伊賀市写真集|大山田 鳳凰寺廃寺、鳴塚古墳 |
伊賀市 大山田
大山田村(おおやまだむら)は、かつて三重県阿山郡に存在した村。2004年11月1日に上野市、阿山郡阿山町・伊賀町・島ヶ原村、名賀郡青山町と合併して伊賀市になったため、消滅した。今からさかのぼること約400万年前、村には古琵琶湖の初期である「大山田湖」が誕生しました。
伊賀市東北部の大山田地区は縄文時代から人類が居住していた地域です。 服部川上流部の阿波地域には弥生中期の方形周溝墓が検出されています。 古墳時代になると大山田地区でも大型前方後円墳が築かれます。 弥生時代には轟遺跡、高北遺跡が営まれ、古墳時代に入ると、寺垣内古墳(前方後円墳)、荒木車塚古墳が作られ、荒木車塚の西方、村の入り口の丘陵上にはかの石山古墳が陣取っている。 鳳凰寺、中村地域の古墳群は、伊賀随一の密度。
伊賀地域は天智天皇の弟・大海人皇子と息子・大友皇子が戦った壬申の乱(672年)の舞台の一つで、伊賀市は大友皇子の母・伊賀采女宅子娘の出身地、名張市は大海人皇子の娘・大来皇女が発願したとされる夏見廃寺跡(同市夏見)があるなど、万葉集に収められた歌が詠まれた時代にゆかりが深い。
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歴史 寺音寺古墳
■大山田小学校北の水田の中に、目立つ小丘があります。これが「寺音寺古墳(じおんじこふn)」です。 現状は単なる円墳ですが、元は墳丘長約60m、後円部径及び前方部幅約40mの前方後円墳でした。 高さは7~8mはありそうです。 墳丘の周囲にはいまは水田となっていおり、田植えの季節は水濠に稲刈り後は空堀を思い出すことができるほどの幅20mの周濠があります。 規模は大山田盆地最大で、伊賀地方でも大規模クラスである。 復元される古墳の規模は全長55m、後円部の直径は約35mで、周溝幅は18m~22mと周溝も含めた全長は約90mになります。 墳丘から「野焼き」の埴輪とは異なる「窖窯焼成」の円筒埴輪が見つかっており、この古墳の築造は古墳時代の中期にあたる5世紀中葉ごろと推定されています。 規模も大山田盆地最大で、伊賀地方でも大規模クラスである。 現況は水田、畑で、前方部は均平に開墾され、後円部も中央以外は削平され畑となっているが、墳丘の基底部は構築当時のものと思われる。 伊賀市炊村(かしきむら) 県指定の史跡
寺音寺古墳 全景 |
寺音寺古墳 石碑 |
寺音寺古墳 県説明 |
※円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされています。 出土したものとして鉄鏃、細身長頸鏃、甲、鉄器、須恵器、鉄錐、刀子などが知られています。
歴史 鳳凰寺跡(鳳凰寺廃寺)
■鳳凰寺(ぼうじ)廃寺は伊賀国・山田郡・竹原郷にあった古代寺院で、寺遺跡があるのは薬師寺のみですが、現在の鳳凰寺集落一帯が寺域と見られています。
鳳凰寺廃寺は三田廃寺(伊賀市三田)、才良廃寺(伊賀市才良)、夏見廃寺(名張市夏見)と共に伊賀地方に造られた白鳳期の官寺です。寺域一帯から白鳳様式を持つ古瓦が出土していて、礎石が残る現薬師寺本堂がある場所に鳳凰寺があったとされています。 伊賀街道と三重県道2号が交差する北側に鳳凰寺集落への里道があり薬師寺、鳴塚古墳の標識があります。
飛鳥時代の寺院跡で、現在、真言宗豊山派に属する薬師寺が同地に所在する。 壬申の乱後、大友皇子の生母、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)が郷里であるこの地に帰住して、我が子大友皇子の冥福を祈って鳳凰寺を創建したという伝説が伝わる。 礎石が、現薬師寺本堂庫裏の床下に二十数個、庭前に七個残っている。 また、八葉単弁蓮華文の鐙瓦、三重弧文の字瓦が出土している。
伊賀市鳳凰寺(薬師寺境内) 県の史跡
※この鳳凰廃寺を建立したのは,伊賀宅子娘という山田郡司(竹原連)の娘です。 伊賀宅子娘は天皇の世話をする采女として天智天皇の後宮に入り,大化4年(648)に大友皇子を産みました。
大友皇子は天智天皇の跡を継ぎ、次期天皇を期待される皇子で、伊賀宅子娘も、その一族たちの権力も大幅に増大していたと思います。 しかし大友皇子は弘文天皇として即位して間もなく壬申の乱(672)で叔父の大海人皇子に敗れ首を吊って自害します。
伊賀宅子娘は郷里の大山田へ帰り、わが子の冥福を祈って鳳凰寺廃寺を建立したといわれます。
薬師寺は鳳凰寺廃寺の跡に建てられた寺で境内には七世紀後半・鳳凰寺廃寺の礎石跡が20余りが残ています。 鳳凰寺廃寺の規模は現在の鳳凰寺集落一帯に及び出土した白鳳期、奈良期の古瓦から、鳳凰寺が七堂伽藍の大寺であったことがわかりました。
※薬師寺境内(鳳凰寺廃寺)の境内東に住吉社の刻銘の燈籠が1基あり、ここが植木神社が合祀した住吉神社の元地と思われます。 この住吉神社には山田郡司、その娘の伊賀宅子娘が氏神としていたとの伝承があるようです。
※伊賀宅子娘 (いがの-やかこのいらつめ)は、 飛鳥時代の女官。 伊賀の山田郡司(竹原連)の娘。 采女(うねめ)として天智天皇の後宮にはいり,大化4年(648)大友皇子を生んだ。
※采女となるには、『日本書紀』や『養老律令』によりますと、「郡の少領以上の姉妹及び子女の形容端正(かほきらきら)しき者を貢(たてまつ)れ」とあり、『古事記』や『日本書紀』に伊勢の国の采女の話がしばしば出てくるところを見ますと、古代の三重県は美女の多い土地柄であったと言えるかもしれません。
歴史 鳴塚古墳
■鳴塚古墳がある鳳凰寺地区には76基の古墳があります。 その多くは集落の東方に入りこむ山林の傾斜地や丘陵地に築造されました。鳴塚古墳は、唯一、平地に盛土をして築かれた前方部を東北東に向けた前方後円墳です。規模は全長37m、後円部径12m、前方部長16m、墳丘高2,85m、後円部高4,8mを測ります。 石室の構造は、片袖式の横穴式石室で、南側に開口部があります。石室全長8,85m、玄室長4,45m、幅1,6mです。
鳴塚古墳 形状:前方後円墳 築造:6世紀前半 出土品:乳文鏡、須恵器(子持台付、提瓶)、玉類(硬玉製勾玉、メノウ製勾玉、碧玉製管玉) 被葬者:伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこ)、竹原郷の首長(山田郡司(竹原連))
※「天皇のご譲位があるたびに塚が鳴る」という伝説から、「鳴塚」と言い伝えられてきたそうです。 以前この塚に伊賀宅子娘を祭神とする鳴塚社が鎮座していました。 6世紀前半ごろ、横穴式石室としては導入期の石室が完存しています。 伊賀市鳳凰寺、大山田支所の東の山腹に、優美な前方後円墳がその姿を横たえています。
鳴塚古墳 全体 |
鳴塚古墳 休憩所 |
鳴塚古墳 説明版 |
鳴塚古墳 前方後円墳 |
鳴塚古墳 石室 |
鳴塚古墳 石室内部 |
鳴塚古墳の周辺 |
鳳凰寺(ぼうじ)廃寺方面 |
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『鳴塚
この塚は、昔から「天皇の御譲位がある度に塚が鳴る」ということから「鳴塚」と言い伝えられてきた。 全長三十七米の前方後円墳である。 鳴塚は、この地方を開拓し、教化・統治に力を尽くした豪族で、伊賀采女宅子を生んだ山田郡司の墓であるとか、天智天皇崩御の後、故郷に帰り住んだ宅子の陵墓であるとかいわれている。
又一説には、壬申の乱になくなられた大友皇子の陵墓であるとも語り伝えられている。
以前、この地に「鳴塚社」が鎮座していた。 毎年三月二十八日、采女宅子をしのんで祭礼が行われた。 宅子は、美ぼうの上に才えんの姫で、年中緑色の御召物だったことから、里人は宅子をしのび宅子にあやかりたいと、お宮で作った椿餅(椿の葉で包んだ餅)をこぞって頂いて帰った。 更に、弘文天皇(大友皇子)の命日にあたる七月二十三日にも、にぎやかな夏祭りが行われた。
明治中期に社が合祀されるまで続いたこれらの祭りは、鳴塚と里人の、史実を越えた深い心のきずなを物語るものとして、忘れてはならないことでもあろう。
また、鳳凰寺には、弘文天皇、伊賀采女宅子にまつわる地名等が多く残されている。
今後の古代を探る手掛りとなるものであろう。 昭和六十一年十二月吉日建立 大山田観光協会』
歴史 辻堂古墳
■辻堂古墳( つじどうこふん ) は国道163号線の北側、中村地区の服部川に向かって傾斜する段丘の裾部標高210mに所在します。墳丘は消失していますが、直径20m前後の円墳と考えられています。 墳丘はなく、横穴式石室の下部だけを見ることができます。 2つの石棺がそのまま残されています。 全長9.8m(東側奥行5.2m、西側奥行4.95m、幅1.9m)の長方形の石室。 6世紀後半。この古墳、以前は完全に水田の下に埋没しており、昭和46年(1971)農道工事のため土地を掘削したところ、石室が発見されたという経緯があります。 両袖式石棺。 副葬品には須恵器、土師器、鉄製品、金環、ガラス製小玉。土師器類は玄室北西隅に、馬具や鉄鏃など鉄製品は奥壁や東側壁にそって多く出土。第一次埋葬時の土器は総数127点を数え、これらの土器は6世紀後半に位置付けられ、第二次埋葬時の土器は19点と少なく、7世紀後半に属します。 この古墳の被葬者は山田郡内の有力者であったことが想像されます。 伊賀市中村
※荒木 又右衛門(慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日(1638年10月5日))は、江戸時代初期の武士、剣客。名は保知(やすとも)、保和とも。鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い。新陰流の剣豪。大和郡山藩の剣術師範を務める。服部平左衛門の次男として伊賀服部郷荒木村で誕生。
※4世紀後半、山田盆地を見渡す荒木山の山頂近くに荒木車塚古墳が、前後して山麓の真泥の寺垣内古墳が築造されました。
5世紀中頃には盆地の中央に寺音寺古墳、6世紀前半には鳴塚古墳、続いて6世紀後半には辻堂古墳が造られました。荒木山は大山田村と荒木村との境界に聳える標高360mの山で、荒木車塚古墳は荒木山の北陵310mに築かれました。
荒木神社は安寧天皇の御子・師木津日子命(しきつひこ)の後裔にあたる周智氏が祀った神社で荒木集落は周智氏の拠点の一つです。 荒木車塚古墳は数々の逸話がある古墳ですが、近代まで後円部の盗掘坑の中では旱天に際し祈雨の焚き上げが行われてきた場所です。 本格的な発掘調査は未実施ですが後円部の盗掘坑にあった埴輪から4世紀後半築造と推定されています。
荒木神社境内付近には今も湿地がありましたが、東隣には真泥(みどろ)の地名も残り、周辺は広い沼地であったと思われます。この真泥大橋の南、荒木山東麓に荒木車塚古墳と前後して全長75mの寺垣内古墳が築造されました。
文化 大山田郷土資料館
■大山田郷土資料館は、新大仏寺の近くにあり、郷土の暮らしの中で使われてきた農具、山林用具や生活用具のほか、郷土のルーツを探る古墳からの出土品を展示。
縄文時代や弥生時代の土器片なども並び、古代のロマンに触れることができます。
三重県伊賀市富永1004-2 休館日 毎週月曜日、火曜日および年末年始(12/29〜1/3)
大山田郷土資料館 |
江戸時代の駕篭 |
大山田郷土資料館 |
耳環 |
鉄鏃、刀子(とうす) |
直刀 |
■神林古墳群 山田郡 伊賀市(大山田村) 円墳 須恵器・耳環・玉類 飛鳥時代
■野台4号墳 山田郡 伊賀市(大山田村) 不明 須恵器・土師器・耳環 飛鳥時代
※刀子(とうす)は、ものを切る、削るなど加工の用途に用いられる工具の一種。現代の小刀(小型万能ナイフ)に通じる。
※鉄鏃(てつぞく)とは石鏃に代わって用いられるようになった鉄製の鏃(やじり)である。
※直刀(ちょくとう)とは、刀のうちで刀身に反りのない真っ直ぐな形のもののこと。
★参考にさせていただいたページ Wikipedia |
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伊賀市写真集|大山田 鳳凰寺廃寺、鳴塚古墳 |