Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

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名張ノスタルジー|天正伊賀の乱・第二次天正伊賀の乱 伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けたが、百地丹波をはじめ
生き残った者達は伊賀南西端(名張市赤目)の最後の砦・瀧野城(柏原城)に立てこもり、最終的には伊賀は降参。

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名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について  第二次天正伊賀の乱

 名張ノスタルジー|天正伊賀の乱・第二次天正伊賀の乱です。 戦国期の伊賀では、北東部東湯舟郷に藤林長門守率いる藤林氏が、南部大和との国境城山(現在の名張市竜口)と東部友生村喰代(ほおじろ)郷に百地丹波守率いる百地氏が、そして中央部予野(現在の伊賀市中心部)に千賀地服部宗家がそれぞれ城塞や砦を構えていた。 第一次天正伊賀の乱の結果に激怒した信長は勝手に軍を動かした信雄に激怒し絶縁すると脅して戒める一方、2年後の天正9年(1581年)には自らおよそ5万の兵を率いて伊賀に攻め込んだ。 これを第二次天正伊賀の乱という。 驚いた伊賀の人々はすぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意する。 だが、かねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の1人・多羅尾光俊の手引きにより伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこなった。 これにより伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けたが、百地丹波をはじめ生き残った者達は伊賀南西端(名張市赤目)の最後の砦・瀧野城(柏原城)に立てこもり、最終的には伊賀は降参した。 瀧野(柏原)城主・瀧野十郎吉政は開城し、天正伊賀の乱は終わりを告げました。 北畠信雄の率いる1万の軍勢は青山峠越え、敵の防衛線を突き破ったあとで3隊に別れ、信雄の本隊は木津川沿いを侵攻、左翼隊を国見山方面へ、右翼隊を北の比自岐へ向かわせ、村々を焼き討ちに、領民は見つけ次第ことごとく殺戮した。 その他の方面も織田方の大軍の乱入を受け、伊賀国の住民8万の内、約3万が一日で殺戮された。
内容は作成に当たりウィキペディアと「伊賀惣国一揆と天正伊賀の乱」さんを参考にさせていただいております。

 

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天正伊賀の乱について  第二次天正伊賀の乱(1981年)

■歴史|天正伊賀の乱の索引 [ 天正の乱以前(平安時代に4鬼を使った藤原千方 他)|第一次天正伊賀の乱(百地三太夫,石川五右衛門 他)|第二次天正伊賀の乱(伊賀忍者・服部一族・・・)|その後(忍者の末裔? 観阿弥、芭蕉 他) ] 織田信長と伊賀忍者

第二次天正伊賀の乱(1981年)

■第一次天正伊賀の乱の結果に激怒した織田信長は勝手に軍を動かした信雄に激怒し絶縁すると脅して戒める一方、2年後の天正9年(1581年)9月3日、再び北畠信雄を総大将に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら錚々たる面々とおよそ5万の兵を率いて伊賀に攻め込んだ。 これを第二次天正伊賀の乱という。
天正九年、織田信長の伊賀征伐が開始されると、筒井順慶は大和勢一万を率いて従軍した。筒井勢は笠間峠・波多郷口に分かれて進撃。伊乱記では九月二七日に六か所から攻撃を開始したとされる。 伊勢地口からは織田信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光。 多聞院日記の記述では総勢一万余とされている。 伊賀衆といっても、柘植氏などは信長方についており、甲賀衆の多羅尾光俊は永禄十一年の段階で織田信長に忠誠を誓っている(参考資料:信楽町史/多羅尾の歴史物語/甲賀郡誌)。

最後の砦・瀧野城(柏原城)

伊賀南西端(名張市赤目)

■信長の進軍に驚いた伊賀の人々は、すぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意する。 だが、かねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の1人・多羅尾光俊の手引きにより伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこなった。 これにより伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けたが、百地丹波をはじめ生き残った者達は伊賀南西端(名張市赤目)の最後の砦・瀧野城(柏原城)に立てこもる。 しかし織田勢はこの小城を三万の大軍で包囲し、翌日は落城と誰もが思ったとき、信長から信じられない命令が通達された。 「力攻めはするな。和議を整えて残兵を退去させた上で無血入城せよ」。 信長自身の方針か、誰かが信長を動かしたのか、それはわからない。 しかしこうして百地丹波守(三太夫の伯父)と百地三太夫は生き延びて紀州へ逃れ、歴史の表舞台から消えた。 落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。百地氏は伊賀の竜口と喰代、大和の竜口にそれぞれ拠点があり、一族も多い。喰代のほうは戦国期に砦を築いただけで、どうやらその本拠は竜口のようである。また、「百地」は「ももち」と読むのが普通だが、現地では「ももじ」と読むとのこと。

伊賀南西端(名張市赤目)の天正伊賀の乱
最後の砦・瀧野城(柏原城)

■勝手神社(かってじんじゃ 518-0464 名張市赤目町柏原 464 大名牟遅神・建速須佐之男) 以下、神社の紹介より
永禄五年(1562年)統治の柏原城主・瀧野十郎吉政が、大和吉野山にある勝手神社より勧請し、瀧野城並びに村内の守護神として祭祀してきました。 その後、城は天正九年(1581年)十月天正伊賀の乱で織田氏に下りて落城、伊賀の社寺はその殆どが灰燼に帰しました。 しかし、村人これを氏神として崇敬し、文禄二年(1593年)十二月二十八日新たに神殿を設け、遷座式を執行し(当時の棟札現存)現在まで四〇〇年以上の間連綿と祭典が続けられています。 主祭神の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつ・あかつ・かちはやひ・あめの・おしほみみの・みこと)は、「勝」の字三つを持つ神から往古は武神と信じられていました。 

瀧野城(柏原城)の記念碑

瀧野城(柏原城)の跡

赤目・勝手神社の鳥居

勝手神社の拝殿

勝手神社の本殿

また、このお社の後方約300mの処には、勝手明神とは大層縁の深い瀧野城跡(最近柏原城とも呼ばれるが正式な名称でない)が森の中にひっそりと眠っています。柏原城に1600の伊賀勢が終結、抵抗を見せたが、食料も尽きた10月28日、柏原城主・瀧野十郎吉政は開城し、天正伊賀の乱は終わりを告げました。

勝手神社(瀧野城跡)

勝手神社 天誅組

瀧野城跡 瀧野城跡

第二次天正伊賀の乱の詳細を「参考伊賀紀」(伊陽平定志著作、安政四年筆)より抜粋する。 天正九年四月、上柘植の福地宗隆、河合村の耳須弥次郎の二人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略のさいは道案内をすると申し出た(柘植氏は天正七年九月に棟梁の柘植保重を伊賀衆に殺害されており、以前より遺恨があった)。 「信長公記」、「多聞院日記」には九月三日に攻撃開始との記述があるが、伊乱記では九月二七日に六か所から攻撃を開始したとされる。 伊勢地口からは織田信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光。 多聞院日記の記述では総勢一万余とされている。 伊賀衆といっても、柘植氏などは信長方についており、甲賀衆の多羅尾光俊は永禄十一年の段階で織田信長に忠誠を誓っている(参考資料:信楽町史/多羅尾の歴史物語/甲賀郡誌)。 また 多羅尾光俊は、天正二年一月、信長の側近である福富秀勝、毛利長秀とともに多聞城番手を勤めているので、近臣として非常に信頼されていたことがうかがえる。 下の伊賀の比自岐神社の前も織田軍は進軍したんだと思います。比自山城 (別名 比自山砦)は所在地 伊賀市(上野市)長田字比自山。

比自岐(ひじき)

比自岐(ひじき)の街並み

社前に「右いせみち、左うへの
道」と書かれた道標

比自岐神社の境内

比自岐神社の拝殿


主神の比自岐神については当時の豪族比自岐和気の祖神であり比自岐和気は第12代垂仁天皇の皇子圓日王に彼の息女を嫁がせた事からも如何に朝廷と関係が深かったかが伺える。

■【延喜式神名帳】比自岐神社 伊賀国 伊賀郡鎮座 祭神】比自岐神 (配祀)天児屋根命 天照大神  (合祀)剣根命 応神天皇 建速須佐之男命 火産靈神 大物主神 宇迦之御魂命 木花佐久夜比売命 大山祇神 伊邪那岐命 大綿津見神 菅原道真 『伊水温故』『延長風土記』『神社要録』三保津姫 『総国風土記』事代主命 延経『神名帳考証』道敷神 『大日本史』神祇志『神祇志料』伊賀比自支和気の祖神
天正9年(1581)伊賀の乱で社殿焼失
創立年代不詳 延喜式内社である。明治41年一村一社の合祀令により旧比自岐村内に鎮座の33社を当神社に合祀大正13年旧社格県社に昇格する。

比自岐神社の本殿

■比自岐(ひじき)に関連する丸山城(まるやまじょう)は、三重県伊賀市枅川周辺にあった日本の城。丸山城は伊賀盆地の中央に位置し、標高180-210mの独立した丘陵に築かれた。城名については、城山が丸い形をしていたことから名づけられている。周辺の水田との比高は20-60mで、丸山の最高所213mに天守台を設け、丘陵全体に大小の曲輪を配置し、当地域では最大規模になる。伊賀国の中世城郭は単郭方形構造の中心に居館を持つのを基本形式にしているが、本城は軍事施設としての大規模な城郭で、比自岐川、木津川が堀として機能を果たし、天然の要害でもあった。また比自岐川の対岸には、滝川三郎兵衛城、嵯峨尾主馬城と呼ばれる小規模城郭が認められる。伊賀国で国司の北畠具教が隠居城として1575年(天正3年)に築城を決め、同地域の土豪を説得、翌1576年(天正4年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。 伊賀天正の乱1次で写真掲載。

上野城(平楽寺の跡)

 伊賀に攻め込んだ織田軍は進軍した先の村人は攻撃しなかったため、かえって、順回中の耳須弥次郎を、長田村の住士の家奴与助と小田村の庶民庄八によって襲撃され、殺害されてしまう。 比自山城を攻撃したのは筒井順慶と蒲生氏郷、堀秀政の軍勢で、城兵の将は、百田藤兵衛、向井氏、小沢智仙、住吉市平、福喜田将監、町井清兵衛、森四郎左衛門、村田勘四郎、加藤熊之助、富岡氏、吉田左近とされている。 筒井、蒲生の軍は朝屋丸を守る福喜田将監を攻め、風呂谷で合戦をする。
 比自山の伊賀勢は「終日の戦に多勢をうたせて甚だ疲れ、今夜は前後も知らず臥らめとこそ存候へ。催し長岡山に夜討ちせば順慶が首を得むこと掌にあり」として筒井順慶の陣地に夜襲をかけるが織田方に味方していた伊賀衆の菊川清九郎に気づかれ成功しなかった。 このため、滝川一益や丹羽長秀などの軍勢が今後合流することを懸念して、夜陰にまぎれて城をすて城兵は逃亡した。平楽寺には1200が、比自山城には3500が集まった。

田んぼの向こうに見える上野城(平楽寺の跡)

■伊賀の上野城は、1585年(天正13年) 大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城された。 また平楽寺は、天正伊賀の乱の時には、伊賀の衆が集まって対応策などを検討した場所で、当時伊賀の中心的な場所でした。 

地蔵院青蓮寺(じぞういんしょうれんじ) 青蓮寺城(しょうれんじじょう)/別名 青木城

■名張市青蓮寺の地蔵院青蓮寺(真言宗醍醐派の寺院。正式名は、「多宝山地蔵院青蓮寺(たほうざんじぞういんしょうれんじ)」) 。所在地は、〒518-0443三重県名張市青蓮寺327。同寺院の歴史は、今から約1200年前、真言宗の開祖である弘法大師空海が近隣の室生寺から現在の青蓮寺地区入り教えを広め、その後、地域住民が力を合わせて寺を作り上げたのが起源とされる。 その後、室町時代に青木信定によって、青蓮寺城(伊賀青蓮寺城)が築かれたため、寺院は広大な敷地を持つ。 弘法大師空海が青蓮寺で「青い蓮が咲き開く風景を見た」という言い伝えから、8月には寺院内に120以上の様々な蓮の花が咲き乱れる。
■青木城は、地蔵院青蓮寺の裏手にあたり、天正9(1581)年、天正伊賀の乱で織田軍の攻撃を受けて落城。青木氏は宇喜多と改姓し、赤目の瀧野城(柏原城)に逃走して最後の抵抗を試みている。また、青木氏の城ではなく青蓮寺新兵衛の城という説もある。

地蔵院青蓮寺の裏手が青木城(青蓮寺城)

            地蔵院青蓮寺・山門の弘法大師の石碑

地蔵院青蓮寺の鐘楼

  織田軍が比自山城に攻め込むと、誰ひとりいない状況であり、蒲生氏郷や堀秀政は悔しがり、誰一人いない比自山城や近隣の諸堂をことごとく焼き払った。 比自山城が落城すると織田信雄の軍は南伊賀の拠点、柏原城の周辺に集結する。 進軍にあたって、民衆の皆殺しなどの掃討作戦をしなかったため、織田軍が撤退したあと、北伊賀では、土豪が決起して織田の守備隊が守る忍田城を攻め、国制の裁判人たちを殺害した。 伊賀勢は柏原城に立てこもり、天正九年十月八日卯刻より戦闘を開始する。 力攻めをするが、犠牲が大きいとの判断から兵糧攻めに切り替える。 織田軍が農民たちを掃討しないのをみた伊賀勢は、城兵三人を城から抜け出させ、農民を集めて松明を持たせて背後から織田軍の陣を驚かす作戦をとったが、丹羽長秀に見破られて作戦は失敗する。 十月二十五日になって奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が二十八日早朝に信雄に会って城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。 「信長公記」ではこの停戦時期を九月十一日としている。 「多聞院日記」では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のズレはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。

筒井氏の攻め込んだ笠間口

笠間口から筒井順慶

名張の赤目から笠間峠への道は細く相当険しい道。道は都祁から奈良や京都に続く。昔、斎宮が京から伊勢への最短道路として利用した道です。笠間口からは筒井順慶(じゅんけい)、筒井定次(さだつぐ)が3千余で侵入、この地の人々は柏原城(名張市赤目町)に集結していたので何の反撃もなく、そのまま上野を目指して北上した。

名張・赤目の笠間口

笠間峠(名張と宇陀の境)

宇陀市・室生区深野から見た三重県・名張市の百合が丘団地


松明調進(たいまつちょうしん)
の名張側の出発点

宇陀市・深野から見た名張の百合が丘団地

笠間峠を名張側に下った場所から見える名張の中心街と赤目

宇陀市・上笠間の風景(笠間川)

宇陀市・上笠間の風景(笠間川)

服部氏の城跡(千賀地氏城)と花垣神社

伊賀市予野地区

千賀地氏城の石碑

千賀地氏城

■千賀地氏城(ちがちしじょう)は、東西に丘陵が迫る千賀地谷(近地谷)の中にある伊賀市予野地区、地区の西側の丘陵には土豪の城が三城 (木原氏城・浅井氏城・千賀地氏城)あり、千賀地氏城が地区の公園として整備されていて一番遺構が見やすい城だ。服部一族はここ千賀地谷に住み千賀地氏を名乗ったとされます。藤堂采女は伊賀上野城の五代城代家老で元甫と言い、伊勢・志摩・伊賀三国の地誌である「三国地誌」を編纂した人物のようです。藤堂采女は服部一族の保田氏の出身で、代々上野城代家老を務めました。近くに服部一族の氏神である花垣神社があります。

千賀地氏城

天正伊賀の乱にまつわる伊賀市予野地区の地図

服部一族の氏神・花垣神社
の朱塗りの大鳥居

服部一族の氏神・花垣神社
の入口の芭蕉の句碑

服部一族の氏神である
花垣神社の拝殿

服部一族の氏神である
花垣神社の本殿

■「一里<ひとさと>は 皆花守の子孫かや」 芭蕉翁  三月下旬頃、芭蕉はここ花垣庄を訪れ、古の風雅を偲び、土地の人に挨拶の意を込めた即興句。句意は、「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人が宿直をして桜の花守をしたという由緒深いところである。今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫なのであろうか。」 「案内板より」
■花垣神社の創祀年代は不詳。 平安時代、一条天皇の御宇、当地の銘樹・八重桜を上献し、後、桜の周りに垣をめぐらしたことより花垣の名となったという。 後に、寛弘元年(1004)、春日大社より春日神が、八重桜を見たいとの仰せにより、春日神を奉遷して祀ったのが、当社の起源という。 よって、もとは春日神社と称していた神社。「沙石集」(芳心アル人ノ事)に著名な起源伝承が見える。それによると、「奈良ノ都ノ八重ノ桜」として有名であった興福寺の桜を上東門院彰子が寺の別当に命じて京に運ばせようとしたところ、大衆が憤慨して別当を追放せよと騒いだため、風流心に感じた彰子は「伊賀国余野ト云庄ヲヨセテ、花ガキノ庄ト名ヅケテ、カキヨセサセラレ、花ノサカリ七日、宿直ヲ置テ是ヲ守ラセ」たという。
 この伝承の流布にともない、当地は花垣荘・花埴(垣)郷とも呼ばれたようで、嘉吉元年4月16日の興福寺官務牒疏に「菩提樹院、在同(伊賀)郡花埴郷」と見える(寺誌叢書3)。

服部一族の氏神・花垣神社
境内の灯篭

服部一族の氏神・花垣神社
の境内 鐘楼の礎

服部一族の氏神・花垣神社
の境内の大灯篭(鎌倉時代)

池邊寺
伊賀西国四国88箇所

池邊寺

伊賀 福地城

三重県伊賀市(伊賀町)柘植町字浦出(芭蕉公園)

■福地城の起源は定かではないが「満済准后日記」の正長2年(1429)2月の条に、国人柘植三方、日置・北村・福地とあり、福地氏は南北朝時代に北朝に与し、この土地の豪族として活躍していたと思われる。 その後、文献上に現われるのは、天正9年(1581)の第二次伊賀の乱で織田信長に与し、伊賀を裏切ったことである。福地城は西に石垣の表門をもち、四方土塁の掻揚式の城である。本丸内部には、石蔵跡や井戸が残り周囲には、館跡、塀跡が現存する伊賀随一の中世の城跡である。
■天正の伊賀の乱では、伊賀の土豪たちは力を合わせて信長と戦ったが、福地氏は、天正9年7月、信長の居城安土城を訪ね、伊賀攻略の道案内役を買ってでたのである。 その為、伊賀の郷士は信長軍に完敗し、伊賀一円は灰燼に帰した。 戦後、この地に帰った福地伊予守は、郷士の人々の憎しみを一身に受け、また貴重な神社・仏閣を焼いた恐れから、城にいたたまれず、一族共々他国に逃亡した。 その子孫は、江戸時代、伊賀者として活躍したともいわれ、この地に残る松尾家も福地氏の一族で、俳人松尾芭蕉もあるいは忍者であり、隠密であったという説もある。 『日本城郭大系10より』

福地城跡の説明文
天正伊賀の乱と芭蕉生誕の地

福地城跡の入口の石碑と
句碑「そばはまだ 花でもてなす 山路かな はせを」

福地城跡の登城口
石の階段

福地城跡の遠景
土塁が見えます

福地城跡の説明文 天正伊賀の乱
福地城跡本丸の石垣

福地城跡本丸虎口(表門)の石垣

福地城跡本丸虎口の石垣と土塁

本丸虎口(表門)石垣:本丸南西部には穴太積みの石垣が組まれた重厚な虎口があるが、その石垣は1辺50〜60cmの石を用いた見事なものである。
土塁(本丸虎口横):高さは3〜4mほどあり、幅も広いがっしりした土塁である。

「芭蕉翁生誕之地」の碑(本丸)

福地城跡本丸の芭蕉の句碑 「古さとや臍の緒に泣くとしの暮 はせを」

本丸北西に井戸が残り、今も水。(地元出身の横光利一の説明)

福地城跡本丸の芭蕉の句碑

「芭蕉翁生誕之地」の碑(本丸) 福地城跡本丸の芭蕉の句碑 福地城跡本丸の芭蕉の句碑

■比自山城を攻撃したのは筒井順慶と蒲生氏郷、堀秀政の軍勢で、城兵の将は、百田藤兵衛、向井氏、小沢智仙、住吉市平、福喜田将監、町井清兵衛、森四郎左衛門、村田勘四郎、加藤熊之助、富岡氏、吉田左近とされている。 筒井、蒲生の軍は朝屋丸を守る福喜田将監を攻め、風呂谷で合戦をする。 比自山城が落城すると織田信雄の軍は南伊賀の拠点、柏原城の周辺に集結する。「芭蕉の森公園」近く。

敢國神社(あえくにじんじゃ)

敢国神社は伊賀国の一ノ宮

■敢國神社は南宮山の麓に位置しているが、南宮山は、円融天皇貞元二年(977)、美濃国一宮・南宮大社から、金山媛命を勧請したもの。 小冨士嶽と呼ばれる南宮山には、それ以前から磐座信仰があったと思われ、当社の南400mには、大石明神と呼ばれる黒岩があった。 また、南宮山は、国見山とも呼ばれており、織田信長の伊賀侵攻の折には、信長が南宮山に登り国中の様子を観察したという。 三重県伊賀市にある神社である。式内社、伊賀国一宮で、旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。敢国神社は伊賀国の一ノ宮で、創建は658年と伝えられています。  創建当時は、大彦命と少彦名命の2柱が奉祀されていましたが、319年後の977年(貞元2年)金山比当スが本殿に合祀されました。 大彦命と少彦名命の2柱から現在の3柱に至るには、次のような経緯がありました。 主祭神である大彦命は、西暦350年頃、第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人として、その子・建沼河別命とともに北陸東海を征討する役目を負い、第10代崇神天皇の命を受け、日本の東国の攻略を果たし、以降、伊賀国に駐屯し、事実上の領主となりました。子孫が伊賀の国中に広がっていったわけですが、阿拝(あえ)郡を中心に居住していたため、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢、阿閉、阿部、安部(あべ)と呼ばれるようになりました。 また、古代、伊賀地方には秦(はた)族が多く居住しており、その秦族が振興していたのが少彦名命で、当時は南宮山頂上付近に祭祀されていましたが、敢国神社創建時に現在地に遷座されました。 南宮山山頂に祭祀されていた少彦名命の社殿が遷座されたことから、新しい神社を創建することになり、美濃国・南宮社の神である金山比当スを勧請することになりました。

敢國神社の入口の
『元國幣中社敢国神社』の社碑

敢國神社の入口・大灯篭

敢國神社の拝殿

敢國神社の拝殿と石段

大石社

桃太郎岩

延命・御神水井戸

敢國神社・境内の大灯篭

■桃太郎岩は、今から550年ほど前に、南宮山上に鎮座する木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間社から遷座したといわれる霊石で、安産・子授けの神として多くの女性から信仰を集めています。
■延命・御神水井戸は、拝殿前の階段右にある井戸。つるべ井戸です。
■市杵島姫社は、市杵島姫命(イチキシマヒメ(イツキシマヒメとも)は、日本神話に登場する水の神である。『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命と表記、アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約(アマテラスとスサノオの誓約)の際に、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神を宗像三女神という)の一柱である。『古事記』では2番目に生まれた神で、別名が狭依毘売命(さよりびめのみこと)であり、宗像大社(福岡県宗像市)の中津宮に祀られているとしている。『日本書紀』本文では3番目に、第二の一書では最初に生まれたとしており、第三の一書では最初に生まれた瀛津嶋姫(おきつしまびめ)の別名が市杵嶋姫であるとしているする。)を祀っています。神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる。辺津宮は陸上にある宮であり、その意味では、中津宮・沖津宮の祭神とする『記紀』の記述の方が神名の由来に近いことになる。
■敢國神社の裏参道沿いには、大石社、神明社、子授け神、若宮八幡宮が並んでいる。途中、階段があり、上に登ると、楠社。奥に結社。
結社は、縁結びにご利益があるらしい。表参道には、芭蕉句碑と市杵島姫社。手はなかむ音さへ梅の匂ひかな 貞享五年
創祀年代は不詳。「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、祭神は、その祖神・大彦命。
大彦命(おおびこのみこと、生薨年不詳)は古代日本の皇族。大毘古命とも言う(『古事記』)。孝元天皇の第1皇子で、生母は皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと)。 記紀によれば、崇神天皇10年9月甲午(9日)、勅命により四道将軍の1人として北陸地方に派遣されるが、出陣の道中で不吉な歌を詠う不思議な少女に会ったので、引き返してこのことを報告、倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女。大彦命のおばに当たる)に占わせたところ、武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反を告げるものと判明し、果たして実際に謀反が起こると、彦国葺と共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛は吉備津彦命が討ってこれを鎮圧したという。その後北陸へ赴き、越国の土着の豪族たちを平定して同天皇11年4月己卯(28日)に帰命した。大和朝廷の基礎を築いたといわれる。その子孫は伊賀国中に広がり、特に伊賀国阿拝郡(あへのこおり)を本拠としたことから「阿拝氏」を称するようになった。後に阿閉・阿倍・安倍などとも書かれるようになった。よって大彦命は伊賀国の祖神であり、「あべ」姓の氏神であるとされる。

結社の鳥居

結社(縁結びの神)

市杵島姫社

敢國神社の朱の両部鳥居

結社(縁結びの神)

比々岐神社(ひびきじんじゃ)と宝珠院

■式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社(ひびきじんじゃ) 創祀年代は不明。創建年月は不詳といえども延喜式神明帳見在の古社にして、旧記・古書を按ずるに創建は大略大宝の頃と思料される。式内社・比々岐神社に比定されている古社。
明治三十九年、村社六社、無格社六十社を合祀した。明治の合祀のため三重県の神社の祭神は異様に多い。当社の現在の祭神も、覚えられないほど多い。 式内・比々岐神社としてのオリジナルの主祭神は、やはり比々岐神だが、比々岐神に続く鹿嶋・春日の神々が勧請される以前は、八幡宮と称していたらしく、鳥居扁額にも残っている通り。『伊水温故』には、当地の地主の根源・由気忌寸を祀るとあるらしい。別当寺の上津山 宝珠院は境内に南接して現存している。 何れも天正伊賀の乱で焼け落ちているが、不思議と比々岐神社の本殿は焼け残った。
御祭神 : 『特選神名牒』比々岐神 武甕槌神 経津主神 天兒屋根命 建速須佐之男命 大日■貴命 速玉男命 事解男命 伊邪那美命 譽田別命 大物主神 大山祇神 火産靈神 市杵嶋比女神 綾門日女神 事代主神 宇迦之御魂神 『伊水温故』由気忌寸

比々岐神社の鳥居と拝殿

比々岐神社の拝殿

■宝株院は、山号を上津山と号し、伊賀の南東、三重県伊賀市北山(旧青山町)にある真言宗豊山派の寺院である。もとは、真言宗高野派の寺院で、真言宗豊山派になるまでは、高野山金剛峰寺西宝院の末寺であった。

上津山 宝珠院の鐘楼

また山号の「上津山」とは、当地が昔より北山を含め、滝、妙楽地、勝地、伊勢地、下川原の六区を持って上津という地名であったことや、往古にこの地が「上津阿保村(かみつあおむら)」「上津郷(こうづきょう)」等と呼ばれていたことより、その「上津」を取って「上津山」と称していると考えられる。 弘法大師(僧空海)が開祖。 往古には東坊、西坊、北坊、新坊、開範坊、北寮等の坊舎を持つ七堂伽藍の大寺であり、寺領百二十石を有し、中本山の格式を持っていたが、天正伊賀の乱の時、悉く皆焼失してしまう。 その後、中興第一世英尊師が再興し、現在に至っている。創建より八百年余りの後の天正九年(一五八一年)に、天正伊賀の乱により宝株院は全山を灰燼に帰す。 西から攻めてきた織田の軍勢に向かい打ったのは、総大将乾十朗兵衛率いる数百人にも及ぶ僧兵軍団であった。 その結果、僧兵軍は織田軍に敗れ、宝株院の七堂伽藍は焼き討ちにあう。 このとき、織田軍の総大将織田信雄は宝株院を本陣として構えた。

無動寺(むどうじ)

秀山 密巌院 無動寺 (むどうじ) 三重県名張市黒田

■秀山 密巌院 無動寺 (むどうじ)は、 真言宗醍醐派、秀山。開山は空海(弘法大師)。弘仁年間(810〜23)の開創と伝わる。創建年代不祥だが平安後期?。第二次天正伊賀の乱の天正9年(1581)に焼失。17世紀半ばから後半にかけて、名張・藤堂家・津藩主の祈願寺となり、お目見寺であったと伝わる。平安末期から鎌倉初期にかけての作と伝わる本尊の不動明王立像(白不動)は、国指定重要文化財になっていて、年2回(旧暦2月1日・新暦8月5日)公開されるという。 三重県名張市黒田902。

無動寺の山門

無動寺の本堂

無動寺の閻魔堂

■秀山 密巌院 無動寺 (むどうじ)は、9月上旬には、無動寺へ登る坂道の両脇に咲く曼珠沙華がことのほか見事である。伊賀四国八十八箇所の53番札所。 「黒田の悪党」の本拠地です。

無動寺の境内の石仏と塔

無動寺の境内の堂

無動寺の弁財天社

無動寺の大師堂

勝手神社(かってじんじゃ)

黒田の勝手神社は、もとは金毘羅神社であり、「黒田の金毘羅さん」。 三重県名張市黒田

■名張には勝手神社が二社ありますが、その中の一社、黒田にある勝手神社です。 現在の勝手神社の社地には、もともと金比羅神社(コンピラサン)がありました。参道入り口近くにある石碑には、最上部に「金比羅神社」と右から左に横書きされております。 
境内石碑によれば、祭神は、  注)■は該当漢字がないもの
大物主神【おおものぬしのかみ】 / 天忍穂根命【あめのおしほねのみこと】 / 大日■貴命【おおひるめむちのみこと】 / (■:「雨」冠+「口口口」+「女」) / 五男三女神【ごなんさんにょのかみ】 / 健速須佐之男命【たけはやすさのおのみこと】 / 伊邪那岐神【いざなぎのみこと】 / 伊邪那美神【いざなみのみこと】 / 蛭子命【ひるこのみこと】 / 月夜見命【つきよみのみこと】 / 頼政之霊【よりまさのみたま】 / 大山祇神【おおやまつみのかみ】 / 菊理比賣命【くくりひめのみこと】 / 應神天皇【おおじんてんのう】 / 火之迦具土神【ほのかぐつちのかみ】 / 天押雲神【あめのおしくものかみ】 / 奥津日古神【おきつひこのかみ】 / 宇迦能御魂神【うかのみたまのかみ】 / 豊日■神【とよひめのかみ】 / (■:「雨」冠+「口口口」+「女」) / 水波能賣命【みずはのめのみこと】

黒田・勝手神社の入口

勝手神社の拝殿と鳥居

勝手神社の拝殿

県指定文化財の石灯籠


(鎌倉時代)

黒田・勝手神社の本殿

勝手神社の境内からの
名張の街並みや景色

春日神社(かすがじんじゃ)

三重県名張市赤目町一ノ井

春日神社の鳥居と公民館

春日神社の鳥居と拝殿

■春日神社は、『明細帳』に「年月不詳、鹿高神社(矢川 春日神社)の分霊を移しまつり、朝御饌には神楽を奏し鈴を鳴らし、夕御饌には経文を奉読し、香花を奠し、怠りなく執行せり。しかるに天正の乱のため兵火にかかりしを、慶安2年(1649年)再興せしものなり。」とあるそうです。慶安4年の棟札が残っているとのこと。祭神は、天児屋根命【あめのこやねのみこと】、建速須佐之男命【たけはやすさのおのみこと】、応神天皇【おうじんてんのう】、大山祇命【おおやまつみのみこと】 他

春日神社 春日神社
青蓮寺 國津神社
(しょうれんじくにつじんじゃ)

■青蓮寺の国津神社は、名張では有名なパワースポット。幹が根元で一体化した杉とヒノキがある「国津神社」(青蓮寺)は、縁結びの神様で知られてます。 主な祭神 武甕槌命・天兒屋根命・経津主命 場所は 百合が丘団地の南西 青連寺湖ぶどう組合のすぐ近くです。 天正伊賀の乱で全て灰燼に。

 

青蓮寺国津神社の1の鳥居

青蓮寺国津神社

拝殿と「和合円満 杉桧 縁結之神」(左)との掲示有り

青蓮寺国津神社 青蓮寺国津神社 「和合円満 杉桧 縁結之神」 青蓮寺国津神社 「和合円満 杉桧 縁結之神」 青蓮寺国津神社

大山田

大山田には天正伊賀の乱で名前を馳せた長野峠があります。

奥馬場

曹洞宗 月峰山 広徳禅寺

曹洞宗 月峰山 広徳禅寺

実在した忍者(実在した人物でも、実体の部分と虚像の部分の両面がある。)

(Wikipedia参照+補足)

藤原千方 - 平安時代 伊賀
伊賀崎道順 -戦国時代の伊賀流忍者。伊賀楯岡の生まれだったので通称楯岡(たておか)ノ道順ともいわれる。
出浦盛清 - 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、忍者。真田氏の家臣。真田十勇士の霧隠才蔵のモデルとなった実在の人物。
   甲斐の武田家治下で、甲州透破の支配者。
上月佐助(下柘植ノ木猿) - 真田十勇士の猿飛佐助のモデルとなった人物。 伊賀下忍
横谷庄八郎 - 真田氏の配下横谷左近の弟。こちらも真田十勇士猿飛佐助のモデルと言われる。
霧隠鹿右衛門 - 真田十勇士の霧隠才蔵のモデルとなった人物。 伊賀忍者の頭領・百地三太夫の弟子とされている。
加藤段蔵(飛び加藤あるいは鳶加藤とも)戦国時代 忍たま乱太郎(原作:落第忍者乱太郎)に出てくる“加藤団蔵”の名前の由来
竹永隼人兼次 - 戦国時代、奥州の人。
高坂甚内 - 戦国時代 透破 甲州流。鳶沢甚内(古着商の元締)、庄司甚内(遊郭の元締)と共に「三甚内」と呼ばれる。
服部半蔵保長 - 戦国時代 伊賀者 服部半蔵の初代。
服部半蔵正成 - 服部半蔵保長の子。2代目服部半蔵。徳川家の旗本。厳密は忍者ではなく、伊賀忍者を管轄下においていた。
服部半蔵正重 - 服部半蔵正成の次男。長安事件に連座して失脚した。後に桑名藩主・松平定綱(定勝の子)に召し抱えられて、
   桑名藩で服部半蔵家は存続する。
風魔小太郎 - 戦国時代 北条家に仕えた。風魔党。 小田原。風魔一党は相模足柄郡に拠点を持つ忍者集団で、
   伊勢盛時(北条早雲)の時代から諜報・後方攪乱などで活躍した。
藤林長門守 - 戦国時代 服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。
   門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。
百地丹波 - 戦国時代 ?-1581 架空の人物である百地三太夫のモデルとなった実在人物。 伊賀の三大上忍。
鉢屋弥之三郎 - 戦国時代 鉢屋衆 尼子家に仕える。
青山虎之助 - 甲賀流忍者。徳川家康に仕えた。
望月六平太- 山内一豊に仕えた。


※伊賀市は、2004年(平成16年)11月1日に上野市、阿山郡伊賀町、阿山町、大山田村、島ヶ原村、名賀郡青山町の6市町村が合併(新設合併)して誕生した市です。

名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について  第二次天正伊賀の乱

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