伊賀市写真集|大山田 新大仏寺、古琵琶湖、植木神社祇園祭 |
伊賀市 大山田
大山田村(おおやまだむら)は、かつて三重県阿山郡に存在した村。2004年11月1日に上野市、阿山郡阿山町・伊賀町・島ヶ原村、名賀郡青山町と合併して伊賀市になったため、消滅した。今からさかのぼること約400万年前、村には古琵琶湖の初期である「大山田湖」が誕生しました。
伊賀市東北部の大山田地区は縄文時代から人類が居住していた地域です。 服部川上流部の阿波地域には弥生中期の方形周溝墓が検出されています。 古墳時代になると大山田地区でも大型前方後円墳が築かれます。 伊賀の国大山田の里は青山高原北麓、真沼池、服部川、鳴塚古墳、馬野渓谷や東海自然歩道など大自然と歴史の宝庫です。
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歴史 伊賀国新大仏寺
■伊賀国新大仏寺(東大寺伊賀別所) 三重県伊賀市(旧阿山郡大山田村)にある真言宗智山派の寺院。山号は五宝山。別名、成田山。本尊は盧遮那仏。 1202年(建長2年)源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創、重源を開山として創建されたと伝えられる。 新大仏寺と称する所は重源上人が東大寺に敬意をはらって寺の名前に新の字を加えた。その後、長らく衰退し、戦国時代末期にはかなり酷い状態であった。 貞享五年(1688)、新大仏寺を訪れた松尾芭蕉はその様子を『笈の小文』や『伊賀新大仏之記』で記している。 再建されたのは江戸時代中期の寛延年間(1748年
- 1751年)のこと。国の重要文化財も多数あり。 岩屋不動尊は神大仏寺に併設されてます。旧大仏殿の裏手。(新大仏寺のHP)
※伊賀市阿保(あお)の「阿保西部の常夜燈・延命地蔵尊・一光三尊如来道石碑」
『阿保西部の常夜燈 この常夜燈は、村の安全を祈り、お伊勢参りの道しるべとして、安政七年(1860)の三月に、初瀬街道と八知街道(四道)の分岐点に立てられました。
建設費用に有志が頼申子講(たなもしこう)によって、銀貨二貫五百匁を集めたと記録されています。 そのうち五百匁で、田地二反を購入し、年貢収入を得て燈明料、その他経費にあてたと言われます。 江戸時代の銀貨二貫五百匁は、今の金額でどれぐらいになるのか不明ですが、五百匁で、田地二反を買えたことから推理してください。
戦後の農地解放で田地を失ってからは収入がなくなり、常夜燈は消防署の裏地に放置されました。 このままではと現状を危惧した阿保老人クラブの方々が、昭和四十六年、現在地に移し整備修復されました。 この常夜燈が街道の文化遺産として、何時までも美しい姿を見せてくれるよう、毎夜灯明に祈っています。 平成二十三年三月』 案内より
歴史 大山田湖(古琵琶湖)
■大山田湖(約400〜320万年前):400〜300万年前 断層活動により上野盆地周辺に窪地の水塊が多数誕生した。 これを大山田湖と言う。堆積化石から亜熱帯性の気候と考えられる。
三重県西部の山に囲まれた伊賀市や名張市一帯は、上野盆地あるいは伊賀盆地と呼ぶ。 この地形は、400万年前は大山田湖(古琵琶湖)の底だったという。
琵琶湖は、世界でも有数の古代湖として知られています。バイカル湖やタンガニーカ湖に次いで、世界で3番目に古い湖です。 現在の琵琶湖は大昔には今の位置にはなく、三重県の旧大山田村(現在の伊賀市)にありました。
その古琵琶湖が、徐々に移動して(その間消滅を繰り返し)、湖は形を変え、位置を変えて40〜50万年前に今の琵琶湖になった。
せせらぎ運動公園 |
せせらぎ運動公園 |
大山田湖 |
大山田湖 説明 |
せせらぎ運動公園 ゾウやワニの足跡化石 |
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ツル目足跡化石 |
ステゴドン第3臼歯 |
ワニ足跡化石 |
※「せせらぎ運動公園」:西へ流れる「服部川」の川沿いに「せせらぎ運動公園」がある。その一角に湖だったことを証明する遺跡が発見された。 ゾウやワニ(クロコダイル科)の足跡化石である。平成5年(1993)の台風14号により川床が浸食され、今まで土に埋もれていた化石が表面に現れたのである。 広場と広場の間に疎林があり、芝草の中に100uくらいの硬い岩盤が露出しており、そこに円形やモミジ型の窪みがある。 直径60cmほどで深い窪みはゾウの足跡である。 年代から、ステゴドンの仲間で「シンシュゾウ」のものと推定されている。
※ステゴドンは、鮮新世から更新世にかけてアジアに広く生息していた、ゾウ目ステゴドン科の属である。 シンシュウゾウは,大きなものでは肩の高さが4mくらいあったでしょう。
ミエゾウは、約400万年前に日本の九州から関東地方にかけて生息していた古代ゾウ。 学名は Stegodon miensis(ステゴドン・ミエンシス)。 伊勢国河芸郡明村(現在の三重県津市ないし亀山市)で初めて発見されたのでミエゾウと名づけられた。
歴史 植木神社「祇園祭」
■寛弘元年(1004)、出雲国意宇郡日御碕の住人桃木某の三男・政守が夢の告をうけ、播磨国広峰山から、牛頭天王を勧請し、王手村清水谷鳥坂神社の相殿に祀ったが、文永二年(1265)、洪水で流出したため、当地へ遷座して、植木牛頭天王と称したという。
式内社・葦神社の論社ではあるが、上記伝承が正しければ、当社が平安期に存在していたわけではないようだ。 あるいは、当初、葦神社(あるいは、その後継社)として存在していた社に、鳥坂神社の牛頭天王を合祀し、葦神社が忘れ去られた結果かもしれない。 服部川の北側、大山田支所の西側に、境内がある。 牛頭天王・祇園社と称しており、神紋は、京都祇園の八坂と同じ木瓜。
※植木神社祇園祭【三重県指定無形民俗文化財】
宵宮祭と遷幸祭からなる祭りで、勇壮に錬る神興と江戸時代から使われている豪華な楼車が町内を巡行する。 神興を傾けながら回る「クネリ」や、祇園花の行列が中心の華やかなまつり。
起源には諸説あるが、その昔この地に疫病が流行った時、スサノオノミコトが現れて薬として梅と牡丹を授けたことが始まりとも言われ、五穀豊穣を合わせ祈願します。
農村には珍しく三基ものだんじりを持ち、かつて大地の実りに恵まれ豊かだったことを示していると考えられており、伊賀地域の祇園祭の典型ともいえる祭礼行事です。
※伊賀市平田地区(旧大山田村)は、昔、伊勢に続く伊賀街道の宿場町として栄えました。 街道沿いに歩くと、ところどころに宿場町であった事を彷彿とさせる建物が残っています。料理旅館の梅屋さんのたたずまいは絵になり、地元では知られた存在のようです。 平田宿は、近くの植木神社で毎年7月に開催される祇園祭に登場する「だんじり」を3基も備えています。(西町・中町・東町に1基ずつ。)農村にある宿場町で3基というのは多く、昔の街道の往来がいかに多かったか、そして街も豊かであったかがわかります。 祇園祭の時に奉納するのが「せえろく餅」という和菓子で、老舗の和菓子屋では「つばや」では、今では平田宿の名物菓子として毎朝作るようになったそうです。
★参考にさせていただいたページ Wikipedia 大山田郷土資料館 |
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