天正伊賀の乱について 第一次天正伊賀の乱
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■歴史|天正伊賀の乱の索引 [ 天正の乱以前(平安時代に4鬼を使った藤原千方 他)|第一次天正伊賀の乱(百地三太夫,石川五右衛門 他)|第二次天正伊賀の乱(伊賀忍者・服部一族・・・)|その後(忍者の末裔? 観阿弥、芭蕉 他) ] 織田信長と伊賀忍者
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第一次天正伊賀の乱(1578-1579年)
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■戦国期の伊賀では、北東部東湯舟郷に藤林長門守率いる藤林氏が、南部大和との国境城山(現在の名張市竜口)と東部友生村喰代(ほおじろ)郷に百地丹波守率いる百地氏が、そして中央部予野(現在の伊賀市中心部)に千賀地服部宗家がそれぞれ城塞や砦を構えていた。
■第一次天正伊賀の乱の発端は、伊賀忍者の1人・下山甲斐(比奈知城、名張市)は仲間を裏切り織田信長の次男・信雄(当時は伊勢国の北畠氏の娘を妻とし、伊勢国司)に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し侵略を進言した。 下山甲斐は、天正伊賀の乱の最後となった柏原城主・瀧野の娘を妻としていた。 皮肉と言うか凄く不思議な縁ですね。下山の言葉に乗った信雄は直ちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにした。だが信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまう。
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伊賀流忍者
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下山甲斐の比奈知城跡(名張)
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発端となった下山甲斐の比奈知城跡(名張、民家の後ろの山)
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■下山の言葉に乗った信雄は、天正6年(1578年)、直ちに国境にあった丸山城(伊賀市下神戸)を修築し、侵略の拠点とすることにした。 だがこれに驚いた伊賀郷士11名が集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。 丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に総攻撃を開始した。これにより昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。 翌天正7年(1579年)9月16日、北畠信雄は8000兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し北畠信雄軍を伊賀国から敗走させた。 これが第一次伊賀の乱である。 京にいた織田信長は、「言語道断曲事の次第に候」(信長公記)と激怒した。
当時、信長は御館の乱(*1)や石山本願寺に注視していた時期。 天正8年(1580年 3月5日)勅命により、石山本願寺(現在の大阪城)との講和が成立。
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丸山城(伊賀・神戸)
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■天正6年(1578年)、伊勢の北畠信雄(織田信長の次男)は伊賀侵攻の拠点とするべく神戸の地に丸山城を構築し始めたが、伊賀の地侍・百田藤兵衛らがこれに先制攻撃をかけ、築城奉行の滝川雄利を追放して城を焼き払うという出来事が起きた。
頭に来た信雄は報復の機会を伺っていたが、元々大した武勲もなく織田家中からは蔑視的な視線を向けられていたこともあり、十分な根回しや準備もせず功を焦る余り天正7年(1579年)9月、これを実行に移した。 結果は惨憺たるもので、山岳戦で迎え撃った伊賀勢に大打撃を受け、大半の部下を亡くしてしまう。
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丸山城址の案内
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発端となった織田信雄の丸山城(伊賀・神戸)
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■丸山駅の南東にある小山が丸山城。 本丸から西の丸まで山頂部を全部削平して、堀切、土橋、曲輪が連なっている。
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丸山城跡 案内
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丸山城跡 入口
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丸山城跡 本丸脇
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丸山城跡
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丸山城跡 石標(天守台に建つ)
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丸山城跡 石標裏面
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三角点 212.93m
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■比自岐川(一級河川)の起点は大山田村坂下の北浦。大山田村と上野市の境の山中に発し南西流、上野市高山・摺見(するみ)・比自岐(ひじき)・岡波・枡川(ひじきがわ)の各地区を貫流、近鉄伊賀線丸山駅の南で木津川右岸に注ぐ。
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鳥居の様な石柱が 元文の文字が江戸時代か?
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鳥居の様な石柱の残骸
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比自岐川
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百地氏の城跡(伊賀)
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伊賀市・友生村喰代(ほおじろ)郷の百地丹波守の居城跡
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百地家累代の墓所(青曇禅寺)
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百地丹波守城址の丸形池
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百地丹波守城址の本丸
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百地丹波守城址の石碑
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百地丹波守城址・南虎口
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百地丹波守城址・北東虎口
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百地丹波守城址(青曇禅寺)
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築城年代は定かではないが、藤林氏や服部氏と共に伊賀の上忍だった百地氏によって居城として築かれたことから始まる。その後、天正9年(1581年)に織田軍が伊賀へ侵攻して来ると、百地氏を始めとした伊賀の国人衆は柏原城を中心に籠城して抵抗したが、奮戦空しく落城した。
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百地丹波守城址の遠景
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百地丹波守城址・北東虎口の入口 百地丹波守城址
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百地丹波守城址の由来
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京都女官式部塚の入口
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京都女官式部塚(別名「樒塚」)
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式部塚の多数の鋏やカミソリ
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井戸の跡に建つ式部塚(別名「樒塚」)は、縁切り祈願のお参りが今もあります。多数の鋏やカミソリが今も供えられいる。浮気封じ。
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■喰代の百地砦に伝わる「式部塚(しきみ塚)」伝説によると、百地丹波が北面の武士として禁中の任に就いていた時、式部という女官と懇ろの仲となったのであるが、丹波が任を解かれ伊賀へと帰国すると、後から式部が追い掛けてきた。丹波とは行き違いになり、本妻のいる喰代砦へ先に着いてしまった為、本妻が式部を殺して井戸に投げ込んでしまったということである。
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■百地は、南伊賀を支配し、伊賀喰代・名張竜口・大和竜口に砦を持っていたという。
■第一次天正伊賀の乱では、伊賀忍者の百地丹波守(百地三太夫の叔父)や石川五右衛門が活躍したという伝説が残る。 のちに大盗賊となり京都所司代の前田玄以(げんい)に捕らえられて釜茹での極刑に処せられる石川五右衛門は、百地丹波守の弟子と言われ、忍者の修行の後、百地丹波守の妻と密通したうえ、妾を殺害して逃亡したと伝わる。
■石川五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代に出没した盗賊。文禄3年に豊臣秀吉所持の千鳥の香炉を盗もうとして捕らえられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。 出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地丹波の弟子という説もある。 従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記からその存在が確定した。 切手や歌舞伎の金爛褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっているが、実際の南禅寺山門は五右衛門の死後30年以上経ったの寛永5年(1628年)の建築である。
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二世 実川延若(楼門五三桐
の石川五右衛門) 歌舞伎
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百地三太夫の生家(名張)
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※名張市・竜口の百地三太夫の屋敷跡の地図
奈良と の県境にある竜口にも百地丹波城があり、喰代の百地丹波が竜口にも砦を構えて いたとも、竜口百地家にも別の丹波守がいたともいわれている。 竜口百地家系図
に百地丹波守正西が出てくるが、これが喰代の百地丹波かどうかは不明。 伊賀の「忍び」、三大上忍とは、服部半蔵、藤林長門守そして、百地三太夫をいい、「賊禁秘誠談」によると、百地三太夫は石川五右衛門の師匠となっている。 三太夫の名は史実には登場しないが、創作とはいえないと思う。 三太夫が生まれ育ったという名張の竜口が伊賀猿楽の本拠地で、屋敷の南側にある白山神社の棟札には十人の太夫衆の名があり「太夫」の名が多いことから言える。 また、竜口は大和と伊賀があり、元々一つの集落でK田の悪党で有名な大江一族です。 現在は百地三太夫博物館になっています。
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名張市・竜口にある伊賀流忍術・百地三太夫の生家
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百地三太夫の生家の
立派な門構え
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名張・竜口の白山神社
鳥居と拝殿
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百地三太夫の生家の
立派な門構えの表札
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名張・竜口の白山神社(しらやまじんじゃ):白山神社はこの地の安泰と住民の繁栄を祈念し、平安末期に創建されたと伝えられる。古い棟札では「白山妙理権現」となっているそうです。 現存する最古の棟札は天正9年(1581年)9月のものだそうで、第二次天正伊賀の乱が天正9年9月27日頃であり、その直前の棟札です。 竜口白山神社は兵火に遭わなかったようです。
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井上氏城と辻堂古墳
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三重県伊賀市中村字南ノ浦
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■井上氏城は、中村地区南にある辻堂古墳(市指定文化財)から東正面に見える丘陵先端部を利用して築かれいる。 城の北側にある轟城・前山城・岡島氏城・北坂城と共に相互防衛態勢を敷いていた。 城の縄張りは、方形の主郭部を土塁が囲繞し、北から東側にかけて空堀が築かれている。 さらに、北側には二段の曲輪、南から西側にかけては帯曲輪が配置されていた。井上氏城は、室町時代に井上氏によって築かれた。 天正7年・9年(一次&二次)の天正伊賀の乱の時には井上安氏が居城した。
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辻堂古墳(伊賀)
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・辻堂古墳(伊賀、旧大山田村中村)は6世紀後半の古墳で、ほぼ原型を残している。村指定文化財。
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南嶽山 滝仙寺(なんがくざん りゅうせんじ)
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滝仙寺の境内の石塔
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■南嶽山滝仙寺(なんがくざん りゅうせんじ)は、真言宗豊山派 本尊 阿弥陀如来 住所 〒518-0201 伊賀市滝236 伊賀四国八十八カ所霊場の第19番札所
滝仙寺の開基について『南嶽山滝仙寺縁起』(昭和48年編)は、天正の乱の後、宥海法印によると記しています。それによると天正7年(1579、第1次)北畠信雄が伊賀を攻略しようと国境を越えて攻め入ったとき、滝村の豪族滝三河守保義はこれを迎え撃って榊原まで追い、敵将柘植三郎兵衛の首級を挙げましたが、惜しくもその地で戦死を遂げました。 宥海法印はこの保義の実弟で、早くから仏門に入り、当時、山辺郡山添村の牛ヶ峯岩屋寺で修行を積んでいました。 保義の戦死を知った宥海法印は、急ぎ牛ヶ峯を下りて兄の遺志を継いで故郷を守るため、外敵の再侵略に備えました。 しかし、天正9年(1581、第2次)織田信長の大軍が伊賀に攻め入り、さんざんに討ち滅ぼされ、宥海も牛ヶ峯に難を逃れました。
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滝仙寺の山門
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滝仙寺の石造九重塔
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滝仙寺の本堂
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滝仙寺の双竜の松
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県指定文化財として南北朝期の作とされる総高329センチ、軸部に薬師・阿弥陀・釈迦・弥勒の四方仏が薄肉彫りされた石造九重塔、宥海法印が牛ヶ峯から持ち帰ったと伝える鎌倉時代作の大威徳明王画像があります。また、境内には広葉杉の巨木がそびえ、双竜の松の見事な枝ぶりが前庭いっぱいに広がっています。
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国津の周辺(名張・国津)
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薬師寺(名張市吉原)
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薬師寺(名張市吉原)の本堂
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吉原氏城跡(後方)と
説明の木版(名張市吉原)
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■吉原氏城は、伝承では天仁元年(1108年)に吉原至行が築いたとされます。室町期の吉原氏は北畠氏の家臣であり、天正五年(1577年)には吉原左京亮が北畠家再興を図る北畠具親(北畠具教の弟)に対し、東門院から還俗した具親をこの城に逗留、北畠具親城の築城など支援したとされます。天正九年(1581年)の天正伊賀の乱では、吉原城主吉原次郎を討ち取ったと「信長公記」にあるようです。
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坂屋敷城址(名張市神屋)
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名張市国津のマップ
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※御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康または北条綱成)との間で起こった越後の内乱、お家騒動。 御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のことで、春日山城下に設けられ、後に謙信も政庁として使用した。
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伊賀地域の最北端に位置する旧阿山町の鞆田・玉滝地区は、「伊賀の国」から「近江の国」へ向かう交通の要所であり、また、伊賀忍者の大家である藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)が活躍した地域です。あやまふれあい公園をスタートし、平泉寺から2kmほど歩くと歩くと見えるのが手力神社です。ここでは毎年10月17日の秋季大祭の夜に、伊賀流忍者の狼煙(のろし)だったといわれる花火が打ち上げられます。(伊賀地域で一番遅い奉納花火大会です。) 坂道を上ると、藤林長門守の墓所がある正覚寺に着きます。藤林長門守は、戦国時代に伊賀と甲賀の国境である東湯舟に館を構えて活躍し、服部半蔵、百地丹波と並び称される伊賀流忍者の大家といわれています。その子孫である藤林佐武次保武は、ここで忍術の秘伝書である『萬川集海』を著しています。 正覚寺から少し北にある天神社の境内には、長門守の第4世冨治林正直寄進の石灯が現存しています。石灯の横に立つと、鮮やかに色づいた山々を一望できます。 そこから滋賀県との県境を通る東海自然歩道を歩きます。東・西湯舟地区は谷あいに集落があり、まさしく「忍者の里」と呼べるでしょう。
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忍者(にんじゃ)とは、鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。
忍者、忍術は日本国内各地で集団を形成していた。その中でも伊賀と甲賀は良く知られている。忍者は上忍、中忍、下忍に身分が分かれており、上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配していた。中忍は下忍達を率いる小頭(こがしら)である。甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされていた。実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達だったと言われている。中世にはどの村落も軍事力を備えていたが(江戸時代に武装を必要としない安定を見る(→兵農分離)までは、あらゆる階層が武装していた)、その軍事力は村落の自衛に用いられることもあり、また村落外の勢力に傭兵のように貸す場合もあった。外から連れてきた子供を訓練することもあり、伊賀では脱走者(いわゆる抜け忍)は探し出して処罰したと言う。
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Ninja (Bye for) is the Kamakura period from the Edo period in Japan , the
feudal lords and the lords serve espionage , sabotage , infiltration tactics
, assassinations and the other was going to work, the names of individuals
or groups. The name not only in Japan, well known throughout the world.
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田んぼの向こうに見える上野城(松尾芭蕉)
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上野市の菜の花畑(2010年4月撮影) 見事です
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