名張市|薦原地区 薦生、短野、下三谷、葛生、家野、八幡、鵜山、田原 山添村(奈良県) |
はじめに
薦原村(こもはらむら)は三重県名賀郡にあった村。現在の名張市の北西端にあたる。1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、薦生村・西田原村・八幡村・鵜山村・家野村・葛尾村の区域をもって名張郡薦原村が発足。1942年(昭和17年)5月5日
- 名張町に編入。同日薦原村廃止。 この地区は、名張川の中流域の両岸の地域で構成されています。
★左岸(西側)では、
・短野は、川沿いから離れた山間部に位置する。 古代から、この地を含む山地は、東大寺の杣(そま)地であった。この杣から切り出された材木は名張川まで運ばれて、筏に組まれ名張川を下り、木津へ運ばれた。
・下三谷は、川沿いの夏秋の山を越えた山間部に位置する。 短野の北隣で東大寺の杣地であった。切り出された木材は名張川まで運ばれた。・薦生(こもお)は名張川中流の支流の小波田川が合流する地点の付近に位置し、集落は名張川の左岸(西側)にある。 この地は合流地を中心とするやや広い平地で、周辺には丘陵地がある。名張川はこの地で左折し、北西に向きを変える。このため、上流寄りの所に流れのよどんだ場所があり、そこで短野や下三谷から運ばれてきた材木を筏に組んだ。
地内の丘陵地には、縄文期から弥生期にかけての遺跡がある。中世の始めには、源有常が築いたと伝えられている薦生城が、峰山にあった。
・葛生(くずお)は山間部に位置する。 この葛生には、伊賀の葛生と大和の葛生とがある。笠間川の東側が伊賀の葛生である。 葛生の地名は、この地に葛(くず)が生い茂っていたことによるとされている。
★右岸(東側)では、
・家野は、伊賀西部山地に続く高台に位置する。名張川は薦生で左折し、北西に向って流れるので、家野は名張川の北側になる。昔は、薦生牧と言われていた。
・八幡(やばた)は丘陵地で、支流の小波田川の左岸にかけて位置する。薦生の南隣である。地内には古墳がある。 八幡の地名については、地内にある八幡社の名にちなむ。
・鵜山(うやま)は山間地で、家野の山を越えた所にある。鵜山も、伊賀の鵜山(東鵜山)と大和の鵜山(西鵜山)とがある。 平安期には、蜷(にな)曵野と言われていた。また、蜷拾(ひろい)野とも書いた。この鵜山の地は沢が多い山間地であるので、蜷の生育に適していた。なお、蛍の幼虫は蜷を食べて生育するので、この地は蛍の繁殖地でもある。
・田原は支流の小波田川の右岸の低い台地に位置する。一部は小波田川の左岸にもある。古代から名張郷の田原であったが、明治22年の町村制施行で薦原村と美旗村が誕生した時に、名張街道の西を西田原、東を東田原として分割した。
★山添村(やまぞえむら)は、奈良県北東部、三重県との県境に位置する村。 名張川の下流が村を通過し、その川に沿って縄文~奈良時代の遺跡が散在する。 それ以降は、低地に人流が移動したのか遺跡は少ない。 またこの辺りは、東大寺の板蠅杣の地域で、名張との関連が強い。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページの索引 [ 薦生道|中山神社 明王院|薦生遺跡|薦原地区の昔話|薦原地区の遺跡|大川遺跡(山添) 歴史民俗資料館|岩屋瓦窯跡(山添)|毛原廃寺跡(山添) ]
薦生道
■薦生道 鎌倉初期、文暦元年(1234)具注暦紙背に書かれた『古社記』(春日大社蔵)の一節に、鹿島の神が遠路奈良へ御遷幸の途中、伊賀国名張郡夏身郷の一ノ瀬河(現名張市積田神社の境内を画する名張川の支流)で禊をされた後、同国の「薦生山」に数ケ月滞在され、さらに大和の安倍山(現桜井市)を経て、神護景雲2年(768)奈良の御蓋山頂に鎮座されたと記されている。
また、鎌倉末期の筆写といわれる『春日御社御本地並御託宣記』では、その滞在地を「薦生(こもうの)中山」と明記されていて、明治39年現社名になった根源が窺われる。 以前は春日神社であった。
当社の鎮座地「薦生」は、応和2年(962)の『東大寺文書』にも見える千余年来の土地柄であり、その立地点は神社の西北約8キロにある奈良県の神野山(こうのさん)に向かって、県境が突出している口許に位置している。 その神野山頂には武甕槌命の墳墓と伝える王塚が現存することや、「コモウノ」と「コウノ」との音通等を考えるとき、中山神社と神野山との間にはただならぬ関係があったことが窺われる。
薦生 中山神社 明王院
■中山神社 鎌倉初期、文暦元年(1234)具注暦紙背に書かれた『古社記』(春日大社蔵)の一節に、鹿島の神が遠路奈良へ御遷幸の途中、伊賀国名張郡夏身郷の一ノ瀬河(現名張市積田神社の境内を画する名張川の支流)で禊をされた後、同国の「薦生山」に数ケ月滞在され、さらに大和の安倍山(現桜井市)を経て、神護景雲2年(768)奈良の御蓋山頂に鎮座されたと記されている。また、鎌倉末期の筆写といわれる『春日御社御本地並御託宣記』では、その滞在地を「薦生(こもうの)中山」と明記されていて、明治39年現社名になった根源が窺われる。以前は春日神社であった。
当社の鎮座地「薦生」は、応和2年(962)の『東大寺文書』にも見える千余年来の土地柄であり、その立地点は神社の西北約8キロにある奈良県の神野山(こうのさん)に向かって、県境が突出している口許に位置している。その神野山頂には武甕槌命の墳墓と伝える王塚が現存することや、「コモウノ」と「コウノ」との音通等を考えるとき、中山神社と神野山との間にはただならぬ関係があったことが窺われる。 天正の乱で筒井順慶軍に焼かれましたが、慶長9年(1604年)8月21日再建の棟札が残っております。 境内には鹿の像が散見される。 2021.07.21
中山神社 鳥居・拝殿 |
中山神社 由緒 |
中山神社 拝殿 |
中山神社 大灯籠 |
中山神社 境内 |
中山神社 石碑 |
中山神社 本殿 |
中山神社 本殿 |
中山神社 本殿 |
★中山神社 由緒書き
人皇第四十八代称徳天皇御宇、常陸国鹿島宮かしまぐう御神霊武甕槌命、大和国奈良三笠山に御遷座のため神護景雲元年丁未正月十六日(皇歴七百六十七年)出御途次夏見郷積田の宮より同年十二月七日薦生中山の里に渡御 翌年春まで此之地に御滞在し給ふ御垂跡地也
往古は中山春日神社と称して郷の惣社なり(薦生、八幡、西田原、鵜山、家野、葛尾、下三谷)中古より春日神社と称し来たりしを明治三十九年中山神社と改称す
■真言宗醍醐派 中山 明王院は、隣接して中山神社が鎮座しています。伊賀四国八十八箇所霊場巡礼の第五十九番札所です。
『真言宗寺院で構成され、弘法大師が伊勢神宮へ参拝するとき、通ったとされる路を中心にして、約70里(280km)の行程に霊場は広がっている。』ということです
薦生 薦生遺跡
■薦生遺跡(薦生字崎切・刈山) 遺跡の概要 名張川が名張盆地を過ぎ、大和高原の山峡へと流れ出る大きく蛇行する所が薦生である。 舌状に広がるこの場所は、伊賀より大和への陸路の要衝であるとともに、名張川を用いた水運の要衝でもある。 下流には、縄文早期の標識遺跡である奈良県山添村の大川(おおこ)遺跡や広瀬遺跡など縄文遺跡が川沿いの微高地に散在する。
集落の北側一帯の畑から縄文土器や石器が採集されている。桑や茶畑であった所は、深く耕作されるため石鏃がよく採集される。石鏃は凹基の無茎石鏃で縄文後期のものと考えられる。すぐ下流の広瀬遺跡は、縄文時代中期末から後期の集落であり、上流の下川原遺跡は後期中頃の集落であることから、ほぼ同時期の遺跡と考えている。名張川の川原からは、旧石器ではないかといわれる石器が採集されているが、当該時期であるかは疑問である。
中世には、薦生の牧として文献にあらわれ、在地武士団の存在などが分かっているが、現集落と重複するように瓦器椀や陶器片が台地全面に広く散布している。
薦生遺跡 薦生字刈山・崎切 縄文~平安 縄文土器、弥生土器、須恵器瓦器、サヌカイト
三重県名張市薦生の県道上笠間八幡名張線の改良工事に伴い5月から県埋蔵文化財センターが約1400平方メートルにわたって発掘調査を進めている「薦生遺跡」。 |
||
三重県名張市薦生の県道上笠間八幡名張線の改良工事に伴い5月から県埋蔵文化財センターが約1400平方メートルにわたって発掘調査を進めている「薦生遺跡」 2021.07.21 |
||
★2021年7月19日
三重県名張市薦生の名張川左岸の段丘上にある縄文から中世の遺跡「薦生遺跡」の発掘調査で、県埋蔵文化財センターは7月19日、約1300年前の奈良時代の役所とみられる大型掘立柱建物跡などを確認したと発表した。
同センターによると、発掘調査で見つかった奈良時代のものとみられる掘立柱建物跡は4棟で、いずれも柱穴が一辺約1メートルから1・2メートルと大きなもの。時代は、周辺から出土した土器や柱穴の大きさなどから判断した。
「薦生遺跡」の発掘調査 出土品 (奈良~平安) 2021.07.31 |
||
今回発掘現場の全容 |
平安末~鎌倉 柱穴 |
平安末~鎌倉 柱穴 |
平安末~鎌倉 |
奈良時代 掘立柱建物 |
奈良時代 掘立柱建物 |
★2021年7月31日 現地説明会 奈良時代の掘立柱建物は少なくとも5棟ある。(建物1~5)
このうちの建物1は官衙(かんが、主に古代の政庁である国衙や郡衙を指す)に用いられる長舎(ちょうしゃ、桁行の長い官衙特有の建物)という形式の建物とみられ、東西10間(約30m)・南北2間以上(6m以上)の大きさが推定されます。 今のところ、墨書土器などの文字資料が出ていないため、施設の名前や役割はわかっていません。
青いロープが奈良時代の遺構、ピンクのテープが平安末~鎌倉の遺構を示す。
薦生の渡し場(薦生)
■昔話 薦生の渡し場(薦生) 薦生から西田原方面へ向かって名張川を渡るとき、りっぱなコンクリートの「薦生橋」がかかっていますやろ。 昔は、ここに渡し場があってな、船に乗って渡らなあかんかったそうや。東大寺の文書にもな、天喜二年(1054)「薦生の渡瀬」という記録も残っていて古くから渡し場があったようなんですわ。・・・(略)・・・
薦生橋から北西方面を臨む 名張川 左に薦生遺跡 |
小波田川(合流地点) |
|
小波田川は薦生橋付近で名張川に合流する |
★昔話 唐琴の里(八幡) 八幡の地は、昔「唐琴の里」または「賀羅坤土の里」といわれておりましたんやわ。 神功皇后が三韓征伐の時に、手に入れて持ち帰った唐琴を「出雲国造」がご神体として、この八幡にまつったと伝えられています。・・・(略)・・・
★昔話 有綱の碑(薦生) 昭和の初めやったな。わしの家に、古い大きな木がありましたんや。ある日じゃまになったでな、取り除こうとして掘ったんや。すると、ぽっかりあいた穴の底に思いもかけぬものがありましたのや。
こびりついている土を井戸水で洗い落とすとな、表面に「神源有綱」とはっきり読みとれる文字が刻んである石碑やったのや。最初は無縁さんの所へまつるつもりやったが、予野(上野市)のあるお坊さんがこの碑を見てな、「このあたりでナギナタを持った女たちが倒れているようじゃ。有綱はんは、人目につかん場所にそっとしまってくれと言ってるがな。これから、毎日欠かさず水と線香一本を供えてやりなはれ。」・・・(略)・・・
★薦生は源有綱が自害をした地と伝承されています。 有綱は源義経の娘むこ、頼政の孫で、義経が兄頼朝に追われ、重臣だった有綱も同じ目に会いました。 有綱は吉野から山辺(奈良県・榛原町)に逃れましたが、ここでも頼朝の追討を受け、祖父頼政の領地である薦生の地へ山伝いに逃げて来ました。 薦生には源氏の一党である武田氏が住んでいましたので、ここでしばらくかくまわれていたのです。
ところが、頼朝の命を受けた伊賀の服部六郎時定が軍勢を引きつれて、有綱の立てこもる薦生の山城を攻撃しました。 有綱は勇猛果敢な武将らしく戦いましたが、多勢に無勢。嫡子の有宗に六人の家来をつけて乳母の弟である予野の萱左衛門もとに預けたあと山城で自刃して果ててしまいました。 文治二年(1186
年)六月十六日のことといわれています。
予野の地を無事逃れた嫡子有宗の家系は、為盛→景守→元成→清次と続き、清次は郷土が誇る「能」の大成者である観阿弥となりました。 また、有綱には有宗ら四人の子供がいて、次女は名張・柏原(天正伊賀の乱、の最終決戦地)の城主である滝野上野介の妻になったと伝えられています。
源 有綱(みなもと の ありつな)は、平安時代末期の武将。伊豆守源仲綱の次男。大内守護源頼政の孫。・・・頼朝の弟である源義経の与力に組み込まれる。義経と別れ、有綱は郎党と共に大和国宇陀郡に潜伏するが、文治2年(1186年)6月16日、義経の残党を捜索していた北条時定の手勢に発見され、合戦の末に敗北し深山に入って自害した。
薦原地区の遺跡
★下広遺跡 八幡字下広 鎌倉 範 囲140m×80m、柱穴、土師器、瓦器、陶器、土錘
昭和54年度発掘調査
★庄田中世墓 薦生字庄田 鎌倉~室町 範囲50m×25m 土師器、須恵器、瀬戸焼、
伊賀焼、信楽焼、瓦、人骨
★一本杉遺跡 西田原字一本杉 縄文~室町 範囲6500㎡、竪穴住居3棟、溝、柱穴、
土師器、須恵器、瓦器、天目茶椀、石鏃、砥石 昭和54年度県発掘調査
★大西谷城跡 西田原字大西谷 室町 範囲80m×80m 瓦片 平成9年度市発掘調査
★峰山城跡 薦生字掛 鎌倉~室町 範 囲275m×325m、連郭式、土塁、空堀、腰曲輪、
井戸あり 通称「峰山」、別称「薦生城跡、有綱城跡、城山」
山添村 大川遺跡 歴史民俗資料館
■大川遺跡(おうこいせき、県史跡指定)は、名張川の河岸段丘上にあって、縄文時代早期(約8000年前)の竪穴住居跡や集石炉、焼土壙が確認されています。 土器は主として早期の押型文土器で、「大川式」として標識資料となっています。 石器は石鏃、石錐、尖頭器状石器など多数出土し、それらの遺物は山添村歴史民俗資料館に展示されています。 出土した石鏃や石錘などの剥片石器は大坂・奈良県境の二上山麓のサヌカイトを、石錘や磨石などは現地の川原石を利用している。 山添村中峰山。 名張川が北西から西へ流れを変える場所。 名前は地元の「おうこ」呼び名から。
同志社大学によって1957年に発掘されたのが初めで、第2次から第7次まで、橿原考古学研究所が行ったとのこと。 出土した縄文土器に特徴があった。 木の棒に模様を刻み、それを土器に転がしたり押し当てたりして、土器に模様を付けた。これを「押型文土器」といい、こちらから出土した土器は「大川(おおこ)式土器」と名付けられた。この大川式土器は畿内の縄文時代早期初頭に位置づけられ、大川遺跡は大川式の標識遺跡として知られています。縄文時代早期の住居址が3棟、土坑が数十基、縄文時代後期の竪穴住居が1基、発掘されている。
■山添村歴史民俗資料館では、奈良県有形文化財に指定された旧春日小学校(現やまぞえ小学校)の旧講堂を活用し、桐山和田遺跡や大川遺跡など縄文時代の遺跡から発見された石器や土器を中心にこれまで山添村で行われた発掘調査の結果をわかりやすく展示しています。
★上底注口付甑は蒸留の為に使われたのか?
■上津大片刈遺跡 : 遅瀬川右岸の小規模な河岸段丘にあって、縄文時代草創期から早期の住居跡や遺物が多数出土しました。土器の多くは押型文土器ですが、近畿地方では初めての瓜型文土器が出土しています。これらの遺跡は、現在ダムの湖底となっていますが歴史民俗資料館等で遺物が展示されています。
山添村 岩屋瓦窯跡 国指定史蹟
■岩屋瓦窯(がよう)は名張市と奈良県山添村の境界点にある。 名張川と笠間川が合流する地点にあり、南から派生した丘陵の北斜面に立地している。 『県道拡張工事の際に発見され、昭和五十三年と昭和六十年に発掘調査が行われた。 その結果燃焼室や焚口(たきぐち)部分はすでに破壊されていたが、焼成室と灰原の一部が存在しており、奈良時代の瓦窯がようの構造が明らかとなった。 焼成室は幅1.5m、奥行きは1.2mまで残っており、全体を平瓦で小口積みにして構築し、壁面はスサ入り粘土で塗り固めてある。 内部は平瓦を積んだロストル式の平窯ひらがまで、焼成室の奥には三本の煙道が設けられていた。 また周辺に複数の瓦窯の存在していることもわかっている。
当瓦窯から出土した軒瓦は、笠間川の上流約3kmにある毛原廃寺跡の伽藍に用いられていたことが確認されているほか、同型の軒瓦は名張市夏見廃寺をはじめとして伊賀の諸寺院からも出土している。 このことから当瓦窯は奈良時代に毛原廃寺跡の創建を契機に築造され、さらにその製品は近隣寺院の整備のためにも用いられたことが明らかになっている。 山添村』 ※ 掲示より
※ロストル式 炉内にかけ渡した数本の金属棒で作られた格子の上に直接載せて焼くという方式である。 「ロストル」とは、食品を焼く網やストーブ等の火床格子を指すオランダ語の「rooster」が語源である。
岩屋瓦窯(がよう)の説明 |
||
岩屋瓦窯(がよう)跡 |
岩屋瓦窯(がよう)跡 |
岩屋瓦窯(がよう)跡 |
岩屋瓦窯 |
岩屋瓦窯 |
※スサとは「粘土に混ぜる藁や草」のことを言います。 塗り壁の漆喰(しっくい)や窯内部の壁を作る際に見られますが、陶器にもスサを混入させているもの(唐津焼など)があります。 漆喰および窯業において、粘土の「つなぎ」として使われました。 |
名張市葛生の平井亭の前を毛原廃寺方面に曲がってすぐ(10~20m)の場所にあります。
※平井亭は、地元の食材・鮎やイワナなど旬の魚が美味い老舗料理旅館 明治29年、名張川のほとりで料理旅館として創業以来、平井亭はおよそ100年にわたり、多くのお客様に愛され続けて
おります。2004年12月に純国産材で改築。山の湧水を使用の貸切檜風呂と手作り料理が好評です。
山添村 毛原廃寺跡
■毛原廃寺跡(山辺郡山添村毛原)は、金堂・塔・中門・南門などに精巧な加工の施された礎石が遺存する奈良時代の寺跡で、大正15年10月20日に史跡指定されている。 昭和54年に追加指定するのは、本廃寺跡の北東約3キロメートル、名張川左岸に接する丘陵斜面にある窯跡で、昭和53年10月、奈良県教育委員会が発掘調査を実施して、出土瓦から毛原廃寺所用瓦を焼成した窯であることが判明したものである。 笠間川ヲ南ニセル山麓ニ在リ造立ノ由緒未明ナラザルモ殘存セル礎石ノ規模及配置遺瓦ノ文樣等ニヨリテ奈良朝時代ノ大寺ノ遺阯トシテ見ルベキモノナリ (文化庁の国指定文化財等データベースより) 名張の弥勒寺の仏像、東大寺の板蠅杣との関連?
※「山辺の御井を見がりて 神風の 伊勢の処女ども 相見つるかも」(万葉集巻一・八十一)―和銅5(712)年に長田王が詠んだこの「山辺の御井」のはっきりとした所在は、いまだ分かっていないが、この毛原廃寺の礎石群の中に伝承として残る「山辺の御井」が本物とすれば、長田王が実際に訪れ、詠んだであろうこの歌の意味が、場所とともに真に心に響くものとして、訪れた人のなかに残るのではないだろうか。
※奈良県山辺郡山添村毛原にある毛原廃寺跡の金堂跡に鎮座している「稲荷神社」がありました。 祀られている稲荷神の名称は解りませんが、鳥居にの扁額にも「稲荷神社」と書かれています。
毛原廃寺「食堂じきどう跡」は別の場所にあるのですが、それだけ境内が広かったと思います。
食堂跡(5間4面)礎石は昭和13年に売却され、行方知れずとなっていたが、昭和47年、7個の礎石が西宮市の黒川古文化財研究所から地元へ寄贈された。
注)Wikipediaと『名張市史』や『なばりの昔話』のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
名張市|薦原地区 薦生、短野、下三谷、葛生、家野、八幡、鵜山、田原 奈良県・山添村 |