名張市|比奈知 奈垣 滝之原 神屋 |
はじめに
この地域は、名張川の上流域で山間部です。ほとんどが伊勢神宮領だった。
※比奈知は、名張川上流の山間部に位置する。この地は、古代から中世にかけて伊勢神宮領の六箇山の一つであった。地内の下比奈知には、延喜武神名帳に記載されている名居社がある。
名前の文献上での初見は承平4年(934年)に夏見郷刀禰が作成した「伊勢太神宮所領地山河四至」である。これはのちの六箇山のこと。 奈垣・布生とともに「比奈知」が出ている。
※・滝之原は、名張川支流の小波田川の上流の山間部に位置する。 古代から中世にかけて、伊勢神宮領の杣(そま)=材木を切り出す山=の地であった。
※奈垣は名張川上流の左岸で、支流の青蓮寺川との間の山間に位置する。 古代から中世にかけては、伊勢神宮領の杣の地であった。
※神屋は名張川上流で、支流の青蓮寺川との間の山間部に位置する。 この地は、古代から中世にかけて伊勢神宮領の杣の地であった。南北朝期後、伊勢の国司の北畠氏が現在の北畠神社辺りに館を築いてから後に開発が進み、砦などが作られた。
※布生は、古代から中世にかけて、伊勢神宮領の杣(そま)の地であった。 この地には国見山がある。標高810bほどで、山頂からは伊賀の国のほか、伊勢の国と大和の国も見えるので、三国山とも呼ばれている。 布生の南隣の伊勢の太郎生には、大洞山がある。室生火山群の一つで、太郎生の御岳とも言われている。この大洞山への入り口にあたる。
※長瀬は、古代から中世にかけては、伊勢神宮領の杣の地であった。
長瀬の地名については川が急流で、川の瀬が長く続いていることによるとされている。
2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2020年11月のものです。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページ内の索引 [ 上比奈知国津神社|市杵島姫神社と磐座|名居(ない)神社|名張市東山ふれあいの森|下山甲斐守城跡|比奈知ダム|滝之原 國津神社 |滝之原 不動寺|八幡神社と若子まつり|滝之原 平照山 龍性院|滝之原 赤岩尾神社|神屋 北畠具親城跡|神屋 薬師寺と吉原氏城跡 ]
比奈知 上比奈知国津神社
■創建由緒等いずれも不明ながら、下比奈知に鎮座する名居神社の分霊が六箇村それぞれに鎮まり、当社はその一つではないかというのが社伝にあります。周辺に同じ「国津神社」が点在しているのがそれに該当するもの。つまり名居神社がそれらの惣社であったようです。ご祭神については国津神の代表として大名牟遅神(オオナムヂ神)が祀られているものかと思います。 明治41年、境内社蛭子・恵比須二社」と区内の市杵島姫神社を合祀したのち、明治43年名居神社に統合された。 現存する最古の棟札は慶長4年、「下山殿」の名が見える。 下山氏は中世の領主的名主から成長した国衆。 戦後の昭和29年、旧社地に社殿を造営し、合祀前の状態に復した。
すぐ隣に市杵島姫神社が鎮座し、原始的な巨石信仰がみられます。 三重県名張市上比奈知81
■お正月6日の夜は、山の神さんの「鍵引き」ということを今もやっている。山の神さんの前に注連縄を掛け渡し、ウツギの枝を引っ掛けて、鍵引き歌を唱えながらその年の豊作を祈念して引き寄せる。山の神さんは女の神さんなので、「鍵引き」は男の人がやることになっている
比奈知 市杵島姫神社と磐座(いわくら)
■市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ) は九州の宗像の神様、市杵島姫命をまつる。海の神、水の神であり、芸能をつかさどる弁天さんとしても親しまれている。市杵島姫神は仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれている。
下比奈知 名居(ない)神社
■名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知) 式内社 伊賀國名張郡 名居神社
名居(ない)神社(三重県名張市下比奈知)は式内社で、かつては「大己貴社」と称された。 江戸時代には國津大明神を祀り、比奈知川に点在する國津神社の惣社であったという。 大己貴命を主祭神に少彦名命、天児屋根命、市杵嶋姫命、事代主命、蛭子命を祀る。 社頭に到るまで細長い参道が続く。社碑には、推古七年に大和地方が中心の大地震があり諸国に地震の神が祭られたが、伊賀では当社がそれであろう、と記してる。「なゐ」とは地震の古語である。 『日本書紀』推古天皇七年・四月二十七日条に「地(なゐ)動(ふ)りて、舎屋(やかす)悉(ことごと)に破(こぼ)れぬ。 則(すなは)ち四方(よも)に令(おほ)せて地震神(なゐのかみ)を祭らしむ」とある。式内社で、このとき祀られた地震神の「なゐ」の名称が残る全国で唯一の神社とも謂う。祭神に天照大神の神名は無いが、倭姫命が足を洗ったという濁池、国津神の大神への御田の献上、大神に鮎を献じたという河川の石碑、神宮領のこの地から神戸の産物供進など、附近には元伊勢に繋がる伝承が散在する。
名居神社の拝殿 |
名居神社の本殿 |
名居神社の拝所 |
名居神社の境内と鳥居 |
名居神社の縁起・由緒碑 |
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※武甕槌命(タケミカヅチ(タケミカヅチオ))は、日本神話に登場する神。『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある。別名
建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。神産みにおいてイザナギがカグツチの首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱。雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。また、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのはフツヌシであると記されている。フツヌシは香取神宮で祀られている神。
下比奈知 名張市東山ふれあいの森
■桔梗が丘南市民センターから東山公園へなだらかな上り坂を進むと東山ふれあいの森がある。 散策を楽しむ憩いの場所として人気の「東山ふれあいの森」(名張市下比奈知)。 ふれあいの森は、約17万平方メートルの広さに松や杉、ナラなどの公有林が植えられている。
三重県名張市下比奈知 名張市東山ふれあいの森
※桔梗が丘南市民センター:桔梗が丘5番町12街区10番地
※板蠅杣(いたばえのそま)は、伊賀国名張郡にあった東大寺領荘園。10世紀中葉,東大寺は寺領板蠅杣(いたばえのそま)の四至を笠間川から名張川まで拡張し,四至外の宇陀・名張両川左岸の山麓地域を領有。
奈垣 下山甲斐守城跡
■名張市奈垣竹之垣内にある下山甲斐守城跡
下山甲斐(しもやま-かい)は生没年不詳ですが、伊賀名張郡の武将です。 第1次天正伊賀の乱、北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。 1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。・・・ 名張市奈垣竹之垣内に、奈垣下山甲斐守城跡と言う比高50mの丘城があり、下山甲斐の本拠だったと考えられます。
第1次天正伊賀の乱 名張市奈垣竹之垣内にある |
発端となった |
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■下山の言葉に乗った信雄は、天正6年(1578年)、直ちに国境にあった丸山城(伊賀市下神戸)を修築し、侵略の拠点とすることにした。 だがこれに驚いた伊賀郷士11名が集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。 丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に総攻撃を開始した。これにより昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。 翌天正7年(1579年)9月16日、北畠信雄は8000兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し北畠信雄軍を伊賀国から敗走させた。 これが第一次伊賀の乱である。 京にいた織田信長は、「言語道断曲事の次第に候」(信長公記)と激怒した。
当時、信長は御館の乱や石山本願寺に注視していた時期。 天正8年(1580年 3月5日)勅命により、石山本願寺(現在の大阪城)との講和が成立。
※御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康または北条綱成)との間で起こった越後の内乱、お家騒動。 御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のことで、春日山城下に設けられ、後に謙信も政庁として使用した。
比奈知 比奈知ダム
■比奈知ダム(ひなち-)は三重県名張市上比奈知、淀川水系木津川左支名張川の上流部に位置するダムで、1998年(平成10年)、ダムは26年の歳月を掛けて完成し、木津川上流ダムとしては最も新しいダムとして本格供用が開始された。「地域に開かれたダム」施策の一環で「地元から集めた鯉のぼり」がダムの上を賑わせた。
滝之原 國津神社
■社伝によれば、延暦年間(七八二-八〇五)に桓武天皇が六六社の国津明神を勧請され、伊賀国の豊穣を祈願された折り祀られたとされている。 また、主祭神の大己貴命は、大和三輪明神の分霊とも伝えている。しかし、当社鎮座地は伊勢神宮の神領であった六箇山一帯にあり、いつしか大己貴神を祀る国津神社として名居神社より各村に分祀された一社であろう。
現存する最古の棟札は慶長17年(1612年)、「大施主清原殿」が書かれている。清原氏は滝之原の代表的な土豪の系統。
■六箇山とは名張川上流の伊勢神宮領のこと。 東限高回河、其河後伊賀郡阿保村主(伊賀市青山),南限大和国水界(奈良県曽爾村、神末),西限粟河在夏見郷夏見村主(名張市夏見),北限大地頭在(名張市小波田)。
滝之原国津神社 御祭神 |
滝之原国津神社 参道 |
滝之原国津神社拝殿 |
滝之原国津神社本殿 |
滝之原国津神社 境内の大きな岩と銘 |
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■天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類。天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、国津神は地(葦原中国)に現れた神々の総称とされている。日本神話において、国津神がニニギを筆頭とする天津神に対して国土(葦原中国)の移譲を受け入れたことを国譲りとして描かれている。これはヤマト王権によって平定された地域の人々(蝦夷、隼人など)が信仰していた神が国津神になったものと考えられる。高天原から天降ったスサノオや、その子孫である大国主などは国津神とされている。
国津神社入口の庚申塚 |
近くの伊賀牛 牧場 |
近くすずらん台 ダム |
■庚申(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。
西暦と皇紀では、60の倍数の年が庚申の年となる。 庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。 庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。
滝之原 不動寺(龍像山 法福寺)
■名張の昔話 尼御前の墓(滝之原):滝之原の東南の山の中ほどに「女王堂」という地名があって「尼御前」をまつったと伝えられている古い五輪塔があるんや。 今から八百年ほど昔の源平時代に、このあたりの土地を所有していた「池禅尼」という女の人がいてな、その人の別の呼び名が尼御前やったんやわ。 平家が衰退した後、各地の平家領は没収されたんやけど、池禅尼とその子供の頼盛の領地だけはそのまま残されたんやて。
それは、頼朝が池禅尼に命を助けられたことがあって恩義にむくいるためだったそうや。 池禅尼の領地は、滝之原を含む「伊賀六箇山」で、古老たちは「アマコウゼン山」と呼び、池禅尼の持っていた山だと言ってますんやわ。 滝之原は、昔から平家の落ち武者が住んでいる村と伝えられていましてな。 「おまと」といわれる古式にのっとった「弓引行事」は、平家の落ち武者が始めたと伝えられています。 毎年一月九日に、上出地区の八人衆と呼ばれている八軒の家だけが代々行ってきたそうで、たしかにその行事の内容は武人の要素があります。 八軒とも平家の家臣で、源氏に追われて逃げて来た所が池禅尼の土地の滝之原。 池禅尼の石塔を建てたのもこの八家だそうです。
今は「若子祭」となった弓引行事。こんな歴史を秘めていますんやなあ。
話・山森雄蔵さん(明治三十六年生まれ) 名張の昔話
不動寺(龍像山 法福寺) |
不動寺(龍像山 法福寺) |
山に分け入ると |
■池禅尼(いけのぜんに、長治元年(1104年)? - 長寛2年(1164年)?)は、平安時代末期の女性。平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。夫が死去すると出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。
※名張寺 『准后伊賀記』に「名張寺。伝教大師開基也。池禅尼逆修石塔有之」とあり、『三国地誌』も『伊水温故』もこれを引用している。池禅尼の逆修石塔があったというのは、禅尼と六箇山郷の関係からして事実と考えられ、名張寺は「大寺」と呼ばれるにふさわしい名刹であった。 滝之原地区は、平家の伝説が多く池禅尼(尼御前)の墓と伝わるものもある。
平安時代の治暦二年(1066)に東大寺文書に「綾瀬、大寺」の名が登場する。
平安時代の文書に黒田荘内寺として、赤目滝・青黄竜寺、箕曲中村・棚広寺と壬生寺、相楽・常楽寺、丈六・丈六寺、矢川・比自岐寺が記載されている。
滝之原 八幡神社の若子まつり
■名張市滝之原の八幡神社に伝わる神事で,1月9日に行われている。若子とは1年間に地区内で生まれた男児と婿入り養子をいい,近年は女児も加わるようになった。無病息災と成長を願って矢を射る正月行事です。行事次第は,コバチョウ(各地区の代表),神事を管理・運営する八人衆代表,区長,神職ら参会者が,若子の父親の給仕で「血盟の杯」を交わし,次にオマトという歩射に移る。 射手は両親が健在の独身男性で,風水害・疫病害・病虫害・悪魔退散・五穀豊穣・健康安全 を祈願して弓射する。 地域の人が「オマト」と呼ぶこの神事は700年以上前から続くとされており、地域の結束を固める意味も含め、大切に受け継がれています。 わざと的を外します。 三重県と名張市の無形文化財。
滝之原 平照山 龍性院
■真言宗豊山派 平照山 龍性院 隣接して鎮座する八幡神社と道路の向こう側の山麓に国津神社が鎮座しています。
木造釈迦如来坐像/市指定文化財(彫刻)は総高三十八cm、坐幅三十cmの小さな一木造幟のぼりの像で、平安時代後期の作です。
真言宗豊山派 平照山 龍性院境内のコウヨウザンは、幹周/3. 90m、樹高/27m。
滝之原 赤岩尾神社
■赤岩尾神社(あかいわおじんじゃ)は、三重県名張市滝之原にあります。 滝之原の集落から南へ4km離れた山間部、切り立った山腹斜面上に赤岩尾神社が鎮座します。 大谷奥山の山麓に鎮座する赤岩尾神社は、岩そのものがご神体((御神体)屏風岩 柱状節理)である。 米俵を積み上げたような岩は、お俵石といわれているが、自然のなす技とはいえ、実に神秘的である。 また、お俵石と屏風岩の下を通りさらに進むと、風穴があり、冷風が吹き出し生命の息吹をじかに感じることができる。
この風穴は藤原千方の城跡の風穴と繋がっていると言われています。 詳細は 天正の乱以前
赤岩尾神社の本殿(?) |
藤原千方城跡→赤岩尾神社に向かう時に、眼下に広がるひなち湖 |
赤岩尾神社の入口の磐に絡む大木と側の岩には磨崖仏 |
赤岩尾神社の社殿 |
赤岩尾神社の拝殿 |
赤岩尾神社の風穴の案内 |
赤岩尾神社の岩岩 |
■名張市滝之原の赤岩尾神社にも確かに風穴がありました。 赤岩尾神社はその名の通り岩をまつる神社。 この岩にまつわる民話として、web上にはすでに貴重な情報があります。 「なばりの昔話 国津・比奈知編 赤岩さんと千方将軍」(サイト「Green Garden」内)は、名張高校郷土研究部が名張の民話の聞き取りを行ない1980年に編集した『なばりの昔話』に基づいているといいます。 雰囲気が千方明神(千方窟)に似ている。 千方窟も赤岩尾神社も写真がぶれるほどの凄いパワーを感じます。 地元の超強力なパワースポットです。柱状節理の造形。 |
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藤原千方将軍伝説によると、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼という四鬼の怪人を従えたそうです。どんな武器も弾き返してしまう鋼のように堅固な体を持つ「金鬼」、強風を繰り出し敵を吹き飛ばす「風鬼」、如何なる場所でも水を操り洪水を起こして敵を溺れさせる「水鬼」、姿を消し、気配を消して敵に突如襲いかかる「隠形鬼」、四人の怪人は忍者の原型と考えられています。
藤原千方の関連 赤岩尾神社(あかいわおじんじゃ、名張市滝之原) パワースポット
神屋 北畠具親城跡
この辺りは天正伊賀の乱が色濃く残る場所です。
■北畠具親城は、山頂部に本の丸、北側に三の丸、南側に二の丸、二の丸の東側と南側にも曲輪を配した連郭式の縄張りだ。北畠具親城は、天正5年に北畠具親によて築かれた。 天正4年に伊勢国司北畠具教は、養子信雄(織田信長の次男)に策略により謀殺された。 この事が、具教の弟で奈良興福寺別当東院門主であった具親に伝えられ、具親が還俗してこの地に築城した。 しかし、織田勢に攻められ、北畠具親は安芸へと落ちのびた。 北畠具親城は、国津小学校(城郭体系の要図の場所から県道脇へ移転)の東側正面にある城山一帯に築かれている。
ちょうど小学校前の空き地(県道沿い)に城の案内板が建てられている。
名張市国津のマップ |
北畠具親城跡 |
※北畠 具親(きたばたけ ともちか、生年未詳 - 天正14年6月9日(1586年7月25日))は、戦国時代の武将。北畠具教の実弟。宮内少輔。 伊勢国司の北畠家第7代当主・北畠晴具の三男として生まれた。長兄に 具教(とものり)がいたため、はじめ僧侶となって奈良興福寺東門院院主の地位に。 |
※国津村は、古代においてこの地域はいわゆる神宮六箇山に含まれる地であった。
江戸時代には神屋村・奈垣村・布生村・長瀬村として比奈知郡に属した。
※下山甲斐守城(名張市奈垣) 奈垣の下山甲斐城は名張市奈垣1888番地の東側の比高30mの山稜に築かれている。南側には川が流れていて、渡るのは困難なのであるが、この場所に土橋があり、これを渡って山林内部に入って行けるようになっている。
主郭周辺をしっかりと普請しており、伊賀によくあるタイプの城館となっている。といったことから、名張にある2つの下山甲斐守城のうち、こちらの方が本来の拠点であったものと考えられる。下山甲斐守はもともとはこの土地の領主だったのであろう。
城屋敷城(名張市神屋) 國津神社の北西側にある比高50mほどの山稜に築かれていた。 國津神社の上の山稜から西側に尾根を降って行ったら、尾根の先端近くに堀切が掘られていた。ここからが城域であるらしい。『伊賀の中世城館』は、下山兵庫の居城だったのではないかと推定している。
『勢州軍記』(せいしゅうぐんき)によると、下山甲斐は伊賀守護の仁木氏が滅びたあと、伊賀支配66人衆の1人で、自領が神宮領だったため、北畠具教に仕えると旗頭であったとあります。
1506年には、下山重澄の嫡男・下山重信が下比奈知に「下山甲斐守城」を築城(1573年説もあり)し、3男の下山甲斐守重長が奈垣「下山甲斐守城」を担当したようです。奈垣の城は、下山甲斐守平兵衛の居城とも云われている。
神屋 薬師寺と吉原氏城跡
■吉原口のバス停前で右折します。左前方の丘陵が城跡です。川を渡って200m先、右手が薬師寺で、左手に駐車場があり、ここに説明板があります。 真言宗醍醐派 薬師寺の由緒や謂れ等は解りませんが、道路を挟んで「吉原氏城跡」という説明板があります。
※真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは)は、日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。総本山は醍醐寺。修験道の一派、当山派の中心でもある。
宗祖 弘法大師(空海)/ 派祖 理源大師(聖宝) / 中興 義演准后
注)Wikipedia、名張市史、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
名張市|比奈知 国津 奈垣 滝之原 神屋 |