Kunioの世界の切手紹介と海外写真集

Kunioの世界の切手紹介と海外写真集
美術切手|江戸時代の浮世絵師・歌川広重が描いた「東海道五十三次」とその他の作品 「名所江戸百景」、広重の鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」若しくは「ヒロシゲブルー」と呼ばれた。

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浮世絵師・歌川広重が描いた「東海道五十三次」切手とその他の作品

 安藤広重(浮世絵師としては歌川広重(廣重))が描いた東海道五十三次(国際文通週間、浮世絵)の切手です。ご自身の旅行した時の事を思い出してください。 この頃の武蔵国の人口は1834年(天保5年) - 171万4054人。 葛飾北斎は、天保2年に「冨嶽三十六景」を刊行し、その影響もあったのか、広重は天保の大飢饉の最中の天保3年(鼠小僧次郎吉が獄門になった年)夏、幕府が朝廷に御馬を献上する八朔御馬献上儀の旅に加わり、この模様を写生したそうです。 このスケッチをもとに「東海道五十三次続絵」を保永堂より出版しました。 「日本橋」から「三条大橋」までの宿場を舞台に、旅に関わる風物、人物を自然の景観のなかに抒情ゆたかに描き、雪や雨など、自然現象がかもしだす風情をたくみにあらわしてます。 広重の個性がよく発揮されたこの連作は、旅行ブームを背景に庶民の間で大いに人気を博しました。 作品は天保5年(広重38歳)の保永堂版と、天保13年(同46歳)の行書版、嘉永2年(同53歳)の隷書版、嘉永5年(同56歳)の張交図会(はりまぜずえ)の4種類があります。特に断りが無い場合は東海道五十三次・保永堂版です。 
 葛飾北斎は別頁にしました。  名張のページには2代目広重の作といわれる「名張の風景」も入れてますので是非ご覧下さい。
 


 歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の道順 索引

江戸〜京間里程124里8丁。

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武蔵国(日本橋、品川、川崎、神奈川、程ヶ谷)、相模国(戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原)、伊豆国(箱根、三島)、駿河国(沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、島田)、遠江国(金谷、日坂、掛川、袋井、見附、浜松、舞坂、新居、白須賀)、参河国(二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、知立)、 尾張国(鳴海、宮)、伊勢国(桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、坂下)、近江国(土山、水口、石部、草津、大津)、山城国(三条大橋)

東海道五十三次・日本の切手(国際文通週間)

箱根(湖水図)

原(朝之富士)

蒲原(夜之雪)

桑名(七里渡口)

小田原 箱根 関所 安藤広重 東海道五十三次  安藤広重 東海道五十三次  安藤広重 東海道五十三次 蒲原 浮世絵 桑名 焼きはまぐり  安藤広重 東海道五十三次

川崎(六郷渡舟)

宮(熱田神事)

江戸・日本橋(朝之景)

大磯(虎ケ雨)

熱田神宮  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵 江戸 日本橋 広重

隷書版・保土ヶ谷・からびら橋

亀山(雪晴)

京都(三條大橋)

岡部(宇津之山)

保土ヶ谷 京都 三条大橋 広重 京師

大津(走井茶店)

阪之下(筆拾嶺)

庄野(白雨)

戸塚(元町別道)

庄野  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

舞阪(今切真景)

岡崎(矢矧(やはぎ)之橋)

程ヶ谷(保土ヶ谷、新町橋)

荒井(新居、渡舟ノ図)

舞阪  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

草津(名物立場)

鞠子(名物茶店)

水口(名物干瓢)

品川(日之出)

草津 鞠子 丸子 水口 滋賀 品川  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

平塚(縄手道)

土山(春之雨)

四日市(三重川)

由比(薩た峰)

平塚 土山  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵 四日市  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

東海道五十三次・グレナダ及びグレナダ・グレナディーンの切手

白須賀(汐見阪図)

神奈川(台之景)

御油(旅人留女)

相模・平塚

  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵 平塚   安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

行書版・小田原

興津(興津川)

土山(春之雨)

石部(目川ノ里)

興津  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵 石部  安藤広重 東海道五十三次 浮世絵

注)いずれも東海道五十三次の宿場の内容を調査するため、各市区町村のHPを参考にさせて戴きました。また、浮浪雲さんのHP(http://www.japan-city.com/toukai/)及びUFJ銀行・貨幣資料館(http://www.ufjbank.co.jp/ippan/gallery/)も参考にさせて戴きました。有難うございました。

Hiroshige was born in 1797 and named "Andoo Tokutaoo" (安藤徳太郎) in the Yayosu barracks, just east of Edo Castle in the Yaesu area of Edo (present-day Tokyo). His father was Andoo Gen'emon, a hereditary retainer (of the dooshin rank) of the shoogun. An official within the fire-fighting organization whose duty was to protect Edo Castle from fire, Gen'emon and his family, along with 30 other samurai, lived in one of the 10 barracks; although their salary of 60 koku marked them as a minor family, it was a stable position, and a very easy one - Professor Seiichiro Takahashi characterizes a fireman's duties as largely consisting of revelry. The 30 samurai officials of a barracks, including Gen'emon, oversaw the efforts of the 300 lower-class workers who also lived within the barracks. A few scraps of evidence indicate he was tutored by another fireman who taught him in the Chinese-influenced Kanoo school of painting.

 安藤(歌川)広重のその他の浮世絵

安藤広重(浮世絵師)

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。他に、「木曾街道六十九次」「近江八景」「名所江戸百景」など、諸国名所絵、江戸名所絵など多くの名作を残しました。

安藤広重(浮世絵師) 歌川広重

「名所江戸百景」は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)から同5年(1858年)にかけて制作した連作浮世絵である。広重最晩年の作品。最終的には完成せず、二代目広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として刊行された。

名所江戸百景 八つ見のはし/深川万年橋/鉄炮洲築地門跡/綾瀬川鐘か淵/亀戸梅屋舗

 名所江戸百景 八つ見のはし 深川万年橋 安藤広重 浮世絵 名所江戸百景 鉄炮洲築地門跡 綾瀬川鐘か淵 名所江戸百景 亀戸梅屋舗

 万年橋の欄干から吊るされてる亀は、放生会のための売り物です。夕暮れの大川端、さまざまな船が行き交います。
 江戸は水運の都市でした。

名所江戸百景 日本橋江戸ばし/堀切の花菖蒲/浅草金竜山/水道橋駿河臺/上野山内月のまつ

名所江戸百景 日本橋江戸ばし  名所江戸百景 堀切の花菖蒲   安藤広重 浮世絵 名所江戸百景 浅草金竜山 名所江戸百景 水道橋駿河臺 名所江戸百景 上野山内月のまつ

月に雁
安藤広重・月に雁 
切手に取り上げられた「月に雁」は歌川(安藤)広重の1832年
ごろの作品で、旧松方コレクションの一品です。
オリジナルの絵画は、39×12cmと小ぶりなもの。

隅田川堤雪の眺望

消防100年(1980年)
三代目広重

三代目広重の「海岸通異人館」
税関100年(横浜港)

三代目広重の「鉄道開業図」
鉄道100年

(江戸名所 雪月花の内)
隅田川堤雪の眺望(江戸名所雪月花の内)

「東京名所八代州町警視庁火消でぞめはしごのりの図」
三代目広重の「東京名所八代州町警視庁火消でぞめはしごのりの図」

三代目広重の「海岸通異人館」 日本 浮世絵 三代目広重の「鉄道開業図」

三代目広重の「駅逓寮」と前島密

三代目広重の「駅逓寮図」

三代目広重の「永代橋の真景」

広重の描く錦帯橋(1953年)

三代目広重の「駅逓寮」と前島密 浮世絵 版画 三代目広重の「駅逓寮図」 国際文通週間 日本 1970年 三代目広重の「永代橋の真景」 広重の描く錦帯橋(1953年)

歌川(安藤)広重が描く花鳥風月(セントヴィンセント) クリックで画像拡大

歌川(安藤)広重が描く花鳥風月(セントヴィンセント) 歌川(安藤)広重が描く花鳥風月(セントヴィンセント)

歌川広重 「名所江戸百景 
日暮里諏訪の台」(2009年)

歌川広重 「名所江戸百景 
角筈熊野十二社俗称十二そう」

歌川広重 
「名所江戸百景 月の岬」

歌川広重 「名所江戸百景 
増上寺塔赤羽根」 

歌川広重「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」 浮世絵 歌川広重「名所江戸百景 角筈熊野十二社俗称十二そう」 歌川広重「名所江戸百景 月の岬」 歌川広重「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」 

歌川広重 
「名所江戸百景 日本橋雪晴」

歌川広重
「名所江戸百景 するがてふ」

■広重は東海道五十三次だけでなく美人画、武者絵、役者絵も描いてます。
■名所江戸百景は、何気ない江戸の風景であるが、近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど斬新な構図が多く、視覚的な面白さもさることながら、多版刷りの技術も工夫を重ねて風景浮世絵としての完成度は随一ともいわれている。 実際に「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」を模写したゴッホをはじめ、日本的な「ジャポニスム」の代表作として西洋の画家に多大な影響を与えたシリーズでもある。

歌川広重 「名所江戸百景 日本橋雪晴」 歌川広重画 名所江戸百景 するがてふ

歌川広重 「名所江戸百景 
蒲田の梅園」(拡大)

歌川広重 「名所江戸百景 
筋違内八ツ小路(すじかいうちやつこうじ)」(拡大)

歌川広重 「名所江戸百景 
目黒爺々が茶屋(めぐろじじがちゃや)」(拡大)

歌川広重 「名所江戸百景 
市中繁栄七夕祭」 (拡大)

歌川広重 「名所江戸百景 蒲田の梅園」 歌川広重 「名所江戸百景 筋違内八ツ小路(すじかいうちやつこうじ)」 「名所江戸百景 目黒爺々が茶屋(めぐろじじがちゃや)」 歌川広重 画「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」

「名所江戸百景 蒲田の梅園」:大森付近、旧東海道筋にあった梅屋敷で、千本以上の梅の木が植えられていた。園内には句碑が数多く見られ、江戸の風流人が集まったことが窺えます。モネやゴッホが衝撃を受けた浮世絵です。歌川広重 「名所江戸百景「筋違内八ツ小路(すじかいうちやつこうじ)」
現在の神田須田町辺り。筋違橋(すじかいばし)の側に神田見附の門があり、東海道など八つの街道が通じていたことから八ツ小路の名があります。右奥には神田明神が見えます。
「名所江戸百景 目黒爺々が茶屋(めぐろじじがちゃや)」:中目黒あたりの地勢は起伏に富んでおり、遠く富士の威容を眺めることができた。見晴らしの利く場所では茶店が設けられ、人々は景色を楽しんだそうです
「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」:空高く沢山の笹が立てられ、江戸の七夕祭りの賑やかに行われていた様子が描かれる。色とりどりの七夕飾りが風を受け、ざわめく音が聞こえてくる。

歌川広重 
「名所江戸百景 神田紺屋町」

歌川広重
「名所江戸百景 浅草田甫 酉の町詣」 ネコがいます

歌川広重
「名所江戸百景 王子滝の川」

歌川広重
「名所江戸百景 上野山した」

歌川広重画 名所江戸百景 神田紺屋町 浮世絵 歌川広重画 名所江戸百景 浅草田甫 酉の町詣  歌川広重画 名所江戸百景 王子滝の川 浮世絵 歌川広重画 名所江戸百景 上野山した

海外の安藤広重の浮世絵

■「京都名所之内 淀川」や「東海道五十三次」の絵をご覧ください。歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれてます。ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされてます。葛飾北斎の「ベロ藍」に通じる藍色・青色の使い方が特徴です。

雪(イエメン)

京都名所之内 淀川(イエメン)

雪(イエメン) 広重の絵画 歌川広重 東海道五十三次 浮世絵 イエメン 安藤広重 浮世絵 イエメン 京都名所之内 淀川

(余談)現在では、「ジャパンブルー」サッカーのユニフォームを指す事が一般的に使われていますが、安藤広重が「ジャパンブルー」の発端かもしれません。

安藤広重が描く1835年の江戸(東京)と1975年現在の東京(サンマリノ、1975年) 左がFDC、右は切手部分の原寸大

安藤広重が描く1835年の江戸と1975年現在の東京(サンマリノ、1975年) 左がFDC、右は切手部分の原寸大
安藤広重(歌川広重)の生誕200年を記念し発行された浮世絵、月に雁 他(拡大○

パラオで発行の歌川広重の花鳥図

安藤広重の生誕200年を記念し発行された浮世絵、月に雁 他 安藤広重の生誕200年を記念し発行された浮世絵、月に雁 他 パラオで発行の広重の花鳥図

The 53 Stations of the Tookaidoo (東海道五十三次, Tookaidoo Gojuusan-tsugi) are the rest areas along the Tookaidoo, which was a coastal route that ran from Nihonbashi in Edo (modern-day Tokyo) to Sanjoo oohashi in Kyoto.

■歌川広重の襲名者たち(Wikipediaを引用)
藤懸静也によると、二代目廣重は広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を宣重という。初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち慶応元年(1865年)妻22歳の時、離縁となってる。その後、しばしば横浜に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになった時期「茶箱廣重」の名で外国人に知られた。また、「喜齋立祥」の画号を用いて制作したがその中で、花を主題にした一種の景色画、『三十六花撰』の出来栄えがよく、版元の求めに応じ、大錦判の竪繪に作った。なお、『名所江戸百景』のなかの「赤坂桐畑雨中夕けい」で秀逸な絵を残しており、初代の「赤坂桐畑」よりも構図、色彩ともに評価が高い。
三代目は門人の重政(1845年-1894年)で俗称は後藤寅吉である。離縁後のお辰を妻とした。号は一笑齋。
四代目(菊地喜一郎)は、三代目夫人お辰と清水清風らが相談して、四代目広重を襲名させた。菊地家は安藤家と親しかったためである。最初は版画を制作し、武者絵などを多く書いたが、後に書家となった。喜一郎は浮世絵に関する著作を出版してる。
■右はSHARJAH(土候国)発行の安藤広重作品・くじゃく  凄く綺麗な切手ですが真贋は?

広重が歩いた東海道五十三次の江戸〜京間里程は124里8丁(約500km)
 里(り)は、尺貫法における長さの単位で、現在の日本では約4kmに相当します。 丁(町、ちょう)、1町は約109.09メートル。

安藤広重 安藤広重

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