の乱で大海人皇子が東国に向かった道、駅家、戦勝後飛鳥への帰途宿泊した施設など現在のところこれらを比定する遺跡は明らかでない。
注)Wikipediaと名張市 市史編集専門部会考古部会、名張市郷土資料館の資料、
等を参考にさせてもらっています。
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