名張市|美旗・桔梗が丘地区 美旗古墳群、観阿弥創座の地 |
はじめに
・美旗新田は、小波田川の流域の高台に位置する。 古代から小波田野と言われていた原野で、美旗古墳群がある。 江戸期の2代目藩主・藤堂高次の時、伊賀地方は大凶作に見舞われた(1641年)。次の年も飢饉であった。そこで、藩主は溜池造りを奨励した。また、新田開発につとめた。 美旗新田は、藩主が加納藤左衛門に命じて開発させた大規模新田である。
・小波田は、室町期に、観阿弥が地内の社で、猿楽の座を起こした。
・美旗中村は名張川中流の右岸で、支流の小波田川の左岸の低地から南の丘陵地に位置する。
この地には、美旗古墳群の馬塚古墳がある。 どんど焼き。
2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2020年11月以前のものです。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページの索引 [ | ]
美旗 美波多神社
■美波多神社(みはたじんじゃ)は元々三柱神社といい、承応年間(1652年〜1654年)にこの地を開拓した時に新田地区の氏神として勧請
したものでした。それが明治の合祀令に伴って近在の多数の神社を集合し、美旗を代表する神社として現在の形となりました。
ご覧の通り、沢山の神様がおいでになります。 女性の宮司さんだからか境内は綺麗になってました。 三重県名張市新田字女良塚に鎮座。
初瀬街道の近くです。この美波多神社の本殿向かって右脇に雨乞石があります。拝殿の右端から回りこんで見ることができます。 女性の神主さんで綺麗に掃き清められていました。
美波多神社の鳥居と石碑 |
美波多神社の謂れや祭神 |
美波多神社の拝殿 |
![]() |
![]() |
![]() |
明治43年3月に美波多神社(みはたじんじゃ)は、村内東田原九頭神社、同中村国津神社、同小波田福田神社を合祀して美旗地域の氏神として現社号となった。
上小波田 観阿弥創座の地
■能楽大成者 観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。 その後、足利三代将軍義満の絶大な庇護を受け「能楽」として京の地で開花し、伝統芸能の一つの頂点になりました。
奈良県との境、三重県名張市上小波田地区。 国道165号線にそって小波田の里があります。里をとりまくゆるやかな山、近くを流れる一筋の小川をはさんで、田や畑が広がっており、緑の繁った鎮守の森があります。きれいな木立ちに囲まれた坂道を登ると、そこが観阿弥ふるさと公園(福田神社の跡地)です。 この公園は観阿弥の偉大な功績を後世に伝えるため整備されたもので、毎年、11月の第1日曜日には「観阿弥まつり」が行われ、能楽愛好家による仕舞や地元の子ども達による狂言などが演じられています。
関連書籍 観阿弥と世阿弥 (1969年)
観阿弥ふるさと公園 能楽堂と創座の地の記念碑 |
||
![]() ![]() |
||
「観阿弥まつり」の幟 |
福田神社跡にあります |
福田神社跡 |
![]() |
![]() |
![]() |
能舞台 |
献茶、献花 |
|
![]() |
![]() |
|
地元の子ども達による狂言 |
地元の子ども達による狂言 |
創座の地の記念碑 |
![]() |
![]()
|
![]() |
観阿弥銅像 名張市役所 / 観阿弥銅像 近鉄名張駅西口 |
||
![]() |
Kan'ami ("観阿弥") Noh is the birthplace of his wife in Nabari, the first monkey Rakuza (Kanze seat later) built a. Then, under the aegis the 3rd Shogun Ashikaga Yoshimitsu, "Noh" as the flowers in place of the Kyoto became one of the top of the traditional arts. Currently, Nabari Takigi Noh is held once a year, and crowded with many spectators.
Ashikaga Yoshimitsu ("足利 義満", September 25, 1358 - May 31, 1408) was the 3rd shogun of the Ashikaga shogunate who ruled from 1368 to 1394 during the Muromachi period of Japan. Yoshimitsu was the son of the second shogun Ashikaga Yoshiakira.
美旗 美旗古墳群 国の史跡
■美旗古墳群(みはたこふんぐん)は、名張川支流の小波田川上流右岸の標高200mの台地上に、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれています。 畿内的な大型の前方後円墳の造営は4世紀後半に築かれた美旗古墳群の殿塚古墳が最初である。 現存しているのは[馬塚」、「女良塚」、「殿塚」、「毘沙門塚」、「貴人塚」の5基の前方後円墳の他と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、「カブト塚」・「矢羽塚」・「玉塚」などの方墳と円墳の多くは消滅しました。 これらの古墳は上野盆地南部と名張盆地を支配した有力者が、4〜6世紀にかけて造ったものと考えられています。 5基の古墳の墳形はいずれの古墳も前方部の長さと幅が後円部の直径を超えない帆立貝式古墳である。 伊賀地方で最大規模の古墳群である。
★美旗古墳の伝説(新田・下小波田) ・・・・・馬を埋めた墓を「馬塚」、奥方様を埋めた墓を「女郎塚」、男女の家来たちを埋めた墓を「殿塚」「貴人塚」というてな、持っていた宝物を埋めた所を「玉塚」、持っていた仏の毘沙門天を埋めた所を「毘沙門塚」と呼んでな、今でも伝わっているんじゃ。「小塚」は奥方様の子を埋めた墓ともいわれてるんじゃ・・・・・
■女良塚古墳 殿塚古墳の南西約200mに位置する。全長約100mで、北東―南西方向に主軸をとる。直径約73m、高さ9mの大きな後円部に、幅40m、長さ約30m、高さ約3mの小さくて低い前方部がつく帆立貝式古墳である。墳丘は、後円部三段築成前方部二段築成で、全面を葺石で覆われている。墳丘からは黒班を持つ円筒埴輪や家形埴輪が出土している。
■毘沙門塚古墳は、女郎塚古墳の西約350mに位置する全長約65mの前方後円墳で北東―南西方向に主軸をとる。後円部は大きな盗掘壙が掘られ変形しているが直径約44m、高さ7mを測る。前方部は、先端部幅20m、高さ3mのやや広がりながら延びる小さくて低い前方部がつく帆立貝式の古墳である。埋葬主体部は、後円部の盗掘壙に板石が散乱することから竪穴式石室であったことが考えられる。出土遺物には毘沙門塚古墳出土と伝える長さ176袍、幅23袍、厚さ8袍の木板がある。
■貴人塚古墳は、馬塚古墳の南東約500mに位置する前方後円墳で東西方向に主軸をとる。円筒埴輪や動物型埴輪の脚部などの埴輪と、単脚の三角透孔をもつ無蓋高杯、器台、杯身などの須恵器が出土している。本古墳の築造時期は埴輪や須恵器の編年から6世紀初頭と考えられている。
■赤井塚古墳は、貴人塚古墳の南約1.5kmの丘陵地内に位置する円墳。現存規模は直径22m、高さ8.5mを測るが、周囲が畑の耕作で削られているため本来直径が30m前後あったと考えられる。石室を構築する石材は一辺2m前後の大きな変磨花崗岩で、奥壁と前壁の持ち送りが大きく天井石は2石である。墳丘や石室内からの出土遺物は確認されていない。
美旗中村 どんど焼き
■名張市美旗中村の新年の無病息災などを願って正月飾りなどを燃やす「どんど焼き」。 昔ながらの約17メートルのどんど。 350年以上前から続いています。 頂上にはわらの馬の飾り物もつるされ、竹柱の根元には高さ約2メートル、直径約3.5メートルのかまくら型のわらの台(スツーバ)をつくり、お椀(わん)を伏せたような形になっています。
名張市美旗中村の新年の無病息災などを願って正月飾りなどを燃やす「どんど焼き」 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
準備したどんどの法要 |
点火準備 |
|
![]() |
![]() |
![]() |
どんどの中には、お札やしめ縄がたくさん入ってます |
いよいよ点火 |
|
![]() |
![]() |
![]() |
点火すると一気に燃え広がり、そびえ立った岳柱の塔が倒れるのもあっという間 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
長い竹の串の先に、家から持ってきた餅を刺して残り火で焼きます |
||
![]() |
![]() |
![]() |
★どんどは、正月十五日に(子供たちが、神社の境内などで)書初めや門松・しめなわを焼く行事。どんど焼き。左義長(さぎちょう) 「黒こげの餅見失ふ―かな/犀星」
■
★
注)Wikipediaと美旗古墳群、観阿弥創座の地のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
名張市|美旗・桔梗が丘地区 美旗古墳群、観阿弥創座の地 |
|