名張市|名張地区 名張藤堂家邸跡、寿栄神社、名張聖天 |
はじめに 名張藤堂家
名張藤堂家は、藤堂高虎の養子高吉にはじまる。『藤堂宮内少輔高吉公一代之記』によれば高吉は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男として、天正7年(1579)近江佐和山城に生まれ、幼名を仙丸と称した。 天正10年(1582)本能寺の変で信長死去の後、羽柴(豊臣)秀吉の所望により、弟羽柴秀長の養子となる(天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすため丹羽長秀と縁を結ぶためであったといわれる)。天下を手中にした秀吉は、天正16年(1588)秀長の嗣子に甥の中納言秀保を立てたため、仙丸を家来に嫁がせようと考えていた。 この時、秀長の家来であった高虎には、子供がなく、仙丸を養子に望んだが、秀長は同意しなかったという。しかし秀吉の命により高虎の養子となり、名を高吉と改め、従五位下宮内少輔に任じられ1万石を給された。 文禄、慶長の役には、高吉は高虎に従って渡海し慶長2年(1597)7月10日には、秀吉から朝鮮在陣の褒詞(豊臣秀吉朱印状)を受けている。
2021年現在は、コロナが蔓延している状況で、写真や情報は2020年以前のものです。
ご注意)画像の無断転用はお断りします。
※ページ内の索引 [ 名張藤堂家邸跡|寿栄神社|道標 無縁法界萬霊塔|名張の聖天さん(宝満寺) ]
丸之内 名張藤堂家邸跡
■城下町名張を語る上で欠くことが出来ないのが名張藤堂家邸跡です。 津藩藤堂家の一門で寛永13年(1636)から明治維新まで11代にわたり、名張に居を構えた藤堂宮内家の屋敷跡です。 現在残されている屋敷は、宝永7年(1710)の名張大火で焼失した後に再建された殿館の一部で「中奥」「祝間」「圍」などの私的な生活を送る建物です。 この屋敷とともに、「豊臣秀吉朱印状」「鉄唐冠形兜・一の谷形兜」「朱具足」「備前無銘刀」「藤堂高吉公一代記」「羽柴秀吉・丹羽長秀の書筒」など学術的にも貴重な文化財が、平成3年に名張藤堂家から市に寄贈されており、平成4年に保存修理事業が完了した屋敷とともに一般公開されています。
★寿栄(ひさか)神社は、桔梗ヶ丘の上、名張藤堂邸の裏にある。藤堂高吉を祭神として祀っている小さな神社です。
丸之内 寿栄(ひさか)神社
■寿栄神社(ひさかじんじゃ)の名は、祭神である藤堂高吉の法号『徳蓮院殿徳翁寿栄大居士』からきています。 寛文8年(1670年)7月18日、名張藤堂家の初代内宮少輔高吉が92歳で歿するにおよび、同年8月15日、一族及び家臣がその遺徳を敬慕し、邸内に一祠を建てて遺霊を勧請し寿栄神社と称した。 寿栄神社の太鼓門は、藤堂家邸の武家屋敷門で、現在は旧態のまま寿栄神社に移築(昭和10年)されている。 昭和二八年県史蹟に指定された。 また、伊南神社とも称した。 「シシャカ(ヒサカを訛ったもの)さん」の名で町民にしたしまれている。
寿栄神社の鳥居 |
地名由来 |
寿栄神社の宝物 |
太鼓門 手前の小さな祠 |
寿栄神社 太鼓門 |
寿栄神社 拝殿 |
寿栄神社 記念碑 |
寿栄神社 太鼓門 |
寿栄(ひさか)神社の具足 |
※江戸時代後期のものと伝えられる名張藤堂家伝来の「具足」:兜は錆地。 戦国時代のものといわれる「備前長船の刀剣」は史文化財指定。
※太鼓門:門に向かって左手に、連絡用の太鼓を置いた部屋があったのでこの名が付いた。県指定史跡。
※拝殿 祭神:藤堂高吉 応神天皇
※地名由来 名張藤堂氏の家紋に因み 殿館跡の此地丘陵一帯を 桔梗ヶ丘と称し來れり
丸ノ内 道標 無縁法界萬霊塔
■ふれあいホールの前にある伊勢街道(初瀬街道)の道標 文政十年丁亥五月建立
初瀬街道は初瀬から名張を経て七見峠を越え、阿保に入り伊勢地を経て青山峠を越え、津市から松阪市六軒に至る約十四里十七町の街道です。 また、かつて伊勢神宮は「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」歌われたように、庶民の憧れの旅でした。 特に「お陰参り」が盛んとなった江戸時代には、日本人の約1割が伊勢をめざしました。
※多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。
山上 高野は高野山。
右 はせみち 多武峰 |
ひだり いせ ミち |
文政十年丁亥五月吉日 |
■三重県名張市丸之内にある「無縁法界萬霊塔」です。
『無縁萬霊塔建立趣旨 由来当地方は東大寺領梁瀬ノ荘であったが、蒙古襲来後上下疲弊し、守護社寺も農民に重き負担を迫り、当地方の庄民と寺方にも動揺を来した。
ここに黒田の庄を中心として庄民と寺方との間に、はた又国司との間に争闘止まず、後建武の頃に至り庄民は宮方として、南朝に盡したが、後足利の世となり世の乱れるに伴い、天正七年二月頃より九年十月迄織田氏の攻略をうけ、いわゆる天正伊賀乱となり柏原は最後の防戦地となったのである。
この間社寺は焼かれ無幸の郷民亦その犠牲となる者も少なくなかった。
近時当地方各所より無縁塔石仏等の発掘せらるるもの数多きは一面、当寺を物語るものの如きも今更に弔う者もない此頃同志相寄り桔梗が丘の聖地(名張市丸ノ内)を選び無縁萬霊塔を建立し、無縁幽魂の慰霊と埋没社祠神霊を再建して郷民の平和繁栄を切に祈願せんとする次第である。
ここに昭和二十九年五月二十三日住職日聖上人を中心に同憂の志相図りて無縁法界萬霊塔を建立した。 上野市予野 立正寺(妙見寺・単立本山 立正寺)』
無縁萬霊塔建立趣旨 |
無縁幽魂の慰霊と |
無縁法界萬霊塔 |
※宗教法人には,神社,寺院,教会などのように礼拝の施設を備える「単位宗教法人」と,宗派,教派,教団のように神社,寺院,教会などを傘下に持つ「包括宗教法人」があります。単位宗教法人のうち包括宗教法人の傘下にある宗教法人を「被包括宗教法人」,傘下にないものを「単立宗教法人」といいます。
平尾 名張の聖天さん(宝満寺)
■名張の聖天さん(宝満寺)「真言宗豊山派」宝満寺は本尊・聖天様(歓喜天)を本堂でお祀りされている寺院です。 歓喜天(ナンディケーシュヴァラ 歓喜自在天)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教のガネーシャ(群集の長)に起源を持つ。 ガネーシャはヴィナーヤカ(無上)、ヴィグネーシュヴァラ(障害除去)、ガナパティ(群集の主)、またはナンディケーシュヴァラとも呼ばれる。 聖天の名称は、大日如来もしくは観自在菩薩の権化身であるために、歓喜天の本身(大日如来もしくは観自在菩薩)を表すために「聖」の字を用いて聖天としたという。
名張聖天 案内 |
名張聖天 本堂 |
名張聖天 |
金高大明神 |
||
※寺歴 昭和5年、名張に参宮急行電鉄が開通したのを機に電鉄会社によって平尾山一帯の観光地化がはじまった。 山上に西玉水という料亭が出来た。(のちの大観荘、現在の名張市立図書館)経営者(石崎)は一つの歓喜天像を愛蔵していた。 昭和6年、たまたま名張を訪れ西玉水に泊まった京都天龍寺・大徳寺・清水寺・妙心寺の管長らがこの像を目にし礼拝讃嘆し、のち法隆寺管長もこれを見てその名品ぶりに讃仰した。 そこで鑑定を前奈良帝室博物館長・国宝調査委員に依頼したところ鎌倉時代の優品と折り紙がつけられた。
電鉄会社は、平尾山にこの尊像をまつって「生駒聖天」に匹敵する「名張聖天」の造営を計画した。 京都帝国大学教授に委嘱して進めた。 しかし、戦時態勢の進行で、拝堂と庫裏が建てられただけで計画は中絶した。
寺の名は、造営時に他から買い受けたもの。
注)Wikipediaと名張藤堂家邸のHP、公式パンフレットを参考にさせてもらっています。
名張市|名張地区 名張藤堂家邸跡 名張聖天 |