三重写真集|一時代を築いた伊勢平氏と呼ばれる集団がいた。 |
三重県 平氏 伊勢平氏
■平氏(たいらうじ、へいし)は、日本の氏族のひとつ。 家紋は揚羽蝶を中心に使用した。 平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流がある。しかし後世に残ったもののほとんどは葛原親王の流れの桓武平氏であり、武家平氏として活躍が知られるのはそのうち高望王流坂東平氏の流れのみである。常陸平氏や伊勢平氏がこれに相当する。
■伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。伊勢平氏の家系は源氏の家人とならず伊勢国に下向し、源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ。その後、伊勢平氏は藤原道長のもとで源頼信らと同様、道長四天王とまでいわれた平維衡以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも河内源氏の風下に立つ存在であった。 しかし、伊勢平氏の棟梁である平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したこともあり、北面武士に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった。平忠盛の死後、平清盛が継ぎ、保元の乱・平治の乱を制し、従一位・太政大臣にまで昇進、「平家(へいけ)」一門の栄華を築き上げる。
2020年11月現在、今は新型コロナウイルス感染症( COVID-19(coronavirus disease 2019))が蔓延している状況です。 掲載の写真は2015年、2016年、2020年11月撮影。
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※ページ内の索引 [ 平氏発祥伝説地(津市)|平家塚(津市・一志)|神石仏群(津市・美杉)|尼御前の墓(名張・滝之原) ]
平氏発祥伝説地(津市)
■平氏発祥伝説地 (説明板より)
三重県指定史跡 時代 平安時代 所有者 津市 指定 昭和14年3月25日
一般に「忠盛塚」と呼ばれるこの地は、正式には「平氏発祥伝説地」といいます。 この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣(えな)を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も残っています。 桓武天皇の曾孫(そうそん)高望王(たかもちおう)を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていました。 しかし、平将門(まさかど)の乱や平忠常(ただつね)の乱以後、東国は源氏の地盤となり、貞盛の子維衡(これひら)の時に伊勢・伊賀を本拠地とするようになり、寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられています。 「平家物語」には、眇(すが)め田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子(へいし)は素甕(すがめ)なり」とはやし、あざけったとあります。 維衡の曾孫正盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の昇殿を許され、平氏繁栄の基礎をつくりました。ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、「尊卑文脈」には維衡の孫貞衡とその子貞清は安濃津三郎、貞清の子清綱は桑名冨津二郎と傍注され、北勢から中勢にかけての勢力伸張がうかがわれます。 貞衡の弟正衡の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたりますが、忠盛の昇殿、清盛の活躍により、伊勢平氏=忠盛と理解されるようになったと考えられます。 そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従となり、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。
津市教育委員会
■梛(なぎ):『平治物語』上「六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事」より一部を現代語訳。
平清盛の留守を狙って起こされた藤原信頼、源義朝らによるクーデター。 熊野詣の途上にあった清盛一行はクーデター鎮圧のために京を目指して引き返すことを決意します。 清盛・重盛は浄衣の上に鎧をお着けになった。 御熊野に頼みを懸ける諸人が挿頭(かざし:草木の花や枝などを髪や冠や笠などに挿したこと。 また、その挿した花や枝)に挿している梛の葉を、射向の袖(いむけのそで:弓を射るときに敵に向ける側の袖。左の袖)に付けた。 熊野詣の途上にあった清盛は、切目王子で梛の枝を手折って左袖に付けて護符とし、熊野権現の加護を祈り、京に引き返しました。
平家塚(津市・一志)
■平家没落後も、その一族が源氏の目をのがれ、各地に潜伏し、帰農した者も多かったと伝えられ、三重県津市一志町波瀬(いちしちょうはぜ)にも平維盛の嫡男六代君(ろくだいぎみ)が住みついたという伝説があります。 六代君が21歳のとき、山羽大監弘平家盛と改め、22歳の時、上出城を築き、家盛が初代城主になったといわれています。
「平家塚」といわれる場所には、第九代照盛、第十代尚盛、第十一代盛房の墓が残されています。 このほか、家盛の御前の墓といわれるものも残されています。
「平家塚」の案内 |
第九代照盛(右)、 |
第十一代盛房(右)の墓 |
■平 家盛(たいら の いえもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の次男。母は正室の宗子(池禅尼)。平清盛の異母弟。同母弟に平頼盛がいる。 家盛は御輿(みこし)に矢を射るなど粗暴な行為で評判を悪くしていた兄・清盛に代わり、周囲の推薦もあり頭領になる可能性が出てきた。だが、持病を押して鳥羽法皇の熊野参詣に随行したところ、帰京の途中に宇治川流域の落合で病状が悪化し、命を落としてしまう。
日神石仏群(津市・美杉)
■日神石仏群(ひかわせきぶつぐん)は、三重県津市美杉町太郎生の小字日神(ひかわ)にある石仏群。阿弥陀如来坐像を中心として仲善寺跡の西方墓地に石仏や梵字を記した石柱が立ち並び、平高清(平六代君)の墓とされる五輪塔もある。 これらは「日神石仏群 附 種子碑ほか」の名称で三重県指定有形文化財(彫刻)に指定されている。
日神石仏群 |
阿弥陀如来坐像 |
日神石仏群 |
阿弥陀如来坐像 |
平家六代君の墓と言われる五輪塔2基が向かい合う |
日神石仏群 |
■日神には平家の落人伝説があり、平高清(平六代君)が日神で隠棲生活を送ったと伝えられている。石仏群の中にある五輪塔のうちの向かい合った2基は六代君の墓として伝わり、平家の残党が供養のために碑などを建立したのではないかと伝承されている。
■平 高清(たいら の たかきよ/平 六代 (たいら の ろくだい)、承安3年(1173年?)-没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての平家一門、僧侶。
父は平維盛。平清盛の曾孫にあたる。母は藤原成親の娘・新大納言局。
尼御前の墓(名張・滝之原)
■名張の昔話 尼御前の墓(滝之原):滝之原の東南の山の中ほどに「女王堂」という地名があって「尼御前」をまつったと伝えられている古い五輪塔があるんや。 今から八百年ほど昔の源平時代に、このあたりの土地を所有していた「池禅尼」という女の人がいてな、その人の別の呼び名が尼御前やったんやわ。 平家が衰退した後、各地の平家領は没収されたんやけど、池禅尼とその子供の頼盛の領地だけはそのまま残されたんやて。 それは、頼朝が池禅尼に命を助けられたことがあって恩義にむくいるためだったそうや。 池禅尼の領地は、滝之原を含む「伊賀六箇山」で、古老たちは「アマコウゼン山」と呼び、池禅尼の持っていた山だと言ってますんやわ。 滝之原は、昔から平家の落ち武者が住んでいる村と伝えられていましてな。 「おまと」といわれる古式にのっとった「弓引行事」は、平家の落ち武者が始めたと伝えられています。 毎年一月九日に、上出地区の八人衆と呼ばれている八軒の家だけが代々行ってきたそうで、たしかにその行事の内容は武人の要素があります。 八軒とも平家の家臣で、源氏に追われて逃げて来た所が池禅尼の土地の滝之原。 池禅尼の石塔を建てたのもこの八家だそうです。 今は「若子祭」となった弓引行事。 こんな歴史を秘めていますんやなあ。 話・山森雄蔵さん(明治三十六年生まれ) 名張の昔話
不動寺(龍像山 法福寺) |
不動寺(龍像山 法福寺) |
山に分け入ると |
■池禅尼(いけのぜんに、長治元年(1104年)? - 長寛2年(1164年)?)は、平安時代末期の女性。平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。 後に崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母となる。父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘。中納言・藤原隆家の後裔。名は宗子。 夫・忠盛が死去すると出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。
平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。 翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。 この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。 また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている。
注)Wikipediaと観光地のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
三重写真集|一時代を築いた伊勢平氏と呼ばれる集団がいた。 |