名張市|美旗・桔梗が丘地区 国史蹟・美旗古墳群 旧伊賀線(伊賀神戸~西原) |
はじめに
・美旗は古代から小波田野と言われていた原野で、美旗古墳群がある。 また、「美濃原」という地名も非常に古く『古事記』や『日本書紀』にも記述されています。 前方後円墳が築かれている一帯は、『日本書紀』の持統天皇3年(689)の条に「美濃原の禁野(一般人の禁漁区、薬草採取地)」として記述されています。 この美濃原と小波田を合体させたのが美旗。
また、『古事記』の安寧記では、「伊賀須知之稲置、那婆理之稲置、三野之稲置之祖|第三代、安寧天皇(あんねいてんのう)の第三皇子:師木津日子命(しきつひこのみこと)は、二柱の御子(王)を儲け、一人は孫(うまご)いといい、伊賀の須知の稲置(いなき)、那婆理(なばり)の稲置、三野の稲置らの祖です。」とある。
※伊賀須知之稲置 伊勢国名張郡を本拠地とした氏族。『古事記』では安寧記の系譜記事で名が挙げられている。『和名類聚抄』には周知(スチ)の郷名が確認でき、現在の名張郡矢川付近に比定されている。
※那婆理之稲置 伊勢国名張郡を本拠地とした氏族。『古事記』では安寧記の系譜記事で名が挙げられている。『和名類聚抄』には名張の郷名が確認でき、現在の伊賀(名張市の間違いか?)市中村付近に比定されている。四道将軍のひとりである大彦命の後裔を称する名張臣とは別族である。
※三野之稲置 伊賀国伊賀郡を本拠地とした氏族。『古事記』では安寧記の系譜記事に名がみえる。『日本書紀』持統3年(689)8月丙申(16日)条に「身野」が禁猟地に設定されたとあり、宣長以来この「身野」が三野之稲置の本拠地に比定されている。始祖を同じくする伊賀須知之稲置や那婆理之稲置の本拠地は名張郡に比定されており、名張郡と伊賀郡が隣接することを踏まえれば、この説は首肯できるものであろう。「身野」は現在の名張市美旗付近に比定されている。
※稲置 (いなぎ)は、律令制や大化の改新以前の古代の日本にあったとされる地方行政単位、県 (こおり) を治める首長。
参考:國學院大學 古事記学センターウェブサイト、皇学館大ふるさと講座
2020年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2020年11月以前のものです。
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美旗 美旗古墳群 国の史跡
■美旗古墳群(みはたこふんぐん)は、名張川支流の小波田川上流右岸の標高200mの台地上に、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれています。 そこは少し高台で水が引けず、原野であった。 そして、美濃原の禁野となり、一般人が入れない場所だった。 畿内的な大型の前方後円墳の造営は4世紀後半に築かれた美旗古墳群の殿塚古墳が最初である。
現存しているのは[馬塚」、「女良塚」、「殿塚」、「毘沙門塚」、「貴人塚」の5基の前方後円墳の他と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、「カブト塚」・「矢羽塚」・「玉塚」などの方墳と円墳の多くは消滅しました。 これらの古墳は上野盆地南部と名張盆地を支配した有力者が、4~6世紀にかけて造ったものと考えられています。 5基の古墳の墳形はいずれの古墳も前方部の長さと幅が後円部の直径を超えない帆立貝式古墳である。
伊賀地方で最大規模の古墳群である。
古いものから順に、殿塚古墳→女良塚古墳→毘沙門塚古墳→馬塚古墳→貴人塚古墳→赤井塚古墳となる。 前方後円墳の後円は円形の墳墓、前方は祀りが営まれる場所。
※帆立貝式古墳とは前方後円墳の変形型、あるいは円墳に低く短い張り出しがついた形状と言われています。その名の通り、上空から見るとホタテ貝の貝殻に見えます。
※美旗古墳の伝説(新田・下小波田) ・・・・・馬を埋めた墓を「馬塚」、奥方様を埋めた墓を「女郎塚」、男女の家来たちを埋めた墓を「殿塚」「貴人塚」というてな、持っていた宝物を埋めた所を「玉塚」、持っていた仏の毘沙門天を埋めた所を「毘沙門塚」と呼んでな、今でも伝わっているんじゃ。「小塚」は奥方様の子を埋めた墓ともいわれてるんじゃ・・・・・
■女良塚古墳 殿塚古墳の南西約200mに位置する。全長約100mで、北東―南西方向に主軸をとる。 直径約73m、高さ9mの大きな後円部に、幅40m、長さ約30m、高さ約3mの小さくて低い前方部がつく帆立貝式古墳である。 墳丘は、後円部三段築成前方部二段築成で、全面を葺石で覆われている。墳丘からは黒班を持つ円筒埴輪や家形埴輪が出土している。
■赤井塚古墳は、貴人塚古墳の南約1.5kmの丘陵地内に位置する円墳。 現存規模は直径22m、高さ8.5mを測るが、周囲が畑の耕作で削られているため本来直径が30m前後あったと考えられる。 石室を構築する石材は一辺2m前後の大きな変磨花崗岩で、奥壁と前壁の持ち送りが大きく天井石は2石である。 墳丘や石室内からの出土遺物は確認されていない。
■矢羽(やば)塚は、毘沙門塚古墳の東約75mに位置する。 現状は水路や水田、農道で削られ封土の一 部を残すにすぎない、葺石の一部や埴輪片が確認されている。 明治16年(1883)の新田村
地誌取調上申書の毘沙門塚の項に「其東凡五拾間矢羽塚ト称スルモノアリ其形状玉塚ノ如 シ」とあって方墳であったことが推測される。
■ 小塚古墳は、馬塚古墳の東約50mに位置する方墳で、一辺15m、高さ3.5mを測る。 現状は 竹藪となっているが、近年まで畑として耕作されていた。 埋葬施設は不明である。
※古墳群と美波多神社の伊賀方面は崖となっており、40mほど下ったところに伊賀地方がある。 古墳時代は美旗も伊賀郡であり、名張郡とは山(桔梗が丘地域)を隔てていた。 伊賀の地から殿塚古墳を眺めると見上げる台地に古墳がある。 さながら赤目の農地から百合が丘の市民病院を見上げるような感じだったと思われる。 当時、殿塚古墳からは伊賀地方を一望できた。
【文献】『青蓮寺開拓建設事業地域遺跡地図』三重県教育委員会 1970
森 浩一・森川桜男ほか「三重県わき塚古墳の調査」『古代学研究66号』1973
『三重県埋蔵文化財年報 昭和51年度』三重県教育委員会 1977
「〔史料紹介〕名張市貴人塚古墳の出土遺物について」『三重県史研究第14号』三重県 1998
旧伊賀線(上神戸~西原)
■・関西本線の伊賀上野駅と上野町(現在の伊賀市)の中心地を結ぶため、伊賀電気鉄道の前身である伊賀軌道により上野駅連絡所(現在の伊賀上野駅) -
上野町駅(現在の上野市駅)間が1916年に開業したのが始まりである。伊賀上野駅 - 名張駅(後の西名張駅)間が全通したのは1922年である。 伊賀神戸駅
- 西名張駅間は、大阪線と競合するため、1964年10月に廃止された。廃止に際し、中間駅のなかった大阪線の名張駅 - 美旗駅間には桔梗が丘駅が蔵持駅および西原駅の代替として新設された。
廃線跡は美旗新田駅から蔵持駅にかけては農地の区画整理と宅地開発により、一部を除き痕跡が失われたが、蔵持駅跡付近から西名張駅跡までは一般道や農道と化しており、跡をたどることができる。 伊賀線は桔梗が丘駅のすぐ横を通っていたが、この部分は現在、保線基地に転用されており、ここから西原駅にかけての線路跡は県道57号線と森に取り込まれ、確認は困難である。
路線諸元 ①路線距離 16.6 km、②軌間 1,067 mm (狭軌)、③線路数 単線
美旗新田駅 : 現在では、区画整理が行われ駅跡地や周辺は、痕跡をほとんどとどめず、田園地帯となっている。 駅は美旗古墳群の貴人塚周辺にあり、当駅
- 西原駅間の小波田川には、当時使用されていた鉄橋跡が残っている。さらに当駅跡の伊賀神戸側には新田用水路をくぐったトンネルが残っていたが、西名張側の坑口および堀割区間は区画整理の際に埋められ、残っていた伊賀神戸側の坑口も、2013年度に行われたバイパス道路建設工事に伴い消滅した。トンネルから伊賀神戸駅までの廃線跡は、伊賀神戸駅手前で道路工事により消滅した部分があるものの、大部分が農道として残り、近鉄大阪線の車窓からも確認することができる。
その後、西原の美旗市民センターで休憩し名張市立北中学校を左に見ながら、西原の交差点に出て、近鉄大阪線の桔梗が丘駅に向かった。
注)Wikipediaと美旗古墳群のHP、美旗市民大学講座、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
名張市|美旗・桔梗が丘地区 国史蹟・美旗古墳群 旧伊賀線(伊賀神戸~西原) |