三重県写真集|伊賀市 神社・仏閣 その3 佐那具周辺 |
伊賀市佐那具(さなぐ)
佐那具は伊賀地方の北部の東寄りで、柘植川下流の左岸(南側)沿いの沖積地に位置する。この地から柘植川右岸(北側)の円徳院や川合にかけては、古墳が多い地域である。 なかでも、北部の柘植川に河合川が合流する地点付近の丘陵上に三重県で最も大きい前方後円墳の御墓山古墳がある。 全長180b余りで、5世紀初め頃築かれたとされているが、誰が葬られているかは定かではない。地元では、大彦命が葬られているとされている。 江戸期には宿場町として栄えた。(伊賀八宿の一つ) 今から150年ほど前の伊賀の大地震の折、家屋の倒壊の他、木津川が流れる峡谷の崖崩れで流路が阻まれて、伊賀地方の北部及び中部の平地は水没した。 佐那具の水田も、長期にわたり、2mほど冠水したままであったと伝えられている。
佐那具の地名は、佐那子とか実古とも書かれた。 佐那具の地名の由来については、百済の佐奈宣氏の一族が渡来し開発を行ったことにちなむとされている。
・円徳院は柘植川の右岸沿いに位置する。河合川沖積地の南部にあたる。川合の南隣。 地内に弥生後期から古墳期にかけての遺跡がある。古墳群がある。近くには、佐那具の地内だが、三重県で最も大きい前方後円墳の御墓山古墳がある。 円徳院の地名は、この地が円徳院の寺領であったことによるとされている。
写真はクリックで拡大。 撮影は2016年〜2021年です。
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■佐那具駅は、三重県伊賀市外山(とやま)にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線の駅である。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 駅舎は加茂方面行ホーム側にあり、亀山方面行ホームへは無蓋跨線橋にて連絡している。
佐那具駅 正面玄関 |
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佐那具駅 無蓋跨線橋 奥が柘植方面、手前が奈良方面 |
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陽夫多神社(やぶたじんじゃ)
■陽夫多神社(やぶたじんじゃ)は、三重県伊賀市馬場にある延喜式内社(小社)。 陽夫多神社は式内社及び国史見在の古社であるが神統は不詳である。 『当陽夫多神社記』によれば「『延喜風土記』は偽書ゆえ確なりと断定し難きも」として、「阿拝郡川合山に神有り薮田明神と号す、武小広国押盾天皇
御宇戊午 国造多賀連之を祭る也 − 祭り奉る所は素戔鳴命也」と云う。 多賀連(たが の むらじ)は近江国多賀においてイザナギ神を祖神とする天孫系の一族であり、イザナギ神の子スサノオ神を祀ったとしても不思議ではない。
『神社覈録』((じんじゃかくろく)は式内社を始めとする古社を考証した書物である。鈴鹿連胤著、全75巻。天保7年(1836年)に起稿され、明治3年(1870年)に完成した。)では陽夫多神を式内社とし、高松神は式外社としている。 近世の『伊水温故』に「高松祇園、延喜式陽夫多社」とあり、『三国地志』に「藪田社・川合社・高松宮、皆同社号なり」とある。 創建は、(伝)宣化天皇3年(538年)?。
※陽夫多神社のある地名の馬場は伊賀地方の北部の柘植川の右岸(北側)で、河合川に鞆田川が合流する地点付近の西側に位置する。この合流地を中心に、南北に沖積平地が広がっている(河合川沖積地)。海抜は150mほどで、250万年前頃に古琵琶湖が北に移動した後も、小さな湖(沼)として残っていた。上古までは沼地であったが、弥生後期頃より開発が始まり、現在は広い水田地帯になっている。 沖積平地の周囲に旧河合村の各集落があり、馬場はその中西部にあたる。
地内に延喜式内社の陽夫多社がある。その宮山の上には古墳がある。陽夫多社は薮田社とも書いた。 高松の神とスサノオの命を祀っていたが、明治期の合祀令により旧河合村の神々を合祀するようになった。 陽夫多社名の由来は不明である。 馬場の地名は、陽夫多社の馬場にちなむとされている。 古くは陽夫多と言われていたと考えられる。
御墓山古墳(みはかやまこふん)
■伊賀市佐那具町、佐那具病院の南、国道25号線 沿いに巨大な森が見えます。 これが、伊賀最大、ひいては三重県最大の古墳、史跡名勝天然記念物 御墓山古墳(みはかやまこふん).です。
文化庁の資料からは、「S45-5-142 御墓山古墳. 本古墳は大正10年3月3日に国の史跡に指定された墳丘長:188メートルの前方後円墳である。 丘尾切断の代表例とされる古墳であるが、既指定地には、丘陵切断部、堀の一部、造り出し等がはいっておらず、周辺に存在する陪塚をも含め追加指定する。」となっています。 墳形と出土した円筒埴輪・形象埴輪・家形埴輪などから5世紀頃(古墳時代中期)の築造と推定される。 仁徳天皇陵(大山古墳)、応神天皇陵(誉田山古墳)と同時期の築造。 伊賀市佐那具町天王下。 後円部 直径:110メートル 高さ:14メートル / 前方部 幅:80メートル 高さ:10メートル。 墳形は奈良の佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と相似形をなす。
御墓山古墳の案内図・説明文 |
国道25号線から見た |
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御墓山古墳の案内・石碑 |
史蹟御墓山古墳の石碑 |
御墓山古墳のすそ野を行く |
丘陵切断部・堀の一部・造出・陪塚の範囲も国の史跡指定 |
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御墓山古墳の前方部 |
御墓山古墳の後円部 |
御墓山古墳の |
■大彦命(伊賀市一之宮の敢國神社祭神)の墓と地元では伝えられる御墓山古墳:
大彦命(おおびこのみこと、生薨年不詳)は古代日本の皇族。 大毘古命とも言う(『古事記』)。孝元天皇の第1皇子で、生母は皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと)。
記紀によれば、崇神天皇10年9月甲午(9日)、勅命により四道将軍の1人として北陸地方に派遣されるが、出陣の道中で不吉な歌を詠う不思議な少女に会ったので、引き返してこのことを報告、倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女。 大彦命のおばに当たる)に占わせたところ、武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反を告げるものと判明し、果たして実際に謀反が起こると、彦国葺と共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛は吉備津彦命が討ってこれを鎮圧したという。 その後、北陸へ赴き、越国の土着の豪族たちを平定して同天皇11年4月己卯(28日)に帰命した。 大和朝廷の基礎を築いたといわれる。その子孫は伊賀国中に広がり、特に伊賀国阿拝郡(あへのこおり)を本拠としたことから「阿拝氏」を称するようになった。 後に阿閉・阿倍・安倍などとも書かれるようになった。よって大彦命は伊賀国の祖神であり、「あべ」姓の氏神であるとされる。
■他の伝承 『日本書紀』雄略天皇18年条には、天皇に命じられた物部菟代宿禰・物部目連が伊賀青墓で守る伊勢朝日郎を討ったと見えるが、この「青墓」を御墓山古墳に比定する説がある。 地理的には、御墓山古墳付近は上野盆地と伊勢・近江との交通を扼する要衝になる。 また朝日郎の矢の威力を物語る内容や、地名の「さなぐ(佐那具)」が「さなぎ(鐸
= 鉄鐸)」を指すと見られることから、古代には一帯で鉄製武器の生産が盛んであった可能性が指摘される。
外山 石仏群と摩崖仏 勘定塚古墳
■石仏群は、佐那具駅から伊賀市外山 天台真盛宗 福仙寺に向かう途中で、左折せずに5〜10mほど行った三叉路の突き当りのところに小さな石仏がたくさん祀られていました。
■摩崖仏は、福仙寺には見当たらず、裏山に行きました。 摩崖仏は見つからず上記石仏群にあったような石塔の破片が散見された。
敢國神社(あえくにじんじゃ)
■敢國神社は南宮山の麓に位置しているが、南宮山は、円融天皇貞元二年(977)、美濃国一宮・南宮大社から、金山媛命を勧請したもの。 小冨士嶽と呼ばれる南宮山には、それ以前から磐座信仰があったと思われ、当社の南400mには、大石明神と呼ばれる黒岩があった。 また、南宮山は、国見山とも呼ばれており、織田信長の伊賀侵攻の折には、信長が南宮山に登り国中の様子を観察したという。 三重県伊賀市にある神社である。式内社、伊賀国一宮で、旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。敢国神社は伊賀国の一ノ宮で、創建は658年と伝えられています。 創建当時は、大彦命と少彦名命の2柱が奉祀されていましたが、319年後の977年(貞元2年)金山比当スが本殿に合祀されました。 大彦命と少彦名命の2柱から現在の3柱に至るには、次のような経緯がありました。 主祭神である大彦命は、西暦350年頃、第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人として、その子・建沼河別命とともに北陸東海を征討する役目を負い、第10代崇神天皇の命を受け、日本の東国の攻略を果たし、以降、伊賀国に駐屯し、事実上の領主となりました。 子孫が伊賀の国中に広がっていったわけですが、阿拝(あえ)郡を中心に居住していたため、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢、阿閉、阿部、安部(あべ)と呼ばれるようになりました。 また、古代、伊賀地方には秦(はた)族が多く居住しており、その秦族が振興していたのが少彦名命で、当時は南宮山頂上付近に祭祀されていましたが、敢国神社創建時に現在地に遷座されました。 南宮山山頂に祭祀されていた少彦名命の社殿が遷座されたことから、新しい神社を創建することになり、美濃国・南宮社の神である金山比当スを勧請することになりました。
■市杵島姫社は、市杵島姫命(イチキシマヒメ(イツキシマヒメとも)は、日本神話に登場する水の神である。『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命と表記、アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約(アマテラスとスサノオの誓約)の際に、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神を宗像三女神という)の一柱である。『古事記』では2番目に生まれた神で、別名が狭依毘売命(さよりびめのみこと)であり、宗像大社(福岡県宗像市)の中津宮に祀られているとしている。『日本書紀』本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、第三の一書では最初に生まれた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫であるとしているする。)を祀っています。神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる。辺津宮は陸上にある宮であり、その意味では、中津宮・沖津宮の祭神とする『記紀』の記述の方が神名の由来に近いことになる。
伊賀国庁跡
■木津川の支流、柘植(つげ)川右岸の段丘上に位置する古代伊賀国府の国庁跡。国府の所在地については、柘植川対岸の沖積地が推定されていたが、三重県埋蔵文化財センターと上野市教育委員会による発掘調査で判明した。
伊賀市坂之下
遺構についてはT期からW期の変遷があり、東西約41m、南北も同程度の掘立柱塀で区画された政庁域の中に、正殿・前殿・脇殿等が配される。主要建物は当初は掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)であるが、V期にあたる10世紀前半から後半にかけて礎石立(そせきだて)建物に建て替えられる。出土した墨書土器(ぼくしょどき)の中に「国厨」と書かれたものがあり、遺跡の所在地に「こくっちょ(国町)」と称する地名が残ることから、検出された建物群は伊賀国府の中枢部分である伊賀国庁を構成するものと考えられる。
このように、伊賀国庁は主要な施設の配置関係がほぼ判明し、遺構の残存状況も良好である。存続時期は8世紀末から11世紀中頃であり、下国(げこく)「伊賀国」の国府中枢である国庁の造営と変遷の実態を良く示すとともに、古代伊賀の政治情勢を示す上でも貴重である。(文化庁 文化遺産オンライン より転載)
伊賀国庁跡 |
伊賀国庁跡 |
佐那具駅 |
★参考にさせていただいたページ Wikipedia 他 |
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三重県写真集|伊賀市 神社・仏閣 その3 佐那具周辺 |