Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 名張ノスタルジー|天正伊賀の乱のその後(第三次天正伊賀の乱、忍者の行方、甲賀攻め)/エピローグ 伊賀流忍者とは、甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の1つで、組織は今の三重県伊賀市と名張市にありました。 江戸時代に入り、奈良の柳生も忍者では有名でした。甲賀流忍術屋敷と水口岡山城跡。

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忍者 伊賀 名張名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について  エピローグ(第三次天正伊賀の乱、甲賀攻め)

 名張ノスタルジー|天正伊賀の乱のその後(第三次天正伊賀の乱、忍者の行方)/エピローグです。 山に囲まれた静かな町の伊賀地域(現在の伊賀市&名張市)にも、戦乱に巻き込まれた苦い歴史がありました。 皆さんは既に伊賀流忍者の町としてご存知だと思います。 伊賀は俳句の松尾芭蕉で有名で、名張は江戸川乱歩や能の世阿弥で有名です。 天正伊賀の乱は、最後は巨大な力の前に伊賀地域(伊賀市、名張市)は壊滅した。 伊賀流忍者とは、甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の1つで、組織は今の三重県伊賀市と名張市にありました。 伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。中でも服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。 司馬遼太郎の『梟の城』(ふくろうのしろ)は、その後の忍者を言い当てています。 忍者列車も有名です。 柳生一族も追加。 内容は作成に当たりウィキペディアと「伊賀惣国一揆と天正伊賀の乱」さんを参考にさせていただいております。


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天正伊賀の乱について  エピローグ(第三次天正伊賀の乱、伊賀忍者と甲賀忍者の行方)

■歴史|天正伊賀の乱の索引 [ 天正の乱以前(平安時代に4鬼を使った藤原千方 他)|第一次天正伊賀の乱(百地三太夫,石川五右衛門 他)|第二次天正伊賀の乱(伊賀忍者・服部一族・・・)と甲賀攻め|その後(忍者の末裔? 観阿弥、芭蕉 他) ] と甲賀攻め

本能寺の変後、潜伏していた伊賀地侍の蜂起があったが平定され、天正11年(1583) 羽柴秀吉から脇坂安治が伊賀上野に封ぜられたが、同13年(1585)摂津国能勢郡に移封、代わって大和国郡山から筒井定次が就封し、上野平楽寺跡に上野城を築城した。 筒井定次は残存する国人衆勢力を一掃することに意を注ぎ、農民支配に当たっては在地勢力を利用せずに大和国から同行させた土豪に当たらせ、勧農とともに過酷な賦役・軍役を課した。しかし、慶長13年(1608)家臣団の暗闘から家臣が行状を家康に訴えたため、酒食と政務荒怠を理由に没収され、かわって伊予国今治から藤堂高虎が当国一円と伊勢国をあわせて22万余国で入封する。伊賀上野には城代が置かれ、当国は以後廃藩時まで藤堂氏の領知(津藩領)となり、高虎は当国を対大坂防備の拠点として位置づけ、同16年(1611)伊賀上野城の修築に着手した。 寛永17年(1640)以後は予野村出身の藤堂采女が任命された。享保年間(1716〜36)頃一時藤堂玄蕃となったが、再び采女家に戻り幕末まで世襲した。(『角川地名大辞典・三重県』より)

その後(第三次天正伊賀の乱、伊賀忍者の行方)

■伊賀の地侍は寿永四年、壇ノ浦で敗走した平家の後裔。 忍者は元々、歴史の影で動く者であるためその動向は不明瞭ですが、他の大名家に仕官したり、個人で活動を続けていた者がいた一方で、その多くは伊賀の山中に潜伏していたようです。 元々伊賀は潜伏に適しているからこそ、忍びの術が発達した地域。 彼らも機会を伺って伊賀の山中に潜んだようです。 そして彼らが再び活動を開始する機会は、ほどなく訪れました。 「本能寺の変」 です。 伊賀にいた 織田家 の守備軍を攻め、再び自治を取り戻そうと戦いを開始、この戦いは 「第三次 天正伊賀の乱」 とも呼ばれています。 その一方で、「本能寺の変」 では伊賀忍者にとってもう1つ大きな出来事がありました。 徳川家康 の 「伊賀越え」 です。 本能寺の変 の際、徳川家康 も京都に招待されており、当日は大阪・堺の街に家臣と共に観光に出かけていました。 そこに信長急死の報が告げられ、明智光秀の追っ手も迫り、兵を率いていなかった家康は孤立無援の状態で窮地に陥ります。 この時、家康 は伊賀の山地を抜けて 本拠地・三河 への脱出を計りますが、彼のお供の一人が 伊賀の 「上忍三家」 である 「服部家」 の末裔、「服部半蔵正成」 でした。 豊臣秀吉の時代も終わり、江戸幕府には伊賀者がつきものはご存知の通り。 忍者と言うと「全身墨染めの黒装束」「その中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っている」「背中に刀」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」という印象で描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。

名張陣屋(なばりじんや)/別名 名張城・藤堂屋敷/形式:館/名張市丸之内/三重県指定史跡/もとは土豪の砦

名張 藤堂家 羽柴秀吉

藤堂家 枯山水

藤堂家 枯山水

名張陣屋は、天正13(1585)年8月、伊賀へ筒井定次が入国すると、筒井家臣・松倉豊後守勝重が旧来の砦の上に新築してこの城を築いた。勝重は天正14(1586)年3月に65歳で病死したため、嫡男・重政が跡を継ぐ。重政は酒色に溺れがちだった主君・筒井定次を諌めたが聞き入れられなかったため(諸説あり)、天正15(1587)年3月に弟・重宗と共に奈良興福寺成自院に入った。重政は後に徳川家康に従って九州島原城主となっている。そして重政の後、桃ヶ谷与次郎国仲が名張城主となったが、慶長13(1608)年に筒井家が改易されると国仲もここを去った。筒井氏の後、伊賀国主となった藤堂高虎は、家臣・梅原勝右衛門武政を名張城主に任命。しかし武政は失政を続けたため、元和3(1617)年に解任された。その後は高虎の異母弟・高清が城主となった。寛永13年正月、丹羽長政の子・藤堂高吉が城主となり、名張藤堂家の初代となる。以後、幕末まで名張藤堂家が続いた。

■観阿弥と芭蕉の忍者説と出自 : 
@観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。 また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。 昭和37年(1962年)、伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。すなわち、観阿弥は楠木正成の甥だったことになる。根拠は特にないが、偽系図などと呼ばれている。 観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していた。
A江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師・松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方(柘植 若しくは伊賀市)の出身者だった。 そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、小説などでも題材に扱われている。 その根拠として、芭蕉の著書奥の細道の記録どおりに旅行したとすると、一日数十キロ歩かなくてはいけない計算になり、普通の47歳ならば体力的に相当無理がある、などがあげられる。 当時の江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎も公儀隠密説が囁かれている。これらの説には決定的な根拠はなく、現状では単なる想像の範疇を出ない。

上野城・高石垣

上野城・天守閣

上野城・高石垣

■上野城は1585年(天正13年) 大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城された。1608年(慶長13年)、徳川家康の命により改易させられた。その後伊予・宇和島から築城の名手とされる藤堂高虎の持ち城(本拠地は伊勢津城)となり、城の大改修が行われた。

慶長13年(1608) 藤堂高虎、伊予から伊勢、伊賀に移封、藩主となる。慶長16年高虎は、伊賀上野城(筒井旧城)大改修、崇敬の念厚く、天満宮の新改築、寄進等に力を注いだが、諸政刷新のためか祭礼の盛儀を中止せられた。

松尾芭蕉と伊賀上野城  伊賀上野城と俳聖殿

天正伊賀の乱後、瀧川雄利、脇坂安治、筒井定次が代わる代わる伊賀国を治め、慶長13(1608)年には徳川家の重臣・藤堂高虎が入封。高虎は伊勢の15万石も治めながら、土豪を服従させるため兵として採用していった。また、元和元(1615)年の大坂夏の陣にあたり、藤堂藩では伊賀者を登用したことでも知られている。

芭蕉や世阿弥に関してはこちらから。
切手は、芭蕉・奥の細道 観阿弥・世阿弥 から。

「秘蔵のくに・伊賀上野」(芭蕉の生誕地・隣町) 切手 伊賀上野城 と芭蕉  

伊賀・上野城の天守閣

伊賀市にある俳聖殿

伊賀・上野城の天守閣 伊賀・上野城の天守閣 俳聖殿

俳聖殿(はいせいでん)は、三重県伊賀市にある松尾芭蕉生誕300年を記念する建物。上野公園(伊賀上野城)内にあり、1942年(昭和17年)に建築家伊東忠太の設計で建設された。2010年に国の重要文化財に指定された。

松尾芭蕉像(伊賀市伊賀支所

観阿弥(かんあみ) 左の写真は、名張市役所にある記念の銅像、
右は名張駅前西口の観阿弥の銅像です 下は創座の地。

松尾芭蕉像(伊賀市伊賀支所 名張 市役所 観阿弥 能 座 名張 駅前 西口 観阿弥 能 座
名張 小波田 観阿弥 能 座 名張 小波田 観阿弥 能 創座 記念碑

■『梟の城』(ふくろうのしろ)は、司馬遼太郎の小説。 織田信長による伊賀侵攻である天正伊賀の乱から10年後、伊賀忍者・葛籠重蔵は隠遁生活を送っていた。仇としていた信長はすでにこの世の人ではなくなり、生きる希望を失っていたが、かつての師匠・下柘植次郎左衛門から、太閤秀吉暗殺の依頼を受ける。 忍者としての生涯を華々しく終えることのみを考えていた重蔵は依頼を引き受け、秀吉暗殺に乗り出す。 堺の豪商・今井宗久のもとへ向かう途中、小萩という、宗久の養女が現れ、二人は通じ、密かに愛し合うようになる。 だが、彼女は重蔵を見張る役目を持ったくノ一だった。重蔵は下柘植次郎左衛門の娘・木さる、黒阿弥らとともに、伊賀を裏切った風間五平らと対決し、秀吉の居城伏見城へ潜入する。 組織のなかで生き、豊臣秀吉の暗殺を狙う葛籠重蔵と、伊賀を捨て、武士として立身出世しようとする風間五平の二人の生き様を描く。また、徳川家康や服部半蔵、石川五右衛門など、実在人物も巧みに配置されている。
映画の1作目は『忍者秘帖 梟の城』 葛籠重蔵:大友柳太朗 小萩:高千穂ひづる 木さる:本間千代子 で、2作目は『梟の城 owl's castle』 葛籠重蔵:中井貴一 小萩:鶴田真由 木さる:葉月里緒菜 で映画化、TVでは石川五右衛門:南原宏治 で放映された。

福地城跡の説明文
天正伊賀の乱(2次)

福地城跡の入口の石碑と
句碑「そばはまだ 花でもてなす 山路かな はせを」

福地城跡の登城石の階段

福地城跡の遠景
「芭蕉翁生誕之地」,

福地城跡の説明文 天正伊賀の乱

「芭蕉翁生誕之地」の碑
(福地城本丸)

福地城跡本丸の芭蕉の句碑 
「古さとや臍の緒に泣くとしの暮 はせを」

本丸北西に井戸が残り、今も水が満々と。(地元出身の横光利一の子供の頃の遊び場 説明)

福地城跡本丸の芭蕉の句碑

「芭蕉翁生誕之地」の碑(本丸) 福地城跡本丸の芭蕉の句碑 福地城跡本丸の芭蕉の句碑

■横光 利一(よこみつ りいち、1898年3月17日 - 1947年12月30日)は、日本の小説家・俳人。菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として活躍した。本名は横光利一(としかず)。1904年から、母の故郷である三重県阿山郡東柘植村(現伊賀市柘植町)に移り、柘植で多感な小学校時代の大半を過ごした。友人に宛てた手紙でも、「やはり故郷と云えば柘植より頭に浮かんで来ません」と記している。
忍者(にんじゃ)とは、鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。
伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて敵の一部を調略してから、信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けた(第二次天正伊賀の乱)。百地丹波以下100名が紀州の根来へと落ち延びたと言われる。
■最近の忍者は、明治になり、徳川幕府から明治新政府へ政権が移ると、警察、日本陸軍、日本海軍が創設され、忍者(江戸時代には隠密、同心、御庭番などの武士)もその役目を終えることになった。活躍できる場を失った彼らはその後、警察関係(警察官)の職業など、新たな職に就いた。
明治末期〜大正年間には立川文庫の作家たちによって、猿飛佐助、霧隠才蔵など忍者ものが創作され人気を博した。映画のトリックで忍術が描かれ、また、戦後の1950年代後半より、小説や時代劇、劇画などに忍者が多く取り上げられるようになり、忍者は再び日本人の間で広く認知されるようになった。

その後(甲賀攻めと甲賀者の行方)

■甲賀流(こうかりゅう、こうがりゅう)とは、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称。山を一つ隔てた場所に存在する伊賀流と並び、最も有名な忍術の一派として知られる。なお、「甲賀流」という名称の単一の流派は存在せず、あくまで甲賀に伝わる複数の流派があわさって甲賀流と呼ばれているにすぎない。手妻に優れると評され、忍術の流派の中でも薬の扱いに長けており、その名残として甲賀には今も製薬会社が多い。また、甲賀忍者には伊賀忍者の様な上忍という身分はなく、最高位は中忍である。

水口岡山城跡

■水口岡山城(みなくちおかやまじょう)は滋賀県甲賀市水口町水口にある城。現在の水口城の東、古城山にあり、水口古城とも呼ばれる。 羽柴秀吉の命により中村一氏が1585年(天正13年)、甲賀郡の支配の拠点として築き、入城した。その時、平安の昔から、都から伊勢へと通じる街道の要所として栄えていた宿場町水口の原型をつくった。その後1590年(天正18年)に増田長盛が、1595年(文禄4年)には長束正家と五奉行を務めた2人が相次いで入城している。 1600年の関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、南宮山麓に布陣していたが戦闘には参加できず敗走。水口岡山城に籠城したが追ってきた池田長吉らに攻められ、降伏開城した。

水口岡山城 

水口岡山城 説明

木漏れ日の野仏

水口岡山城 曲輪への道

水口岡山城  水口岡山城  木漏れ日の野仏

水口岡山城跡の説明

水口岡山城 伝本丸跡

曲輪跡

水口岡山城 伝本丸櫓跡

水口岡山城跡の説明 水口岡山城 伝本丸跡 曲輪跡 水口岡山城 伝本丸櫓跡

水口岡山城 伝本丸跡からの眺望 南アルプス方面他

■曲輪(くるわ)とは、城郭内にある一定区画を分かつ区域である。郭(くるわ)とも書く。曲輪は、防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設として、城郭の最重要施設であります。

水口岡山城 伝本丸跡からの眺望 水口岡山城 伝本丸跡からの眺望 南アルプス 水口岡山城 伝本丸跡からの眺望 

水口岡山城 伝本丸跡からの眺望 琵琶湖、伊賀

水口岡山城の石垣

古城山

水口岡山城 伝本丸跡からの眺望 琵琶湖、比良山 水口岡山城 伝本丸跡からの眺望 伊賀方面 古城山

△TOP

甲賀流忍術屋敷

甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守の旧居。

■山岳武術の修験道場飯道山の南北を伊賀街道で結ばれた伊賀と甲賀、その滋賀県側に甲賀流忍術の発祥の地甲南があります。甲賀忍者五十三家の中でも有数の豪族であった「望月家」は同族24家が一致団結し長亨元年(1487年)「鈎の陣」を初め戦乱の世に甲賀忍者の実力を天下に示しました。伝説の忍者猿飛佐助はこの望月家の忍者という説もあり、望月家の祖望月三郎兼家は甲賀三郎とも言われ伊賀の敢国神社に祀られています。また映画の世界では甲賀忍者と伊賀忍者は敵対の存在として扱われていますが実際には伊賀街道を活発に往来し山岳兵法武術を高め合い戦国末期には同盟関係を結んでいたようです。

「甲賀流忍術屋敷」

「甲賀流忍術屋敷」

「甲賀流忍術屋敷」館長

「甲賀流忍術屋敷」甲冑類

「甲賀流忍術屋敷」


「甲賀流忍術屋敷」 福井館長(社長) Ninja この人も忍者の端くれだそうです。お元気そうでした。

忍者とは

「甲賀流忍術屋敷」の案内

「甲賀流忍術屋敷」

九曜紋

甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守の旧居

「甲賀流忍術屋敷」道先案内

九曜紋 甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守の旧居 「甲賀流忍術屋敷」

■甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守
戦国時代には、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月」と称されるようになる。望月出雲守が望月城(現:甲賀市 旧:甲賀郡甲南町)を築城するなどの記録が残されており、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。 九曜紋が一般的といわれているが、望月城跡などには七曜紋が残され使われている。また甲賀流忍術屋敷には、丸に九曜が残されている。

△TOP

その後(江戸時代のお庭番)

映画「大奥」 絵島(仲間由紀恵)

■庭番(おにわばん)は江戸時代の第8代将軍、徳川吉宗が新設した江戸幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて隠密に情報収集を行うなど、将軍直属の間諜の任を務めた。 ただし、間諜といっても、実際には時々命令を受け、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方に赴き情勢を視察したりしていた程度であるとされており、実態としては大目付、目付などを補う将軍直属の監察官に相当する職であると考えられる。しかし一般にはいわゆる間者、忍者の類であったとする御庭番像が広まっており、時代劇、時代小説等に数多く描写されている。御庭番は江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員である広敷役人のひとつである。若年寄の支配。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務とするが、時に将軍の側近である側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行った。

映画「大奥」 仲間由紀恵

仲間 由紀恵(なかま ゆきえ、本名同じ、1979年10月30日 - )は、日本の女優。所属事務所はプロダクション尾木。沖縄県浦添市出身。ヘアスタイルはデビュー当時からワンレングスで、ドラマや映画でも大きな変化はない。この髪については、シャンプー「Lux(ラックス)」を販売しているユニリーバ・ジャパンが、全国600人の男女(16 - 39歳)を対象に実施した「髪が美しいと思う日本の有名人」のアンケートで1位に選ばれた(2005年9月)。

その後(伊賀忍者と柳生一族)

■柳生は柳生新陰流の宗家です。将軍家剣術指南の看板で、各大名の陪臣が柳生の道場に弟子入りしました。文字通り、柳生の剣は天下の剣でした。この剣術の師匠と門弟のネットワークで、諸国の動静を探り出した。師弟の関係は、藩の主従関係よりも堅い。大目付柳生宗矩は、これを最大限利用した。講談とかで、柳生十兵衛が諸国を隠密旅行したとあるので、忍者のイメージがあります。実際は、忍者を放つよりも効率的な情報収集システムを構築していました。伊賀忍者とは別組織だったようです。

柳生家の家系図

柳生・芳徳禅寺パンフレット より 柳生家墓所の説明

柳生家の家系図 <p>芳徳禅寺パンフレット より 柳生家墓所の説明</p>

“柳生新陰流”で知られる剣豪の里・柳生は奈良市の東北部にあり自然豊かな里です。
柳生石舟齋宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)が徳川家康に無刀取りを披露し、将軍家の兵法指南役として仕えた。柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)の最盛期には12,500石の大名となり、大目付けの要職にもついた。 そんな場所です。
芳徳寺(ほうとくじ)は、柳生家の菩提寺であり、1638年(寛永15年)柳生又右衛門宗矩(やぎゅうまたえもんむねのり)が亡父石舟齋宗厳(せきしゅうさいむねよし)の供養のため創建したものです。

芳徳禅寺パンフレット より 柳生家墓所の柳生三代の墓
三厳は柳生十兵衛の意味

平成四年本堂と柳生家墓所が奈良市文化財に指定
左から柳生十兵衛、沢庵和尚、柳生宗矩

芳徳禅寺パンフレット より 柳生家墓所の柳生三代の墓 左から柳生十兵衛、沢庵和尚、柳生宗矩

柳生正木坂剣禅道場

芳徳禅寺

柳生家墓所

柳生家墓所

柳生正木坂剣禅道場

柳生家墓所

左から柳生十兵衛、沢庵和尚、柳生宗矩

柳生藩 起請文

印籠

柳生家の藩印

柳生の忍者道具 鍔

柳生の忍者道具

印籠 柳生家の藩印 柳生の忍者道具 刀の鍔 柳生の忍者道具

家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の旧屋敷

柳生家の家老宅・内部

柳生の鎧兜

家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の旧屋敷 柳生家の家老宅・内部 柳生の鎧兜

■崇源院(す(そ)うげんいん、天正元年(1573年) - 寛永3年9月15日(1626年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。位階は従一位。「崇源院」は諡号。幼名(通称)は「督」で、『太閤素性記』では「小督御料人」と記しており、「小(お)」はは「御料人」と対になる敬称であることから読みは「おごう」であると考えられているが、宮中の上級女房名としての「こごう」と読める可能性も考えられている(福田 2010)。また、『柳営婦女伝系』などでは「督」と音が通じる「江」(読みは同じく「ごう」)として記されており、これは生地の近江もしくは江戸に因んで宛てられたものと考えられており、徳川秀忠に嫁ぐ際に「江」に改名された可能性も考えられている。 最初の婚姻相手は佐治一成だが秀吉によって離縁させられる。二度目の婚姻相手は豊臣秀勝で、娘の完子が生れる。三度目は江戸幕府二代将軍徳川秀忠に文禄4年(1595年)再々嫁し、秀忠の正室(継室)となる。この時、江が徳川秀忠と再々婚したことで、娘の完子は伯母の淀殿に引き取られ養われる。また、第109代明正天皇の外祖母でもある。
淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(江)のいわゆる「浅井三姉妹」は、「戦国一数奇な運命を辿った姉妹」として知られる。いずれも母・市の美貌を受け継いだ美女で、幼い頃からたいへん仲の良い姉妹だったと伝えられる。
江(ごう)、小督(おごう)、江与(えよ)とされるが、実際にどの名だったのかは諸説あり、はっきりしていない。

その後(明治以降の伊賀忍者)

■その後明治になり、徳川幕府から明治新政府へ政権が移ると、警察、日本陸軍、日本海軍が創設され、忍者(江戸時代には隠密、同心、御庭番などの武士)もその役目を終えることになった。活躍できる場を失った彼らはその後、警察関係(警察官)の職業など、新たな職に就いた。
明治末期〜大正年間には立川文庫の作家たちによって、猿飛佐助、霧隠才蔵など忍者ものが創作され人気を博した。映画のトリックで忍術が描かれ、また、戦後の1950年代後半より、小説や時代劇、劇画などに忍者が多く取り上げられるようになり、忍者は再び日本人の間で広く認知されるようになった。

その後(忍者列車)

ピンク色(くノ一)の866編成

「天正伊賀の乱」の発端となった織田信雄の丸山城(伊賀・神戸)付近を通過する忍者列車

写真は、「天正伊賀の乱」の発端となった織田信雄の丸山城(伊賀・神戸)付近を通過する忍者列車。
忍者列車(にんじゃれっしゃ)とは、伊賀鉄道伊賀線で運行されているラッピング列車の愛称。忍者電車とも呼ばれる。戦国時代、伊賀国(現在の三重県伊賀地方)は忍術の流派である伊賀流が栄えた。伊賀忍者はその伊賀国を拠点として、戦場やその後方で活躍した。現在でも、伊賀線の沿線には上野城や伊賀流忍者博物館など忍者に関する観光地がある。そこで、1997年(平成9年)10月、上野新都市(ゆめぽりす伊賀)の街開きを記念して、近畿日本鉄道(近鉄)が860系2両編成 (861編成) を漫画家の松本零士がデザインした忍者塗装(青色)に変更した。その後、ピンク色(くノ一)の866編成が追加され、861編成は緑色に変更された。

「忍者列車」     切手

「忍者・赤影」    切手

■『仮面の忍者 赤影』(かめんのにんじゃ あかかげ)は、横山光輝作の忍者漫画、およびそれを映像化した特撮テレビ番組、テレビアニメ作品、劇場映画。それらに登場する主人公の名前でもある。一大忍術TV絵巻「仮面の忍者赤影」は、「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に『金目教』という怪しい宗教が流行っていた…」というアバンタイトル・ナレーションで始まる。藤吉郎は天下平安を願い、飛騨の里の影一族に助けを求め、赤影、白影、青影の三人の忍者が駆けつける。かくして彼らは藤吉郎の命を受け、奇っ怪な忍者集団と戦いを交えていくのである…。
■『伊賀の影丸』 天下を狙う明智光秀は信長を暗殺、ついで甲賀七人衆を使って家康を狙った。七人衆に殺された伊賀の頭領百地三太夫の遺言を守って、その子影丸は家康の許へ向った。堺を脱出した家康は待ち伏せた邪鬼達七人衆の襲撃に危うかったが、愛馬疾風と駆けつけた影丸が斬り込む中、伊賀のかくれ家神山へ逃れた。邪鬼たちの囲みを破った影丸が神山に着いた時家康の姿はなく、単身浜松へ向ったことを聞かされた。山道を行く家康に影丸が追いついた時、今や打倒影丸の執念に燃えた邪鬼達が攻撃をかけてきた。応戦する影丸は三人を倒してひるむ邪鬼に木の葉がくれを放ち、家康と共に姿を消した。・・

伊賀流忍者博物館 Iga-ryu Ninja Museum

伊賀流忍者 くのいち

伊賀流忍者博物館 Iga-ryu Ninja Museum 伊賀流忍者 くの一

Iga-ryu Ninja Museum , Iga City
Although it looks like a normal thatched-roof farmhouse with nothing special about it, various devices and tricks for defense are hidden throughout the house. In the museum, kunoichi (female ninja) acts as guides, explaining hidden doors, secret passageways, hidden compartments, etc. and letting you experience them.
In addition, you can experience throwing stars, hidden doors, etc. in the Ninja Experience Space, or watch the popular ninja shows. (Please check open dates beforehand.)


※伊賀市は、2004年(平成16年)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町、阿山町、大山田村、島ヶ原村、名賀郡青山町の6市町村が合併(新設合併)して誕生した市です。

名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について  エピローグ(第三次天正伊賀の乱、甲賀攻め)

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