三重県写真集|伊賀市 神社・仏閣 その2 猪田神社ほか |
伊賀鉄道 丸山駅と依那古駅
伊賀神戸から伊賀鉄道に乗って、丸山駅と依那古駅の間にある2つある猪田神社を中心に回った。 伊賀鉄道・依那古駅の西約1kmに迫る丘陵尖端の神奈備山状の丘(宮山ともいう)の南東麓に下郡(シモノコホリ)の猪田神社(依那古駅の西南西約800m)が、その北西約550m離れた丘陵北東麓に猪田(イタ)の猪田神社(依那古駅の西約1.2km)が鎮座する。
猪田は木津川の左岸で、支流の矢田川の合流地付近に位置する。古代からの集落で、近くに縄文期から弥生期にかけての遺跡がある。古墳もある。延喜式内社の猪田社がある。この猪田から伊那具にかけての広い水田地帯には、田植えの頃になると白鷲が飛来して棲息し、その風景は趣きがある。
写真はクリックで拡大。 撮影は2020年12月03日です。名張万葉の会で訪問。
ページ内索引 [ 枅川 丸山城跡|枅川 重文 町井家住宅 主屋・書院|才良 くノ一グラウンドと才良廃寺跡|沖 四面石仏|下郡 聖観音堂|下郡 猪田神社|猪田 猪田神社|下郡 依那古駅周辺の風景 ]
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■伊賀鉄道株式会社(Iga Railway Co., Ltd.)は、近畿日本鉄道(近鉄)の子会社で三重県西部を走る伊賀線の運営を行う鉄道会社である。伊賀線は、伊賀上野駅から伊賀神戸駅までを結ぶ伊賀鉄道の鉄道路線である。全線が三重県伊賀市(旧上野市域)にあり、愛称は忍者線。
★伊賀FCくノ一三重(IGA FC KUNOICHI MIE)は、日本の三重県伊賀市を中心に活動する日本女子サッカーリーグに所属する女子サッカークラブ。忍者にゆかりのある伊賀市を本拠地とすることから、「女忍者」を意味する「くノ一」を愛称とする。
★伊賀鉄道と女子サッカー・なでしこリーグ1部の伊賀FCくノ一三重を運営するNPO法人が伊賀線丸山駅(伊賀市才良)の命名権で契約を結び、2020年11月18日に「くノ一グラウンド前」という副駅名を記した駅名標の除幕式があった。
枅川 丸山城跡
■丸山城は、三重県伊賀市枅川(ひじきがわ)周辺にあった日本の城。丸山城は伊賀盆地の中央に位置し、標高180-210mの独立した丘陵に築かれた。城名については、城山が丸い形をしていたことから名づけられている。本城は軍事施設としての大規模な城郭で、比自岐川、木津川が堀として機能を果たし、天然の要害でもあった。また比自岐川の対岸には、滝川三郎兵衛城、嵯峨尾主馬城と呼ばれる小規模城郭が認められる。伊賀国で国司の北畠具教が隠居城として1575年(天正3年)に築城を決め、同地域の土豪を説得、翌1576年(天正4年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。
北畠氏の養子となっていた織田信長の次男・北畠信意(織田信雄)は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を狙っていたが、1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄は同年3月家臣滝川雄利に丸山城の修築を命じた。
これに驚いた伊賀郷士11名が集まり、完成までに攻撃することを決めた。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには伊勢国に敗走した。
翌天正7年(1579年)9月16日、北畠信意は8000兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し北畠信雄軍を伊勢国に敗走させた。第一次天正伊賀の乱と呼ばれている。
■歴史|天正伊賀の乱の索引 [ 天正の乱以前(平安時代に4鬼を使った藤原千方 他)|第一次天正伊賀の乱(百地三太夫,石川五右衛門 他)|第二次天正伊賀の乱(伊賀忍者・服部一族・・・)|その後(忍者の末裔? 観阿弥、芭蕉 他) ] 織田信長と伊賀忍者
枅川 重文 町井家住宅 主屋・書院
■国の重文の町井家は大庄屋を勤めた家で、住宅は主屋と書院からなる。 建築年代は共に明らかではないが、主屋は江戸中期 延享元(1744)、書院は江戸後期
18世紀末-19世紀初と思われる。
建物は南面し、屋根は棟高く、庇のみ本瓦、ほかは桟瓦葺とする。
主屋は、入母屋造の正面に半間の庇を設け、平面は東側三間余が土間で床上部は二列に三室ずつ並び、上手の中央室「おいま」に床・仏壇を設け、書院は主屋の西南隅に繋がる。
町井家住宅 主屋・書院 |
町井家住宅 主屋 |
町井家住宅 書院 |
才良 くノ一グラウンドと才良廃寺跡
■くノ一は徒歩約2分の駅北側にある旧市立丸山中学校の土地と建物の一部を2014年4月から練習場として無償で借り、クラブの全額負担で運動場全体を天然芝化した。
伊賀線の向こう側にある大和から伊賀を通って伊勢に抜ける道筋には、南から白鳳時代の才良廃寺、伊賀郡家に比定される下郡遺跡などがあり、伊賀国庁の南5km
には伊賀国分寺跡(国分僧寺)と長楽山廃寺跡(国分尼寺)が位置し、このルートが伊賀国内の主要な交通路であったことを示している。
くノ一グラウンド |
丸山駅までの間に官寺・才良廃寺(伊賀市才良)があった |
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■吉田谷古墳群は、伊賀市 才良 字吉田谷にあります。 今から1400ほど前、古墳時代後期の遺跡。所在地は、伊賀市立丸山中学校の北東部にある山の中です。 南側に延びる尾根の上にあり、さらに南には
枅川 の集落があります。 周辺には、戦後間もなく調査され、多数の優秀な副葬品と埴輪で全国的に有名となった石山古墳(古墳時代前期初頭)のほか、王塚古墳(古墳時代後期)や財良廃寺もしくは才良廃寺(白鳳時代から鎌倉時代)などの重要な遺跡が数多くあります。 大和から伊賀を通って伊勢に抜ける道筋には南から白鳳時代の才良廃寺、伊賀郡家に比定される下郡遺跡などがあり、伊賀国庁の南5km
には伊賀国分寺跡(国分僧寺)と長楽山廃寺跡(国分尼寺)が位置し、このルートが伊賀国内の主要な街道であったことを示している。
★鳳凰寺廃寺(伊賀市鳳凰寺)、三田廃寺(伊賀市三田)、才良廃寺(ざいりょうはいじ、伊賀市才良)、夏見廃寺(名張市夏見)は共に伊賀地方に造られた白鳳期の官寺です。 伊賀線丸山駅北側に財良寺跡がある。 遺構は検出されず瓦が出土したのみ。 「東大寺要録」に「伊賀国 財良寺 右天武天皇御願」とあり、周辺では唯一の古代寺院。
複弁八弁蓮華文軒丸瓦は、大和・栗原寺(桜井市)、小附廃寺(宇陀市)と同范(同じ鋳型)。 才良廃寺例は、栗原寺例より范傷が増えているが、栗原寺で最も范傷が多いものよりも少ない。 このことから、造営の順序としては栗原寺から才良廃寺の順と考えられる。
沖 四面石仏
■丸山駅から北方に数10分歩くと、沖集落へと左に曲がる道があります。 沖の四面石仏は、三重県伊賀市沖の集落の入口(伊賀鉄道の線路の傍)にあります。 鎌倉時代後期、伊賀市指定文化財。 集落の北端に小石仏が集められた場所があります。その中央で一際異彩を放つのが四面石仏です。 市田進一氏の「伊賀の石仏拓本集」には、『この石仏は岩根磨崖仏と同一作者の可能性があり、徳治元年(1307年、鎌倉時代)頃の作と考える。』とあります。 荒く欠き割っただけの縦長(高さ約1m)の花崗岩の四面に如来型の弥勒、薬師如来、阿弥陀如来の三仏と板型の五輪塔が薄肉彫りされている。
沖の四面石仏 |
沖の四面石仏 |
沖の石仏群 |
下郡 聖観音堂
■沖の四面石仏から伊賀線を渡り、集落を抜けると猪田神社への一本道になります。 その途中で聖観音堂と書いたお堂を見つけました。
聖観音(しょうかんのん)、正観音とも書き、六観音の一尊でもある。観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)像には、さまざまな形態のものがあるが、このうち、多面多臂などの超人間的な姿ではない、1面2臂の像を指して聖観音と称している。 大慈の観音として、六観音の役割では餓鬼道を化益するという。
聖観音堂 / 石造観音立像 |
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これから今回の主目的の2つの猪田神社です。 同じく水を祀りながら、下郡の猪田神社が水分の井堰であるのに対して、猪田の猪田神社は湧水井である。こうしたことから、下郡と猪田の「猪田神社」は同名だが、全く別な縁起をもって成立したものと推定できる。
下郡 猪田神社
■主祭神である猪田神(いだのかみ・別名 武伊賀津別命)は、旧事本紀(くじほんぎ)に「伊賀国造 志賀高穴穂(しがのあなほのみや)朝御代(成務天皇) 垂仁帝皇子意知別命(おちわけのみこと)三世孫 武伊賀都別命(たけいがつわけのみこと) 定賜国造(くにつくり)」とあり第13代
成務天皇の時代に伊賀の国造に任じられた、伊賀臣の祖神である。 その子孫である伊賀臣は伊賀郡(古くは伊賀には伊賀郡・阿拝郡・山田郡・名張郡があった)の郡司として猪田神社前方に集落を形成し郡衙(ぐんが・郡役所)を置き、政治経済の中心地として支配し、神社の森を神奈備の杜として祭祀を行ったのが起源と考えられている。 天正15年(1587)の棟札によると、「始自勧請以来八百四年目仁下遷宮」とあることから延暦3年(784)に、社殿が建てられたことがうかがわれる。
★裏の丘陵から12世紀末の瓦製経塚が発見された。外面の「大日」の文字があり、大日経が納められたと見られる。
★小天狗さんと慕われている小天狗清蔵大徳は、永禄6年(1563)、伊賀市山出の小山屋敷に誕生し、幼名を清蔵と言いました。 幼少の頃から他の子供とは性格や品行を異にし、近くにあった大きな観音堂や山服の密宗勝因寺に遊び、幼少より仏教に関心を持ち、若くして役行者の事績を慕って、近江国飯導寺岩本院に入寺し修験道を修しました。 天正7年(1579)清蔵16歳の時、大峰山修行中に天正伊賀の乱が勃発、2年後には伊賀全土が壊滅、神社仏閣はほとんど焼失しました。 田畑は荒れ、水路も乱れた伊賀の農水路復興に小天狗が戻り、知恵を出し尽力したとも伝えられており、この頃大峰修行と伴に廃墟と化した郷里伊賀の復興を決意した思われます。 寛永9年(1632)、8月29日、山出の勝因寺にて80才で遷化、境内に残る墓碑には「小天狗証果清蔵信徳宥遍」と銘されています。
本能寺の変(1582)が勃発、いわゆる「神君伊賀越え」で伊賀者甲賀者が活躍したのもこの時です。
猪田 猪田神社
■下郡の猪田神社からその北西約550m離れた丘陵北東麓に猪田の猪田神社はあります。
拝殿前に置かれていた参詣の栞には、「猪田神社は伊賀鉄道依那古駅西1.2km、神奈備型の丘の東北麓に西面して鎮座しています。 創立年代は、史実・環境・雰囲気から非常に古い年代であったと思われます。 当所は猪田村の宮と言われていたようですが、天正18年の棟札に住吉大明神と書かれていることから、少なくとも中世以前から住吉神社と言われていたものと思われます。 明治22年、猪田村・山出村・上之庄村・笠部村が合併して猪田村となり、同41年、村内各社を合祀後、猪田神社と改称されました」とある。 社伝によれば、平安時代には『和名抄』の伊賀郡猪田郷の名を承けた郷の総鎮守として猪田村営と呼ばれていた、と伝えている。現存する天正一八年(一五九〇) の棟札には、「住吉大明神」と記載されており、中世以降明治に至る間は、住吉神社と呼称されていた。
北に延びる参道から猪田の「猪田神社」を遠望すると背後の山は均整のとれたコニーデ形であり、神奈備山とされている。さらに、この山中には「日月石」と呼ばれる円形と三角形の花崗岩があり、磐座と考えられている。
下郡 依那古駅周辺の風景
■依那古駅(いなこえき)は、三重県伊賀市沖にある、伊賀鉄道伊賀線の駅。1922年(大正11年)7月18日 - 伊賀鉄道(旧)上野町 - 名張(後の西名張)間延伸時に開業。無人駅。駅舎はホーム西側にあるが、改札口などでの検札は行われない。周囲は田園地帯。若干の民家はある。
同じ格好の家々が並ぶ |
郡橋を渡ると伊那古駅 |
木津川沿いの堤防に桜並木 |
木津川の堤防沿いに伊賀市下郡から上郡まで続く桜並木。
※駐車場は422号線を青山方面に向かって走ると依那古郵便局近くの信号を右折、橋を渡ってすぐ左折するとすぐに河川敷へ下りる坂があるので下りて空いているところへ駐車してください。
★参考にさせていただいたページ Wikipedia |
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三重県写真集|伊賀市 神社・仏閣 その2 猪田神社ほか |