Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 名張ノスタルジー|天正伊賀の乱 プロローグ 山に囲まれた静かな町の伊賀地域(現在の伊賀市&名張市)にも、戦乱に巻き込まれた苦い歴史が 平安時代には忍者のはしり・藤原千方が4鬼を引き連れて、朝廷にはむかったとの伝説も残っています。 伊賀流忍者と織田信長の戦、甲賀流忍者も掲載。

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名張ノスタルジー|天正伊賀の乱(伊賀流忍者と織田信長の戦い)について  プロローグ

 名張ノスタルジー|天正伊賀の乱です。 山に囲まれた静かな町の伊賀地域(現在の伊賀市&名張市)にも、戦乱に巻き込まれた苦い歴史がありました。 皆さんは既に伊賀流忍者の町としてご存知だと思います。 伊賀は俳句の松尾芭蕉で有名で、名張は能の世阿弥や黒田の悪党で有名です。 2人とも伊賀忍者の末裔と言われています。 天正伊賀の乱は、織田信長親子が起こした事件で、お陰で伊賀の古い神社仏閣などは全て焼き払われました。

 権力志向の親子らしく、凄惨なものだったようです。 織田親子は伊賀忍者(NINJA)のみならず伊賀の全ての根絶やしを狙った。 その行為は非情の一言で、最初はゲリラ戦法で忍者群(伊賀地侍衆)が勝利したが、最後は巨大な力の前に伊賀地域(伊賀市、名張市)は壊滅した。 伊賀流忍者とは、甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の1つで、組織は今の三重県伊賀市と名張市にありました。 忍者は普段は農業をしたり行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き工作活動に励んだそうです。 内容は作成に当たりウィキペディアと「伊賀惣国一揆と天正伊賀の乱」さんを参考にさせていただいております。 また地元では有りますが、歴史に疎い面もあります。 ご容赦下さい。 ご指摘などアドバイスをお待ちしてます。

ご注意)画像の無断転用はお断りします。

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天正伊賀の乱について  プロローグ  伊賀地域の風土と忍者の祖・藤原千方

■歴史|天正伊賀の乱の索引 [ 天正の乱以前(平安時代に4鬼を使った藤原千方 他)|第一次天正伊賀の乱(百地三太夫,石川五右衛門 他)|第二次天正伊賀の乱(伊賀忍者・服部一族・・・)と甲賀攻め|その後(忍者の末裔? 観阿弥、芭蕉 他) ] と甲賀攻め

■伊賀の国名の由来について古く当国を領した猿田彦命の女吾娥津姫命にちなみ、吾娥が伊賀に転訛したという説、成務天皇の代に霊仁天皇の子の曾孫武伊賀都別命を伊賀国造に任じたという「国造本紀」に拠る説、『日本書紀』宣化天皇2年に見える伊賀臣の居住地であったことにちなむという説、地勢にちなむ巌・怒や栗の伊賀の語に起源するという説、アイヌ後のイカ(山を越えるの意)に語源を求める説など諸説がある。 伊賀の名の初見は『古事記』では、安寧天皇の条で師木津日子命の2子の中「一人は伊賀の須知、那婆理、三野の三稲置の祖なり」という。この3か所はいずれも現在の名張市で、東国への要路にあたり、朝廷の直轄領として早くから開けていたことを示す。『日本書紀』では孝元天皇の条に天皇の長子大彦命は阿部臣・阿閇臣・伊賀臣など7族の始祖と記すが、この三氏はともに伊賀国の古代豪族である。 孝徳天皇のとき伊勢国に併合されたが、天武天皇9年(680) 『扶桑略記』に「伊勢四郡を割いて伊賀国を建つ」とあるように改めて分立した。(『角川地名大辞典・三重県』より)

天正伊賀の乱の背景(古墳時代〜室町時代)

古くは吉隠(よなばり)と呼ばれた名賀の国。伊勢に下る大津皇子も、上京の大来皇女も、阿騎野でかぎろひを詠んだ人麿も、伊勢三河に向かった黒人も、その他数えきれぬほどの万葉人が、あるいは歎き悲しみ、あるいは喜びはずんで、この地を踏み歩んだにちがいない。

古墳〜奈良時代の伊賀

城之越遺跡(伊賀)

・城之越と書いて「じょのこし」と読む。 古墳時代前期に造られた大溝が保存されてる。大型掘立柱建物跡も発見されており,古代の庭園らしいが,むしろ大溝が重要で,古代の政(まつりごと)行った場である。今も地下からわき出してる水に祈りを捧げたと考えられてる。近くの伊賀市才良には全長120mの前方後円墳である石山古墳がある。 美旗古墳群のある地域からこの辺り一帯を力のある豪族が支配してたことがわかる。 大溝の写真の手前が水が湧き出てる所。

伊賀市神戸・城之越遺跡の大溝

城之越遺跡他からの出土品(弥生時代、古墳時代から) 鏃、土器、鎧や兜

美旗古墳群
(みはたこふんぐん、名張)

■美旗古墳群 名張市内最古の遺物は一万年前の石器ですが、名張川の南岸、下川原遺跡からは縄文時代後期の集落が発見され、たくさんの土器とともに、東国の住居スタイルの柄鏡形住居も見つかってます。名張は古くから大和文化が流入し、各地に数多くの遺跡などが残ってます。

史跡・馬塚の石碑とお地蔵様

名張川支流の小波田川上流右岸の標高200mの台地上に、伊賀地方で最大規模の古墳群があります。現存してるのは、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、「カブト塚」・「矢羽塚」・「玉塚」などの方墳と円墳の多くは消滅しました。 これらの古墳は地域を支配した有力者が、4〜6世紀にかけて造ったものと考えられてます。 「小塚」「毘沙門塚」「女郎塚」など、大小7基の古墳が点在しており、とりわけ「馬塚」は、美旗古墳群の中で最も大きな前方後円墳です。全長142m、後円部直径98m、前方部幅は100m、墳丘の全面は葺石(高塚の盛り土の丘を覆う石塊で、川原石や山石などが用いられる)で覆われてます。前方と後円の接合部両側に造出があり、まわりに幅7mから広いところで25mの周濠が見られます。

馬塚 後円墳の頂上
より美旗駅や街並みを臨む

美旗古墳群の馬塚の陪塚
方墳小塚古墳

美旗古墳群の地図

美旗古墳群 
女良塚(じょろうづか)

夏見廃寺(名張)
(なつみはいじ)



(参考文献)
夏見廃寺 (1981年)

夏見廃寺―第1次発掘調査概要 (1985年)

■夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されてます。 醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女(おおくのひめみこ、天武天皇の皇女)、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇(天武天皇)のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。 もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられてます。 天智天皇の子、大友皇子と天皇の弟、大海人皇子(天武天皇)の間に、 皇位継承をめぐって壬申の乱(672年6月)が起こり、大海人皇子が吉野で秘かに挙兵し、美濃国不破関に向かう途中、夜半に名張に着きます。  駅家に立ち寄り「天皇、東国に入ります」と告げますが、これが、これまでの「大王」が「天皇」と呼ばれた最初であるという説があります。 戦いに勝った大海人皇子は、3か月後に飛鳥に帰りますが、その前夜名張に 一泊してます。往復とも夏見のあたりを通り、名張川を渡ったと思われます。 天武天皇(大海人皇子)にとって出陣と凱旋の地、名張を終生忘れられなかったと思われます。

 

■名張の地は、672年の壬申の乱の際に大海人皇子が何度も通過し宿泊した場所。 夏見廃寺(大来皇女が建てた寺と言われている)は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されています。 

藤原千方(伊賀市高尾)

平安時代の忍者の祖

名張市滝之原の赤岩尾神社

■忍者、忍術の起源は人類の歴史とともに古く遡ることができる。その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる。忍者の文献上の初見は1487年の足利義尚幕府軍対六角氏・甲賀・伊賀連合軍の戦いといわれる。 特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという。なお、戦国時代には、伊賀・甲賀組や紀州根来衆の他に甲斐武田氏の透破、越後上杉氏の鳶加当他、相模北条氏の風間党、奥州伊達氏の黒脛巾組、加賀本願寺の修験、伊勢長島、出雲尼子氏の鉢屋一党など各地方諸文献に草等の忍者らしき記載が有る。

藤原千方 窟伝説地
(ふじわらのちかた、
伊賀市高尾)

■藤原千方(ふじわらのちかた)とは、平安時代に伊勢と伊賀との国ざかいでとても大きな勢力をもっていた豪族・藤原千方将軍が、金鬼(きんき)、風鬼(ふうき)、水鬼(すいき)、隠形鬼(おんぎょうき)という四鬼(よんき)を従えて、朝廷に対して反乱を起こしたとされる地。 忍者発祥の地とも言われる。 様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名。 その話によると、平安時代、時の豪族「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。 どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。 藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる。これを受けた表現が謡曲「拾葉抄田村」や各種の御伽草子に散見される。

「藤原千方と四鬼」の話は、どうやら『太平記』「巻第十六 「日本朝敵事」からの引用で、謡曲「拾葉抄田村」に「伊水温故」から引いてつぎのようにあるという。 「伊賀の国霧生(きりゅう)村三国ヶ嶽に、千方将軍の籠居の旧跡あり。谷は北面十五間、東西八間、門は北向石柱二本有り。長さ一丈、一本は折れたり。村上天皇御宇藤原千方正二位を望みしに、其甲斐なかりければ、是を逆心し、日吉の神輿を取り奉り、彼は山に取籠もる・・・云々」 霧生村とは、現在の三重県伊賀市大字霧生であり、隣接して、大字種生(たなお)、その北に大字川上、大字阿保(あお)と続く。 また、種生について、種とは山陰で砂鉄のことをいい、タタラに砂鉄を入れるとき、種を入れるという。 

藤原千方の城跡の一の鳥居

藤原千方の城跡の入口の絵

藤原千方の城跡には、高尾の村から案内に従い山道を1.4km、登りは車で0.8kmを、残りは徒歩で半端ではない急なのぼり阪を0.6km。1の鳥居と二の鳥居までは画像も少しはハッキリしていますが、以降は相当なブレが出ており、画像は掲載していますがイメージで。また風穴が繋がっている赤岩尾神社の写真に関しては割愛しています。下に見える比奈知湖は綺麗に撮れています。
太平記は軍記物語で、南北朝時代後半(1370年代)成立。 参考文献 『太平記(二)』(日本古典文学大系 岩波書店) 他

藤原千方城跡(窟)・忍者発祥の地の説明文(一の鳥居傍)

藤原千方の城跡は高尾に

藤原千方を討伐にきていた紀朝雄(きのともお)の和歌「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき」により四鬼は退散して、藤原千方は滅ぼされました。

下の藤原千方の城跡及び赤岩尾神社の画像全ては手振れか筆者の畏怖心か何か分かりませんが画像がゆれ、現状程度でお許しを

藤原千方の城跡の大門

藤原千方の城跡の本丸

藤原千方の城跡の厠

藤原千方の城跡の桜井戸跡

藤原千方の城跡の本丸

藤原千方の城跡の風穴、名張滝之原の赤岩尾神社に続くと

「書画五十三駅 近江土山千方之邪法」に描かれている藤原千方の四鬼(画像は 『ウィキペディア(Wikipedia)』 )

■血首井戸(ちこべのいど)は、清流沿いにある池で、千方将軍が討ち取った敵の首を入れたと言われてます。雨乞石(あまごいいし)は、高尾の萬松寺にある別名「卵石」と呼ばれる石には、千方が血首井戸に放りこんだ敵の首の化身との言い伝えがあります。  他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。  また、この四鬼は忍者の原型であるともされる。 白土三平の「忍法秘話」のエピソードに出てくる四鬼は、火鬼、土鬼、水鬼、隠形鬼となっている。

明治5年に澤村屋から売り出された『書画五十三駅』の中の一枚。

千方・逆柳の甌穴 案内

血首井戸(ちこべのいど) 案内

『和名抄』によると阿拝郡6郷・山田郡3郷・伊賀郡6郷・名張郡3郷、田数4,051町1反41歩とある。しかし、奈良に近く木津川水系による水運の便もあったので、古くから寺領が多く、特に東大寺は広大な寺領を有していた。10・11世紀頃『今昔物語集』に猫恐の大夫として記された藤原清廉とその子実遠の所領は山城・大和・伊賀3国にわたっており、伊賀4郡にわたる広大な領地を所領し、特に伊賀・名張両郡においてはその大半に及んでいた。平安中期からは伊勢平氏の勢力が伊賀に及び、平安末期には山田郡平田に本拠を築き、所領を増やしていった。

黄金塚跡:千方が財宝を隠した跡と言われる。

黄金塚跡

相当山を登ると標識が

斗盃ヶ渕:斗盞淵(とさがぶち)

斗盃ヶ渕:斗盞淵(とさがぶち)

いよいよ血首ヶ井戸へ

斗盃ヶ渕:斗盞淵(とさがぶち)とも書く。千方将軍が一斗の酒を注ぐことのできる大杯を洗ったとされる淵。

斗盃ヶ渕:斗盞淵(とさがぶち)とも書く。
千方将軍が一斗の酒を注ぐことのできる大杯を洗ったとされる淵。

途中の柱状節理と清流

旧青山町 文化財

血首ヶ井戸(ちこべのいど)

血首井戸(ちこべのいど)

途中の柱状節理 血首ヶ井戸 血首ヶ井戸

血首井戸(ちこべのいど)または「血首ケ渕」。井戸と言っても清流の一部で甌穴。千方将軍が討ち取った敵の首を入れたといわれる。

藤原千方の関連
   赤岩尾神社
(あかいわおじんじゃ、
名張市滝之原)
地元のパワースポット

赤岩尾神社の本殿(?)
岩が御神体

藤原千方城跡→赤岩尾神社に向かう時に、眼下のひなち湖

赤岩尾神社の入口の磐に絡む大木と右側の岩には磨崖仏

■赤岩尾神社は、三重県名張市滝之原。滝之原の集落から南へ4km離れた山間部、切り立った山腹斜面上に赤岩尾神社が鎮座します。大谷奥山の山麓に鎮座する赤岩尾神社は、岩そのものがご神体である。米俵を積み上げたような岩は、お俵石といわれているが、自然のなす技とはいえ、実に神秘的である。また、お俵石と屏風岩の下を通りさらに進むと、風穴がある。冷風が吹き出し生命の息吹をじかに感じることができる。
この風穴は藤原千方の城跡の風穴と繋がっていると言われています。

赤岩尾神社の社殿

赤岩尾神社の拝殿

赤岩尾神社の風穴の案内

赤岩尾神社の岩岩

■藤原千方の城跡(千方窟)の本丸跡にある千方明神は、宝暦10年(1760)の建立で、藤原千方と若宮明神を祀っています。
■名張市滝之原の赤岩尾神社にも確かに風穴がありました。 赤岩尾神社はその名の通り岩をまつる神社。この岩にまつわる民話として、web上にはすでに貴重な情報があります。 「なばりの昔話 国津・比奈知編 赤岩さんと千方将軍」(サイト「Green Garden」内)は、名張高校郷土研究部が名張の民話の聞き取りを行ない1980年に編集した『なばりの昔話』に基づいているといいます。雰囲気が千方明神(千方窟)に似ている。 千方窟も赤岩尾神社も写真がぶれるほどの凄いパワーを感じます。 地元の超強力なパワースポットです。柱状節理の造形。
■パワースポットの写真と切手 [ 世界日本地元・名張 ]
 

鎌倉時代の伊賀地方

■平家滅亡後も残党の反抗が続いたが、元久元年(1204)平賀朝雅が鎮圧し、以後大内惟信を経て千葉氏が鎌倉末期まで守護を勤め、また、地頭として藤原頼綱が阿拝郡壬生野郷に任ぜられた。しかし、伊勢と同様この地も平家没官領が多く、山田郡の杣は没官領であったが、東大寺再建にあたっていた陳和卿に与えられ、源頼朝は地頭職を停止せしめた。陳和卿は播磨浄土堂に寄進したが、この寺は俊乗坊重源の建立した別所であったから、結局東大寺領になった。このように東大寺領は増大し、幕府勢力の及ばぬ地となった。鎌倉中期から黒田荘では在地地主が東大寺の支配に従わず、いわゆる悪党が発生して東大寺のみならず、朝廷や幕府の手も届かぬものとなり、城を構え、他荘への侵入も行い、一般農民も次第にこれに加担する。鎌倉末期から南北朝期には黒田悪党は禁裏供御人と称して南朝方に味方した。
鎌倉時代から室町時代にかけて、伊賀は小領主が群雄割拠し争っていた。そのため、民は自らを守るためゲリラ戦の技を磨いていった。これが伊賀の本格的な忍者の起こりとされる。 伊賀は古琵琶湖層に由来する粘土質の土壌のため、農耕に苦労する土地柄であった。特に、渇水になると深いヒビが入り水田は壊滅的打撃を受ける。その為、伊賀の者は傭兵として各地に出稼ぎをするようになった。

天正伊賀の乱の背景(戦国時代〜伊賀の乱)

伊賀流忍者(切手2010年) クリックで拡大

■戦国時代、伊賀は伊賀守護・仁木氏の傘下に属しながらも、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い自治共同体が形成されていた。 北東部東湯舟郷に藤林長門守率いる藤林氏が、南部大和との国境城山(現在の名張市竜口)と東部友生村喰代(ほおじろ)郷に百地丹波守率いる百地氏が、そして中央部予野(現在の伊賀市中心部)に千賀地服部宗家がそれぞれ城塞や砦を構えていた。 伊賀の場合、実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く合議を開いても彼らの意見に従うことが多かった。 逆に甲賀は「惣」と呼ばれる自治共同体を形成していたが各々が対等な立場にあった為に多数決の原理を重んじ、「伊賀惣国一揆」の運営ぶりとは対照的であった。 一般的には伊賀と甲賀は互いに相容れない宿敵同士というイメージがあるがこれは誤解であり、1つ山を挟んだ言わば隣人同士で争いあっても何の得も無い。 むしろ伊賀の人々と甲賀の人々は常に協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう約束していた。
■一方、織田信長は、元亀2年(1571年)9月、織田信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。 天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で殺された。 それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。

■天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。 これに対し信長は4月、明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣したが伏兵の襲撃にあって大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。 この頃、越後国の上杉謙信と信長との関係は悪化し、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺(現在の大阪城)と和睦し、信長との対立を明らかにした。 信長は三重の九鬼水軍に命じ、大きな戦艦を造り石山本願寺と対立を深め奔走していた。

黒田の悪党(名張) 大江氏

名張市黒田の風景

■黒田の悪党:黒田荘は東大寺支配の板蠅杣に始まった現名張市の大半を占めた古代、中世の大荘園であった。13世紀後半から14世紀中頃にかけ黒田荘は東大寺荘園支配に反抗する者の拠点となり、その者達を黒田の悪党と呼んだ。「わるもの」という意味ではなく、悪は強者という意味で使われた言葉だ。弘安年間(1278〜88)に活動した黒田の悪党は黒田荘下司の大江氏であった。そして北伊賀の悪党服部氏と共に東大寺に従わず強力な地侍の連合体として成長していき、戦術集団として組織化された忍びの原型が見られる。
写真は現在の名張市黒田の風景。(国道165号線から北を向いて撮影)

名張市 黒田の風景 黒田の悪党

■「大江寺合戦」:「黒田の悪党」と称され、南朝方に加担していた、大江一族が足利北朝軍に攻められ、氏神の「杉谷神社」や、氏寺の大江寺が焼かれた。この大江寺も大江氏の氏寺と伝わり、柏原城主・瀧野十郎吉政も、大江一族の流れを汲むと言う。「梅が丘南5番町47付近」から入るルートが簡単。

豪族 大江氏の氏神・杉谷神社(名張・大屋戸)

杉谷神社境内看板(菅原道真をまつる北野天満宮の縁起絵巻)

菅原道真をまつる北野天満宮の縁起絵巻

杉谷神社「由緒略記」より 〔御 由 緒〕
 当神社は中世名張郡最大の豪族大江氏の氏神として、永延年間に大江朝臣三河守貞基によって始祖である「天之穂日命」を祀る神社として創建せられたと伝えられる。後に鳥羽天皇の御代に至り勅により菅原道真公の霊を勧請し「椙谷天満宮」と尊称された。 始めは大江一族の鎮守社であったが、菅公祭祀以来名張郡三十余郷の惣社となるに至り、明治四年に社格が制定され「郷社」となる。 祭神は天之穂日命のほか二神であったが、明治四十一年に近隣の村社・無格社を合祀し、以来前記の十二神を祀って現在に至っている。 社殿は、天正の兵火で焼失したため慶長十七年に再建せられて現在に及び、桃山風の建物として三重県並びに名張市の有形文化財に指定されている。また、宝蔵する北野天神縁起三巻の絵巻は同の重要美術品・三重県文化財に指定されている。大屋戸天神とも称される。

杉谷神社の鳥居と拝殿

杉谷神社の拝殿

杉谷神社の拝殿前のなで牛

杉谷神社の本殿

不二山 蓮台院 蓮花寺(名張・大屋戸)

不二山 蓮台院 蓮花寺

■蓮花寺の縁起は、平安後期一条天皇の御宇、長保年間(999〜1004)三河守大江貞基が発心して、 天台宗の高僧、恵心僧都に帰依し門弟となって修行、名を寂昭と称してこの寺を建立したのが当山の起源であると伝えられています。 往時は本堂、大師御影堂、護摩堂、文殊堂、三層堂、鐘楼堂などを完備し、12坊寺領140石を有する大寺であったと伝えられています。 建保二年(1214)の記録(東大寺続要録)に「蓮花寺一段」が出ており、この文書には、滝屋寺、安部田寺、水越寺、千福寺、里田寺、持福寺、長福寺、大江寺、長楽寺が記録されていますが、そのほとんどは所在地もわからないまま廃寺となり、蓮花寺だけが今にいたるまで護持されている数少ない古刹です。 このようなことから、当山の創建は平安時代の後期ごろと推定されています。 本尊様は初め両部一対の大日如来でありましたが、のちに長谷型十一面観世音菩薩になりました。旧本尊大日如来の厨子には、「伊勢国名張郡大宿村蓮花寺本尊、奉寄進法主文識房為二世頓証也。並一門悉地成菩提祈処。法主。干時明暦二年(1656)丙申十一月十五日。時の住持誘盛開眼供養也。敬白」とあります。 本尊様が代わった事情は明らかではありませんが、現本尊の十一面観音立像は、藤原末期の作品といわれています。 現在の蓮花寺には新旧本尊様が本堂に安置され、衆生を救い人々の信仰を集めています。境内には同じ大屋戸にあった大江寺から移されたという 天文十七年(1548)銘の五輪塔や小塔が多く残されています。
伊賀四国八十八ヶ所霊場 第56番札所  三重四国八十八ヶ所霊場 第54番札所

杉谷神社の拝殿と紅葉

杉谷神社の拝殿と紅葉 黒田の悪党

国津の周辺(名張・国津)

名張市国津のマップ

北畠具親城跡(名張市奈垣)

■北畠具親城は、山頂部に本の丸、北側に三の丸、南側に二の丸、二の丸の東側と南側にも曲輪を配した連郭式の縄張りだ。北畠具親城は、天正5年に北畠具親によて築かれた。 天正4年に伊勢国司北畠具教は、養子信雄(織田信長の次男)に策略により謀殺された。  この事が、具教の弟で奈良興福寺別当東院門主であった具親に伝えられ、具親が還俗してこの地に築城した。 しかし、織田勢に攻められ、北畠具親は安芸へと落ちのびた。 北畠具親城は、国津小学校(城郭体系の要図の場所から県道脇へ移転)の東側正面にある城山一帯に築かれている。 ちょうど小学校前の空き地(県道沿い)に城の案内板が建てられている。

北畠具親城跡(名張市奈垣)

甲賀流忍者

甲賀流忍者(切手、2009年) クリックで拡大

■甲賀流(こうかりゅう、こうがりゅう)とは、伊賀流と並んで最も有名な流派の忍術であるが、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称で「甲賀流」という名称の流派が存在したのではない。甲賀は本来「こうか」と読み、地名に因る名称であるが、忍術に関してのみ「こうが」との誤読が一般的となっている。 山を一つ隔てた場所に伊賀流が存在する。今の滋賀県甲賀市(こうかし)、湖南市にあった。普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。手妻に優れると評され、忍術の流派の中でも薬の扱いに長けており、その名残として甲賀には今も製薬会社が多い。
室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、足利幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、1487年に将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた。これを「鈎の陣」という。 義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角久頼・高頼父子は直接対決を避けて甲賀城に移動した。そこで義尚は本陣を栗太郡に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角父子は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。 甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」(そう)を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定(合議制)・運営するなどしていた。これはこの時期では全国的に見てもきわめて珍しいことである。 


また、甲賀忍者には、上忍はなく、最高位は中忍である。
有名な甲賀忍者は、鵜飼孫六 、和田惟政 、杉谷善住坊 、多羅尾光俊 、望月与右衛門

甲賀の入口、忍者の掲示板も

甲賀流忍術屋敷 玄関 

甲賀流忍術屋敷 玄関

甲賀流忍術屋敷 忍術の極意

甲賀流忍術屋敷 武器・甲冑

甲賀流忍術屋敷

甲賀流忍術屋敷 案内

甲賀流忍術屋敷 忍者の極意 甲賀流忍術屋敷 武器・甲冑 甲賀流忍術屋敷 甲賀流忍術屋敷 案内

※伊賀市は、2004年(平成16年)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町、阿山町、大山田村、島ヶ原村、名賀郡青山町の6市町村が合併(新設合併)して誕生した市です。

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